ドブロヴニクの市街地見学の続きです。ツアーでの案内と自由時間での見学の際の写真が混じっています。
プラッツァ通りの東端にやってきました。
北側にはスポンザ宮殿があります。
スポンザ宮殿は、1561年に造られ、当初は貿易物資や資材の保管所でした。17世紀になって税関としての役割が減ると、学者や知識人の集まる文化サロンに変わりました。現在は、ドブロヴニクの歴史文書や裁判記録を保管する古文書館になっています。
スポンザ宮殿のドアは閉まっていたのですが、ここに併設されているドブロヴニクの紛争時の被害展示室の見学のために中に入れてもらいました。
奥は結婚式の披露宴かなにかのようで、テーブルセットが行われていました。
入り口脇の部屋に紛争時の被害が展示されていました。114人が死亡したとされており、顔写真が掲示されていました。
プラッツァ通りの東端から南に大通りが延びており、その角部はルジャ広場と呼ばれています。
広場の中央にローラント像が置かれています。ローラントは、ヨーロッパの都市の自由と独立の象徴になっている伝説の騎士です。中世文学「ローランの歌」で知られています。ドイツ・ブレーメンのマルクト広場に置かれているローラント像が特に有名ですね。
「ローランの歌」は、レコンキスタの初期の戦いである、シャルルマーニュ率いるフランク王国とイベリア半島のイスラム帝国の戦いを描いたもので、古フランス語を用いて書かれています。
ローラント像は、北ドイツのハンザ同盟都市で人気があると思っていたので、アドリア海の自由都市に置かれているのは意外でした。遠く離れたハンザ同盟都市と貿易上のつながりがあったのでしょうか。
この像は1418年に造られたもので、右腕の肘から手首までの長さの51.2cmが、商取引のための基準になっていました。
ルジャ広場の南に聖ヴラホ教会があります。18世紀に建てられたバロック様式のものです。
教会の上に、この街の守護聖人である聖ヴラホの像が置かれています。街の各所に置かれていますが、この像が一番立派ですね。
自由時間になってから聖ヴラホ教会の中に入ってみました。
ルジャ広場の東側にはオノフリオの小噴水があります。西側のピレ門入り口近くにあるオノフリオの大噴水と同時期に造られたものです。
ルジャ広場から南に延びる通り沿いには総督府が広がっています。
総督府の壁際に置かれていたブロンズ像は、誰かは判りませんが、触るとご利益があるのか鼻が光っていました。
総督府は、ラグーサ共和国の総督の住居であったと同時に、評議会や元老院など行政を司る期間が集まっていました。ラグーサ共和国の総督は、ヴェネチア共和国が終身制であったのに対し、任期は1ヶ月で象徴的な役職であったといいます。
総督府は、15世紀の初めにゴシック様式で建てられましたが、30年後に近くで火薬の爆発があり、ルネサンス様式による修理が行われ、さらに1667年の大地震の際の修復によってバロック様式の装飾も加えられました。
総督府内部は、文化歴史博物館になっており、絵画や陶磁器の展示が行われています。部屋の中は撮影禁止であったため、入り口のホールの写真のみです。
総督府の二階の窓からは、向かいの大聖堂の眺めが広がっていました。
大聖堂の東面。
総督府前からスポンザ宮殿を振り返ったところ。奥にはスルジ山が広がっています。翌日にこの山頂からドブロヴニクの街の眺めを楽しむことになります。
総督府の前の奥にグンドゥリチ広場があります。露店やカフェが並んでいました。
この広場の名前は、18世紀時代のドブロヴニクの著名な詩人イワン・グンドリックに由来し、ブロンズ像が置かれていました。
プラッツァ通りの東端にやってきました。
北側にはスポンザ宮殿があります。
スポンザ宮殿は、1561年に造られ、当初は貿易物資や資材の保管所でした。17世紀になって税関としての役割が減ると、学者や知識人の集まる文化サロンに変わりました。現在は、ドブロヴニクの歴史文書や裁判記録を保管する古文書館になっています。
スポンザ宮殿のドアは閉まっていたのですが、ここに併設されているドブロヴニクの紛争時の被害展示室の見学のために中に入れてもらいました。
奥は結婚式の披露宴かなにかのようで、テーブルセットが行われていました。
入り口脇の部屋に紛争時の被害が展示されていました。114人が死亡したとされており、顔写真が掲示されていました。
プラッツァ通りの東端から南に大通りが延びており、その角部はルジャ広場と呼ばれています。
広場の中央にローラント像が置かれています。ローラントは、ヨーロッパの都市の自由と独立の象徴になっている伝説の騎士です。中世文学「ローランの歌」で知られています。ドイツ・ブレーメンのマルクト広場に置かれているローラント像が特に有名ですね。
「ローランの歌」は、レコンキスタの初期の戦いである、シャルルマーニュ率いるフランク王国とイベリア半島のイスラム帝国の戦いを描いたもので、古フランス語を用いて書かれています。
ローラント像は、北ドイツのハンザ同盟都市で人気があると思っていたので、アドリア海の自由都市に置かれているのは意外でした。遠く離れたハンザ同盟都市と貿易上のつながりがあったのでしょうか。
この像は1418年に造られたもので、右腕の肘から手首までの長さの51.2cmが、商取引のための基準になっていました。
ルジャ広場の南に聖ヴラホ教会があります。18世紀に建てられたバロック様式のものです。
教会の上に、この街の守護聖人である聖ヴラホの像が置かれています。街の各所に置かれていますが、この像が一番立派ですね。
自由時間になってから聖ヴラホ教会の中に入ってみました。
ルジャ広場の東側にはオノフリオの小噴水があります。西側のピレ門入り口近くにあるオノフリオの大噴水と同時期に造られたものです。
ルジャ広場から南に延びる通り沿いには総督府が広がっています。
総督府の壁際に置かれていたブロンズ像は、誰かは判りませんが、触るとご利益があるのか鼻が光っていました。
総督府は、ラグーサ共和国の総督の住居であったと同時に、評議会や元老院など行政を司る期間が集まっていました。ラグーサ共和国の総督は、ヴェネチア共和国が終身制であったのに対し、任期は1ヶ月で象徴的な役職であったといいます。
総督府は、15世紀の初めにゴシック様式で建てられましたが、30年後に近くで火薬の爆発があり、ルネサンス様式による修理が行われ、さらに1667年の大地震の際の修復によってバロック様式の装飾も加えられました。
総督府内部は、文化歴史博物館になっており、絵画や陶磁器の展示が行われています。部屋の中は撮影禁止であったため、入り口のホールの写真のみです。
総督府の二階の窓からは、向かいの大聖堂の眺めが広がっていました。
大聖堂の東面。
総督府前からスポンザ宮殿を振り返ったところ。奥にはスルジ山が広がっています。翌日にこの山頂からドブロヴニクの街の眺めを楽しむことになります。
総督府の前の奥にグンドゥリチ広場があります。露店やカフェが並んでいました。
この広場の名前は、18世紀時代のドブロヴニクの著名な詩人イワン・グンドリックに由来し、ブロンズ像が置かれていました。