五十嵐祐輝のブログ

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「アルティメット人狼」「松崎史也」「児玉健」、初めてWikipediaを編集して(1/4) 1.事典と仕事

2016年11月17日 21時56分53秒 | アルティメット人狼Wiki

(応援のメッセージを頂きました。発言は加工・合成しています)

(もくじ

1.事典と仕事

2.ドリスのページとコーダのプロバビリティ

3.13分の4と130分の40

4.自分で考えることと他人と伝え合うこと )

 

1.事典と仕事

★名前騙り

半年くらい前、2016年の5月ですが、生まれて初めてウィキペディアの編集というのをやりました。それまで存在していなかった、ゲームイベント「アルティメット人狼」のページの新規作成です。そのあと8月に、アルティメット人狼の重要人物である「松崎史也」のページも新規作成して、9月に、同じくアルティメット人狼の重要人物である「児玉健」のページも新規作成しました。3つのうちとくに「アルティメット人狼」のページは、多くの人が興味を持ってくれた・くれているようです。有名人からしても一般人からしても需要はあったということで、記事ができて本当によかったですね。

ウィキペディアの編集者ページには書いたのですが、ウィキペディアにおける利用者名「五十嵐栄蔵」は、僕のひいおじいちゃんの名前です。人は実名を公開した上で発言するのがよい、と僕は思ってきて、このブログでもそうたまに言ってきました。ウィキペディアでアカウント作成するときも本名にしたかったのですが、「利用者名は慎重につけてください」「とくに実名の場合は重々気をつけてください」といった注意書きを読んで、偽名にしたほうがいいのかな、と思い直し、しかし利用者名から自分の要素を一切なくす方法もとりたくなくて、間をとって(?)先祖の方の名前を使ったわけです。ウィキペディアでは、利用者名を後から正式に変更するのは適切でないようなので(名前を変更しても、変更前後で同一人物であることは表示されるようですが)、今から「五十嵐祐輝」に変えることはないです。

文学研究者の小谷野敦さんは、最近出した本『本当に偉いのか あまのじゃく偉人伝』で、「謎の秘密結社『ウィキペディア財団』が運営し、日本では誰ともしれぬ怪しげな者どもがとりしきる『ウィキペディア』」と、ウィキペディアを批判していましたが、作り手がはっきりしないこういった事情が、いくらかの人には気持ち悪さを与え不信感を生じさせています。「怪しげな者どもがとりしきる」というのは、ウィキペディア管理者のことですね。ウィキペディアにおいて「小谷野敦」のページは一冊の薄めの本を作れるくらいには充実していますが、小谷野さんご自身は、ウィキペディアの記述に関わった挙句にウィキペディアから排除された経歴があるようで、それはおもしろい話です。僕は小谷野さんが主張し続けている、自分の名前を明かす正しさについては、その通りだと考え続けています。だから、小谷野さんと同じ、実名公開の立場をとっていたいところです。

★「ネット時代のコペルニクス――知識とは何か」

ウィキペディアを編集してみて思ったのは、この経験を、附属中学校に教育実習に行ったときにはすでに得ていたかった、ということです。3年前です。僕の担当は、3年生の国語で、扱った教材は、光村図書の「ネット時代のコペルニクス――知識とは何か」という論説文でした。吉見俊哉さんの文章です。文章の終わりのほうにある要点を引用します。 

今日では一部の科学者だけではなく、世界中のアマチュアが、時には専門家顔負けの情報を手にし始めている。だが、そのような時代だからこそ、情報をばらばらに消費するのではなく、それらを相互に結び付け、体系的な理解をしていくことが大切なのである。 

つまり、情報社会でいろんな情報が出回っているけれど、物事を正しく理解していきましょう、といった呼びかけです。現代の子どもに対する国語の教材としては正統なものです。それで、この論説では「インターネット上の百科事典」が取り上げられています。 

現在よく使われているインターネット上の百科事典では、誰もが既存の説明に上書きをしていくことができる。直前に書いた人が著名な大学者であっても、その説明文に中学生のあなたが上書きすることができるのである。 

この教材を扱って子どもたちに授業をしていたときの僕は、たまにウィキペディアを閲覧するような、非編集者でした。しかしこのときに、ウィキペディア編集の経験が自分にあれば、もっと授業の内容を膨らませることができたのに、と悔しさを覚えるわけです。ウィキペディアの仕組みとかルールとか、自分の個人的な経験を授業中の話題に使えたはずです。

僕は前にこのブログで、自分の担当であった三浦先生が愚かだった、そしてそれについて、実習後に本人やほかの先生方に宛てて、抗議の文書を色々と送った、ということを取り上げました。国語の先生なのに、動詞の活用形や接続助詞といった文法も知らなければ、「権力者」の意味も誤解して根拠なく感情的になる、学力不足であり、義務教育程度の国語の能力がなくて、実習生に学習指導案提出の指示も伝えないし、挙句の果てには実習生の授業に対して「つまらない」「学級崩壊になる」等の暴言を吐く……、いまどきの言葉を使えばハラスメントであって、無能な上司の典型です。一応三浦先生のことを庇うと、前回も記しておきましたが、性格が悪いわけではないです。いい先生であると思われたい気持ちが大きくて、そのために善人として振る舞えるからです。悪いのは心ではなくて頭です。ほかの先生方はだいたい優秀だったわけで、こういう先生が1つの学校に1人くらいいるのも、望ましくありませんが自然なんだろうと思います。

ただ実は、先生だけではなくて、教材自体もよくありませんでした。なぜかというと、「ネット時代のコペルニクス」は、筆者の考え方が公平ではないからです。「本」と「ネット」の対比が公平ではないからです。もちろん、「情報社会である現代」の文章を中学生の教科書に載せるとなれば、子どもたちのために、ネットの欠点を取り上げることが妥当であり、その結果、ネットには気をつけよう、という書き方になること自体は自然です。しかし「ネット時代のコペルニクス」の場合は、「百科事典」は「本の世界」には存在するが「ネットの世界」には存在しない、という正しくない記述が、本文が後半になるにつれ浮かび上がっていくのですね。

★嘘つきを見破れるか ~vs国語の教科書~

本文を引用します。 

図書館の本とインターネットの情報の間には、知識の体系性という観点からの違いもある。知識というものは、ばらばらにある情報やデータの集まりなのではない。知識とは、さまざまな概念の内容や事象の記述が相互に結び付き、全体として体系を成している状態のことである。(中略)

実際、百科事典の編集で最も重視されるのが、この幹と枝の関係にほかならない。事典の編者は、ある事項が他の事項に比べてどのくらい重要か、どの事項とどの事項がどんな関係にあるのかについて繰り返し議論する。例えば、「家族」という概念は、「夫婦」「親子」などとはもちろん、「民族」「共同体」などとも、「マイホーム」「ホームドラマ」などの言葉とも結び付いている。百科事典を使い、さらに進んで図書館でさまざまな本を借り出して「家族」について学ぶとき、私たちはやがて、これらの個々の言葉の意味だけでなく、からまり合う概念の関係を構造的に把握できるようになる。

ところが、インターネット上の検索システムは、こうした構造的な結び付きなどお構いなしに、私たちを一気に探している事項の情報に連れていく。(中略)人々はネット検索で瞬時にして次々に必要な情報を手に入れることで、緩やかに形成される体系としての知識を見失っているのかもしれない。

こう考えてくると、インターネットには、知識の責任や体系性という面で、簡単には図書館にとって代わられることのできない限界があるようにも思えてくる。それでは私たちは、インターネットを使うのをやめて本と図書館の世界に戻ればいいのだろうか。 

吉見さんは、知識の体系性という点でネットは本に劣る、と述べているわけですが、「本」と「ネット」の比較を、途中から「百科事典」と「ネット検索」にすり替えています。「ネット」にも「百科事典」はあると、さっきご自身が言っているのに、です。このすり替えを意図してやっているのなら、吉見さんは、子どもを騙そうとしているという意味でずるいですし、意図せずにやっているのなら、吉見さんは自分がどういう説得をしたいか自分で理解していないという意味で頭が悪いです。どちらにせよ嘘つきです。これは人狼ゲームでいうところの「破綻」であって、自己完結できていません。

ウィキペディアを使ったことがある人なら誰でもわかりますが、ウィキペディアは、関係のある項目にリンクさせるルールがあって、クリック(タッチ)すると、連結されたそのページに飛ぶことができます。たとえば「アルティメット人狼」のページからは、イベントの本質である「人狼ゲーム(汝は人狼なりや?)」のページや、最重要人物の1人である「イシイジロウ」のページに直接移ることができますし、また、これを包括している、「日本のイベント」のカテゴリーのページにも移ることができます。これこそが、吉見さんが言う、「結び付き」とか「体系性」であるわけです。

生徒たちのノートに書かせた記述です。 

問い……体系性について、本とネットの比較は公平か。

答え……公平ではない。

筆者は、あくまでネットのうちの一つに過ぎない検索システムが、あたかもネットの性質を正しく代表しているかのように述べることで、ネットの全てに体系性がないかのように論じている。 

こういうことに、三浦先生のように根本的に国語の能力がない教員は、自力で気づくことはできませんが、ほかの国語の先生方も、多くは自力では気づかないんじゃないかな? と僕は実習のときから思っていました。この論説はおかしいよね、とわかる先生がどれくらいいるのかな? と。なんていうか、出版社側から、現場の教員が舐められているのでは、という印象を受けます。おかしい文章を載せておいても、あいつらは理解できないだろう、という。それとも、出版社の方々も、「ネット時代のコペルニクス」が、嘘つきであることには気づいていないんですかね。学校の教科書ですから、「みなさん、ネットを使うのもいいですが、本をちゃんと読みましょう」、という呼びかけを含んでいる文章を生徒に読ませるのは当然ですが、それならそれで、せめて、公正であり、誤魔化しがない、もっとしっかりと子どもとコミュニケーションをしようとしている誠実な論説文を載せるべきです。

