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新たなる日々!

三種九部の法華経

2022年06月08日 | 教学基礎講座(二)

「大白法」 平成28年7月16日(第937号)

   【教学基礎講座】20

  三種九部の法華経  

ー 末法流布の妙法蓮華経 ー

 三種九部の法華経とは、文義意・種熟脱・広略要の三種類、九つの内容に法華経を判別されたものを言います。

 日蓮大聖人は、この三種九部の判別の上から、末法流布の法華経は意・種・要の法華経であるとされて、法華経の真意を説き明かされています。

 文義意の法華経

 文義意の語は、一般に広く用いられていますが、文とは文面、義とはその文の意味、意とは文義によって顕される主旨のことです。

 文義意の法華経についていえば、文とは一部八卷の法華経の文字、義とは迹門と本門の教理、意とは妙法蓮華経の五字のことです。

 通常は文に従って、その意味を理解し、その上で文の主旨(意)を弁えることになりますが、仏法における文義意の法華経に関しては、通常の場合とは全く逆の順序を踏まなければなりません。

 これは、法華経の心は凡夫のうかがい知ることのできない、唯仏与仏の悟りであり、末法の凡夫には御本仏の所作・体験の上にしかそれを拝する手立てがないからです。そのために意の法華経を根本とするのです。

 大聖人は『四信五品抄』に、

 「妙法蓮華経の五字は経文に非ず、唯一部の意ならくのみ」(御書一一一四㌻)

 また『曽谷入道殿御返事』に、

 「此の釈の心は妙法蓮華経と申すは文にあらず、義にあらず、一経の心なりと釈せられて候」(御書一一八八㌻)

と仰せです。

すなわち、文義よりも意の法華経を根本とする理由は、文義意の法華経の中では意の法華経たる妙法蓮華経の五字こそが、一代仏教の功徳が具わる仏の心(意)そのものだからです。

 意の法華経を離れては法華経(仏)の心を求めることはできず、末法の衆生の成仏は不可能なのです。

 逆に大聖人の意の法華経より立ち返って、釈尊、天台の文・義の法華経を拝するとき、法華経の真意が明らかになるのです。

 種熟脱の法華経

 種熟脱とは、仏が衆生を成仏へと導く経過を、稲などの穀物が生育していく過程に譬えたものです。

  大聖人は『曽谷殿御返事』に、

  「法華経は種の如く、仏はうへての如く、衆生は田の如くなり」(御書一〇四〇㌻)

 と説かれています。

 つまり、仏が植え手となって成仏の種子を衆生の心田に植えることを下種と言います。

  さらに熟とは、下種された成仏の種子が芽生え生育するのを助けて、それを次第に熟させていくことです。

 最後の脱とは、種子が成長して熟し切ったところで、穀物の実りを収穫させること、すなわち得脱(悟りを得ること)させることです。

 そもそも仏法では、因果を踏まえた種熟脱の三益があって初めて真実の利益があるのです。法華経は、この種熟脱の法門を、一切経の中で初めて明確に説いたのです。

 ところが法華経以外の諸経には、どの仏によって成仏の種子が植えられ、その種子がどのように調熟され、脱せられるかという、仏の化導の過程が明かされていないのです。

 ところが法華経以外の諸経には、どの仏によって成仏の種子が植えられ、その種子がどのように調熟され、脱せられるかという、仏の化導の過程が明かされていないのです。

 諸経の教えがいかに甚深であると称しても、この種熟脱が説かれていなければ、衆生にとっては無益、無縁の教えであると断ずることができます。

 大聖人は『秋元御書』に、

    「種・熟・脱の法門、法華経の肝心なり。三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏に成り給へり」

     (御書一四四七㌻)

と説かれ、あらゆる仏は、妙法蓮華経の五字を種子として仏になることができたと仰せです。衆生はもとより、諸仏も下種の妙法蓮華経を成仏の種子としているのです。

 広・略・要の法華経

 広・略・要については、法体と修行の面、あるいは法華経の不嘱の面において御書に種々の御教示があります。

 法華経について言えば、広は一部八卷の法華経、略は『方便品』・『寿量品』の両品、要は『寿量品』の文底に秘沈された妙法蓮華経の五字のことです。

 大聖人は『法華取要抄』に、

    「日蓮は広略を捨てゝ肝要を好む、所謂上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字なり」(御書 七三六㌻)

と説かれるように、大聖人は要の法華経を所持して末法に御出現なされたのです。

 釈尊在世・正法時代の衆生は、広く法華経を受持・読・誦・解説・書写するという、五種の妙行を行じました。

 また像法時代の天台大師は略して『方便品』・『寿量品』を重んじて、自らは毎日、法華経の題目も唱えましたが、それを人々のためには説きませんでした。それは第一に、釈尊からの不嘱がなかったからです。

 釈尊は、法華経の会座に居並ぶ弟子たちの誰にも許されなかった末法の弘教と肝要の法門の建立を、地涌の上首・上行菩薩に託されたのです。

 釈尊の滅後二千年を経過すると、釈尊有縁の衆生は次第に少なくなり、やがて成仏のための種子が全くない荒凡夫のみの末法の時代となります。

 この末法の時代に、衆生を救済することができるのは、本法を所持された上行菩薩の再誕・末法の御本仏日蓮大聖人以外にはおられません。

 末法の衆生は、大聖人の御化導に随って、広略の法華経を捨てて、正しい肝要の法華経を受持することにより成仏できるのです。

       ◇     ◇

 以上の三種九部の法華経は、それぞれの異なった立場から、御本仏大聖人の末法出現を明かし、さらには三大秘法の建立を指し示しています。

 すなわち末法流布の法華経は、大聖人の所持された意・種・要の妙法蓮華経の五字であり、成仏のための修行とその功徳の一切は、三大秘法総在の本門戒壇の大御本尊に納まるのです。

 私たち末法の衆生は、この大御本尊を受持することにより、必ず即身成仏できるのです。

 

 

 

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開三顕一

2022年06月07日 | 教学基礎講座(二)

 「大白法」 平成28年6月16日(第935号)

  【教学基礎講座】19

    開 三 顕 一  

一 切衆生皆成仏道の教え ー  

 

 開三顕一とは

 開三顕一とは、読んで字の如く「三を開いて一を顕わす」ことであり、法華以前の声聞・縁覚・菩薩の三乗の教  えを開き、一仏乗の真実の教えを顕わし出すことを言います。

 釈尊はインドに出現し、三十歳に菩提樹下で悟りを開いてより、華厳・阿含・方等・般若等の教えを四十二年にわたり説かれ、最後の八カ年に法華涅槃の教えを説かれましたが、最後の説法である法華経を説くに当たって、法華部の開経である無量義経に、

 「種々に法を説くこと、方便力を持てす。四十余年には未だ真実を顕さず」(法華経 二三㌻)

と説かれ、さらに法華経『方便品』には、

 「世尊は法久しうして後 要ず当に真実を説きたもうべし」(法華経九三㌻)

 「唯一乗の法のみ有り 二無く亦三無し」(法華経一一〇㌻)

等と仰せられて、法華以前の四十余年の爾前経における三乗の教えは方便の仮の教えであり、これから説く法華経の一仏乗の教えこそが真実の教えであると宣示されています。

 釈尊の本懐

 なぜ法華経が真実の教えであるかと言いますと、法華経に初めて一切衆生の成仏の道が示されたからなのです。釈尊は『方便品』の中に自身の出世の本懐について、

 「我本誓願を立てて 一切の衆をして 我が如く等しくして異ること無からしめんと欲しき 

 我が昔の所願の如き 今者已に満足しぬ」(法華経一一一㌻)

と示されました。つまり釈尊は昔より一切衆生の成仏を願われてきましたが、現在この法華経を説くことによって、二乗をはじめとする一切衆生がおしなべて成仏できるのだから、自分の所願は既に満足したのだと仰せになったのです。

 そして、その願いは三世十方の諸仏の共通の願いでもあったのです。

『方便品』には、

 「諸仏世尊は、唯一大事の因縁を以ての故に世に出現したもう」(法華経 一〇一㌻)

