囲碁とロック

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【哲学】1×1の碁盤のロマン

2020-05-31 23:58:38 | 日記

こんばんは、囲碁マニアの関です。

 

囲碁に必要なものは何か・・・

といわれたら、

一般的に、間違いなく「碁盤と碁石」ということになります。

 

碁盤(ゴバン)。碁盤とはなんでしょうか。

 

こちらが「本来の」碁盤。プロの公式戦や大会で使われる19路盤(ろばん)です。

 

ちょっと狭くした13路盤

 

9路盤というのもあります。

 

小さめの碁盤は、囲碁を始めてしばらく練習のために使ったり

これはこれで19路盤とは違うゲーム性になるので、ちゃんと楽しかったりします。

実際、市販されてもいます。

 

このように見ますと、「この広さじゃないと碁盤とはいえない」ということはないようです。

囲碁の総本山でありプロ組織「日本棋院」の規約には、公式戦は19路・・・となってはいますが(第三条)

言葉の定義としては、「碁盤」の広さは指定されていないと思います。

いずれも「囲碁」というゲームは成り立ちます。

 

 

さて、広さは関係ないらしい。

じゃあ、どんなに広くてもいいのでは・・・?

(250路盤

 

別に正方形でなくてもいいのでは・・・

300×229路盤

ということも言えそうで、だからこそ「囲碁アート」と胸を張って言えます。笑

囲碁がちゃんと成り立ちますね。

 

しかし、これを逆に

「どんなに狭くてもいいのでは・・・?」

 

となると、一気に解釈が分かれてきそうです。

路は多分、整数でないといけないので

最も小さいのは「1路盤」となるでしょう。

(0×0も面白いですが、

 

先日紹介しました囲碁ソフト、Gowrite

 

こいつの機能で、自由に広さを変えることができるのですが

1×1を入れると・・・・

 

できました(つくづく高機能ですね)

 

これが最小の碁盤、1路盤

 

お気づきでしょう。点です。

碁盤をぎゅっと凝縮すると、点になるんですね~

 

さて。この1路盤がここ数年、囲碁哲学勢(というか私)の中でホットです。

ここにおいて、どのような思考が展開されるのか。大きなテーマです。

 

まあ、囲碁打ってみればわかるんじゃね

お願いします!

 

 

・・・はい?

 

そうなんです。

いわゆる着手禁止点

石から一個も線が出てないので、置いた瞬間、もう囲まれている

という場所は、そもそも石を置けません(前回の記事で解説しました)

まあそうでしょうね。そもそも線ないし。

 

 

というわけで、囲碁始まった瞬間に終わり。引き分けになります。

 

 

さて、これは囲碁なのでしょうか・・・?

 

ここで立場は二つに分かれます。

ゲームが健全に成り立たないならば、それに囲碁としての価値は認められない。

ということは十分に可能です。

実用性を重んじて、プラグマティックな発想といえます。

(その場合は、あまりにも広い碁盤やあまりにも多い碁石も、囲碁としての範疇から外れそうです)

 

もう一つの立場は、「囲碁として思考することが可能であれば、それは囲碁である」というものです。

もちろんというか、私はこちらです。

 

1路盤で、確かに手に汗握る攻防戦や、大きな陣地を作る快感、石をたくさん取る技術を見せることもできませんでした。

しかしそれでも、私はこの単なる「点」を囲碁として思考することができました。

石が置けない場所として。勝負としては引き分けとして。

 

個人的には、石が置けないのにそこにある碁盤。

まったく面積がないが、確かに目の前に存在する空間。

そういったものは大変にそそります。ロマンがあります。

 

これに気付いた日から、この世にあるすべての「点」の中に、

私は囲碁を感じ始めました。

そして点と点がつながったときには、立派に石を置くスペースとなり

 

(1×2からは石が置けます)(勝負としてはアレですが・・・)

 

碁盤の生成過程みたいなものが感じられます。

全ては、碁盤となる条件を含んでいるのかも知れない・・・!

 

ぜひ、一路盤を眺めて、ぼんやりと考えてみてください。癒されます。

そんな休日も悪くないはずです。うん。

(続く・・・?)



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