四季・めぐりめぐりて

諸々の事情から最近は遠出の城めぐりができませんので、近場の城館跡めぐりをぼちぼちながらやっています。

入間川御所(埼玉県狭山市)

2018年10月23日 | 古戦場・陣所


名 称:入間川御所
別 名:入間川御陣、入間川陣城
形 態:陣所
時 期:正平8年/文和2年(1353)
築城主:足利基氏
城 主:足利基氏
遺 構:―
指 定:―
現 状:徳林寺ほか
所在地:埼玉県狭山市入間川2丁目付近

入間川御所とは、正平8年/文和2年(1353)に鎌倉公方足利基氏が武蔵国入間郡入間川に設置した宿営地で、観応の擾乱後に
上杉氏勢力に対抗するため、9年間(12歳頃~18歳頃まで)にわたって鎌倉府がこの地に移されました(薩埵山体制)。
入間川御所が設けられることになった詳細については省略しますが 入間川御陣の正確な所在地は不明のようで、現在の埼玉県
狭山市入間川にある徳林寺付近から狭山八幡神社付近など数箇所が候補に挙げられているようです。
そんな入間川御所の候補地とされる徳林寺・八幡神社を訪ねてきましたが、場所の確認はできたものの遺構があるわけではあ
りませんので、いつものように社寺めぐりの形になってしまいました。




霞野交差点から狭山市駅寄りの最初の路地にある徳林寺入口の看板




徳林寺裏門




筋塀に沿って行くと




山門(楼門)の前にでます  お約束の六地蔵尊も入れておきました




山門  山号「福聚山」の扁額がかかっています




本堂




寺号「徳林寺」の扁額
大香炉と本堂入口のガラス戸に「五三の桐紋」 徳林寺は曹洞宗のお寺ですので、曹洞宗の宗紋(総持寺の桐紋)かと思いま
したが曹洞宗の宗紋は「五七の桐紋」ですからちょっと違いますね。ということは徳林寺の寺紋?




社務所・客殿・庫裡




地蔵六角堂




鐘楼




徳林寺の文化財案内板




薬師堂




徳林寺不動尊と観音堂への階段
徳林寺墓地裏の高所にあります。徳林寺の看板の所を本堂方向に来ず、その坂道を登ったところにあります。




参道ふたつ目の石段




徳林寺不動尊(福徳院)




観音堂と大観世音菩薩像  大観世音菩薩像の背後に市立図書館があります




同上




徳林寺の中興開基綿貫家の墓所。綿貫家は江戸時代に栄えた豪商




徳林寺不動尊境内から徳林寺本堂を見下ろす

河岸段丘の要害地形のこの場所は、今は高い建物が建っていますので街道や入間川は見えませんが、往時は良く見渡せたこと
でしょうから陣所として適していたでしょう
徳林寺不動尊境内から徳林寺本堂方向を見下ろしています




徳林寺とともに入間川御陣の候補地とされる(狭山)八幡神社




八幡神社社殿  境内には八幡神社の他にも数社が祀られています
ここも高台に位置しますのでやはり陣所の向いているかもしれません




八幡神社拝殿




史蹟 新田義貞駒繋ぎの松  (愛馬を繋いでおいた松)
足利基氏が入間川御陣を構える以前の元弘3年の元弘の乱のとき、新田義貞がここ入間川を陣所にしていたようで、鎌倉幕府
軍との小手指ガ原の戦いで決着がつかず一旦入間川に退陣したといわれています。
義貞が八幡神社を参拝の折に駒を繋いだようです。




八幡神社拝殿と本殿




八幡神社境内の一部

神社を見て回ることが主目的ではなく、陣所跡推定地の確認ですので神社の縁起や他のの神社は載せていません(手抜きです)

散策日:平成30年(2018)8月19日(日)・29日(水)
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女影ヶ原古戦場 (埼玉県日高市)

2018年10月21日 | 古戦場・陣所


名 称:女影ヶ原古戦場(おなかげがはらこせんじょう)
概 要:建武2年(1335)北条家の再起をはかり北条時行が信濃で挙兵、鎌倉へ進軍。これを食い止めんと渋川義季ら足利方
    の軍勢が女影ヶ原で時行軍と対陣しますが大敗して渋川義季らは自害したという。「 中先代の乱」と言われる一連の
    戦いの中のひとつとなった古戦場
指 定:県指定旧跡(女影原古戦場の名称で 昭和36年〔1961〕9月1日指定)
遺 構:―
所在地:埼玉県日高市女影 霞野神社周辺