と説かれています。つまり三世十方の諸仏はただ一つの重大な因縁・目的をもって、この世に出現したのであり、その唯一の重大な因縁・目的とは、一切衆生が持っている仏の知見(智慧)を開き示し悟らせ、その道に入らしめるため、つまり一切衆生を皆、真の成仏に導くためだったと説かれたのです。これを四仏知見(開・示・悟・入)と言います。

 四一開会

 この四仏知見は、仏の智慧の一切を挙げて法華経に帰一させたのであり、一仏乗の法華経以外には別に仏の智慧はないことを明示されていますから、これを「理一開会」と言います。つまりすべてのものを一つの妙法の円理の中に開会したのです。なお開会とは、開顕会融・開顕会帰の略称のことで、方便の教えを開くことによって真実の教えを顕わす共に、方便の教えを真実の教えの中に融合し会入し帰一することを言います。

 次に釈尊は、「諸仏如来は但菩薩を教化したもう」(法華経 一〇二㌻)

と説き、「人一開会」を示されました。これは、四十余年の方便の諸経においては、声聞・縁覚・菩薩というように人々を差別的に区別して教化しましたが、法華経においてはこのような差別を取り払って、一切衆生すべてを皆平等に法華円教の菩薩、つまり真の仏の子として一仏乗の教えに帰一されたのです。

 さらに釈尊は、

 「諸の所作有るは常に一事の為なり。唯仏の知見を以て、衆生に示悟したまわんとなり」(法華経 一〇二㌻)

と「行一開会」を示されました。これは、仏知見を体得する直道には一仏乗の修行のみがあって、三乗等の方便の諸行がないことを言います。

 次に釈尊は、

 「如来は但一仏乗を以ての故に、衆生の為に法を説きたもう。余乗の若しは二、若しは三有ること無し」

 (法華経一〇三)

と説いて「教一開会」を示しました。これは、仏の教えは声聞・縁覚・の二乗やこれに菩薩を加えた三乗等の教えでは本来なく、ただ一乗の妙法であることを示し、諸乗を法華経に開会したことを言うのです。

 このように理・人・行・教にわたって一乗に開会したことを「四一開会」というのです。

 施開廃の三義

 中国の天台大師は、この開会を説明するために施開廃の三義を立てました。この施開廃の三義とは、為実施権・開権顕実・廃権立実のことを言います。

 為実施権とは実のために権を施すことで、実教である法華経を説くために、四十二年間権教の爾前諸経を説いて衆生の機根を調えられたのであり、あくもでも権教は実教のための方便であることを言います。

 次に開権顕実とは、権の教えを開いて真実の教えを顕すことであり、廃権立実とは権を廃して実を立てるのであり、実教を説き明かした以上、もはや権教は廃亡してなくなり、実教のほかに立てる法がないことを言います。

 法華経と権の教えである爾前経との関係は、施開廃の三義をもって説明できます。また、すべての権の教えが真実の法華経に収まっていく姿は、あたかも幾多の河川が一つの大海に収まることに譬えられます。

 日蓮大聖人は『上野殿母尼御前御返事』に、

  「たとえば大塔をくみ候には先づ材木より外に足代と申して多くの小木を集め、一丈二丈計りゆひあげ候なり。かくゆひあげて、材木を以て大塔をくみあげ候ひつれば、返って足代を切り捨て大塔は候なり。足代と申すは一切経なり、大塔と申すは法華経なり。仏一切経を説き給ひし事は法華経を説かせ給はんための足代なり。(中略)大塔をくまんがためには足代大切なれども、大塔をくみあげぬれば足代を切り落とすなり。正直捨方便と申す文の心是なり。足代より塔は出来して候へども、塔を捨てゝ足代ををがむ人なし」(御書一五〇九)

と、大塔と足代の譬えをもって、法華経と一切経の関係について説明されています。

 

       ◇     ◇

 

 開三顕一は、法華経迹門の教説の中心で、爾前経に絶えて説かれなっかた釈尊の随自意の説法であり、その説相には略開三顕一と広開三顕一があります。

 略開三顕一は、まさにただ仏と仏のみしか判らないもので、それは『方便品』の十如実相によって顕わされた理の一念三千の法門です。

 この法理は、続く広開三顕一の三周の説法(法説周・譬説周・因縁説周)によって明かされ、永不成仏とされた二乗の作仏へと実際に繋がるのです。その初めの法説の中で説かれたのが、五仏同道における四仏知見であり、四一開会です。

 これにより上根の舎利弗が未来成仏の記別を受け、その後、譬説・因縁説によって中・下根に二乗の成仏が説き明かされるのです。

 しかしながら、この開三顕一・理の一念三千の法門もまた迹門の分域であり、本門の事の一念三千の法門からすれば一重劣っています。大聖人は『開目抄』に、

 「迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説いて爾前二種の失一つを脱れたり。しかりといえどもいまだ発迹顕本せざれば、まことの一念三千もあらわれず、二乗作仏も定まらず」(法華経 五三六)

と仰せられているように、本門の教えが説かれて初めて一切衆生成仏の原理である一念三千の法門も確立するのであり、開三顕一の法門も生かされてくるのです。

 

 

 

 

 

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唯一真実の教法 下

2022年06月06日 | 教学基礎講座(二)

「大白法」 平成28年5月16日(第933号)

    【教学基礎講座】18

        法 華 経  

 ー 唯一真実の教法 ー  下

   法華経本門と三益

 

 法華経の特長②

  本門の特長

  ー 久遠実成(開近顕遠) ー

 釈尊は爾前経や法華経迹門において、今から三千年前にインドで誕生し、十九歳で出家、三十歳で初めて成仏したという「始成正覚」の立場で法を説かれましたが、

 法華経本門においては『寿量品第十六』に、

 「我実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由他劫なり」 (法華経四二九㌻)

と説かれているように、久遠五百塵点劫という昔に既に成道していたとする釈尊の本地(仏の真実の境地)を明かされました。これを「久遠実成」と言い、久遠実成が明かされる法門を「開近顕遠」(近を開いて遠を顕わす)と言います。

 釈尊は、久遠実成の具体的な内容を『寿量品』において、本因妙・本果妙・本国土妙の三妙をもって明かされました。

 まず、久遠実成の本果について、

  「我成仏して已来、甚だ大いに久遠なり、寿命無量阿僧祗劫なり。常住にして滅せず」

  (法華経四三三)

と、釈尊が仏果を成じたのは久遠の昔であると明かされ、さらにその仏の寿命は不滅常住であると示されています。

 そして成道の本因について、

  「我本菩薩の道を行じて、成ぜし所の寿命、今猶未だ尽きず。復上の数に倍せり」

   (法華経四三三)

と、久遠の過去における菩薩道の実践にあったことを明かされます。さらに、

  「我常に此の娑婆世界に在って、説法教化す」(法華経四三一)

と、この娑婆世界こそが常住の仏である釈尊の本国土であり、常にこの娑婆世界にあって衆生を教化してきたことを説かれています。すなわち、一切の仏は久遠以来常住の本仏に統一されると共に、一切の国土も本地本仏の住まわれる娑婆世界として説かれました。そして、九界の一切衆生も、本有常住の仏と同体の存在であることが説き明かされたのです。これによって事実の上に一念三千の法門が成立し、衆生の成仏が現実のものとなったのです。

 法華経の特長③

  法華経の付嘱

    ー別不嘱と総不嘱ー

 釈尊は、自身の滅後における妙法弘通のため、法華経において二つの付嘱を明らかにされました。

 付嘱とは相承・相伝と同義で、仏(師匠)が弟子に法を授けて、その法の伝持と弘宣を託すことです。

 法華経の付嘱は、『如来神力品第二十一』の別付嘱と『嘱累品第二十二』の総付嘱で、

 その起こりは『宝塔品第十一』から始まります。釈尊が『宝塔品』で仏滅後の弘経を勧められたことに対し、

 『勧持品十三』では、二乗は娑婆世界以外の国土での弘経を誓願し、迹化の菩薩は此土の弘経を誓願します。また『涌出品第十五』では、他方の国土の菩薩も弘経を誓願しました。しかし、釈尊はそれらを退け、上行等の本化地涌の菩薩を召し出だしました。そして、『如来寿量品第十六』で久遠の本地を明かされた後、『如来神力品第二十一』において、