三浦先生はこの教材を、「情報化社会の問題を調べる」活動を子どもたちにさせるものとして想定していました。僕と同じ、国語科3年生担当であるほかの実習生2人も、それに倣って、「インターネットがもたらす社会問題を家で調べてくる」を子どもたちに課していました(附属の学校への実習なので、同時期に多くの実習生がいます)。そして、実習生から宿題を出された子どもたちは、真面目に家で、「個人情報の漏洩」「サイバーテロ」「情報弱者の発生」「ネットいじめ」などの、インターネットの普及が社会にもたらす問題を調べて、授業で発表するわけです。しかしこれらは、本文の主題ではありません。もちろんネット社会の問題の勉強にも意義はありますが、それは「国語」ではなく「技術」という教科の「情報」分野の範囲です。国語の授業時間を削ってまで国語の授業でやらなくてもいいんですよね。「ネット時代のコペルニクス」のサブタイトルは、「知識とは何か」であり、文章のテーマはあくまで、「知識」「理解」です。

だから僕の授業では、ほかの実習生や三浦先生と違って、子どもたちに、「自分が興味を持っていることについて、自分は今何を理解していないのか」を考えさせる作文を書かせました。方針はあくまでも、「知識」「理解」である、というスタンスです。あとで三浦先生から、取り組ませる活動内容は「情報化社会の問題を考える」でよかったのでは、という意見を頂きましたが、わかってないな~と僕は思っていました。その場で色々言い返すわけにいかないので、実習が終わってから、校長先生とかを相手に含めつつ、抗議や反論の文書を送ったわけです。 

★教材としての?

ところで人狼ゲームのファンや、人狼ゲームをやりこんでいる人の中には、人狼ゲームを題材とした夢を見た、という体験をすることがあるようです。以前スリアロ村のBOSSさんも、そんな夢を見た、と言っていました。僕の場合、「人狼ゲーム+ウィキペディア+教育実習」という合体した形で夢を見ることがありました。ユニークだ、と思って、起床時に日記にメモをしました。元から僕の中では、教育実習の思い出と、ウィキペディアの思い出が繋がっていたものの、そこへ新たに、人狼ゲームの思い出が付け足されたのですね。

その夢では、中学校の教育実習ではなくて、去年行って来た、小学校での教育実習が、出来事の基盤になっていました。前にブログに書きましたが、小学校での実習の際の担当の先生は、森田先生という先生で、本当に尊敬すべきすばらしい方でした。その先生と一緒に、夢の中の僕は、学習指導案を見ながら教室で授業の計画を立てているわけです。僕は「さすがに1回の授業で、4戦全部を取り上げるのは無理なので……」といったようなことを話していました。どうやらアルティメット人狼を授業の題材として使用しなければならないシチュエーションだったようでした。4戦というのは、アルティメット人狼がイベント1回につき4戦実施するので、たぶんそれに由来していると思われます。でも、よくよく考えれば、学校の授業は45分とか50分なのであって、13人の人狼ゲームを1戦取り上げるとして、じゃあビデオを見るだけで時間が終わってしまうではないか、しかもゲームの半分くらいしか見られないではないか、という疑問が起こるのですが……。それから授業の要点として、「席順を覚えることや処刑日を暗記することが目的なのではなく、発言の本質を理解すること」と指導案に書いていました。ほかには、13人の表(席順、役職など)を子どもたちにノートに書き写させるのは大変だから、それはあらかじめプリントを配布しておいた方がいいのでは……、みたいな話をしていました。そのうちだんだん、「なんかおかしいような?」と僕は思い始めて、「あれ? 自分、教育実習終わってるじゃん!」と気づきました。

時間に余裕さえあれば、教材としての人狼ゲームの活用は、検討できるのかもしれませんね。僕が見た夢では、「人狼ゲームを観る」という方法でしたが、「(子どもたちが)人狼ゲームをやる」という方法もあります。現実には、学校現場にそんな暇なんてないから、「先生や同級生の発言をちゃんと聞く」とか、「みんなに聞き取りやすいように発表する」とか、普通で当たり前の「話す・聞く」の勉強がおこなわれているわけです。ただ、国語の授業ではたまに「ディベート」というのがあって、たとえば、「年賀状賛成派」と「年賀状反対派」に分かれて言い争う、などです。ああいうのを授業に取り入れるくらいだったら、先生の監督の下で、言葉の掛け合いの遊びとしての人狼ゲームを導入したほうが、有意義だとは思いますけどね。 

★自分独自の考えを絶対に書いてはいけないのが、ウィキペディア

こんな感じに僕は自分のブログで、自分の体験を書いたり人の批判を書いたりしてきて、しかしこれは、ウィキペディアではしてはいけないことです。自分の意見を書いてはいけないのです。いわゆる「地の文」にて、「Aさんは愚かである」と書くのはダメ。OKなのは、「Aさんは愚かである、と有名人Bさんは言っている」など、客観的な記述です。僕は日本語話者で最高の人狼ゲームプレイヤーは、マドックこと松崎史也さんだと思いますが、「マドックは、最高の人狼プレイヤーである」などと、ウィキペディアに書いてはいけないのですね。「マドックは、最高の人狼プレイヤーであると、ある有名人が述べている」、という形でしか書いてはいけないと。少なくとも、「マドックが最高のうちの1人である」、というのは、わりと人狼ゲームファンの中ではそこまで反対される意見ではないと思いますが、「なんとなく世間では漠然とそうなっている」程度のことを、自明のものとして書くのも、望ましくないのですね。「独自研究は載せない」は、ウィキペディアの三大方針のうちの1つです。

 

ウィキペディア上級者、中級者の方々からすれば言うまでもないきまりなのでしょうが、初心者からすると、基本のきまりすら全然わからないものであって、僕も非常に戸惑いました。

インターネットが普及した現代ですが、ネット上に言葉を載せる内容はしばしば、自分が感じたこと、考えたこと、経験したことです。僕はやっていませんが、ツイッターとかフェイスブックとかです。そんな中で、自分の考えを書いてはいけない、ただ事実をまとめるだけの、ウィキペディア編集は、貴重な経験になります。感覚としては、卒業論文を書くときに近かったです。とは言え論文は、新しい発表をするのが存在意義で、目的は全然違うのでしょうが。

卒業論文と言えば、僕が卒論で取り扱った小浜逸郎さんですが、ウィキペディアはほとんど充実していないんですよね。今現在だと、小浜さんの項目は、ご本人の簡単な来歴と、著書リスト、出演リストにとどまっていて、批評家・思想家としての小浜逸郎の基本的な立場や意見が載っていません。人間は「関係的存在」であるとおっしゃってきたのが、言論人としての小浜さんです。歴史上のヨーロッパの哲学者が言って来たような、「個」から始まる存在が人間なのではなくて、「関係」から始まるのだと。ウィキペディアにこういう大事な記述がないと、書き足したいな、という思いを得ます。でも、こんなところでそんなことを言っているうちは、たぶん僕は書かないのかな、という気もします。この半年の間、僕は、3つの記事を0から作ることはしてきましたが、すでに存在している記事を改造していく作業は全然やっていません。

 ★作りたかったのは「松崎史也」

僕が作った順番は、「アルティメット人狼」、「松崎史也」、「児玉健」ですが、そもそも僕が1番作りたかったのは、「松崎史也」です。「アルティメット人狼」の作りたさを1とすると、「松崎史也」の作りたさは20とか30あったと言っていいです。「児玉健」は3とか5とかでしょうか。

僕は2015年の1月に人狼ゲームをある程度知って、4月にアルティメット人狼を知り、また、これを通して人狼TLPTを知りました。「医師マドック」を知って、すごい人がいるな~と思いながら「松崎史也」とネット検索するのですが、ウィキペディアのページがないのですね。代わりに、検索候補として「松崎史也 がん」、「松崎史也 離婚」などに交じって、「松崎史也 wiki」が表示されていました。「松崎史也」のウィキペディアを探し求める人々がいたということだと思いますが、それでも、ページ作成はなされてこなかったわけです。マドックを知れば知るほど、僕はフラストレーションを募らせていきました。「もう~、なんでマドックのウィキペディアがないんだよ~」「あるのが自然な人物なのに~」と。「石井由多加」や「加藤靖久」などはすでにありました。人狼ゲームを知るまで、僕はほとんど役者さんの世界を知りませんでしたが、アルティメット人狼を見てネットで調べる限りでは、松崎史也と児玉健は、芸能人として、人狼TLPTの中では格上なんだな、というのは実感していきました。

だいたいそれまでの僕の人生において、この人のウィキペディアはあるだろう、と思っていたときには、全部すでに存在していたと思います。先人たちが知識を提供してくれていたわけです。でも、そうではない場合があったのです。 

★広く助けを呼びかけてみることの大切さ

そんな中、2016年の4月になると、アルティメット人狼主宰であり、人狼伝道師である眞形隆之さんが、ツイートを投稿しているのを僕は見ました。

眞形@人狼伝道師_予言問題作成師@newmagata 2016424

誰か、アルティメット人狼のwikiを作ってくれないだろうか? 

