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さすらい人の独り言

山登り、日々の独り言。
「新潟からの山旅」別館
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さすらいの風景 ハノイ その1

2013年03月01日 | 海外旅行
ハノイからハロン湾に向かう前に、ソフィテルメトロポールホテルでチョコレートビュッフェを楽しみました。



ソフィテルメトロポールホテルは、フランス植民地時代の1901年に創業したハノイ一の格式を持つホテルです。当時はグランド・ホテル・メトロポール・パレスと言い、ハノイの社交場であり、新婚旅行中のチャップリンや、作家のサマセット・モームやグレアム・グリーンも滞在しています。



入り口には、1953年製のシヴォレーも置かれていました。



通りに面して、オープンカフェも設けられていました。これだけを見れば、パリの街角といっても通るでしょうね。



入り口のホール。



客用のソファー。重厚な造りです。



さて、チョコレートビュッフェです。



チョコレートやケーキの他にも、サンドイッチ、果物、生ジュースが並んでいました。



チョコレート・フォンデュも置かれていました。



ハロン湾へは休憩も含めて3時間半ほどかかって夕食が遅くなるため、丁度良いアフタヌーンティーになりました。



食べ放題といっても、甘いものをそうは食べられませんね。チョコレートは、日本で食べる高級チョコレート並みの味でした。



中庭に面した席。ゆっくりとしたいところですが、時間は限られています。



食べるものはそこそこに終えて、館内の見学を行いました。ホテルの歴史が掲示してありました。1954年、ベトナムがフランスから解放された後は国営となり、名前も「トンニャット(統一)ホテル」となりました。



ベトナム戦争当時の1970年代には、日本をはじめ各国の大使館がこのホテルに置かれました。アメリカの女優ジェーン・フォンダが反戦運動の為、2ヶ月程滞在しましたし、反戦フォーク歌手のジョーン・バエズもベトナムを訪問した際に泊まり、彼女のレコードが置かれていました。


ジェーン・フォンダ:アメリカの名映画俳優ヘンリー・フォンダの娘で弟のピーター・フォンダと共に俳優として活躍しました。ベトナム戦争中、アメリカの文化人は、反戦運動を盛んに行いましたが、ジェーン・フォンダは北ベトナムを訪問し、その際、アメリカの飛行機を打ち落とすために設置した高射砲に腰をかけた写真が流出したことによって、「ハノイ・ジェーン」として売国奴扱いされました。代表作としては、アカデミー賞を受賞した「黄昏」といって良いでしょうけど、現在の日本には「チャイナ・シンドローム」の方が興味を持たれるでしょうね。私的には、エロチックSF「バーバレラ」の怪演の方が気に入っていますが。

ジョーンバエズ:フォークの女神と呼ばれ、初期は「ドナドナ」や「朝日のあたる家」、「風に吹かれて」などのトラディショナルなフォークソングで人気をはくしましたが、後には反戦フォーク歌手として活動しました。一曲というなら、「勝利を我らに」を挙げましょう。
We syall overcome ~ 
時代の歌でした。(知らない人は、You Tubeで聞いてみたください。)



各国の報道関係者もこのホテルをベースにして活動したようです。民間人用の防空壕の写真が表紙に使われたライフも置かれていました。



ホテルの中庭にはプールが設けられていますが、ベトナム戦争時代には、地下に防空壕が設けられていて、ジェーン・フォンダやジョーンバエズも避難したようです。増築工事中に防空壕の入り口が再発見されて、宿泊者は見学できるようです。

1992年、再びフランス資本によって合弁ホテルとして生まれ変わり、2009年に、「ソフィテルメトロポ-ルハノイ」から「ソフィテルレジェンドメトロポールハノイ」に変わりました。

ベトナムの近代史を振り返るには、興味深いホテルです。ただ、おしいことに、こういった歴史については、ガイドの説明はありませんでした。



ソフィテルメトロポールホテルのすぐ近くにオペラハウスとも呼ばれる市劇場がありました。フランス統治時代の1911年にパリのオペラハウスを模して建設され、ハノイを代表するフランス風建物の代表になっています。

夕暮れも迫ってきて、バスは、一路ハロン湾を目指しました。ハノイの市内観光は、ハロン湾から戻ってからになります。
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