 「要を以て之を言わば、如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事、皆此の経に於て宣示顕説す」(法華経五一三)

と、法華経の肝要である妙法蓮華経の大法を「四句の要法」に括って、上行等の地涌の菩薩に付嘱されたのです。この付嘱を「結要付嘱」と言い、本化地涌の菩薩だけに限ってなされたので「別付嘱」と言います。

 次いで釈尊は、本化・迹化無量の菩薩に、法華経乃至一切の経々を分に応じて弘通するよう総じて付嘱されました。これを「総付嘱」と言います。

 つまり釈尊は、迹化の諸菩薩には正・像二千年における法華経弘通を付嘱したのみで、滅後末法の弘通は許されなかったのです。したがって、末法においては、「別付嘱」を受けた上行菩薩が出現して法華経の要法たる南無妙法蓮華経の五字七字を弘通されるのです。

 熟脱と下種

 釈尊の説かれた法華経は、仏法の種熟脱の三益に約せば、迹門は熟益、本門は脱益の法華経です。

  大聖人が『秋元御書』に、

 「種・熟・脱の法門、法華経の肝心なり。三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏に成り給へり」

  (御書一四四七)

と仰せられ、また『上野殿御返事』に、

 「今、末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし。但南無妙法蓮華経なるべし」

 (御書一二一九)

と仰せのように、末法の衆生の成仏のために、本因下種の法華経、

すなわち寿量文底の南無妙法蓮華経を受持信行し、弘めていくことが肝要です。

 

      ◇     ◇

 

 法華経の構成

  一部八卷二十八品『無量義経』一巻、

  『観普賢菩薩行法経』一巻を加えて法華三部経または法華経十卷

  『序品第一』から『安楽行品第十四』を迹門と言う。

  『従地湧出品第十五』から『普賢菩薩観発品第二十八』を本門と言う。

 

 法華経の特長

 ①迹門・・・爾前経では成仏できないとされてきた声聞・縁覚の二乗に対し、

       成仏の記別が与えられた(二乗作仏)。

       二乗作仏を中心として一切の九界の衆生が成仏できることが明かされ、

       理論の上に一念三千の法門が確立された。

 ②本門・・・釈尊が久遠五百塵点劫に既に成道していたという本地を明かされる(久遠実成)。

       事実の上に一念三千の法門が明かされ、衆生の成仏が現実のものとなった。

 

 種熟脱の三益

  衆生を得脱させるための化導の始終(順序)として、

  下種益・熟益・脱益が示されている。

  爾前権経には説かれない法華経のみの重要な法門。

  下種益は、仏が衆生の心田に仏種を下すこと。

  熟益は、仏種を成長させて機根を調熟させること。

  脱益は、仏種が実を結び衆生が得脱して仏の境界に至ること。

 

 法華経の付嘱

 ・別付嘱『神力品第二十一』

   法華経の肝要を「四句の要法」に括り地涌の菩薩に付嘱された。

   この付嘱を「結要付嘱」と言い、本化地涌の菩薩だけに特別になされた。

 ・総付嘱『嘱累品第二十二』

   本化・迹化の無量の菩薩に総じて付嘱された。ただし釈尊は、

   迹化の諸菩薩には正・像二千年の法華経弘通を付嘱されたのみで、

   滅後末法の弘通は許されなかった。

 

 

 

 

 

 

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唯一真実の教法 上

2022年06月05日 | 教学基礎講座(二)

               「大白法」 平成28年4月16日(第931号)

                          【教学基礎講座】17

                          法 華 経  

                   ー 唯一真実の教法 ー  上

 

                法華経の構成と迹門まで

             法華経とは

            釈尊は成道を遂げた後、

            四十二年の間、衆生の機根に応じて多くの経々を説きました。

            しかし、

            それらの諸経は「法華経」という最勝真実の教えに導くための

            方便(権(かり)の教え)に過ぎませんでした。

            このことについて釈尊は、

            法華経の『方便品第二』に、

        「正直に方便を捨てて 但無上道を説く」(法華経一二四)と説き、

            また『法師品第十』に、

        「此の経は、方便の門を開いて真実の相を示す」(法華経三二八)と

            説いて、法華経こそが真実無上の教えであることを明かされています。

 

             法華経の構成

             法華経は

            一部八卷二十八品から構成されていますが、

            開経の『無量義経』一卷と、

            結経の『観普賢菩薩行法経』一卷とを加えて、

        「法華三部経」とも「法華経十卷」とも言われます。

         法華経『序品第一』から『安楽行品第十四』までの

            前半十四品を「迹門」と言い、

            後半の『従地涌出品第十五』から『普賢菩薩観発品第二十八』までの

            十四品を「本門」と言います。

         なお、

            法華経は「序分」「正宗分」「流通分」の

            立て分けをもって説法されており、序分とは序論に当たる部分、

            正宗分とは中心となる教法が説かれた部分、流通分とは正宗分の

            教法を後世に流布することが説き示された部分を言います。

 

             法華経の特長①

          迹門の特長         

         二乗作仏(開三顕一)     

            法華経迹門の特長は、

            爾前経では成仏できないとされてきた声聞・縁覚の二乗に対し、

            成仏の記別が与えられたことにあります。

            これを「二乗作仏」と言います。

         法華経迹門『方便品第二』に至り、

        「諸法実相・理の一念三千」の法理が説き明かされ、

           空無の悟りに陥った二乗といえども、

           妙法の真理から隔絶されるものではなく、

           他の衆生と同じく成仏することが可能となりました。

            これは、

           法華経以前に三乗(声聞乗・縁覚乗・菩薩乗)を差別して教導してきた

           教え方を方便として払い、

           法華経こそ

           一切衆生をおしなべて成仏へと導く一乗真実の教えであることを

           略して示しているので、「略開三顕一」と言います。

           そして、

           この開三顕一を広く説き明かしたのが、続く「広開三顕一」です。

        広開三顕一の説法では、まず仏の出世の目的は一大事因縁をもって、

           一切衆生に仏知見(仏の智慧)を開かしめ、それを示し、悟らしめ、

           入らしめて清淨なる成仏の境界に入らしめることにあると宣説され、

           次いで、

           法華経以前に三乗各別の教えを説いたのは

           一仏乗に導くための方便であったことが述べられます。

        そして

       『方便品第二』から『授学無学人記品第九』までの八品にわたり、

           三周(法説周・譬説周・因縁説周)の説法をもって、

           二乗作仏が説き明かされ、

           さらに『法師品第十』において凡夫の成仏、

       『提婆達多品第十二』において悪人・女人の成仏が説かれました。

        ここに二乗を中心とするすべての衆生の成仏が可能となり、

           一念三千の法門が確立したのです。

 

 

          次回は、

                  本門の特長、法華経の付嘱、熟脱と下種について掲載します。

 

 

 

 

 

 

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経典結集

2022年06月04日 | 教学基礎講座(二)

              「大白法」 平成28年3月16日(第929号)

                        【教学基礎講座】16

                        経 典 結 集

                     ー仏教聖典の成立と翻訳ー

              お経とは

                 お経とは、釈尊の教えを綴った書物のことです。

         「経」は、サンスクリット(梵語)の原語で「スートラ」と言い、

            繋ぎ合わせる糸という意味で、「簡単な規則」を指します。

            仏教がインドから伝わってきたとき、

            中国では仏の説法を記した書物であることから、

        「スートラ」の訳語として「経」という漢字をあてました。

        「経」という漢字は

        「たて糸」のことで、「すじみち」とか「ことわり」の意味です。

             お経は、釈尊自らが書き残したものではなく、

           仏の滅後、弟子たちが聴聞した教えを集め、確認し合って

           出来上がりました。

 