■鎌倉時代 
 鎌倉時代になると鎌倉幕府は兵員馬匹を鎌倉に集めるために街道の整備を行ないました。この街道は鎌倉から関東諸国・信
濃・越後・陸奥方面に向かっており、上道(かみつみ))・中道(なかつみち)・下道(しもつみち)・秩父道などと呼ばれ
ていました。日高市内を通っているのは上道で、大谷沢から女影を通り駒寺野新田へ通じています。中世を通じて鎌倉街道沿
いは数多くの合戦の舞台となりました。
 南北朝時代の建武2年(1335)7月、鎌倉幕府の復興を願う鎌倉十五代執権北条高時(ほうじょうたかとき)の遺子時
行(ときゆき)は、信濃で諏訪頼重(すわよりしげ)らに擁立され挙兵、建武の新政に不満を持つ武士と合流しながら鎌倉街
道を南下鎌倉を目指しました。そして7月22日、それを阻止しようとする足利直義(あしかがただよし)軍と初めて合戦に
及んだのが女影原でした。
 この戦で時行軍は直義軍に勝ち、その後も小手指原・府中などでも直義軍を破り7月25日に鎌倉を占領しました。この一
連の戦乱を「中先代の乱(なかせんだいのらん)」といいますが、僅か20日程度で足利尊氏に攻められ、時行は鎌倉から敗走
しました。
                                 【日高市ホームページ「日高の歴史」から】

この女影原の合戦の場となったのが、現在の霞野神社周辺と言われております。そんな古戦場跡とされる霞野神社周囲と鎌倉
街道上道を散策してきました。




県道川越日高線(埼玉県道15号線)の「女影」交差点から霞野神社(女影ヶ原古戦場跡)方向へ向かいます




鎌倉街道上道の緩い坂道を行くと、下小畔川に架かる「諏訪橋」です。
霞野神社の旧称が諏訪神社であったことに由来する名でしょう。




諏訪橋の傍に、諏訪橋改築記念碑(左)と享保18年(1733)の日本廻国供養塔(右)が建っています。




霞野神社の森です




霞野神社鳥居の前は五差路になっています(この写真では1本は隠れてしまいましたが)
鎌倉街道上道はこのまま真っ直ぐに進みます




霞野神社参道前

霞野神社は元は諏訪神社といい女影の村社でしたが、明治39年(1910)10月、埼玉県指令により旧女影村一帯の神社を合
祀して新たに建てられた神社です。この合祀記念碑が拝殿前に建立されています(後述)

このような村の周辺の社を合祀した例としては、やはり鎌倉街道沿いにある比企郡小川町奈良梨の八和田神社(奈良梨陣屋跡)
も元諏訪神社で、八か村が合併して八和田村となったことから八和田神社に改称しています。




霞野神社の社号標  旧社格の村社の部分セメント?で埋めて消してありますが逆に目立っています




神額「霞野神社」




参道から社殿を




手水舎と霞野神社社務所
手水鉢は、安政4年(1857)3月と安政6年(1859)3月に奉納されたものふたつが並んでます。




拝殿 




扁額{霞野神社」




社殿の斜め後方に神社東側の道路に向って建てられている石標




「史蹟 女影原古戦場趾 埼玉縣」と刻まれているの石標
刻まれた文字が浅くなって読み辛くなっています。




拝殿石垣前に設置されている説明板




女影ヶ原古戦場跡 と 鎌倉街道  の説明文のアップ
 



説明板にある 「霞野神社の本殿 付 剣道の懸額」
社殿の右側面にある2枚の懸額のうち左側のものが、文久元年(1861)4月穀日に、甲源一刀流の比留間和十郎源信治の門弟
が奉納したもの。




境内末社




宝物殿




女影ヶ原一ノ宮 霞野神社合祀記念碑




霞野神社合祀記念碑の裏面

合祀誌 女影ヶ原一ノ宮 旧名 諏訪明神
明治43年10月5日埼玉県指令により旧入間郡高萩村大字女影字諏訪山444番地鎮座諏訪神社同443番地琴平神社同字宿
西八幡神社三柱神社八雲神社同字小河原天神社稲荷神社同字北竹ノ内825番地白髭神社同字山神社同村大字中沢栁久保221
番地白髭神社同字宿方愛宕神社同西腰金山神社同字森ノ腰白山神社同山下滝神社の各社をもって明治43年10月17日大字女
影諏訪山444諏訪神社に合祀社號を霞野神社と改称した
    昭和50年4月15日   霞野神社氏子中