このツイートが、2ちゃんねるのスリアロ村のスレッドにて、「自分で作れ」というコメントが付記され紹介されていたのでした。

「wiki」という言葉で僕がイメージするものは2種類あって、1つはウィキペディア、もう1つは、「ポケモン対戦考察まとめWiki」とか「デュエルマスターズWiki」のような専門的なやつです。眞形さんは、このツイートでは、どちらのおつもりなのかな~と、読みながら僕は思ったのですが、もし後者のようなものを作るとしたら、「アルティメット人狼Wiki」よりも、「対面人狼まとめWiki」のようなタイトルで、TLPT、スリアロ村、最大トーナメント、などなど、全部取り扱う総合的なものにするのが妥当なのだろうと考えて、僕はウィキペディアの意味で受け取りました。そのうち全部合わせたWikiができれば、プレイヤー考察など、ウィキペディアよりもマニアックなものができますね。眞形さんは、スリアロ村二十幕(2015年9月)のときも、数秒間放送されてしまった夜タイム(放送事故?)の雑談にて、「スリアロ村もWikiあったりするんですか?」と話していましたが、たぶん、人狼ゲーム(アルティメット人狼)のWikiの存在を、前々から望んでいらっしゃったものと思います。

それで、この、誰か作ってくれないかな~、というつぶやきが、少なくとも僕を動揺させたわけです。なんでかというと前述のように、何か月も、松崎史也、また、児玉健のページがないことに違和感を持っていたからです。それで、誰も作らないのなら自分がやろう、と決心して、ウィキペディアの自分のアカウントを作成したという成り行きです。「松崎史也」(と「児玉健」)を作るのが1番の目的ではありますが、まずは、「アルティメット人狼」から手を付けようと思って、です。

眞形さんがしたように、人に助けを呼びかけることは、社会において有用な行いです。このブログでも書いて来ましたが、独力では解決できない、あるいは、しづらい問題に直面しているときは、まずは人に助けを求めることが肝要です。日照りで危機のとき、雨を降らせるコツは、雨が降るまで雨乞いのダンスをすることだ、とは聞きますが、まさに、問題解決の秘訣とは、解決するまで行動することです。気をつけるべきは、たった1回の試行では諦めないことです。学校で理不尽な目に遭ったとき、1人の先生に相談しに行ったら、振り払われた。それで終わりにしないで、今度は別の先生に相談しに行く。学級担任の先生が無能なら、次はたとえば副担任の先生の所へ。副担任の先生も無能なら、次は学年主任の先生の所へ。学年主任も無能なら、次は、部活の顧問の先生、教頭先生、校長先生、と、色々なところに行ってみることです。なかなかできませんが……。

 ★頼まれる仕事、頼まれない仕事

僕は意味のある大きな仕事を成し遂げました。アルティメット人狼のウィキペディアを作り上げることは、ほとんどの人にはできないことです。僕は本当にすごいと思います。ただこれは、眞形さんのつぶやきを受けて起こした行動であったわけで、その意味では僕は受け身的でした。それと対照的に、眞形さんが人狼の番組・イベントを作ろうと思ったのも、児玉さんが遊び場を作ったりけん玉をやったりしようとしたのも、桜庭さんがライブプレイングシアターを作ろうとしたのも、他人から依頼されたわけではないですからね。人から頼まれてないのに、自分はこれをやろう、と一念発起して動いている。別に、頼まれる仕事よりも頼まれない仕事のほうが貴いわけではないのですが、しかし状況を見極めて、何もないところから需要を見出すことができるというのは、人間としてのレベルの高さの証明です。どうせなら、頼まれないうちに仕事に取り組めるほうが、自分の中では納得がいくものです。

 (「2.ドリスのページとコーダのプロバビリティ」に続く) 

コメント

「アルティメット人狼」「松崎史也」「児玉健」、初めてWikipediaを編集して(2/4) 2.ドリスのページとコーダのプロバビリティ

2016年11月17日 21時56分52秒 | アルティメット人狼Wiki

2.ドリスのページとコーダのプロバビリティ 

★「森本未来」のウィキペディア

9月に放送されたアルティメット人狼チャンネル開局記念放送では、ドリス森本未来さんが、アルティメット人狼のウィキペディアができたことについて、「私すっごい感動して……」と感情たっぷりに話していました。隣にいる眞形さんも、助かっています、ありがとうございます、と記事の作成者に呼びかけていて、そんな「公開感謝」を受け、僕はとても恥ずかしかったです。

ドリス森本さんは、「個人的にはまだウィキペディアないんですけど……w 誰か……w」とも話していました。ウィキペディアだと、リンク先がある文字は青色で表示されるのですが、リンク先がないと赤字になります。「森本未来」はそのうちの1つで、ほかには、「寺島絵里香」「池永英介」「都倉伶奈」などもです。僕が「アルティメット人狼」を作っている最中は、「松崎史也」「児玉健」も赤字でしたが、僕がそれらの記事を作ったことで、この2人の名前は青字になりました。一方「横山可奈子」は青字です。横山さんのページは2006年から存在していて、つまり古いことに、記事が存在しているのは10年前からです。

人狼TLPT関連の記事を3つ作った僕は、ほかの関係者の記事を作成することについても気にしていました。客観的に、自分が製作者の筆頭候補であると見なせます。結論を言うと、僕は「森本未来」の記事は、今後作らないと思っています。またほかの、たとえば「寺島絵里香」「池永英介」「都倉伶奈」なども作らない予定です。 

★人狼TLPT主要主演者の情報は、人狼TLPTの記事にまとめるのが無難か

記事を作るのが大変であるといったような、労力の問題を抜きにして考えたとき、人狼TLPTの主要出演者の記事を個別に作成するのは、やや実現しづらいと言えます。なぜなら、「特筆性」の問題をクリアしづらいと考えられるからです。特筆性とは、ウィキペディアの根底にあるルールの1つです。ウィキペディアの説明ページには、「ウィキペディアに記事を作成する場合、取り扱う対象には、百科事典の記事として言及するにふさわしい価値が必要です」と書いてあります。その価値がある、というのが、ウィキペディアでは「特筆性がある」という表現になるわけです。

今年の5月に僕が「アルティメット人狼」の記事を初めて立ててから数十時間後、ウィキペディア上級者、「KAMUI」という利用者でしたが、この方から「特筆性」の問題点を指摘されました。テンプレートを貼る、という処置を受けて、記事のはじめに、この記事の主題は特筆性の基準を満たしていないおそれがあります、と表示されるようになるわけです。しかし現在はなくなっています。1回僕が除去したあとに、別の方が復活させて、頃合いを見て再び僕が削除し、それ以降は特筆性のなさを指摘されてはいません。だから現時点では、「アルティメット人狼」は「特筆性がある」=「百科事典の記事として相応の価値がある」と見なされている、という格好です。もちろん今後また誰かによって、特筆性のなさを指摘されるかもしれません。

この主題は百科事典に載せる価値がある、と主張するには、社会で話題になっているという証拠を提示しないといけません。たとえば、本に書かれている、ネットのニュースになっている、などです。身内だけで盛り上がっている、と判断されてはいけないわけです。「アルティメット人狼」のページは、新規作成されて間もないころは、社会で話題になっている証拠がない、すなわち「出典がない」状況だったものの、しだいに、「いや、話題になっている証拠はある」、と出典が追加されていき、結果、特筆性が確立した、という経緯です。僕はウィキペディア初心者であって、最初試しにページを作ったばかりのころは、ページが充実していないのは当然なのですが、アルティメット人狼を知らないウィキペディア上級者からすると、「こんなページ要らないのでは?」と疑念を抱いてしまうものだったのでしょうね。ちょっとずつ作っていったのは僕の最大の失敗の1つでした。いきなり完成品を提出するべきでしたが、初めてだったのでそれができなかったわけです。だいたいクリエイターというのは、自ら進んで製作途中の作品を人の目に晒したりはしません。ウィキペディアの方法を理解してからは、僕は「松崎史也」「児玉健」はちゃんとまとめてから1度にアップできました。

ウィキペディアにおける特筆性について、人狼TLPTの出演者の記事で、現在問題を指摘されている(指摘されたままである、という状態になっている)のは、今現在(2016年11月)見た限りだと、「澤田拓郎」「馬場野々香」「高地真吾」などです。つまり、「この人たちは百科事典に載せる価値がないのでは」と意見されているわけです。スマホ版で見えない場合は、「ページの問題点」をタッチすると、問題点を指摘する文章が表示されます。彼らの記事の存在を正当化するには、この人たちにまつわるニュース、記事、書籍などを証拠として記載しないといけません。ほかには、「石井由多加」「加藤靖久」の記事には、「出典が全くありません」の表示が出ていますが、これも類似の指摘です。

特筆性の確保の問題から、人狼TLPTの主要出演者で、まだウィキペディアのページがない人物は、「人狼 ザ・ライブプレイングシアター」の記事の出演者一覧に組み込むのが穏当のように僕は考えています。たとえばミュージシャンで、ロックバンドなど、グループで音楽活動している人物は、ウィキペディアでは、そのグループの記事内で人物紹介がなされる方式をよく見ます。上から順に、ボーカル、ギター、ベース、ドラムス、とメンバーが書かれている状態です。それと同じように、「人狼 ザ・ライブプレイングシアター」の主要出演者紹介の欄に、一人ひとりの生年月日とか出身地とか、プロフィールを載せていくのがいいのでは、という判断です。もしその措置によって「人狼 ザ・ライブプレイングシアター」の記事が過度に肥大化するようなら、「人狼 ザ・ライブプレイングシアターの出演者」という記事そのものを立項するのがよいと思います。

