アブシンベル神殿の前には、満々と水をたたえたナセル湖が広がっています。
アブ・シンベル神殿を語る時、水没の危機からの救出作戦が行われたことを忘れることはできません。
1960年、アスワンハイダムの建築によってできるナセル湖によって、アブ・シンベル神殿をはじめとするヌビア遺跡の多くが水没することになりました。
ユネスコの指導によって救出作戦が遂行され、アブ・シンベル神殿は、遺跡をブロックに切断し、65mほど高台に移設することになりました。
ナセル湖ができる前のアブ・シンベル神殿の写真ですが、川岸にあったことが判ります。
精密な切断図が作られ、大神殿は807個、小神殿は235個のブロックに切り分けられました。
クレーンなどの重機を使って、ブロックは運ばれて、再び組みなおされ、モルタルによって接着されました。
このアブ・シンベル神殿救済に際しては、世界中から援助の手がさしだされました。当時の日本は、外貨が充分ではなく、三年間で三万ドルという僅かな額しか協力しかできませんでした。ところが、1965年、朝日新聞の主催で、日本でツタンカーメン展が開催され、その収益から100万ドルの寄付をすることができ、遺跡の保存に貢献することができました。
この上野国立博物館のツタンカーメン展は行って、黄金のマスクを見たはずなのですが、上野動物園のパンダよりも記憶には残っていません。
ヌビアの他の遺跡も、多くは移転されましたが、そのまま水没してしまったものも多いようです。
ニューヨークのメトロポリタン美術館では、館内にヌビアの遺跡がそのまま移転されていて、とりわけ目を引いています。現在は、遺跡の回りに水辺が再現されていたりして、私が訪れた時の写真とは、遺跡回りの飾りつけが少し違っているようです。
このデンドゥール神殿は、アスワンハイダムの工事により水没の危機にあったヌビア遺跡を救うためにアメリカが行った援助に感謝して、エジプト政府より寄贈されたものです。
現在では、吉村作治氏が率いる早稲田大学エジプト考古学隊が、著しい発掘成果をあげていますが、1960年当時に活躍していれば、日本もこのような遺跡をもらえたでしょうに、残念ですね。
アブ・シンベル神殿を語る時、水没の危機からの救出作戦が行われたことを忘れることはできません。
1960年、アスワンハイダムの建築によってできるナセル湖によって、アブ・シンベル神殿をはじめとするヌビア遺跡の多くが水没することになりました。
ユネスコの指導によって救出作戦が遂行され、アブ・シンベル神殿は、遺跡をブロックに切断し、65mほど高台に移設することになりました。
ナセル湖ができる前のアブ・シンベル神殿の写真ですが、川岸にあったことが判ります。
精密な切断図が作られ、大神殿は807個、小神殿は235個のブロックに切り分けられました。
クレーンなどの重機を使って、ブロックは運ばれて、再び組みなおされ、モルタルによって接着されました。
このアブ・シンベル神殿救済に際しては、世界中から援助の手がさしだされました。当時の日本は、外貨が充分ではなく、三年間で三万ドルという僅かな額しか協力しかできませんでした。ところが、1965年、朝日新聞の主催で、日本でツタンカーメン展が開催され、その収益から100万ドルの寄付をすることができ、遺跡の保存に貢献することができました。
この上野国立博物館のツタンカーメン展は行って、黄金のマスクを見たはずなのですが、上野動物園のパンダよりも記憶には残っていません。
ヌビアの他の遺跡も、多くは移転されましたが、そのまま水没してしまったものも多いようです。
ニューヨークのメトロポリタン美術館では、館内にヌビアの遺跡がそのまま移転されていて、とりわけ目を引いています。現在は、遺跡の回りに水辺が再現されていたりして、私が訪れた時の写真とは、遺跡回りの飾りつけが少し違っているようです。
このデンドゥール神殿は、アスワンハイダムの工事により水没の危機にあったヌビア遺跡を救うためにアメリカが行った援助に感謝して、エジプト政府より寄贈されたものです。
現在では、吉村作治氏が率いる早稲田大学エジプト考古学隊が、著しい発掘成果をあげていますが、1960年当時に活躍していれば、日本もこのような遺跡をもらえたでしょうに、残念ですね。