拝殿前から鳥居方向を見ています
この境内を含む一帯が女影ヶ原の戦いの場となったのでしょう




霞野神社鳥居前の鎌倉街道上道と、右に分かれる道との間のごみ収集所の脇に道標を兼ねた「大乗妙典碑」があります。




判読が困難な状態になっていますが、「左 入間川 所沢みち  右 あうぎ町谷 八王子道」と刻まれているようです。




第二小畔川の脇に建立されている「鎌倉街道上道碑」と「鎌倉街道上道説明板」 いずれも日高市教育委員会の設置
ここに至るまでの鎌倉街道上道は狭く、車がすれ違うための退避場所を数か所設けられていました。




「鎌倉街道上道碑」と「鎌倉街道上道説明板」




「鎌倉街道上道説明板」




「鎌倉街道上道碑」の裏面には、碑建立に至った経緯が刻まれています。




「鎌倉街道上道碑」前の鎌倉街道上道を更に南下します  古道の雰囲気を残す切通しです




切通は数100mといったところでしょうか




切通を抜けて少し行ったところで国道407号線と交差する「鎌倉街道」交差点です




鎌倉街道交差点から来た道を振り返ってみました

散策日:平成30年(2018)8月29日(水)・9月3日(月)
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堀兼の井(埼玉県狭山市)

2018年10月19日 | 城館・城跡


名 称:堀兼の井(ほりがねのい)
概 要:「ほりかねの井」の一つと考えられていますが、これを事実とすると、掘られた年代は平安時代までさかのぼる。
    直径7.2メートル、深さ1.9メートルの井戸の中央には石組の井桁がある  
指 定:県指定旧跡(昭36年〔1961〕9月1日指定)
遺 構:中世井戸
所在地:埼玉県狭山市堀兼2220番地 堀兼神社

■堀兼之井
堀兼之井は、堀兼神社の境内にあります。直径7.2メートル、深さ1.9メートルの井戸の中央には石組の井桁がありますが、現在
は大部分が埋まっており、その姿がかつてどのようであったかは不明です。この井戸は北入曽にある七曲井と同様に、いわゆる
「ほりかねの井」の一つと考えられていますが、これを事実とすると、掘られた年代は平安時代までさかのぼることができます。
井戸のかたわらに2基の石碑がありますが、左奥にあるのは宝永5年(1708)3月に川越藩主の秋元喬知が、家臣の岩田彦助に
命じて建てさせたものです。そこには、長らく不明であった「ほりかねの井」の所在をこの凹おう形の地としたこと、堀兼は掘
り難がたかったという意味であることなどが刻まれています。しかし、その最後の部分を見ると、これらは俗耳にしたがったま
でで、確信に基づくものではないともあります。手前にある石碑は、天保13年(1842)に堀金(兼)村名主の宮沢氏が建てたも
ので、清原宣明の漢詩が刻まれています。
それでは、都の貴人や高僧に詠まれた「ほりかねの井」は、ここにある井戸を指すのでしょうか。神社の前を通る道が鎌倉街道
の枝道であったことを考えると、旅人の便を図るために掘られたと思われますが、このことはすでに江戸時代から盛んに議論が
交わされていたようで、江戸後期に編さんされた『新編武蔵風土記稿しんぺんむさしふどきこう』を見ても「ほりかねの井」と
称する井戸跡は各地に残っており、どれを実跡とするかは定めがたいとあります。堀兼之井が後世の文人にもてはやされるよう
になったのは、秋元喬知が宝永5年に石碑を建ててから以後のことと考えられます。
                            【狭山市ホームページ「指定文化財」の中から引用転載】

上記解説にもあるよう堀兼の井は堀兼神社の境内にありますので、堀兼神社の簡単な紹介から入っていきたいと思います。




堀兼神社の前を通るのは鎌倉街道の枝道である堀兼道




社号標
堀兼神社の旧社格は村社であったはずですが、社号標には郷社と刻まれています。明治時代初期の一時期だけ郷社であったよ
うです。しかし、この時の社名は浅間神社だったようです。




鳥居は、一の鳥居、二の鳥居とあり、何れも神額には「堀兼神社」とあります。
一の鳥居は両部鳥居、二の鳥居は稲荷鳥居(自信ない)のようです。




手水舎




堀兼井の説明の掲額ですが完全に読めなくなっています



 堀 兼 神 社    
                            所在地  狭山市大字堀兼2221
堀兼神社の祭神は木花咲耶姫命で、合祀神として大山咋命ほか五神を祀る。
社伝によると、景行天皇の40年に日本武尊が東北のえぞ征伐の帰途この地に立ち寄ったところ、土地の人々が旱害に苦しんで
いるのを見て、富士山に祈願したら、たちまち清水が湧きだした。そこで土地の人がこのゆかりの地に浅間神社を創建したのが
始まりだという。 
その後、江戸時代に至って慶安3年(1650)、川越城主松平伊豆守信綱が深くこの神社を崇敬し、家臣の長谷川源衛門に命
じて社殿を再建させた。
明治維新後は「堀兼浅間神社」と称していたが、明治5年に村社となり、同40年から同42年にかけて村内の神社12社を合
祀し、社名を現在のものに改称した。
境内にある「堀兼の井」は武蔵野の高燥台地の飲料水井戸として古くから有名であり、県指定舊蹟。またバラモミは県の天然記
念物に指定されている。
なお、堀兼神社の社叢は、昭和58年にふるさと埼玉の緑を守る条例に基づく「ふるさとの森」の指定を受けている。
  昭和60年3月
                                  埼玉県・狭山市