桜庭プロデューサーの好きな「ハリー・ポッター」シリーズについてのウィキペディアページでも、最近同じような編集が実行されていました。何かというと、個別のページを1つのページにまとめるという大掛かりな作り直しです。たとえばついこの間まで、主な登場人物、「ドラコ・マルフォイ」「ミネルバ・マクコナガル」「シリウス・ブラック」などのページが存在していたのですが、それらが、「ホグワーツの生徒」「ホグワーツの教職員」「不死鳥の騎士団」のページに一緒にされていました。「あまりにも多くのページが乱立し過ぎでは」「まとめられるものはまとめたほうがいいのでは」と議論になって、賛同する人がけっこういたため、そのような編集が行われたのです。この間までは「普通魔法レベル試験」のような単独ページまでありましたからね。仕方ないですが、昔あった記事がなくなっているのはちょっと残念ですね。 

★補助資料としての、出演作品一覧

個別にページを作るのではなく「出演者」のページに1つにまとめるとよいのでは、というのは、もちろんあくまで僕個人の、行動に移していない前の意見なので、別の方が、「森本未来」などの人狼TLPT主要キャストを単独で作成したいというのであれば、その手段を採ってよいと思います。ただその場合でも、本文で記述する内容は人狼TLPTでの活動主体になると思います。そしてそれらの記載のあと、TLPT以外の出演を記したリストを載せることになると思います。森本未来さんや寺島絵里香さんの場合は、「TOKYO DAMA GIRLS」の活動も組み込むことになりますね。

ウィキペディアは百科事典であり、すなわち「読み物」であって、「データ集」ではないんですよね。このことはウィキペディアのルールとして色々と書かれています。だから、たとえば役者の場合、出演作品のリストが主たる内容の記事になるのは理想ではありません。メインは本文で、出演作品一覧はあくまでサブ、補いの資料です。本文も、箇条書きは望ましくなく、求められているのは文章の形式です。雑誌やインタビュー記事など、参考資料が豊富にありそうな有名な芸能人のウィキペディア記事の中にも、活動内容が年譜形式であったり、単発的な記述の連続であったりするものが多く見受けられますが、本来それらはもっと伝記的に書く必要があります。

整った厚みのある文章を書くのは知的労働ですが、出来事を書き写していくのは、手の運動で、頭を使わない作業ですからね。後者のほうが簡単で労力も要らないのでやりやすいですし、根本的に、前者は自信がなくてできないが後者ならできる、という人も多いのだと思います。 

★「松崎史也」のページにおける作品リスト

僕が「松崎史也」の記事を新規作成したばかりのとき、出演リストとして、①人狼 ザ・ライブプレイングシアター、②アルティメット人狼、③人狼ゲーム公演以外、と3つの項目を立てていました。そして①と②の人狼ゲーム公演のシリーズについては、マドック不出演の回も含めて、全ての演目を記載していました。たとえば、「アルティメット人狼6(出演なし)」や、「ナンジャタウンステージ(出演なし)」といったようにです。

すると数日経ったあとに、ほかの編集者である櫻井千穂さんという方が、出演なしの公演を削除していました。「出演なし演目は冗長なので削除」というコメントでした。櫻井千穂さんはこのとき、松崎さんの人狼ゲーム公演以外の出演を多く付け足してくれたり、ほか本文中の誤記の訂正などもしてくれていたりもしました。

それで僕は、「松崎さんは最重要キャストなので、不在演目の記載は百科事典相応では」、といった反対意見を述べて、出演なし演目を復元しました。このとき、「もし再削除があるのならさらなる復元はしないが」という断りも書いておきました。そうしたら、櫻井さんは僕の意見には賛同せず、「人狼TLPTの全公演リストはTLPTの記事本体に載せる方が適切です」といったコメントで、出演なし演目の再々削除が行われていました。

僕がしていることの意味が伝わっていないな、と思ったのですが、僕は、「人狼TLPTの全公演リスト」自体を書きたかったわけではないのですね。僕が書きたかったのは、「松崎史也と人狼ゲーム公演全てとの関係」です。シリーズにおいて、松崎史也が「どの公演に出演しているのか」はもちろん重要な情報ですが、「どの公演に出演していないのか」もまた重要な情報なのです。まず全ての回という全体の地図を明らかにして、その地図に、ここは出演回、ここは不出演回、と局所ごとに塗り絵をしていくのが、読み手にとってわかりやすい表示形式なのです。部分だけを示すのではなくて、全体を示した上で部分の位置づけを示す。松崎史也は人狼TLPTの看板役者とされているので、ほかの仕事などの事情で出演できない場合は、「この回は欠席」と注釈があると丁寧であるわけです。たとえば、声優のページでは、この期間は都合により休養なので代役として別の人が担っていた、といった説明が載っていることがあります。

櫻井さんは、人狼ゲーム公演以外の公演、主に人狼TLPT以前の、Afro13など、松崎史也出演の公演の多くを書いてくれたのですが、それは「松崎史也」のページにとって必ずしも本質的ではないです。もちろんないよりはあったほうが充実しているわけですが、ウィキペディアにおける松崎史也のページの特筆性を確保している、松崎史也の性質というのは、①人狼プレイヤーであること、②演出家であること、の2点であり、③普通の俳優であることは実は違うわけです。以前の「マメばん」で、松崎さんはご自身のことを「俺は人狼俳優だからw」と話していましたが、「人狼俳優」というのは端的でわかりやすく、そして的を射ている言葉です。ウィキペディアでの作品リストのルールとしては、全作品を載せる方法と主な作品に絞って載せる方法、どちらの手段をとっても問題ないとされていますが、いずれの方法を採るにしても、松崎史也さんの活動の根幹中の根幹である人狼TLPTのシリーズについては、全体を記載した上で松崎さん自身の出演回と不出演回を明示するのが、百科事典的である、というのが僕の立場です。

全体を表さないというのは、単純にわかりづらいですからね。ウィキペディアでは、各ページではカテゴリーに属させる必要があって、たとえば「松崎史也」は「日本の俳優」「日本の演出家」の領域に含まれていますが、これも、部分を内包している全体というものを表すやり方です。現在の、人狼ゲーム系の公演における出演回のみを記している方式は、僕の好みではありませんが、ウィキペディアは僕のものではないので、これは櫻井千穂さんのやり方に譲っている形です。 

★作品リスト内の出典記載の問題

それから、櫻井千穂さんとの議論で、作品リストの出典の問題になったことがありました。櫻井さんの意見というのは、作品リストに出典を記す義務はなく、書かないのが一般的、また、出典を書かないのは日本語版・英語版ともに共通、というものでした。それに対しての僕の意見は、出典を書く必要がない場合というのは、作品のページが別に作成されている場合なのでは、出典はないよりもあったほうが望ましい、というものでした。櫻井さんの言うように、出演作品に出典が記されていない役者のページは多いのですが、それは僕は、ただそれらのページが不完全なだけだと思うんですよね。事実なのかどうか、もっとはっきり証拠を示したほうがいいものが多いと僕は思います。ウィキペディアの編集に関わらない人からすると、「証拠を示せ」というのが、不必要なうるさい文句と感じるかもしれませんが、ウィキペディアは、証拠すなわち「信頼できる情報源」を提示することにとてつもなく厳密でいなければならない場所です。僕も編集作業に加わるまでは知りませんでした。「信頼できる情報源」がない記述は、「検証可能性」を満たさないとされ、削除の対象となるのです。

出典が不完全な役者のページという話題に戻すと、たとえば、デュークこと「大里雅史」さんのページには、出演歴として、「行列の出来る法律相談所 再現VTR」と記されています。これっていつの話なのかな、と僕は思うわけです。どれくらいの期間、どれくらいの頻度で出演していたのだろうか、と。この記述はもしかしたら、昔存在していたであろう、事務所の「所属タレント紹介」中のリストを転載したものなのかもしれませんが、証拠の提示がないのを見ると、自分がさりげなく、証拠の提示なしに虚偽の情報を入りこませても誰も批判できないのでは、と感じるんですよね。たとえば、「踊る!さんま御殿!! 再現VTR」などと書いたりしても、ばれないと思うんですよね……。

ウィキペディアには、人々から、精確さ・充実さを認められてきた「秀逸な記事」というのがいくつかあって、日本語版だと、役者としては唯一「市川雷蔵 (8代目)」のページが該当します。このページでは、出演作品の証拠はちゃんと示されています。できればそれを目指したいものです。 

★データ算出にあたっての、対象ゲームの少なさ

森本未来さんのコメントに対する僕の考えは、以上のように、「特筆性の問題から、自分は作ってあげられないかな~」というものでした。そしてもう1人、アルティメット人狼チャンネルでの放送において、ウィキペディアにまつわったコメントをしたのが、児玉健さんです。「占われた率」みたいな、より細かいデータが欲しいw、的なお話でした。「猪飼の平均生存日数が1.3日に縮んだwww」など、アルティメット人狼のウィキペディアを話題にして最もふざけているのが児玉さんですね。

僕自身も色々なデータを載せるのが、読み物としておもしろいと思って来たのですが、対象ゲーム数が少なすぎるんですよね。だから基本的には無理ですね。アルティメット人狼7-3の幽霊タイムでイシイジロウさんが、大崎初音さんがこれまでのデータを持って来たと話したことについて、「まだちょっとしかやってないのにw」とコメントしていましたが、こういった類の、「その調べ方は正しいの?」という批判的感覚は、世の中のありとあらゆる調査結果に対して持っていたいものです。

2ちゃんねる掲示板「麻雀プロの人狼スリアロ村」のスレッドには、各出演者の通算勝率、通算平均生存日数などを定期的に掲載してくれる、熱心で親切なファンの方がいて、人々はこの人物のことを、尊敬の意味をこめて「データマン」と呼ぶようになっていきました。データマン登場の当初は、10試合以上の出演経験を持つ出演者が掲載の対象となっていましたが、計算するにあたって「10試合では少なすぎる」という意見が上がるようになり、より精密な算出を目的に、20試合以上出演者に限定されるようになりました。仮にこの方法をアルティメット人狼でも見本にするとして、アルティメット人狼7終了後・シリーズ通算26試合終了後の現在だと、20試合以上出演者はイシイジロウしかいません。22試合出演です。続いて、児玉健19試合、大野聡・森本茂樹18試合、マドック16試合です。だから、通算勝率、通算平均生存日数といった単純な情報も、スリアロ村のスレッドの基準に則れば、まだゲーム数が足りていないと言えます。

