
夕暮れぎりぎりの時間に、峨眉山の麓の報国寺に到着しました。
峨眉山は、中国三大霊山(五台山、天台山、峨眉山)として、道教や仏教の聖地になっています。山中に26の寺院を有し、普賢菩薩の霊場とされています。報国寺は、登山口にあたる寺院で、明代1615年に明光道人によって創建されました。
峨眉山は、翌日の第七日目にバスやロープウェイを使って、山頂の金頂を訪れますが、まずは報国寺を見学することになりました。
バスの駐車場脇の入口には、峨眉山と彫り込まれた大岩が置かれていました。

階段をひと登りすると山門の前に出ました。報国寺という名前は、清の第四代皇帝の康熙帝より与えられたものです。

扁額の「報国寺」の字は、乾隆帝によって1703年に書かれました。

気になったのは、布袋様のように見える山門の屋根に置かれた像です。

正面の山門は閉まっていたので、脇の入口から入りました。
まず現れたのは、弥勒殿です。

弥勒殿に祀られているので、弥勒菩薩なのでしょうけど、これが?と思ってしまいます。広隆寺の弥勒菩薩で馴染んでいるイメージとは大きく違っています。
布袋は弥勒菩薩の垂迹、つまり化身という言い伝えもあるようなので、弥勒殿の入口の山門の上に布袋の像が置かれているのかもしれませんね。

お堂の前には、沢山のロウソクが燃え残っていました。

お堂の裏に回ると、そこにも仏像が飾られていました。

続いて、大雄寶殿。報国寺では、奥に向かって四層のお堂が配置されています。

正面には釈迦仏が祀られていました。

軒先に吊り下げられた木魚。
日本で見られる丸い形をして叩くとポコポコと鳴る仏具の原型です。魚状の板で「魚板」とも呼ばれるようです。魚は日夜を問わず目を閉じないことから、寝る間を惜しんで修行に精進しなさいという意味とのこと。口にくわえた丸いものは煩悩を表し、魚の背をたたくことで煩悩を吐き出させる、という意味合いが有るといいます。

また脇には、十八羅漢像が並んでいました。

お堂の前には、釈迦誕生の際の、右手を上げて天を指し、左手は地を指して「天上天下唯我独尊」と話す場面の像が置かれていました。
この像が挙げているのは左手で、誤りですね。
日本の仏像製作者ならこのような誤りをしないはずで、中国の仏像製作レベルが判ります。
と、ケチをつけましたが、「釈迦誕生の像」で検察で出てくる画像を見ていくと、東京国立博物館所蔵の河口慧海蒐集遺品「誕生釈迦仏立像」(チベット、15-16世紀)では、左手を上げています。チベット探検の権威である河口慧海の蒐集品とあっては、まがい物のはずはなく、左手を上げている理由を知りたくなりました。
なお、お堂の本尊の下やこの像の前には、清涼飲用水の缶が置かれていました。お寺に大きな寄進をしたことから、宣伝として置かれているようです。

三番目のお堂は、七佛寶殿。

過去七仏とも呼び、釈迦仏までに登場した仏陀をいいます。そのうちわけは、毘婆尸仏、尸棄仏、毘舎浮仏、倶留孫仏、倶那含牟尼仏、迦葉仏、釈迦仏となります。

このお堂の裏手にも仏像が飾られていました。中央は、獅子の上に乗っているので、文殊菩薩でしょうか。

最後に、普賢殿・蔵経楼。
ここまで、かなりの階段を登ってきており、疲れ気味のツアーメンバーも多くいました。

普賢菩薩がようやく登場しました。
この仏像のお顔は、きれいで良いですね。
ここまで何体もの本尊にお参りしてきており、ラスボスといった感じを持ちますが、本当のラスボスは翌日の峨眉山山頂で出会うことになります。