随身門  二神像の写真も撮るには撮ったのですが、失敗作ですので載せません。




随身門及び二神像の説明板




随身門を抜けて石階段を上ります




堀兼神社 拝殿
元々は富士塚で浅間社であったようです




この説明板にも、堀兼神社(富士浅間社) とあります




境内社の日枝神社

社殿の前に「下浅間神社の石碑」と「一合目の合目石」がありますので、てっきり下浅間神社と思ってしまいます




左側に随身門からの石階段都は別の登り道があります




境内社  他にもありましたが省略します




御神木 その1




御神木 その2  御神木は2本あります




堀兼の井  堀兼神社社殿に向かって左側にあります




「堀兼の井」説明板




「堀兼井」詩碑  天保13年(1842)に堀金(兼)村名主の宮沢氏が建てたもので、清原宣明の漢詩が刻まれている。
恥ずかしながら私には読めません




堀兼の井  通王の四角の部分が石組みの井桁部分でしょうが残念ながら草に覆われて



同上




同上




「井磧の碑」 宝永5年(1708)3月に川越藩主の秋元喬知が、家臣の岩田彦助に命じて建てさせたもの。
これも私には読めません




全体を撮ろうと神社の斜面に上がったのですが、枝が邪魔をして

以上、こんな拙い説明だけでは「堀兼の井」、「堀兼神社」については語り切れません。もっと沢山の情報がありますので興
味のある方は個々に調べて見て下さい(今回も手抜きです)

散策日:平成30年(2018)9月5日(水)
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七曲井(埼玉県狭山市)

2018年10月17日 | 史跡・文化財


名 称:七曲井(ななまがりのい)
概 要:漏斗状井戸の遺構。建仁2年掘鑿と伝える。昭和45年に発掘復原。
    発掘調査で確認された元の大きは 直径20m余深さ10m。  
指 定:県指定史跡(昭24年〔1949〕2月22日指定)
遺 構:漏斗状井戸
所在地:埼玉県狭山市北入曽1366

七曲井については看板等を見たりして存在自体は知っていましたが、今回初めて訪ねてみました。




常泉寺の観音堂前の「七曲井」入口の標識




観音堂裏右手に建てられている「埼玉県指定史跡 七曲井」の看板と「七曲井」碑




「七曲井」碑




「七曲井水神宮」 井戸だけに水の神様




「七曲井」 保護のため囲繞されています




「七曲井」説明板




図面部をアップで




ほぼ全体を東北東側から




東側から




南側から




井戸枠をアップで



北側から




見学場所にある説明板




上の全体の写真では文字が小さく読むのに苦労しますので説明文部をアップで




七曲井の南側を流れる不老川




折角ですから観音堂を   七曲井はこの観音堂の裏にあります




観音堂横不老川際にある説明板ふたつ




「常泉寺の観音堂・不老川」説明板




「木造聖観世音菩薩坐像」説明板




石造物




入間川に架かる入曽橋から七曲井の方向を




入曽橋から南方60m位にある入間野神社の前に設置されている「鎌倉街道(上道)のみちすじ」の案内板




矢印した③の所に「七曲井」があります
何とイラストまであります。この案内板に載っている史跡寺社等はかなりあります(数えてはいません)が、イラストまで載
っているのは僅かですから、言わば選ばられた存在かも知れません(笑)

散策日:平成30年(2018)9月5日(水)
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講演会「藤原から平城へ 平城遷都の謎を解く」

2018年10月14日 | 講演会・企画展


独立行政法人国立文化財機構 奈良文化財研究所主催による

 奈文研第10回東京講演会
  藤原から平城へ 平城遷都の謎を解く

 2018年10月13日(土)午前10時~午後4時
 有楽町朝日ホール 東京都千代田区有楽町2-5-1 有楽町マリオン11F

が開講されましたので聴講してきました。

この東京講演会は、関西を中心に活動している奈良文化財研究所(奈文研)の調査・活動内容の成果を、広く東日本の皆さん
にも紹介しようと始められたもので、今回が10回目とのことですが、初めての聴講でした。