★通算の「率」は

通算での「率」というのは、ゲームの度に書き換える必要があるので、ウィキペディア向きではないように僕は思っています。ウィキペディアは速報を書き込む場所ではないとルールに書いてありますが、それはやはり正しくて、「情報の付け足し」の可能性は常に持っていても、「情報の完全な書き換え」の可能性はできる限り捨てていたいものであるはずなんですよね。だから、どこかの範囲で区切って、これ以上書き換える必要がない、という状況で記入するのが望ましいです。スポーツだと、通算とは別に、シーズンごとの個人成績・チーム成績が記載されるのがウィキペディアに限らず通例であって、たとえば2015‐2016シーズンの平均得点は何点、2016‐2017シーズンは何点、と。アルティメット人狼だと、そういったシーズンの区切りは難しそうです。人狼TLPTの場合は、演目ごとに算出する手段が考えられますが、1公演だけだと出演ゲーム数がさほど多くはありませんから、それもやはり難しそうです。 

★占われの多寡

児玉さんは、アルティメット人狼での「占われた率」において、自分がギネス持ってるwといった話をしていましたね。本物からも偽物からも占われやすいと。僕はマドックが1番占われているのが多いイメージがあるのですが、まだ数えてはいないです。ただ、児玉さんの「占われ」については、僕もそこそこ注目していて、ウィキペディアに書こうとしたことがありました。「アルティメット人狼」のページではなくて、「児玉健」のほうのページです。

というのは、「6」終了後に、村中秀史さんが、児玉さんを占ったのは、村人たちがそこを知りたいだろうからだった、実は人狼の可能性は低いと思っていた、とブログで明かしていたのを僕は読んで、へえ~と印象的に思った経験があったからです。つまり村中さんは、戦況とは別に、ただ単に、児玉さんを脅威と思って占ったというわけです。もしも、ほかの予言者にもそのような傾向がある、ということを裏付ける明白な事実があるとすれば、それは、「児玉健」のページに書き入れるのが有意義な、児玉健の人狼プレイヤーとしての特徴の1つになります。そうして振り返ってみると、まずアルティメット人狼1‐1。狂人のコーダは本物予言者(マドック)のお告げ先です。これは予言者の意思は関係がないです。1‐3、本物予言者イシイさんは最初の夜の占い先にコーダを選択しています。そして2‐2では、またしてもイシイさんは、最初の夜の占い先にコーダを選択し、正体が人狼であると知っています。つまりイシイさんは2回連続で、占いの能力をコーダの正体を暴くために行使しているわけですね。「シリーズ最初の5戦中3戦において、本物の予言者は、2日までにコーダの正体を知った」という事実が挙げられます。そのあとには、4‐4で、予言者の森本さんから最初の占い先に選択され、人狼であると暴かれ、狩人COをしたのでした。そしてそのあとには。前述の、村中さんによる6‐3です。序盤に占われたのはこれくらいです。

さて、アルティメット人狼のレギュレーションでは、とあるプレイヤーが、予言者のカードを引く確率は、13分の1です。一方、とあるプレイヤーが、予言者の最初の占い先になる確率は、普通は10分の1です。というのは、1日目の昼に1人のプレイヤーが処刑されるので、夜になったとき、予言者の目からは、処刑で死んだその人物と自分とを除く、全11人が見えています。そのうちの1人は、ゲーム開始前から知っているお告げ先であるため、残りの10人が、予言者自身が最初に自らの意思で占える対象となるわけです。あまり見ないケースだとは思いますが、初日の処刑者が、予言者が最初から知っている人間であったいう、「見殺し」のケースもあります。その場合、夜、予言者である自分以外に生きている11人全てが、自分が正体を知らない相手となります。そうなると、予言者以外のプレイヤーが、その夜本物の予言者に占われる確率は11分の1になります。

1日目の夜に本物の予言者に占われた。これが2戦続いたとして、その確率は(10分の1)の2乗です。一方、2戦連続で予言者になる確率は、(13分の1)の2乗です。2戦連続で真予言者にいきなり占われる確率(100分の1)は、2戦連続で予言者を引く確率(169分の1)よりも、1.7倍近く高いわけですね。ざっくりと大雑把に比べればそういう結果となります。

児玉さんの「占われ」は、アルティメット人狼の平均よりは多いのかもしれませんが、現時点ではそこまで特筆すべきものではないかな、と僕は判断しています。これについてはもうちょっとようすを見ます。プレイヤー間の差を調べようとしたとき、長生きの傾向がある人と短命の傾向がある人では占われの機会が変わってきますから、厳密なデータをまとめるときには、単純な占われ総回数のほかに、たとえば「1回の占われにかかる日数」(非予言者としての通算生存日数÷通算占われ回数)などの数値も出したほうがいいかもしれないですね。 

★人狼発見回数

その情報から何がわかるのか、という問いには注意的になっていたいものです。

TLPTのラグナロクステージのパンフレットによると、ラグナロクメンバーの中では、予言者として人狼を見つけた通算回数ナンバーワンはキャシーであると、「マメばん」でマドックが話していました。(僕はパンフレットを持っていないので。)それだと、一見キャシーが、予言者として最も優秀であるように思われます。しかしその数字の大きさについて僕は、キャシーは、能力者COしている人物を多く占う傾向があるからなのでは、と推測しています。記憶に新しいのは、今年のDEPTHⅡのフルーツバスケット回です。2日目、予言騙りの人狼キャシーは、初日に予言者COしていたダンカンのことを占い、結果人間であったと述べ、皆から怪しまれていました。結果その日に処刑されてしまいます。人狼TLPTの外だと、去年の秋の人狼最大トーナメントにて。11人のレギュレーションでしたが、占い師キャシーは、霊媒師COをしていた唯一の人物であるデイジーを最初に占い、隣にいた結さんは「なんで!?」と驚いていました。アルティメット人狼1‐2でも、キャシーは最初の占い先として、対抗予言者の外山さんを選択しています。この行動に対して、「占わなくてもよかったのでは」と大野さんは疑っていましたが、マドックは「狂人か人狼かを知ることは有効だった」とキャシーを弁護したのでした。2014年の8月ごろは、TLPTの文化では、「対抗占い」はスタンダードな戦法だったのでしょうね。2014年の公演のアンコール放送を見てもそのようすが窺えます。ただ前述のように、2016年1月にもなると、TLPTでのゲームにおいても、「対抗占い」は必ずしも歓迎されていないようです。中国人キャロルはキャシーのことを、なんでダンカンを占ったのか、キャシーからは絶対偽物なのに、と追及していました。

そういうわけで、数値をある程度気をつけて見ないと、プレイヤーとしての傾向・性質が浮かび上がってこないと僕は判断しています。ほかの色々なゲーム(スポーツなど)においてもそうですね。先に取り上げた、イシイさんの「ちょっとしかやってないのに」という言葉通り、調査方法の問題です。そして調査結果を受けての考察の問題です。キャシーの人狼発見回数の多さというデータは、予言者としての優劣を教えているかどうかはともかくとして、「キャシーは能力者COを占い対象とすることが多い」という、プレイヤーとしての性質を教えていると結論づけてよさそうです。

(つづく)

コメント

「アルティメット人狼」「松崎史也」「児玉健」、初めてWikipediaを編集して(3/4) 3.13分の4と130分の40

2016年11月17日 21時56分51秒 | アルティメット人狼Wiki

3.13分の4と130分の40

★座席別通算人狼経験回数の調査は、アルティメットメタ推理

アルティメット人狼7の3戦目では、ヒルダ大崎初音さんが、ゲームに先だって、データを持って来たと話していたのでした。過去のゲームでの、席順と役職との関係です。

イベントが終了して数十時間が経ち、僕がアルティメット人狼7の内容をウィキペディアにまとめ終えてから、「バス停」さんという利用者名の方が、アルティメット人狼のページに新しいセクションを付け足していました。「座席別能力回数表」というものです。1番席は、人間○回、予言者○回、霊媒師○回、狩人○回、人狼○回、狂人○回、2番席は……、と、座席ごとの役職の集計をまとめていたのでした。これはきっと、7で大崎さんが話していたことに由来した活動ですね。投稿履歴を見る限り、これまでにウィキペディアの編集をしてこなかった、新規参入者・初心者のようで、なんていうか、出演者に影響を受けて作成した、という、心のピュアな印象をこちらは持ちました。しかし僕は、そんなピュアな人相手にちょっときついかな~と思いながらも、この表の無意味さを伝える文章をノートページに書いておきました。ノートページとは、ウィキペディアにおける議論の場所で、「ページ」の隣の「ノート」をクリックするか、あるいは「ノート:アルティメット人狼」などと半角のコロンを入れてウィキペディア内検索すると出てきます。僕がこのコメントをしてから、十数時間後に、バス停さんは、自身が書いた、座席別能力票を無言で削除してくれていました。

なぜこの、座席別能力回数表が無意味であるかというと、人狼ゲームにおける役職の振り分けは、ランダムで決まるだけのものに過ぎないからですね。すなわち、やらせがない限り、あるべき頻度であるべき出来事が起こるのです。カードを引くにあたって、予言者・霊媒師・狩人・狂人はそれぞれ13分の1の確率、人狼は13分の3の確率、人間は13分の6の確率。これは絶対に揺るがないわけです。少ない試行回数の中では偏りがあったとしても、試行回数を重ねていけば、自然な形に収束します。