普賢菩薩は、六牙の白象に乗った姿で描かれるのが通例になっています。

これでお参りは終わりで、普賢殿・蔵経楼を後にして山を下りました。

途中にあった羅漢像。

お寺の脇の門の脇にも六牙を持った象の石像が置かれていました。

この日の宿は、報国寺の門前から少し移動したメイン通り沿いにある峨眉山華生酒店でした。
翌日は、最後の観光地となる峨眉山山頂を目指すことになります。
峨眉山は、中国三大霊山(五台山、天台山、峨眉山)として、道教や仏教の聖地になっています。山中に26の寺院を有し、普賢菩薩の霊場とされています。報国寺は、登山口にあたる寺院で、明代1615年に明光道人によって創建されました。
峨眉山は、翌日の第七日目にバスやロープウェイを使って、山頂の金頂を訪れますが、まずは報国寺を見学することになりました。
バスの駐車場脇の入口には、峨眉山と彫り込まれた大岩が置かれていました。

階段をひと登りすると山門の前に出ました。報国寺という名前は、清の第四代皇帝の康熙帝より与えられたものです。

扁額の「報国寺」の字は、乾隆帝によって1703年に書かれました。

気になったのは、布袋様のように見える山門の屋根に置かれた像です。

正面の山門は閉まっていたので、脇の入口から入りました。
まず現れたのは、弥勒殿です。

弥勒殿に祀られているので、弥勒菩薩なのでしょうけど、これが?と思ってしまいます。広隆寺の弥勒菩薩で馴染んでいるイメージとは大きく違っています。
布袋は弥勒菩薩の垂迹、つまり化身という言い伝えもあるようなので、弥勒殿の入口の山門の上に布袋の像が置かれているのかもしれませんね。

お堂の前には、沢山のロウソクが燃え残っていました。

お堂の裏に回ると、そこにも仏像が飾られていました。

続いて、大雄寶殿。報国寺では、奥に向かって四層のお堂が配置されています。

正面には釈迦仏が祀られていました。

軒先に吊り下げられた木魚。
日本で見られる丸い形をして叩くとポコポコと鳴る仏具の原型です。魚状の板で「魚板」とも呼ばれるようです。魚は日夜を問わず目を閉じないことから、寝る間を惜しんで修行に精進しなさいという意味とのこと。口にくわえた丸いものは煩悩を表し、魚の背をたたくことで煩悩を吐き出させる、という意味合いが有るといいます。

また脇には、十八羅漢像が並んでいました。

お堂の前には、釈迦誕生の際の、右手を上げて天を指し、左手は地を指して「天上天下唯我独尊」と話す場面の像が置かれていました。
この像が挙げているのは左手で、誤りですね。
日本の仏像製作者ならこのような誤りをしないはずで、中国の仏像製作レベルが判ります。
と、ケチをつけましたが、「釈迦誕生の像」で検察で出てくる画像を見ていくと、東京国立博物館所蔵の河口慧海蒐集遺品「誕生釈迦仏立像」(チベット、15-16世紀)では、左手を上げています。チベット探検の権威である河口慧海の蒐集品とあっては、まがい物のはずはなく、左手を上げている理由を知りたくなりました。
なお、お堂の本尊の下やこの像の前には、清涼飲用水の缶が置かれていました。お寺に大きな寄進をしたことから、宣伝として置かれているようです。

三番目のお堂は、七佛寶殿。

過去七仏とも呼び、釈迦仏までに登場した仏陀をいいます。そのうちわけは、毘婆尸仏、尸棄仏、毘舎浮仏、倶留孫仏、倶那含牟尼仏、迦葉仏、釈迦仏となります。

このお堂の裏手にも仏像が飾られていました。中央は、獅子の上に乗っているので、文殊菩薩でしょうか。

最後に、普賢殿・蔵経楼。
ここまで、かなりの階段を登ってきており、疲れ気味のツアーメンバーも多くいました。

普賢菩薩がようやく登場しました。
この仏像のお顔は、きれいで良いですね。
ここまで何体もの本尊にお参りしてきており、ラスボスといった感じを持ちますが、本当のラスボスは翌日の峨眉山山頂で出会うことになります。

普賢菩薩は、六牙の白象に乗った姿で描かれるのが通例になっています。

これでお参りは終わりで、普賢殿・蔵経楼を後にして山を下りました。

途中にあった羅漢像。

お寺の脇の門の脇にも六牙を持った象の石像が置かれていました。

この日の宿は、報国寺の門前から少し移動したメイン通り沿いにある峨眉山華生酒店でした。
翌日は、最後の観光地となる峨眉山山頂を目指すことになります。