            三蔵

            仏教の聖典としては「経」の他に「律」があります。

           律は釈尊の教えを奉じて生活する人たちが、

           守るべき規則や戒を記したものです。

           また後には「経」や「律」の内容を検討し、

           哲学的な解説や思想を説く書物も著されました。

           これを「論」と言います。

           この「経」「律」「論」を合わせて三蔵と言います。

            本来「経」は三蔵のうちの釈尊の説いた教理の部分を指しますが、

           中国や日本では、三蔵を一括して「経」と言うようになり、

           仏教全般を指して、「大蔵経」「一切経」などと呼んでいます。

 

 

            仏典の結集

            釈尊の滅後、

           弟子たちが集まり、教えを正しく残すために、大きな会議が開かれました。

           これを仏典の結集と言います。

           その主なものは、次の四つと言われています。

 

            第一回の会議は、釈尊入滅の年に、阿闍世王の外護のもとに

           摩竭陀国・王舎城の南、畢波羅山の七葉窟において、

           五百人の僧侶が集まって、大迦葉が司会者となり、優波離が「律」を、

           阿難が「法」を暗誦し、順序を整えて整理しました。

 

            第二回の会議は、釈尊入滅後百年の頃、

           毘舎離城において耶舎陀を中心に七百人によって、「律」の合誦を行い、

       「律」を中心として結集を行い、教団の統制を図りました。

           この時、教義と実践の微細な点について異論があり、教団が分裂しました。

           それは、

           保守伝統主義的な「上座部」と、革新寛容的な「大衆部」の二つであり、

           これを「根本分裂」と言います。

           なお、

           この分裂以前を「原始仏教(初期仏教)」

                           以後を「部派仏教」と呼んでいます。

 

            第三回の会議は、釈尊滅後二百年頃、

           阿育王の外護のもとに華氏城鶏園寺において、

           目犍連帝須を中心に一千人が集まって行われました。

           この結果では、

           仏教教義の混濁を正すことを目的とし、

           ここに初めて経律論の三蔵が完成したと言われています。

 

           第四回の会議は、釈尊滅後四百年頃、

          迦膩色迦王の外護のもと、迦湿弥羅国(カシミール)において、

          脇尊者、そして世友を含めた五百人が集まり、

          阿毘達摩大毘婆沙論の編纂をしたと言われています。

 

      以上のように、

         経典結集が進められましたが、結集の年代については、

         釈尊の入滅年代や時代の考証から、いくつかの学説があります。



            伝承翻訳の功労

      『守護国家論』に、

      「如来の入滅は既に二千二百余の星霜を送れり。

          文殊・迦葉・阿難、経を結集せし已後、

          四依の菩薩重ねて世に出でて論を造り経の意を申ぶ」(御書一二七)

          と仰せのように、

          先徳のなみなみならぬ苦労によって、

          今日多くの経典が伝承され、仏の慈悲を身近に拝することができます。

      『撰時抄』に、

      「総じて月支より漢土に経論をわたす人、旧訳新訳に一百八十六人なり。

          羅什三蔵一人を除いてはいずれの人々も誤らざるはなし」(御書八四七)

          と仰せの中に、

      「旧訳新訳に一百八十六人」とありますが、

          これはインドのサンスクリット語を

          中国の漢字に翻訳した新・旧の経典の訳者が百八十六人いたということです。

           この漢訳された経典のうち、

          唐の玄奘以前に訳されたものを旧訳と言い、

          玄奘以後に訳されたものを新訳と言います。

          旧訳が訳経の義意を通じさせることに重きが置かれているのに対し、

          新訳は直訳に重点が置かれています。

       このように、お経の形を整え、

          仏の本意を正しく伝えるために、多くの人々の労苦がありました。

          中でも

          法華経などの大乗経典を翻訳した

          羅什三蔵の功績はたいへん大きいと言えます。

           その訳経の数は、

      『開元釈教録』によると、

          七十四部三百八十四卷(「出三蔵記集」によると、

          三十五部二百九十四卷)にのぼり、代表的な翻訳には

          大品般若経・維摩経・大智度論・中論・百論・十二門論などがあります。

          特に法華経の翻訳については

          最も心血を注ぎ、五百人の訳経僧を指揮して訳出したと言われています。

       羅什三蔵は、

          仏法の所伝の正しさを証明するため、次のように語ったと言われています。

      「自分は闇愚であって、しかも不浄の身をもって訳経した。

          自分が死んだら必ず火葬にせよ。もし仏法の所伝に誤りがないならば、

          身は焼けても必ず舌は焼けないであろう。

         もし舌が焼けたならば、我が訳経も捨てよ」と。

          羅什三蔵の死後、遺言に従って火葬したところ、

         舌のみが焼けずに火中の青蓮華の上に遺り、

         五色の光を放ったと伝えられています。

      『兄弟抄』に、

      「旧訳の経は五千四十八卷なり。新訳の経は七千三百九十九卷なり。

       (中略)然るに法華経と彼の経々とを引き合はせて之を見るに

           勝劣天地なり、高下雲泥なり」(御書九七七)

           と仰せられていますが、

           多くのお経が伝承されている中で、

           仏の本意とする真実の教えは法華経であることを、

           私たちは銘記しなければなりません。

 

 

 

 

 

 

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五時教判について

2022年06月01日 | 教学基礎講座(二)

         「大白法」 平成28年2月16日(第927号)

               【教学基礎講座】15

                 五時教判について

               ー法華経は超八醍醐の教えー

 

    天台大師は、

   インドから数百年をかけて渡ってきた

   膨大な経典群を分類・整理するため、

   化法の四教・化儀の四教の八教と、五時の教判を説かれました。

    八教の教判が、

   釈尊一代の説法の形式・内容を平たく分類したものであるのに対して、

   五時教判はさらにこの説法を時間的に区分・判釈したものと言えます。

    なお、

   天台大師はこの五時を説明するに当たって、

   その意義と理由について、涅槃経の「五味」、華厳経の「三照」、

   法華経「信解品」の「長者窮子」の譬喩を用いて詳しく説明しています。

 

    一、 華厳時

    第一の華厳時は、

   華厳経六十巻が説かれた時期を指し、

   釈尊が中天竺摩竭国伽耶城 南の菩提樹下で成道し、

   三七日の間思唯 ・説法した時のことを言います。

     華厳経は、

   詳しくは大方広仏華厳経と言い、

   教義の浅深から 言えば般若教よりも勝れ法華経に次ぐもので、

   大乗教中でも傑出した経典です。

   ここで釈尊は、別教・円教という高尚な大乗の法を説き、

   衆生の仏道に対する能力機根を測られました。

    天台の三照譬では、

   華厳経のことを「日が初めて出て高山を照らす」のに譬えていますが、

   これは

   悟りを目前にした大菩薩たちに対して

   厳然と説かれた姿を形容したものです。

   その結果、これらの大菩薩たちは華厳の説法を聞いて、

   その教えの中の実相をつかみ利益の醍醐味を味わいましたが、

   舎利弗等の声聞には、

   聾の如く唖の如き状態で、

   全く教法を理解することができませんでした。

   これは法華経の長者窮子譬では、

   長者が立派な姿をした使人を窮子に 近づけ逃げられたことに該当し、

   擬宜(よろしきところをおしはかる)に譬えます。

 

    二、阿含時

   第二の阿含時は、別名を鹿苑時とも言い、波羅奈国鹿野苑において

   十二年間、長阿含・中阿含・増一阿含・雑阿含の四阿含等の

   経々を説いた時を指します。

   阿含の擬宜によって釈尊は、声聞・縁覚の二乗の機根の低さを感じ、

   これらの衆生の機根を整えるため

   最も低級な蔵教を内容とする四阿含の小乗経を説きました。

   ここでは主に四諦・十二因縁の教えがと説かれ、

   灰身滅智という仮りの悟りに入る道が示されましたが、

   これはあくまでも阿羅漢という小果であって、

   大乗の成仏の悟りから比べればはるかに低いものです。

   これは、

   三照譬では、幽谷を照らすことに、

   また長者窮子譬では、窮子との直接交渉に失敗した長者が、

   粗末な身なりをした使人を遣わして

   長者宅の便所掃除の職務に就かせたことに当たり、誘引に譬えます。

 