大崎さんの作戦を、誰もが、取るに足らないネタとして見ているようでした。共演しているほかの12人も、観戦している人たちもです。田下広夢さんやとどじゅんさんも、これを、ゲームとは関係のない話として受け取っていたようでした。ネット上にある、アルティメット人狼7の感想をさらっと見ても、大崎さんの提案を本気にして受け取るべきだという意見を、僕は一切見つけていないです。ニコ生の視聴者のコメントはどうだったのか全容はわかりませんが。僕はこれについて、意外とみんな気にしないのかな? と見解の相違を感じています。

というのは、僕にとって、「これまでの戦いの座席と役職の関係から、今回の戦いにおける人狼を見つけ出す」は、至高の考察だからです。言わば、アルティメットメタ推理です。議論のとっかかりとして、これほど信頼できる手がかりはないと思います。

それぞれのカードを引く確率は決まっています。プレイヤーAさんが13回人狼ゲームをするとしたら、確率を基に考えれば、そのうち、1回は予言者のカードを引くはずです。一方、人狼のカードは、3回は引くはずです。しかしもしかしたら、13回のうち、予言者を1回も引けないかもしれません。しかしその場合は、次にやる13回の人狼ゲームのうち、2回は予言者のカードを引きそうです。そうすればAさんは、26戦中2戦で予言者のカードを引いたことになります。予言者になる確率は、26分の2、イコール、13分の1であるわけです。しかし、26戦中の後半であるその13戦で、人狼のカードを1回も引けないかもしれません。しかしその場合は、確率から言って、そのあとの13戦で6回人狼のカードを引きそうです。そうすれば、通算39戦中9回人狼のカードを引いたことになり、イコール13分の3です。 

★呪われた席の真相

座席もプレイヤーと同じことです。これまでの座席では2番席に人狼が多い、という調査結果を受けて、2番席のハイラム澤田拓郎さんが椅子から立たされました。ハイラムは、それは当たっているかもしれない、と自分自身にとって残念な答えを出しました。人狼TLPTでも「呪われた席」とされている、と。デイジー寺島絵里香さんも、「ね」と同意していました。

それを聞いて僕は、そうなの、と思いました。そして実際に、「7」終了後、僕は公式サイトのプレイログを調べました。2015年の4月の「村」の第1ステージから、プレイログが残っている13人レギュレーションのゲームを数えて、ちょうど130戦が、アルティメット7直前の夏村千秋楽でした。下の集計は、アルティメット人狼7直前の人狼TLPT130戦において、2番席に位置したキャストと役職をまとめたものです。(スマホの画面だともしかして字が小さすぎて見えないかな~…細かい表がこのあといくつか続きます)

人狼TLPTで、2番席が呪われた席なのかどうか調べた結果、数え間違いがない限り、少なくともアルティメット7直前の1年半においては、そうではなかったことが判明しました。能力を持たない人間の確率が若干能力者のほうに持っていかれていて、また、人狼の確率が若干狂人(狂陣)の確率に流れているものの、全体としては、130戦中、人間陣営90:人狼陣営40で、ぴったり9:4になりました。特徴としては、DEPTH前半と、DISMISSでの人狼陣営率が高めです。対して、福岡公演(デヴィッドが連続している箇所)・DEPTH後半・宇宙兄弟から夏村前半にかけてが、人間率100%で、これにより130戦を通してのバランスがとれています。ある期間に偏りがあったとしても、全体として見たときに、あるべき出来事が起きている、ということがわかる好例です。

ではなぜ、人狼TLPTにおいて、2番席が呪われた席とされていたのか……。キャストにとってよほど印象的な出来事がゲームか稽古であったり、あるいは、マドックが以前話していた怪談話(夜タイム目を瞑っていると、得体のしれない何者かに叩かれた)のような、ゲームとは関係のない恐怖体験があったり?  

★今まで人狼だったんだね、じゃあ、今から人狼じゃないね

アルティメット人狼7を終えて、シリーズ通算26ゲームが終了しました。ちょうどよく13の倍数で、13が2周する回数です。下の表が、アルティメット人狼における、各回の座席別プレイヤーと役職の一覧です。

 

上の表の下部では、人間陣営を「いいひと」、人狼陣営を「わるもの」とまとめています。全体として、カードの引きは、ほどよくばらけています。およそ確率通りに役職があてがわれています。中には、予言者0、霊媒師0などの座席がありますが(大崎さんのメモでも明らかにされているのでしょうね)、しかし能力名というピンポイントの見方ではなく「能力者(予言者+霊媒師+狩人)」という括りで広く視野をとって眺めると、だいたい均されているのがわかります。確率で考えれば、26戦のうち6戦は能力者となりますが、およそどの座席も、「6±1」程度に落ち着いているのがわかります。そんな中偏っているのは、11番席と12番席です。11番席は、26戦中2回しか能力者を引けていず、代わりに26戦中12戦「わるもの」です。「わるもの」率は、26分の8が適正ですから、この値は標準の1.5倍です。対して12番席は、「わるもの」が26戦中たったの4回で、適正な値の0.5倍に過ぎません。そして能力者が26分の11と、適正な値26分の6の2倍近くあります。11番席と12番席、この2つの椅子だけ偏りが激しくて、したがって、この2つを足して2で割ると、平均値になるわけです。

このデータから、将来について言及できると思います。まず、偏りがない席、つまり1~10番席、そして13番席については、予測が困難です。しかし、11番席と12番席は、これまで偏ってきたという事実から、「今後は逆の偏りをする」と、ざっくりとした予測ができます。

今後のアルティメット人狼シリーズ26戦において

→適正な値:人狼陣営8回、能力者6回

→11番席:人狼陣営4回、能力者10回(人狼陣営率0.5倍、能力者率約1.7倍)

→12番席:人狼陣営12回、能力者1回(人狼陣営率1.5倍、能力者率約0.17倍)

だから、アルティメット人狼が今後も開催されるとして、人間たちが疑ってかかるべきなのは、12番席に座っている人です。対して、人狼たちがいきなり襲っておきたいのは、11番席に座っている人です。

僕が主張したい、座席別の統計はアルティメットメタ推理というのは、こういうことですね。これまで人狼の率が高かったのなら、これからは人狼の率は低くなるはずだし、反対に、これまで人狼の率が低かったのなら、これからは人狼の率は高くなるはず。アルティメット7-3での展開とは逆です。初日に、大崎さんの調査報告の結果、人狼の疑いがあるとして起立した4人の出演者(ハイラム、村中、香川、大野)を、初日処刑候補から除外するのが、データの本来的な活用であったのでした。 

★この村に数学の能力を授かった方はいらっしゃいますか~

そういうわけで僕は、アルティメット人狼7-3の初日の模様を、きわめて物足りない気持ちで眺めていました。人狼ゲームを観戦してきてもうすぐ2年くらいですが、今までで1番、「そうじゃないんだよね~」というもどかしさを感じていた時間でした。あのあと、「4人の中に1人くらいは人狼はいるのでは」という話に繋がり、そのまま4人に注目する流れでしたが、僕はそれがひどく気に入らなかったわけです。一応結果論としては、「今まで最も人狼の率が高い」席にいたハイラムと香川さんは人狼ではなく、「次点として人狼の率が高い」席にいた村中さんと大野さんのうち、大野さんは人狼だったので、「4人のうちさすがに1人は人狼なのでは」という推理自体は正しかったですし、そしてそのゲーム進行は、「13分の3が人狼」という割合を基にした考察によるもので、それ自体は道理に適っていました。しかしせっかく、推理材料が何でもありのアルティメット人狼において、これまでのデータという確実な情報が提示されたのだから、それを適切に活かすのが、より適正な、戦いの攻略方法なのです。

とりわけ、処刑候補として立たされた4人は、率先してそういう弁明をすべきでした。なにせ、データの不条理な使い方で自分が絶命に近づいているわけですから。「自分の席の人狼の回数が今まで高かったのなら、今回は人狼じゃないと考えるのが自然だろう!」と。結果、村中さんは死んでしまいましたしね。ダンカンあたりがいたら、ちゃんと指摘したのかな、とも思います。「ある席が3回連続で人狼だったのなら、次の10回は人間と思われるし、ある席が10回連続で人間だったのなら、次の3回は人狼と思われる」とたとえ話を出したりして。

僕が言っているのは、人狼ゲーム上のプレイそのものには関係がない、確率への向き合い方についてですね。まあデイジーの場合は、「勉強苦手だけど最強」というキャラクターは愛らしいわけで、数学の能力を期待するのは間違っているように思いますが、アルティメット第2部でいうと、デイジー以外の12人には、こういう考え方を見せてほしかったですね。感想戦のときにでも。 

★ゲームにおける確率

人狼ゲームに限った話ではなくて、基本的にゲームに親しむ場合は、プレイヤーは確率を意識するのが当たり前であると、僕は思うんですよね。

たとえば、ポケットモンスターのゲームにおいてロマンを駆り立てられる初期のわざの中に、「ばくれつパンチ」があります。これは命中率が50%です。2回放てば、うち1回は当たり、うち1回は外れる確率です。こういうことは小学校高学年くらいの子なら意識しているはずなんですよね。ばくれつパンチが2回連続で当たれば、さすがに次は外れるかも、と思うのが普通で、この調子ならどんどん当たる、とは思わないはずです。また、一撃必殺わざ「ぜったいれいど」の命中率は3割です。2回外れたら、まあそろそろ当たってもいいだろう、と思うし、1回命中すれば、さすがに次の2、3回は外すかな、と思うはずです。