講演会資料(有料・購入は任意)
この資料の内容に沿って講師の先生方の講演がありました




海野氏は、この講演会の告知があった時点では奈良文化財研究所の職員でしたが。9月に退職し、この10月から現職。




有楽町朝日ホールのある有楽町マリオン




日比谷見附跡
余裕を持って出かけたら早く着きすぎてしまいましたので、近くの日比谷公園まで・・・2、3歩足を踏み入れただけですが




心字池




仙台藩祖 伊達政宗 終焉の地
ここが仙台藩の外桜田上屋敷のあった場所で、政宗は江戸参勤の折、寛永13年(1636)5月、ここで70歳の生涯を終えた。

と、ほんの僅かな散策をして会場に戻ったときは既に長い列ができていました。早々に定員に達する申し込みがあったようで、
会場内は満杯でした。早めに申し込んで正解でした。

聴講日:平成30年(2018)10月13日(土)
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平成30年度歴史講座「戦国の城館」第3回

2018年10月12日 | 講演会・企画展


埼玉県立嵐山史跡の博物館主催による
平成30年度歴史講座「戦国の城館」
第3回 国指定史跡「唐沢山城跡」の概要について
講師 太 田 嘉 彦 氏 (佐野市教育委員会文化財課係長)
日時 10月12日(金)13:45~15:30
会場 国立女性教育会館研修棟 講堂

を聴講してきました。




会場はいつもの女性教育会館研修棟 講堂




今回の資料(表紙)




今回のテーマの唐沢山城跡の高石垣     2015.03.10攻城時に撮影




二曲輪から本丸への虎口と鏡石        

唐沢山城跡は昨年4月6日に選定された「続日本100名城」のひとつ 機会あれば再攻城したいです

聴講日:平成30年(2018)10月12日(金)
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分倍河原古戦場(東京都府中市)

2018年10月09日 | 古戦場・陣所


名 称:分倍河原古戦場
概 要:鎌倉時代末期、北条泰家率いる鎌倉幕府勢と新田義貞率いる反幕府勢との間で繰り広げられた合戦場跡
    この戦は新田義貞が北条氏を破り鎌倉幕府滅亡のきっかけとなる
指 定:都指定旧跡(大正8年〔1919〕10月1日指定)
遺 構:―
所在地:東京都府中市分梅町2丁目59番地の4(分倍河原古戦場碑の所在地)

元弘3年(1333)5月8日、上野国新田荘(群馬県太田市)生品神社で挙兵した新田義貞は、鎌倉に向けて進軍。義貞の南下を
阻止しようと差し向けられた幕府側との小手指ヶ原の合戦(埼玉県所沢市)で、長崎高重・桜田貞国を打ち破りました。続く久
米川の合戦(東京都東村山市)でも勝ち、ついで分倍河原の合戦に移りました。
幕府側は北条泰家を大将として向かわせ、新田軍は一度は敗れ後退しますが、義貞勢は援軍を受けて反撃し、幕府軍を大破、そ
のまま鎌倉に攻め込み、22日鎌倉幕府は滅亡しました。

そんな鎌倉幕府滅亡のきっかけ分倍川河原古戦場跡を訪ねてみました。古戦場跡は、現在、新田川分倍公園となっており、歴史
的な合戦の舞台となったとは思えない静かで穏やかな場所です。




「分倍河原古戦場碑」の標識が見えました




分倍河原古戦場碑がある新田川分梅公園入口
北条氏と新田氏が戦った場所ですので、「にったがわ」とよみたいところですが「しんでんがわ」と読みます。




「緑道・遊歩道案内図」
府中市には沢山の緑道・遊歩道が整備されているようです




入口から少し行ったところに目的のものが見えてきました




分倍河原古戦場碑と説明板




「分倍河原古戦場碑」
昭和10年、新田氏の子孫で、元男爵の新田義美氏の筆によるもの




「分倍河原古戦場」説明板




「武蔵府中郷土かるためぐり」標柱
 ほ 北条と新田の分倍古戦場



「新田川緑道」(しんでんがわりょくどう)
農業用の府中用水の流路である新田川にふたをして緑道して整備されたものだそうです




JR南武線・京王線の分倍河原駅の駅前ロータリーに、昭和63年(1988)、府中市によって建てられた「新田義貞公之像」
 所在地:府中市片町3丁目29番地の2




題字は、当時の府中市長吉野和男氏、像の製作は文化勲章受章者の富永直樹氏によるものだそうです。
その顔は、鎌倉の方向を見つめています。




折角ですから後ろ姿も




台座裏側に嵌め揉まれている説明板




「新田義貞公之像」を裏側から

ここまで来たら次は鎌倉か? まあ、その途中に「関戸古戦場」(東京都多摩市)・「極楽寺切通し」(神奈川県鎌倉市)・
「須崎古戦場」(鎌倉市)・「稲村ケ崎}(鎌倉市)でも戦いがあったようですから、これらまで回るのは厳しいです。
いっそ遡って挙兵の場所・群馬県太田市の生品神社か? 暫くは無理でしょう