    三、方等時

    第三の方等時は、

   欲界と色界の中間の大宝坊等の 各所における説法で、

   十六年とも八年等とも言われています。

   方等の方とは広と訳し、等は均しいの義ですから

   「広く諸経を説き均しく衆生に施す」ということで、

   大乗のことを指します。

    つまり、

   阿含の小乗経を説いたあと釈尊は、優れた種々の大乗の教えを説き、

   浅い小乗から深い大乗へと導いたのです。

   この部に所属する経は、

   思益経・金光明経・勝鬘経・解深密経・楞伽経・首楞厳経

   ・無量寿経・大日経・維摩経等と膨大な数に及び、

   その教理も蔵・通・別・円の四教全体にわたっています。

   特にこの中の維摩経は、

   維摩居士が舎利弗等の声聞を弾劾・呵責し、

   灰身滅智の小を恥じ大乗を慕わせる(恥小慕大)教えを説いています。

   これは、

   長者窮子譬の中で

   長者が窮子の小根性を叱りつけて向上させる過程を指し、

   弾呵(はじき叱りつける)に相当します。

   また三照譬では、

   平地を照らす中で一番日の低い食時(午前八時)に譬えられています。

 

    四、般若時 

    第四の般若時は、

   摩竭提国王舎 城の霊鷲山・白鷺池・他化自在天宮等の四処に

   おける説法で、十四年とも二十二年等とも言われています。

    般若とは、

   仏の清淨な智慧のことを言い、悟りを得るためには自分自身の

   仏道の実践により智慧を磨くことが大事であると教えています。

   またここでは、小乗の執着から覚めた衆生に対し、

   通・別・円の三教をもって般若の空を説き、大乗と小乗を対立的に

   考えていた方等時の執情を一切空の立場から否定し、

   本来すべてが大乗であることを示しました。

   これは、長者窮子譬では、

   長者が窮子に対して我が子のように接し重要な役を与えることを指し、

   淘汰(選り分け精選する)に当たります。

   また三照譬では平地を照らす中の寓中(午前十時)に譬えられます。

   この般若時の説法によって、

   衆生の機根を実大乗を聞くに堪えられる状態に調えられ、

   いよいよ出世の本懐である法華経を説かれるのです。

 

    五、法華・涅槃時

    第五の法華・涅槃時には前番と後番とがありますが、

   前番を法華時と言い、霊鷲山における八年の説法を指します。

   そして後番を涅槃時と言い、

   枸尸那竭羅国の跋提河の畔の沙羅林における

   一日一夜の説法を言います。

    法華時において、

   今まで説いた声聞・縁覚・菩薩の三乗の教法を開き廃して、

   一仏乗の教えを説き、一切衆生成仏の道を示されました。

   これを法華の開会と言います。

    法華経は化法の四教でいえば、

   一切の経々の中でこの経だけが純粋な円教で、

   化儀・化法の八教を超越した最高の教えであることから

   「超八醍醐」の教えと言われています。

   醍醐とは、醍醐味のことで、

   牛乳から精製して最後に完成する

   色香味のすべてに勝れた妙味の食物を言い、

   涅槃経には一切の病を消滅する妙薬と説かれています。

   つまり

   仏を牛に譬え、仏の説法を牛から出る牛乳に譬えます。

   その牛乳を精製すると

   酪味になり、それがさらに生穌味、熟穌味となり、

   最後に

   醍醐味の妙味・妙薬になるように、

   仏の教法も華厳から阿含、方等、般若を経て

   最後の法華・涅槃の経が極説の醍醐味となるのです。

    この法華経は、

   長者窮子譬では、

   長者が窮子を我が子であると開顕して家業を継がせることに当たり、

   三照譬では正中(正午)といって

   一番高い位置から平地を遍く照らし出すことに譬えます。

   なお、

   法華時の中で、

   前番の法華経は一切衆生を成仏せしめるところから秋の大収穫に譬え、

   後番の涅槃経は

   法華経の成仏に漏れた衆生に改めて法華一乗の立場から四教を説いて

   成仏に導くものですから落ち穂拾いに譬え、捃拾教と称しています。

 

        ◇     ◇

 

    この天台大師の五時の教判によって、

   釈尊の一代の教説は法華経を根本に整理され、体系づけられました。

    日蓮大聖人もこのところから『教機時国抄』等に、

   天台大師ただ一人だけが教を知る者であるとして、

   高く評価なされています。

   そして

   この天台の教判は、

   大聖人の仏法にあっても重要な法門の基礎として依用されているのです。



    釈尊一代の教説

  五時   ー  五味 ー 窮子譬 ー 三照  ※譬え

 ・華厳経  ー  乳味 ー 擬宜  ー 照高山 ※高山を照らす

 ・阿含時  ー  酪味 ー 誘引  ー 照幽谷 ※幽谷を照らす

 ・方等時  ー  生穌味 ー 弾呵 ー 食時  ※平地を照らす

 ・般若時  ー  熟穌味 ー 淘汰 ー 禺中  ※平地をてらす

 ・法華・涅槃時 ー醍醐味 ー 開会 ー 正中  ※平地を照らす

 

 

 

 

 

 

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四教と三諦円融

2022年05月30日 | 教学基礎講座(二)

「大白法」 平成28年1月16日(第925号)

  【教学基礎講座】14

     四教と三諦円融 

ー法華経こそ真実円融の法ー

 

 天台大師は釈尊の説法を五時八教によって判釈しました。この五時八教の八教は、大きく二つに分けられます。 説法の形式によって分類したものを化儀の四教(頓・漸・秘密・不定)と言い、内容・教理の面から分類したものを化法の四教(蔵・通・別・円)と言います。これらは薬の調合の仕方(化儀)と薬味(化法)に譬えられます。

 私たちは衆生が様々な迷いを生じて悪道に沈むのは、煩悩という妄心によって真理である空・仮・中の三諦に迷うからであり、釈尊が仏教を説かれたのも、三諦の原理によって人々を救おうとされたからです。

 しかし、仏の悟りである三諦の理は実に難解なので、 釈尊は方便を用いたり、あるいは真理を頓ちに説き示したり(頓)、浅い所から深い所への漸次に説いたり(漸)、また衆生の根力に従って顕露不定教を説いたり(不定)、 同じ法座にいながら聞くものによって説法の内容が異なって聞こえるというような、他の者がどのような説法を聞いているのか判らないように個々に対して法を説く秘密不定数(秘密)を用いたりしたのです。

 これらの手段によって説かれた四教について説明してみましょう。

  蔵 経

 蔵とは、経・律・論の三蔵を意味します。竜樹菩薩が『大智度論』で大乗に対する小乗を三蔵と論じ、また法華経『安楽行品』にも「小乗に貧著する三蔵の学者」とあるところから、小乗の教えを蔵教と言うようになりました。 

 ここでは、見思の二惑が真理としての空理を蔽い隠す煩悩であるとして、欲界・色界・無色界の三界六道の因果を説き、声聞には四諦の法、縁覚には十二因縁、菩薩には六波羅蜜という修行によって三界から解脱する空理を悟ることが究竟の涅槃であると説きます。

 蔵教では、衆生個々を含め、三界の諸法はことごとく因縁離合の力によって生滅するものであると説きます。その実体は本来、「苦・空・無常・無我」なのですが、衆生はみだりに実我実性があると執着するために、得ては喜び、失っては悲しみ、いつも煩悩を起こして妄業を作り、その結果、未来に苦果を招いてしまうのです。 ですからその一つ一つを分析して、最終的に空を観ずるという析空観を修行すれば、煩悩を断じ除くことができると説くのです。

 しかし、 このような空は現実を否定する空の一遍のみの教えであることから但空とも言い、他の仮・中の諦理との間に繋がりがない偏った空理、すなわち偏空の教えとされています。 

 通 教

 通とは、空の理が前の蔵経と所詮は同じであることから通同、また後の高度な別教・円教に通じているので通入と言い、そこから通教と言います。

 ここでは、蔵教と違って直ちに道理を基礎として見た空理を立てます。 すなわち因縁即空・無生無滅の法理によって、万有の諸法とは直ちに空であることを説くのです。これを体空と言います。

