さすらい人の独り言

山登り、日々の独り言。
「新潟からの山旅」別館
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さすらいの風景 マラッカ その2

2017年10月04日 | 海外旅行
オランダ広場に面したスタダイス脇の階段から、丘の上に建つセントポール寺院を目指しました。



ひと登りしてスタダイスの裏手に出ると、鄭和の像が見えました。

鄭和は、明の永楽帝に仕え、南海への7度の大航海の指揮を委ねられ、東南アジア、インドからアラビア半島、アフリカにまで航海しました。鄭和は、雲南省出身で、明の討伐によって少年の時に捕らえられて去勢されて、宦官として当時燕王だった後の永楽帝に献上されました。また、イスラム教徒であったことから、航海の長を任されたといいます。鄭和の大航海によって、建国間もないマラッカ王国は明への朝貢で力を蓄えて東西貿易の中継港として栄えるようになりました。



丘の上へと登っていきます。



観光用の帆船が置かれていましたが、昔はその付近までが海岸線であったようです。



ムナラ・タミンサリ(マラッカ・タワー)。高さ110mの展望タワーです。



丘の上に建つセントポール寺院が見えてきました。



セントポール寺院の前には、フランシスコ・ザビエル像が置かれていました。



この像は、1953年に建てられましたが、大木の枝が落ちた時に当たって、右手が失われてしまっています。

なお、この像の髪型は、長髪になっていますが、日本人には次の絵の方が馴染みになっています。



神戸市立博物館所蔵の、江戸時代・17世紀初期に描かれた「聖フランシスコ・ザヴィエル像」。

この絵では、頭頂部を剃ったトンスラという髪型になっています。ザビエルが属していたイエズス会ではトンスラの習慣は無いことから、ザビエルはトンスラの髪型はしていなかったようです。江戸時代の画家が想像で描いたものと言われています。



セント・フランシス・ザビエル教会の、日本か寄付した像では、前頭部が薄くなった髪型をしています。



チェコ・プラハのカレル橋のザビエル像ですが、長髪をしています。

ザビエルの髪型が実際にはどうであったかは判らないことは多いですが、トンスラではなかったようです。



丘の上からはマラッカ海峡を望むことができました。幅は60から70kmほどで、太平洋とインド洋を結ぶ海上交通上の要衝になっています。





セントポール寺院は、1521年にポルトガル宣教師の活動拠点として建てられました。現在ではレンガ造りの壁だけが残っています。



教会の内側から外を眺めたところ。



教会の奥に金網で囲まれたいっかくがあります。

中国で亡くなったザビエルの遺体は、ここで9ヶ月間安置された後にゴアへ運ばれました。



金網の隙間からのぞくと、コインが投げ込まれていました。



教会の壁際には、沢山の墓石が並べられていました。





丘をオランダ広場と反対側に下りていくと、サンチャゴ砦の裏手にでました。



サンチャゴ砦の正面。

1511年に、マラッカ王朝を駆逐し植民地経営に乗り出したポルトガルによって建造されたファモサ要塞史跡で、別名サンチャゴ砦とも呼ばれています。当時はこの丘は海際にあって城壁が巡らされており、砦に入る4つの門のうち、この一つだけが残されています。



ファザード部には、人物を描いたレリーフが見られます。



ここもマラッカを代表する記念写真スポットになっており、大勢の観光客で賑わっていました。



大砲も置かれていましたが、これはポルトガル時代のものではなく、オランダ製のもので、観光用に置かれているようです。



装甲車も展示されていました。



サンチャゴ砦の脇には、ダンロップの社屋がありました。イギリス植民地支配下の19世紀に、マレー半島で天然ゴムのプランテーション開発が進められて、天然ゴムが主要産業になりました。



壁にガンロップと書かれていました。



丘の周辺は公園になっており、古い飛行機が展示されていました。



マレー鉄道。



バスの待つ南側の通りに向かって緑地帯を抜けていくと、ポール状のモニュメントがあり、これはフランシスコ・ザビエルの上陸地点を示すものとのことですが、現地ガイドがいうには、つい最近設けられたものとのことです。
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