散策日:平成30年(2018)9月5日(水)
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久米川古戦場 ③(東京都東村山市)

2018年10月06日 | 古戦場・陣所


名 称:久米川合戦の新田義貞後詰の地
概 要:元弘年間久米川の合戦の時新田義貞後詰を置いた所
指 定:―
遺 構:―
所在地:東京都東村山市久米川町5丁目 熊野神社

後詰を置いた所ということですので一時的な陣所であったのでしょう。いわば神社見学のようになってしまいますが、場所だ
けでも確認できればと訪ねてみました。なお、上記の名称は適当に付けただけですので。




「熊野神社」です。久米川村(町)の鎮守であることから久米川熊野神社と呼ばれるようです。




社号標と熊野神社由緒書 社号標の正面は道路ではなく参道を向いています。




熊野神社の由緒書(説明板) 由緒の中に《本社は、新田義貞が後詰を置いたとされる》と後詰に関する記述もあります。




狛犬、手水舎 その先に拝殿




「熊野宮」の扁額




参道を本堂側から




本殿  玉垣の朱色が陽に当たって映えています




拝殿と本殿




境内社




久米川神社崇教会集会所




久米川の富士塚
富士塚信仰が盛んになったのは江戸時代以降のようで、この富士塚は明治21年に築かれたようですから、この場所に新田義
貞が後詰を置いた頃には、この富士塚は未だなかったことになります。




富士塚ですが、もっと離れたところから全体を撮ればよかったと後悔しています。




塚の頂です  祠があったようですが見当たりませんでした。




熊野神社の北側「熊野公園」になっていますが、神社寄りにある池です。




「熊野公園」の一部
この熊野公園も熊野神社境内の一部のようです。これだけ広い境内でしたら、相当数の後詰の兵を置くことができたでしょう。

散策日:平成30年(2018)8月30日(木)
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久米川古戦場 ②(埼玉県所沢市)

2018年10月03日 | 古戦場・陣所


名 称:新田義貞兜掛けの松・鎧稲荷
指 定:―
所在地:埼玉県所沢市久米2429 鳩峯八幡神社境内

元弘3年(1333)5月、鎌倉幕府討幕のため挙兵した新田義貞は、武蔵国で幕府軍と衝突しました。この際、八国山に陣を
布いた義貞は、鳩峯八幡神社の社前の松に兜を掛け、境内に鎧を置いて戦勝祈願を行ったとの記録が残るそうです。
久米川古戦場跡散策の一環として、この参拝の時の兜をかけた「兜掛けの松」、鎧を置いた所に祀った「鎧稲荷」などの見学の
ため、埼玉県所沢市久米に鎮座する「鳩峯八幡神社」を参詣してきました。

なお、久米川古戦場跡は、現在の東京都東村山市諏訪町付近とされておりますが、鳩峯八幡神社は上記のとおり埼玉県所沢市に
所在していますので、本稿タイトルは「久米川古戦場②(埼玉県所沢市)」としました。埼玉県所沢市も東京都東村山市も元は
同じ武蔵国の中にありましたので地名を気にすることもないのでしょうが。




案内板「鎌倉街道(上道)のみちすじ」の中から当該部分を切り取り加筆しました。
〇で印した所に鳩峯八幡神社は鎮座しています。上のイラストが活きます。
埼玉県部分のみの鎌倉街道(上道)案内板のため久米川古戦場跡は入っていませんので文字は書き加えました。




鳩峯八幡神社の鳥居と社号標
旧社格は郷社  なお正式名称は「八幡神社」




「鳩峯八幡宮」の神額




参道を少し行くと鐘楼があります
神社になぜ鐘楼が。往時、鳩峯八幡神寺の別当はすぐ近くにある「仏眼寺」が当たっていましたが、神仏分離で分れました。
この洪鐘はその名残りのようで、洪鐘には仏眼寺及び当社由来が刻まれているそうです。