 しかし、また当体即空と説く当体には、 凡夫の主観を基にして生じた相を一端は認めておいて、それを通教の教理によって三界の諸法はそのまま即空であり、無生無滅であるとするのです。故に、そこには自ずと有の存在を含んでいるということになり、これを蔵教の但空に対して不但空とい言います。

 通教では、二乗や鈍根のの菩薩は灰身滅智と言って、煩悩の源となる自分の身を灰にする無余涅槃を最高の境地としますが、利根の菩薩は、さらにこの空理の中に深く含まれている中道の理を見出して、後の高度な別円二教の悟りにも通入します。 これを被接と言います。

 別 教

 別教の別とは、先の蔵通二教とも後の円教とも異なるという意味です。

 ここでは、ただ空理だけを明かすのではなく、広く空仮中の三諦を明かし、さらに三界六道の外(界外)の因縁の相をも明かして、菩薩が仏果をめざして進む長期の修行の因果を説きます。

 しかし、この三諦は離歴三諦と言われます。 空諦・仮諦はそれぞれ別々のものであり、真如である中道も、空仮の二辺を離れた但なる中であるところから但中と言われ、教えの上では先の通教と共に方便説を帯びた権大乗の分域を脱することができません。したがって、その修行方法も次第三観・隔歴三観が説かれます。

 ところが、実際にこれに従い、空観・仮観と離歴の修行を積み、中道観を修行する初地という位にまで登ると、そこには別教で説かれる但中の理(空諦でも仮諦でもない純浄無垢な真如中道)が現れるのではなく、自然と円教の教理の中へ入っていくことになります。 このように初地以上の位の人が円教の人となり、現実には修行者がいなくなってしまうことを有教無人と言います。

 円 教

 円とは、 偏ることがない完全な者という意味です。

 別教の説では、真如と現象界とを純浄無垢と無明妄染とにはっきりと分けていますから、修行も次第・隔歴して真如中道を求めることになります。

 しかし、円教では真如中道の理に、本来宇宙法界の万有の本性を具し、常に一体不二であって、そのどちらかが先に現れたり後に帰入するというものではないので不縦と言い、またことごとくが真如以外のものではないから不横と言います。

 また空仮中の三諦円融は、法体に別なく隔たりなく、しかも凡夫の思議が及ぶところではない故に円妙と言い、もとより諸法を具えて欠けるところがないので円満と言い、一法に万法を収めるので円足と言い、先後の別なく次第に経て修行成就するものではないので円頓と称されます。

 さらに智円と言って一切智・道種智・一切種智の三智の相が一体であることや、行円と言って一行は即一切行であること、位円と言って初位に一切位の功徳があることなどが説かれ、不遍の円理、即空即仮即中、中道即一切法の理が明かされるのです。

 このように円教では真理を説き示す教相法門の全面に「円融」という思想が徹底され、修行の面における観心門においても「円頓」と言って、一心三観の妙修が説かれます。 これに至って初めて、仏の悟りは煩悩即菩提、生死即涅槃、娑婆即寂光の妙理であること示されるのです。

 真の円教

 爾前の円と、法華の円との相違について、天台大師は三種の教相を明かす中に、約教・約部の法門として示しています。

 すなわち約教・約部の両時に前三為麁・後一為妙ありとして、約教の時は蔵・通・別の三教は方便の教えであり、円教のみが真実の教えであるとしています。 これは今まで述べてきた四教の内容そのままの意味です。また、約部とは、五時判に配して勝劣を判断する立場ですから、華厳部には別円二教が説かれ、方等部には蔵通別円の四教が説かれ、般若部にも通別円の三教が説かれているのです。

 しかし、法華経の円と比べたときに、法華経以前の三教(華厳・方等・般若)は方便の教えを帯した円であり、後の一教(法華経)のみ純円一実の教えであると厳格に判ぜられています。つまり、三諦円融の法門は、法華経が説かれて初めて真実のものとなるのです。

 天台大師はこの法華経によって理の一念三千の法門を示し、大聖人は末法の御本仏として、その本門『寿量品』の文底に秘沈された妙法を事行の一念三千たる本門戒壇の大御本尊として御建立されたのです。

 私たちはこの御本尊をひたすら受持信行するところに、自ずと三諦円融の妙理を体得し健全な人生を歩むことができるのです。

 

      ◇     ◇

 

 化法の四教と空仮中の三諦

  蔵経:空(析空、但空)

  通教:空(体空、不但空)

  別教:空仮中(隔歴の三諦、但中)

  円教:空仮中(円融の三諦、不但中)

※法華経以前の教えに説かれる円は方便の教えを帯びたものであり、法華経のみ純円一実の教え

 

 

 

 

 

 

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三諦について

2022年05月29日 | 教学基礎講座(二)

「大白法」 平成27年12月16日(第923号)

 【教学基礎講座】13

  三諦について 

ー真実の姿を明らかにする方法ー

 

 三諦とは何か

 物事の真実の姿は、一方の面だけで見極めることはできません。また、対立する二つの面だけで、全体的な把握をすることも完全ではありません。

 そこで、対立する二面いずれにも偏ることなく、両方を融合して真実の姿を明らかにする第三の面が必要となります。

 天台大師は、諸法の実相を明らかにする方法として、この三方面を「空仮中の三諦」として説き、さらにこの三諦を修行することによって苦の根源である見思・塵沙・無明の三惑を断ずることができると説きました。 

 「諦」とは審諦とも言い、「つまびらか」「あきらか」ということであり、真実不虚の義で、仏の悟りによる真理を意味します。

 この三諦の名は、『仁王経』の「二諦品」に出ていますし、空仮中の名は、『菩薩瓔珞本業経』の「賢聖学観品」と『中観論』の「四諦品」に出ています。

 ちなみに、中国の慧文禅師は『中観論』の、

「因縁所生法 我説即是空 亦為是仮名 亦是中道義」

いう四句によって三諦の妙旨を悟ったと言われ、それを弟子の南岳大師に授け、さらに南岳から天台大師に伝えられたと言われています。

 三諦の特徴

〈空 諦〉

  「空」の字は一般的に「うつろ・ない・欠けた」という意味に理解されていますから、「空とは無(非存在)」 と考えがちですが、仏教では精神のあるものも、ないものも、一切世間のものはすべて因縁によって生じており、因縁によって生じる事物は、それ自体に実体はないとし、 これを空と説いています。つまり、一切の事物には実体がないという真理を空諦と言うのです。

 天台大師は、小乗仏教の説く空は、存在を分析して空であることを観ずる 析空観であり、大乗仏教の説く空は、 存在そのものを直ちに空と観ずる体空観であると説いています。

 また小乗は、空のみを見て不空を見ないから但空と言い、大乗は一切の存在を空であると見ながら、同時に空でない仮諦・中諦の面も見るので不但空と言います。

〈仮 諦〉

 仮諦とは、 いかなるものも、実在はしないけれども、現実には、その姿がはっきりと現れていることを言います。

 仮とは「仮に想定されたもの」のことであり、実在しないけれども比喩的な意味で「存在する」と説くことです。故に、実体性はないものの、現象として仮に存在する意味として用いられています。 現象としての諸法が仮であることは『大品般若経』に、

 ①物体は多くのものが集まって作り上げられている(受仮)

 ② 法そのもの法、因と縁とによって生じたものである(法仮)

 ③すべては名 のみであって、実体のないものである(名仮)

の三仮が説かれ、あらゆるものに自性(もの自体の本性)のないことを示して、凡夫のとらわれを破しています。

〈中 諦〉

 中諦とは、仮諦と空諦の二辺に執着しない中正の真理を言います。

 つまり、すべてのものは、因縁によって仮に存在しているに過ぎない故に空である。空という固定的な体もない故に、空もまた空と言えます。したがって、仮と空を共に否定し、空と仮を共に立てて偏執のないところに真実がある、というのを中諦とも中道とも言います。