デュエル・マスターズのカードゲームでは、40枚のカードから成るデッキを使用しますが、僕は、マナコスト2と3のカードは、せめて8枚は入れたい気持ちでいます。デッキタイプにもよるのでしょうが、最初に引く手札は5枚であり、ということは、コストの低いカードをせめて1枚は最初から保持するためには、確率的にはそれらは40枚のうち8枚は要るわけです。これについて、小学生のころの僕はもっと厳しくて、どんなに改造するときも、コスト2のカードを絶対10枚は入れていました。デュエル・マスターズ初期で、しかもお金がない子どもとなると、レアカードを駆使したゆっくりじっくり攻めるデッキは作れないので、基本的には速攻~中速のデッキを作ることになります。僕は年下の子たちにも、コスト2のカードは8枚入れたほうがよい、としばしば指示していました。 

★あるべき値へ

座席ごとの確率の話から、プレイヤーごとの確率に話題を移して、デューク大里雅史さんのツイートです。10月の人狼TLPT4周年記念公演についてです。

大里雅史@oh_sonmin  · 1019

振り返る 初日にゲネプロで霊媒、その後の1ステージ目で霊媒っていう神引きをする 個人的には霊媒って凄い能力だし、更に言えば、個人的には50ステ迄の能力引きで9回霊媒引いていて、そっから以降全然引かなくなるのだけど、思い入れのある役職なんす

デュークはTLPTデビューから50ステージまでに、霊媒師のカードを9回引いているのですね。霊媒師を引く確率は13分の1であり、つまり52分の4ですから、50戦までには4回引くのが平均です。一方デュークは9回と、その2倍以上引いています。しかしこのあとの50戦、60戦で霊媒師のカードを引かないのなら、104分の8、イコール、13分の1に接近して、適正な値に戻るわけですね。このデュークの例も、数多くの試行が偏りを均すことを示す1つです。

アルティメット人狼シリーズに多く参加している出演者の役職をまとめた、データ(単純な情報)と統計(データを基にした計算結果)です。見てみると、児玉さん、大野さん、森本さん、あと将棋棋士・女流棋士グループの人たちは、わりとバランスよく引いています。一方TLPT陣を見ると、偏りがあるのがわかります。マドックの人狼陣営率は16分の2、デイジーの人狼陣営率は15分の2と低く、反対にメイソンは人狼陣営率12分の6と高いです。デイジーの場合は、狂人のカードは引いているものの、人狼のカードを引いたのが15分の0と、平均値13分の3から遠いです。もう1人、安西さんも偏っています。人狼陣営率15分の8と、今のところ最も悪者の率が高いです。イシイジロウさんの場合は、人狼率は22分の1と、13分の3よりも遥かに低いものの、対して狂人のカードは22分の4引いていて、これは平均の値13分の1の2倍以上です。だからイシイさんは、「人狼陣営率」という広い見方だと、そんなに偏っていません。

アルティメット人狼7にあたって、僕は「6」までのカード引きから、少なくともデイジーは1戦は人狼で、もしかしたら2戦連続人狼も考えられるし、一方メイソンは2戦とも人間陣営なんだろうな、と漠然と思っていました。そうしたら、メイソンのほうは当たりましたが、デイジーのほうは外れました。1戦目、デイジーの、「人狼を引けなかったのでMVP私はとれない」といった自己紹介を聞いたとき、あれ? これは予言者COをしない表明みたいなもので、ということは人狼じゃなさそうだな、と感じたら、やはりそうでした。2戦目、遺言で狩人COをして、あ、これはデイジー人狼だ、試合が終わる、と確信したのですが、こちらは外れました。現在人狼率15分の0であるデイジーは、このあと人狼のカードを「11分の6で引く(通算26分の6になる)」・「24分の9で引く(通算39分の9になる)」・「33分の12で引く(通算52分の12になる)」となれば、平均値である13分の3に戻ります。アルティメット人狼への出演が続いていけば、じっくりとあるべき率に変わっていくはずです。

情報を基に、次のアルティメット人狼での配役を予測するとしたら、一例はこのような感じです。「人狼:イシイ、マドック、デイジー、狂人:村中、予言者:香川、霊媒師:メイソン、狩人:大野」。もちろん実際に人狼ゲームをする・観るにあたっては、こういうのはノイズでしかないです。ちゃんと勝つには、その都度推理していかないといけません。一蹴していい、至ってどうでもいいお話です。と言いたいところではありますが、7の3戦目みたいな展開もありますからね、こういう考え方は胸に秘めておくのがいいと思います。 

★仲間である確率13分の7、敵である確率13分の6

人狼ゲームにおける確率の考え方の1つとして、「仲間である確率」と「敵である確率」についてです。アルティメット人狼のレギュレーションだと、プレイヤーAさんにとってプレイヤーBさんが、仲間である確率は13分の7、敵である確率は13分の6です。

まず、Aさんが人間陣営である確率は、13枚のカードの中から人間陣営のカード9枚のうちいずれかを引けばいいので、13分の9。これに続いてBさんも人間陣営となるには、残りの12枚のカードのうち、残っている8枚の人間陣営のカードのいずれかを引けばいいので、その確率は、(13分の9)×(12分の8)=(156分の72)となります。そして、AさんとBさんがともに人狼陣営となる確率は、今の方法と同じ考え方で、(13分の4)×(12分の3)=(156分の12)。この2つの和が、AさんとBさんが同陣営である確率です。(156分の72)+(156分の12)=(156分の84)、約分して(13分の7)です。

逆に、AさんとBさんとが敵陣営である確率は、(Aさんが人間陣営のカードを引く確率)×(Bさんが人狼陣営のカードを引く確率)=(13分の9)×(12分の4)、これと、(Aさんが人狼陣営のカードを引く確率)×(Bさんが人間陣営のカードを引く確率)=(13分の4)×(12分の9)の和です。つまり、(156分の36)+(156分の36)=(156分の72)=(13分の6)です。同陣営である確率13分の7を、1から引いても、同じ値になります。

人狼ゲームで、両陣営の数がぴったり1:1になるのであれば、仲間になる確率・敵になる確率はそれぞれ2分の1ずつ、50%ずつになるわけですが、13人の区分が9:4という比なので、50%:50%から、ちょっとずれるということのようです。

また、この計算結果から、同じメンバー13人でゲームを繰り返したとき、自分(プレイヤーA)と、とあるプレイヤー(プレイヤーB)が、仲間である回の平均は7回、敵である回の平均は6回になる、と言えます。そういう観点から、アルティメット人狼について、人狼のカードを1度も引いていないデイジーを見てみます。

左から、「マド、メイ、児玉、大野、森本、イシイ」です(表の1番上にしか名前を書いていなくて見えづらかったので)。同陣営:敵陣営の比が、7:6になっていれば、平均値なのですが、マドックとの関係が偏っています。12:1。シリーズで通算13回共演している中で、敵対したのは、5-3のたった1回だけです。マドック、デイジー両者ともにこれまで人間陣営が多かったので、自然ではあります。マドックは3-1で狂人、デイジーは6-3、6-4で狂人ですが、そのときはちょうど相手が出演していませんでした。

この統計でわかる偏りから予測できるのは、今後は逆の偏りをしていく、すなわちマドックとデイジーは、敵対していくことが多くなりそう、ということです。先述の予想「次回の役職決めではマドック、デイジーが人狼になる」と矛盾していますが、長期的な視野で見れば、敵対率は上がっていくはずです。 

★完全ランダムで処刑したら、どっちが勝つ?

最後の確率の話として、人狼ゲームにおけるレギュレーションの話です。ゲーム開始時の総人口が7人である村、8人村、9人村、10人村、11人村、13人村、15人村、色々な形式を見たことがあります。よく、「このレギュレーションは人間がきつい」や「人狼にとって厳しい」などの声を聞きます。これは実際のところ数学的にどうなのか、気になる問題ですね。しかし気になる割に、僕はわりと信憑性のある情報を目にしてきませんでした。

どのレギュレーションがどの陣営にとってどうなのか。比べるには、「能力者を一切考慮しない」「昼の死亡者をランダムに決定する」という条件で、単純な確率の計算をしてみるとよさそうです。たとえば、次のようなモデルで表すことができます。

これは、アルティメット人狼のルールを基盤にしたゲームです。13個のりんごが入っている箱の中から、赤りんごを3個全て取り出す。完全にランダム、運試しの遊びです。このゲームは、勝ちやすいのか、それとも負けやすいのか。

そういえば児玉健さん監修のTBSの番組「ジンロリアン」は、役職を含めない9人村のルールでしたが、これは付属物を削ぎ落とした最も単純な人狼ゲームのあり方です。今する調査は、「これをほかのレギュレーションにも通じさせると」、という形になります。

「完全ランダム処刑」「能力者なし」の計算結果を示した表です。人間勝利の確率を、「人狼殲滅確率」という言葉を使っています。(「人狼を殲滅する」という表現は、マドック考案なんでしょうか?)表中の、たとえば「○○×○」というのは、人狼処刑について、1日目成功、2日目成功、3日目失敗、4日目成功を表しています。その図としての「×」は「ばつ」であり、計算式としての「×」は「かける」の意味です。計算式込みの表の下部に、計算結果だけ書いたまとめを載せています。

(状況、人狼殲滅確率)、(3人うち1狼、33.3%)、(5人うち1狼、46.7%)、(5人うち2狼、13.1%)、(7人うち1狼、54.3%)、(9人うち2狼、29.8%)、(11人うち2狼、35.2%)、(13人うち3狼、21.1%)