参集殿  




長い参道の先に社殿が見えてきました




宝物殿




この石段を上ると境内




手水舎  普通の水栓柱と蛇口が使われています




拝殿




拝殿




拝殿と本殿




扁額「鳩峯八幡宮」




神楽殿




鳩峯八幡神社案内板  所沢市観光協会設置

【由緒】の中に次の記述があります
《元弘3年(1333)5月、新田義貞公鎌倉討伐の折、八國山の将軍塚に陣し、当社に参拝して戦勝を祈願したと伝える。境
内には参拝の時兜をかけた「兜掛けの松」、鎧を置いた所に祀った「鎧稲荷」の祠の旧蹟がある。》




鳩峯八幡神社の文化財説明板   所沢市教育委員会設置




「兜掛けの松」と「新田義貞兜掛松 史蹟」碑

当時の松は枯れてしまい、その切り株に新たに植えられて数世代が経ったものが現在の松のようです。




「新田義貞兜掛松 史蹟」碑




石碑裏面

護良親王の令旨を受けた新田義貞は元弘3年5月8日、群馬県新田郡生品村生品明神の社前で、北条高時討伐の兵を挙げた時か
ら、5月22日鎌倉幕府が滅びるまでの経過がこと細かく書かれています。更に、義貞が戦勝を祈願し、その折、兜を脱いで神
前の松に架けた都の記録が当神社の記録に残されており、由来「兜掛けの松」として広く名を知られている。ここに由緒を石に
刻み、永く後世に伝えようとするものである。

とあります。「兜掛けの松」は単なる伝承ではなく記録があるということのようです。




社殿の斜め後ろにある「鎧稲荷」
この場所に祈願の際に脱いだ鎧を置いたということのようです。覆屋を見ても他の末社より手厚い扱いを受けている感じです。




八幡神社奥社




境内末社




摂社「八坂神社」




境内の一部




境内南側にある石段を下りると 摂社「久米水天宮」の境内




久米水天宮は独立の境内を持つ鳩峰八幡神社の摂社です
境内が独立していることから一見別々の神社のように思えます




久米水天宮拝殿
正式名称は「水天宮」のようですが、久米の地に鎮座することから久米水天宮と称されているようです



扁額「水天宮」




水天宮拝殿前にある休憩所(?)内の額




「久米水天宮」参道  右側の少し高くなったところが鳩峯八幡神社




「仏眼寺」

鳩峯八幡神社の南方50mくらいの所にありますが、鳩峯八幡神社の鐘楼の所で仏眼寺について触れましたのでスルーするわ
けにもいかず参考までに・・・




王禅山釋迦院と号す真言宗豊山派の寺院です。
例の石灯篭この寺にも2基ありました。所沢市内のお寺ですから・・・

散策日・平成30年(2018)8月29日(水)・30日(木)
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久米川古戦場 ①(東京都東村山市)

2018年10月02日 | 古戦場・陣所


名 称:久米川古戦場
概 要:武蔵国久米川(現在の東京都東村山市諏訪町)において、桜田貞国率いる鎌倉幕府勢と新田義貞率いる反幕府勢との間で
    行われた合戦の地
指 定:都指定旧跡(久米川古戦場の名称で 大正8年〔1919〕10月指定)
遺 構:将軍塚(埼玉県所沢市)
所在地:東京都東村山市諏訪町2丁目付近

小手指ヶ原の合戦に続いて行われた久米川合戦の古戦場跡及び関係場所を訪ねて来ました。




西宿公園  ここを目標にしたらよいかと思います
この公園の北側に更に小さな公園(西宿公園の一部)があり、そこに久米川古戦場跡」碑 「久米川古戦場」説明板があります。




久米川古戦場跡」碑  「久米川古戦場」説明板




東京都指定旧跡   
   久米川古戦場
                      所在地 東村山市諏訪町2丁目付近
                      指 定 大正8年10月

 北川と前川の合流するこの地域の低地と狭山丘陵東端の八国山の麓一帯を鎌倉時代には久米川宿といっていた。文永8年(12
71年)の日蓮の書状に「武蔵国久目河に付き……」とあって、上野国(群馬県)と鎌倉を結ぶ政治的にも経済的にも重要な交通路
であった鎌倉街道上の道の主要な宿駅であった。
 『太平記』によれば、元弘3年(1333)5月8日、群馬県新田町の生品神社(新田義貞挙兵伝説地)から鎌倉幕府倒幕のた
め挙兵した新田義貞の軍勢は、11日初戦の小手指河原合戦(所沢市)で鎌倉軍を破り、翌12日に南下した新田義貞と鎌倉幕府軍
との第二戦が行われたのがこの周辺一帯であるといわれている。『江戸名所図会巻四』によると、久米川合戦に勝った新田義貞が
塚を築き旗をたてたといわれる将軍塚(所沢市)が八国山にある。標高約190メートルの八国山は、駿河(富士)、伊豆(天城
山)、相模(箱根・大山)、甲斐(多波山)、信濃(浅間)、上野(吾嬬)、下野(日光)、常陸(筑波)、の八か国の山が眺め
られるのでこの名がついたといわれている。
 久米川宿を中心とする久米川一帯は、その後も建武2年(1335)の中先代の乱や応永23年(1416)と同24年(141
7)の上杉禅秀の乱などたびたび合戦の戦場となったが、近年は宅地化が進み当時の景観は偲ぶべきもない。
 国の重要文化財『元弘の板碑』は八国山山麓にあったものを文化年間(1804~18)に、臨済宗福寿山徳蔵寺(東村山市諏
訪町1の26)に移したものである。