 この中道は、二者の中間というような折衷的な考えでなく、空諦と仮諦の両面を包摂したところの真理ということができます。

 この中道を四教(釈尊の教えを蔵経、通教、別教、円教の四つに分類したもの)の上に見るとき、蔵経には中道が存在しないので「夢中」と 言い、通教は中道を含むので「含中」、別教は単独の中道しか説かないので「但中」、円教は三諦円融の中道を説くので「不但中」と言います。

  隔歴三諦と円融

 この三諦の見方には二つあります。

 一 には、三諦各々を個々に独立した真理として考える別教の「隔歴の三諦」です。

 二には、三諦の孤立性を廃して、一諦のうちに互いに三諦を具えて、各々が即空・即仮・即中であると立てる円教の「円融の三諦」 です。

  「隔歴の三諦」とは、次第三諦と言います。空仮中の三諦が 各々別であって、空諦は空であって仮・中ではなく、仮諦は仮にして空・中ではない、 中諦は中であって空・仮でない、という意味であり、別教で説く教えです。

 これに対し、「円融の三諦」は、空仮中の三諦が互いに融け合い、 三諦の各々が他の二諦を互いに具することで、空諦そのままが仮諦・中諦であり、仮諦そのままが空諦・中諦であり、中諦そのままが空諦・仮諦であると説きます。

 この「円融三諦」の法理を円教と言いますが、天台大師は、この円融三諦を領解し感得するために一心三観の修行を立てました。

 三観とは、三諦を観ずることを言い、 衆生の一念がそのまま円融の三諦であると、明らかに観ていくことです。

 この一心三観によって覚知する法理が一念三千です。

 『御義口伝』には、

 「円融三諦は何物ぞ。所謂南無妙法蓮華経是なり。此の五字は日蓮出世の本懐なり」(御書 一七二九㌻)

と示されています。

 日蓮大聖人は、天台の立てる一念三千を理観であるとし、末法の衆生を直ちに悟りの境界へと達せしめる事行として、三大秘法の大御本尊を確立されたのです。

 

       ◇    ◇

 

 三 諦】

 

  「空 諦」

   一切の事物には実体がないという真理

       一切世間のものはすべて因縁によって生じており、

    因縁によって生じる事物は、 それ自体に実体はないとし、 

            これを空と説く。 

 

   「仮 諦」

   いかなるものも実在はしないけれども、現実にはその姿が現れていること

       実体性はないものの、現象として仮に存在する意味。

     あらゆるものに自性のないことをし示して、

     凡夫のとらわれを破している。

 

  「中 諦」

   仮諦と空諦の二辺に執着しない中正の真理

       仮と空を共に否定し、空と仮を共に立てて、

         偏執のないところに真実がある。

            空諦と仮諦の中間というような折衷的な考えでなく、

       両面を包摂したところの真理。

 

 

 

 

 

 

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中道

2022年05月26日 | 教学基礎講座(二)

「大白法」 平成27年11月16日(第921号)

【教学基礎講座】12

    中    道 

  ー真実の智慧と実践ー

 中道とは何か

 中道の基本的な意味は、物事がすべて因縁によって生滅するという仏法の正しい智慧に基づいて、「苦楽」「有無」「断常」等の物事の両極端にとらわれず常に不二中道を歩むということです。古い経典(修行道地経) の中に、仏法の中道に関した次のような「鳥の譬え」あります。

 ある王宮で毎日のように多くの鳥が捕らえられて、その中で大きく太ったものから順番に食膳に供されていました。その中の一羽の鳥がこの様子を見て、心中密かに「自分もあまり食べ過ぎて肥満になれば、必ず殺されて食われてしまう。とは言っても食べずにいては死んでしまう。どちらにしても死からは逃れられない。とにかく今のままで、できる限り長生きをするために、ほどよい節制をして適量を食べることにしよう」と考えたのです。

  その賢い鳥は、その日から直ちに適切な減量を実行しました。その結果、自分の体がちょうど鳥かごの網の目を通り抜けるまで痩せたため、そこから大空に飛び出して自由になることができたといいます。(趣意)

 私たち凡夫も、往々にして自分の置かれた危機的状況を正しく理解できずに、目先のことだけに固執するような愚かな鳥のように振る舞うことがあります。現実の問題として、 私たちの中に極端な利己心や執着心がある場合、仏法の中道を実現することは容易ではないのです。

 したがって、中道の知恵を持って我が身を照らす、物事に対する両極端を反省することによって中道を目指す糸口が見つかるのです。

 中道の特長

 釈尊は物事の極端が二辺を捨てて中道を悟りました。その中道とは正しい智慧であり、正しい実践であり、正しい真実の姿であると言えます。

 仏教において「諸行無常」「生老病死」と説かれているように、私たちの現実世界は静的なものではなく、物事の状態は絶えず変化していきます。

 その変化の状況の中で収納を実践するためには、全体を正しく見極める智慧と、そこから正しい回答を選択する批判的な智慧という 二つの性格を持った「中道智」が必要です。

 また極端な執着を持てば中道智は発揮されませんから、中道智は般若の智慧(空の智慧)も有していると言えます。

 以上の点に中道の特長が見られますが、この中道を実践することによって調和のとれた自由自在の境地が得られるのです

 中道の種々の立場

〈苦楽中道〉

 釈尊は五人の苦行者に苦楽中道の教えを説かれました。その苦楽中道とは苦行と快楽との極端な二辺を離れた中道のことです。人生の苦楽両方において極端に走ることなく中道の智慧をもって適切な行為をしていけば、苦楽中道の快適な生活を営めるのです。

 仏教説話の中の琴の譬え(箜篌の譬え)で、釈尊は苦行者ソーナに次のように説いています。

釈尊「ソーナよ、お前が家にいた時、琴を習ったことはあるか」

ソーナ「はい、習いました」

釈尊「琴を弾くとき、琴の弦を強く張れば良い音が出たか」

ソーナ「いいえ、弦をあまり強く張りすぎては、良い音は出ないものでございます」

釈尊「それでは、弦を緩めたほうが良い音が出るか」

ソーナ「弦を緩め過ぎても、やはり良い音はいたしません」

釈尊「琴を弾くときでも、弦を緩め過ぎず、程良く調子を整えれば良い音が出たというのだな」

ソーナ「はい、おっしゃるとおりでございます」

釈尊「ソーナよ、修行も琴と同じことだ。努力が過ぎても執着を生じる。 緩め過ぎても怠慢を生じるものだ」

この言葉に、彼はうなずいた。それを見て釈尊はなおも言葉を続けた。

釈尊「道を求める場合は執着し過ぎず、そうかと言って怠らず、緩急のよろしくを得ることこそ大切なのだ」

(律蔵大品五・仏教説話大系 二−二八六㌻参照)

 〈有無中道〉

 中道は種々の立場から説明されますが、知的な立場からは有無中道が説かれます。 釈尊の教えの根底には、因縁(因果)の道理が貫かれています。その仏教の因縁(縁起)説においては、有と無という二辺に偏った見解を排除し、「有に非ず無に非ず」という道理を「有無中道」と言います。有無中道を持ち合わせているとも言えます。

  例えば、私たちは有に執着をして、自分の若さや財産がいつまでもあると思っていますが、それらの存在は壊れやすいもので、あるように見えても固定的実体としてあるのではないのです。そのことは老死に直面すれば誰にでも理解できることです。

  また一方、無に執着をして有無中道の無を、虚無の意味に捉えることも誤りです。それでは虚無主義に陥ってしまい、真実の智慧とはなりません。

 世間の物事は因縁和合して存在していますが、そこには有と無の両面の性質があると正しく見通すことが有無中道の教えなのです。

 〈八不中道〉

  インドの論師である龍樹は、 釈尊の説いた中道の意味をさらに、不生・不滅・不常・不断・不一・不異・不来・不去の八不中道によって示しています。この中の不生・不滅について言えば、現実の生滅の世界がそのまま不生・不滅の世界であると見極めるのが八不中道の教えです。

  例えば、 植物の種を土に蒔いたら芽が出たといいますが、芽が出た時には既に種は水分と栄養を吸って芽に変化しています。ここでは芽から見れば「生じた」ことになりますが、同時に種から見れば「滅した」ことにもなるのです。つまり「生」「滅」のどちらかに偏った見方をすれば種と芽との関係でも判るように、物事の不生・不滅の中道の姿をとらえることができないのです。

 このように八不中道の教説も、不生・ 不滅等の八不の立場から中道の一面を正しく説明しているのです。

  法華経の中道

  以上のように、中道の意味を種々の立場から述べてきましたが、法華経で説く中道とは、諸経で扱う部分的な中道ではなく、仏法の中道の全体を明らかにした円融三諦の中道のことです。

 天台大師は『摩訶止観』に、

「譬えば明鏡の如し。明は即空に喩え、像は即仮に喩え、鏡は即中に喩え。合に非ず散に非ず、合散宛然なり」(摩訶止観弘決会本ー上 二〇五㌻)

と円融三諦を説明しています。

 つまり、鏡があらゆるものを映し出すのは空諦であり、鏡に映る万物の像は仮諦であり、鏡それ自体は空諦も仮諦も具足した中諦(中道)であると説いているのです。

 天台大師は、法華経の円融三諦の上から、凡夫の心を対象とした観心修行を説き、凡夫の心の中にある真実中道の理を妙法と見なしたのです。

        ◇    ◇

 しかし末法の私たちは、凡夫の心を対境とする天台過時の観心修行をしても、妙法の功徳を得ることはできません。末法の観心は、御本仏の御当体たる大御本尊を直ちに信じて下種の題目を唱えることです。

 大聖人は『御義口伝』に、

「一とは中道、大とは空諦、事とは仮諦なり。この円融三諦は何物ぞ。所謂南無妙法蓮華経なり。この五字は日蓮出世の本懐なり、之を名づけて事と為す」(御書 一七二九㌻)

を仰せられ、法華経「方便品」に諸仏出世の本懐を一大事因縁と説きますが、その本義は空仮中の三諦を円融相即した 本門の大御本尊にあると教示されています。したがって、この大御本尊を根本とした中道を拝する修行こそが、正しい成仏の道となるのです。

 

 

 

 

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小乗と大乗

2022年05月21日 | 教学基礎講座(二)

「大白法」 平成27年10月16日(第919号)

【教学基礎講座】11

 「小乗と大乗」

 ー苦海の海を漕ぎ渡る船ー

 これまで仏教の基礎的なことについて述べてきましたが、それらをまとめる意味で、今回は小乗と大乗について述べてみましょう。

 この「乗」とは乗り物の意味で、仏の教えは人々を迷いの此岸(現実界)から悟りの彼岸(理想界)に渡す乗り物ですから、 仏教を乗り物に譬えて「乗」というのです。

  小乗の教え

 小乗とは劣乗ともいい、小さな乗り物、 劣った乗り物という意味です。これは自分だけの悟りや救済を目的とした、小根性の者が乗る自利の教えですから小乗と言うのです。天台大師の判釈によれば、釈尊が十二年間にわたって説かれた阿含経で、経・律・論の三蔵を説いたものを小乗教と言います。

 この経・律・論の三蔵とは、経は四阿含経、律は四分律・摩訶僧祗律・五分律等、論は六足論・発智論・大毘婆沙論等で、それらを所依として日本で成立した宗派が、倶舎・成実・律の三宗です。

 大乗の教え

 大乗とは音訳して摩訶艷衍とも言い、大きな乗り物、勝れた乗り物の意味で、こちらは小乗の教えのように自らの悟りや救済を求めるだけでなく、他の人々をも広く救済し仏道を得させる大根性の者が乗る自覚覚他(自ら悟り他を悟らせる)の教えです。

 この大乗の教えも、大聖人が五重の相対判で示されるように、権大乗教と実大乗教とに分かれます。ここでは一往、大乗一般について述べることとします。

 小乗と大乗の対立

 釈尊滅後、弟子たちはその教えをどのように習い伝えるかについて、保守的態度をとった上座部と、進歩的態度をとった大衆部とに別れました。前者は教えや戒律というものを文字通りに解釈して伝統を重んじようとし、後者は文字に囚われずに仏の教えの真意を把握し、その精神を顕わそうとしたのです。

 これらを総称して部派仏教といいますが、次第に形骸化して,仏教本来の宗教的立場を失ったために、この両者の対立の中で大衆部を中心として、仏教をより思想的に高度に掘り下げ、釈尊本来の精神に復帰させようとしたのが大乗仏教です。

 この大乗仏教の立場から、それ以前の上座部系の仏教を指して、軽蔑の意味で命名したのが小乗であり、自ら小乗とは言いません。

  小乗と大乗の相違

  そこでもう少し詳しく両者の教えの違いについて、その主なものを示してみましょう。

 

  一、 声聞乗と菩薩乗

 小乗を声聞乗、大乗を菩薩乗とも言います。 小乗仏教では、仏である釈尊に対し、弟子たちはただ仏陀の教えを聞き、それに従って終了しますが、決してその修行によって佛陀となることはできず、せいぜい声聞の最高の悟りである阿羅漢果や辟支仏果を得られるに過ぎないとされます。

 さらにこれは、あくまで自分だけの完成や解脱のために修行するという、自己中心的な教えとも言われます。

 これに対して、大乗仏教では「一切衆生悉有仏性」の立場から、どんな人でも菩提心を起こせば菩薩になることができ、その請願と自覚をもって六波羅蜜等の修行を積むならば、誰でも仏になることができると説くのです。たとえ今生に叶わなくとも、未来には必ず仏になることができるとされます。

 ですから、大乗仏教は一切衆生を救済し社会全体を浄化向上させる、自利利他の教えと言えるのです。

 二、有と空

 部派仏教はアビダルマという綿密な教学を研究しました。アビダルマとは「論」や「対法」などと訳されますが、これは「法に対するもの」の意味で、法とはここでは仏の説法としての経典を指しており、経典に対する説明・注釈・研究などを言います。

 釈尊は当時の外道が問題にしていた「何があるか」というような実体の有無(存在論、実在論)によっては、人間の苦悩を解決することができないとして、有(存在)について問題にすることを禁じていました。 しかし、このアビダルマではそのことを論じています。

  本来仏教が主眼としていることは、私たちが存在するか否かではなく、私たち人間に関わる生滅変化の現象なのです。 その現象が 「いかにあるか」(状態)、それを私たちは「いかにすべきか」「いかに対処すべきか」(態度)ということです。これを縁起説と言い、四諦・八正道や十二縁起などの仏教の基本法理は、すべてこれを説いたものです。

 このように、大乗仏教は「偏空」に囚われた小乗の教えを破して、般若の空を強調し、法華経で説く中道実相を明かす三諦円融観には及ばないまでも、釈尊の教え本来の正しい縁起説を復活させたのです。

  大乗仏教成立の意義

 以上のことからも判るように、小乗の教えは理論のための理論が多く、仏教本来の目的から遊離したものでした。

  これに対して大乗の教えは、より信仰的 ・実践的でありながら、その説かれる教理の内容は、小乗教では遠く及ばない高度なものです。

 釈尊滅後から大乗仏教に至るまでの思想的展開を見たときには、上座部系統のいわゆる小乗教は、仏教を部分的に据えた見方であり、大衆部の立場から興ってきた大乗仏教こそが、一切衆生の救済を目的とした釈尊のまことの精神を伝えるものと言えます。

   大聖人の大小相対

    大聖人の大小乗に対する判釈は、一般的な相対判としての御文は、それほど多くありません。 それは大聖人の弘通される仏法は、大乗の中にも実大乗、実大乗の中でも本門寿量品、さらにその文底下種の本門にあって、一般的な大小の相対は、既に解決済みだからです。

 『 観心本尊抄』の文底下種三段を明かす御文の中で、「一品二半よりの外は小乗教」と示されるように、法華経の本門文底下種の立場から見れば、内証の寿量品によって説き顕わされる本因下種の南無妙法蓮華経こそ唯一の大乗であり、その他の権・迹・文上本門も、ことごとく小乗教とみなされるのです。ですから真の大乗の教えは、末法出現の大聖人を待たなければ、明らかにならないのです。

 

 

 

 

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