 平成10年3月 建設
                      東京都教育委員会




都立 八国山緑地の東端麓にあるハイキングコース入口と案内板 




下部が草で見えませんが 「都立 八国山緑地」案内板の全体を




久米川古戦場跡の文字が見えます  このあたり一帯で戦いがあったようです




所沢市久米地内を流れる柳瀬川(旧久米川)に架かる「勢揃橋(せいぞろいばし)」
新田義貞公がここに全軍を勢揃いさせたことからついたこの名がついた橋だそうです。当然、、全軍が橋の上にというわけには
いきませんが・・・




当時は家もなかったでしょうし、橋には欄干もなかったでしょう




八国山緑地には埼玉県所沢市松ヶ丘地内から登りましたが、例の如くすんなりとはいかずに入口が分らずに行ったり来たり。




尾根沿いの所沢市側にも立派な案内板が設置されています




「勢揃橋」の所が丁度写真で隠れてしまっていますので、◎勢揃橋 と加筆しておきました(右上)
0.1kmでは目指すというほどの距離ではありませんが、将軍塚を目指して




綺麗に整備された緑地です  この時も清掃中の作業員の方にお会いしました




将軍塚のある場所に着きました




「元弘青石塔婆所在跡」碑
「元弘の板碑」と呼ばれるこの板碑には久米川の合戦を裏付ける記述と、この戦いで亡くなった3名のなが刻まれており、実
物は現在、「徳蔵寺」にあります。




「将軍塚」説明板




塚と言ってもこんもりした程度でそれほどの高さはありません




将軍塚碑




将軍塚碑の裏面
「元弘三年 新田義貞公鎌倉討伐ノ際 白旗ヲ建テラレタル遺蹟」と記されています。




「勝陣場橋(かつじんばばし)」  北川に架かる橋で東村山市と所沢市に跨っています
戦いに勝利した新田軍が通ったとも陣を置いた場所とも言われます。
道が狭いうえに交通量が多くてこれ1枚を撮るのも苦労しました(笑)




「将陣場橋(しょうじんばばし)」  北川に架かる橋で東村山市須和町2丁目地内にあります
内容は上記と同様です




「徳蔵寺」
山号を「福寿山」と号する臨済宗大徳寺派に属するお寺で、東村山市諏訪町1丁目26-3に所在します
「徳蔵寺 板碑保存館」に保管されている「元弘の板碑」を拝観目的に訪れましたが、折角ですので本堂等の写真も何枚か




山門から本堂方向に  扉にある紋は「左三つ巴」




六地蔵尊等の石仏




本堂前から山門方向  例の(増上寺→西武鉄道→寄進先)大きな石灯籠がこの徳蔵寺にも4基ありました




本堂




山道脇の掲示板に貼ってある「江戸名所図絵」




庭園




庭園  左側の建物は「虚心庵」(茶室)




ここで板碑保存館拝観の申し込みをします  拝観料(おとな(高校生以上)200円




「徳蔵寺 板碑保存館」




「元弘の碑」




板碑保存館は昭和43年(2003)に完成した2階建ての建物で、1階には、石器・土器・国分寺瓦・古銭等 2階には、元弘
の碑を中心に、板碑・宝篋印塔・五輪塔・道標等が展示されています。
保存館ができる以前は数多くの板碑を本堂に所蔵していたことから、「ちらかし寺」とも呼ばれていたようです
とにかく沢山の板碑等が展示されており、よくここまで収集したかと感心します。
これから拝観に行く方の楽しみを奪ってはいけませんので、展示物の写真はこれだけにしておきます。




「元弘の碑」の実物の写真を先に載せましたが、ガラスに反射してよくわかりませんので、拝観時に頂いたリーフレットの中の
写真を載せておきます。




上掲「元弘の碑」の写真にある説明文




徳蔵寺の西側を流れる「前川」 下流で「北川」に合流

散策日:平成30年(2018)8月29日(水)・30日(木)
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