計算ミスが発覚したら僕がめちゃくちゃ嫌な気分になりますが、たぶん大丈夫だと思うんですよね……。数週間前に13人村の人狼殲滅確率を計算したら、答えは約15.2%だったのですが、そのあと、数通りの殲滅パターンを含んでいなかったことに気づいて計算し直し、答えは約20.8%になりました。そしてそのあとさらに、計算式の分子がちょっと間違っている部分が少々あることに気づいて(たとえば、9分の6が9分の5になっている、のような)、最終的に、「約21.1%」になりました。計算式自体は、勉強に意欲的な12歳くらいの子でも取り組める単純なものなのですが、長くて面倒なので、ケアレスミスが起こりやすいです。こういうただの作業は、現代では、人間がすべき仕事ではないですね。コンピューターにやらせる仕事です。電卓は使っていますが……。

それから、参考として、最近人狼TLPTで盛り上がっていた「あっち向いてホイ」も載せています。これは考えてみるとユニークなゲームです。第1段階のじゃんけんは3分の1で勝利、それをクリアしたときに、第2段階の指差しゲームの権利が与えられ、これは4分の1で勝利。2ラウンド制の運ゲーになっているのですね。12分の1で勝ち、12分の1で負け、残り12分の10でやり直しなので、結局勝つか負けるかは、2分の1です。

人狼ゲームの話に戻ると、ランダム処刑の場合、基本的に、どのレギュレーションでも、人間側が不利であることがわかります。先にりんご取りゲームで例えた13人村の場合は、人間勝利の確率は2割です。9人村は3割です。上の表に書いた状況の中で1番きついのは、5人中2狼の場合ですね。勝率13%です。こういうレギュレーションはないのでしょうが、13人村でときに見る光景です。能力者COをしている3、4人の人物を最初の4日で処刑する進行だと、残り2日で人狼2人の状況になります。能力者の真贋を見極めたとしても、そこから、生きている人狼を2連続で見極めるのは簡単ではないですからね。

9人村のゲームを10回やれば、3回は人間が勝利。13人村のゲームを10回やれば、2回は人間が勝利。ランダム処刑の場合はそうです。一方、アルティメット人狼では、シリーズ通算で人間側が勝ち越しています。必ずしも人間側が負け続けないのは、理由として、①そもそも人狼は嘘をつかなければならないというハンディキャップがあること、②狂人の存在を上回るほど、能力者が人間側を大きく有利にすること、この2つあたりが推測できます。 

★9人村と13人村の比較

11月11日の金曜日に、人狼スリアロチャンネルで、「視聴者参加村」というものが開かれました。ゲームの昼の議論の度に視聴者アンケートを実施し、得票数の多さを投票に反映するという試みで、優れたアイデアでしたね。僕は残念ながらタイムシフトで観たのでアンケートには加わっていませんが、おもしろかったです。この回では、ニコ生のアンケートの仕様に対応するために、通常の13人村ではなく9人村でのゲームとなりました。人数が少ないと、展開がスピーディなのがいいです。短期決戦はゲームの密度があります。

9人(狼2、狂1、占1、霊1、騎1、村3)のレギュレーションについて出演者の何人かが、「このレギュは人間側がきつい」という趣旨のことを何度も言っていました。ゲームをやってみたら意外と人間側が勝てるので、放送の途中からルールを変更して、人狼陣営は狂人ではなく狂信者となりました。その、意外と人間側が勝てる理由として、視聴者投票のためパワープレイが起きないという点や、視聴者が人間陣営の完全な味方となって投票してくれるという点が挙げられていました。

いつもの13人村よりも9人村のほうが厳しい、という出演者の意見を聞いて、僕は実は、「あれ、やばい、自分の考え方は根本的に誤っていたのかも」とドキッとしていました。でも、もう1回ちゃんと考え直してみて、いや、やっぱり間違っていない、と結論づけられました。

なぜスリアロの出演者たちが、このレギュはきつい、と言っていたかというと、9人村の場合、「4吊3人外」だからだと思います。「処刑チャンスは4回で、悪者は3人」。一方13人村は、「6吊4人外」です。「処刑チャンスは6回で、悪者は4人」。前者だと、4分の3で処刑を成功しないといけなくて、後者だと、6分の4で処刑を成功しないといけない。75%と66%の差、また、1回のミスまでOKと2回のミスまでOKの差、こういった数字から、9人村のほうが難しい印象を持ってしまうわけです。ありふれた言い回しだと、数字のトリックですね。

前述のように、ランダム処刑だと、9人村の勝率は3割、13人村の勝率は2割です。9人村のほうが人間が勝ちやすい理由の説明として、「9人村は、残り9人の状況で、絶対に・確実に悪者3人」だが、「13人村は、残り9人の状況で、悪者3人に減っているとは限らない」が挙げられると思います。

13人村だと、人口が9人になるまで、2回の処刑を経ます。この、最初の2日の処刑は、①2回とも悪者を処刑できる、②1回悪者を処刑できる、③2回とも悪者を処刑できない、3通りに場合分けできます。①「2回とも悪者を処刑できる」を遂げられれば、9人中悪者2人という、普通の9人村よりも順境です。②「1回悪者を処刑できる」なら、9人中悪者3人で、通常の9人村と悪者の数は同一です。③「2回とも悪者を処刑できない」のときは、9人中悪者4人になってしまい、通常の9人村よりも厳しいわけです。①の確率は(13分の4)×(11分の3)=(143分の12)、③の確率は(13分の9)×(11分の7)=(143分の63)、そして残りの確率が②で、つまり(143分の68)です。ということは、13人村が9人まで人口が減ったとき、9人スタートの村よりも好条件になっている場合が、①約8.4%、9人スタートの村と同条件になっている場合が、②約47.6%、そして、9人スタートの村よりも悪条件になっている場合が、③約44%です。13人村は、1割に満たない確率で、9人村のスタートラインを超えることができるが、4割を上回る確率で、9人村のスタートラインに立つことができない、ということですね。あくまでランダム処刑の場合はですが、こういった理由で、13人村のほうが厳しいわけです。

(つづく)

コメント

「アルティメット人狼」「松崎史也」「児玉健」、初めてWikipediaを編集して(4/4) 4.他人と伝え合うことと一人で考えること

2016年11月17日 21時56分50秒 | アルティメット人狼Wiki

4.他人と伝え合うことと一人で考えること 

★事実を調べていくこと

僕は人狼ゲームについてけっこう調べていますが、「松崎史也」「児玉健」についてもけっこう調べています。自分の意見、感想、考えとして、マドックはこうだ、コーダはこうだ、と書いていくことで済ませられれば楽なのですが、ウィキペディアはそうではないですからね。事実をその通りに書く作業は、自分の考えを述べる活動よりも面倒で大変です。僕にとっては基本的にそうです。小谷野敦さんの本では、「何年に誰が何をした」、といった単純な出来事の記述が、後から本人のブログで訂正されるのをよく見ます。何ページ、「松川一郎が書いた『骨図鑑』は……」→「川松一郎が書いた『背骨図鑑』は……」みたいに。事実をたくさん書いていくと、気をつけていても、どうしても誤記が生じてしまうのですね。そのことが、自分で百科事典の編集をしていると実感してきます。 

★正確にまとめる難しさ

僕は全然松崎史也さんについて詳しくないです。人狼TLPTで医師マドックを知ってから15か月後くらいに松崎史也のウィキペディアを作ったわけですが、ウィキペディアを別に考えれば、僕は松崎史也さんのファンっぽい行動はしていないと見なされるのではと思いますね。首都圏に住んでいるのに、松崎さん演出の作品を観に行ったことがないし、TLPT自体も劇場では1回しか観劇していません。

今年になってからセブンスキャッスルチャンネル内で始まった「マメばん」では、TLPTファンの人々が、お便りのほかに、イラストや音楽作品や、グッズのアイデアなどをマドックとメイソン宛てに送っているのが見られます。僕はそんなファンの姿を見て、報酬がもらえるわけでもないのによくそういう活動を進んでやるなあ、としばしば感心するのですが、でも、よくよく考えてみれば、僕がやっている、ウィキペディアを作ることもそれに近いです。その有名人のために自分が活動することで、自分が満たされるからなのですね。僕は「松崎史也」のウィキペディアがない世の中にフラストレーションを溜めて、こんな世の中はおかしいと、自分で世の中を変えようとしたわけです。松崎史也のことを大して知っていないにもかかわらず……。

「松崎史也」のウィキペディアを作って数日が経ったとき、2ちゃんねるの人狼TLPTのスレッドで、次のような会話がなされているのを見つけました。

145 名無しさん@公演中[sage] 投稿日:2016/08/10()

  wikipediaのマドックの記事ちょこちょこ間違ってたり抜けてたりして気になるけど記事編集したことないしやり方わからなくてできない

148 名無しさん@公演中[sage] 投稿日:2016/08/10()

  >>145  ggrks

149 名無しさん@公演中[sage] 投稿日:2016/08/10()

  >>148  そこまでしてやろうとは思ってないごめん

マドックのウィキペディアの中に、いくつか誤っている箇所があるという書き込みで、僕は非常に気になりました。「ggrks」というのは「ググれカス」の意味です。わざわざ他人に頼らないで自分でインターネット検索して調べなさい、ということで、言われたほうの人は「ごめん」と謝っています。実は僕はこの会話を受けて、「マドックの記事どこが間違ってるの?」みたいな書き込みを投稿したはずなのですが、実際には投稿できていませんでした。つまり僕はこの方とは反対で、ウィキペディアの編集の方法はなんとかマスターできましたが、2ちゃんねるの投稿の仕方をいまだわかっていません。このあと、松崎史也のウィキペディアを自分で見直してみると、たとえば「ゲームクリエイター人狼会」が「ゲームクリエイター人狼界」という表記になっているのを見つけて、つまりこれは、ただ単に誤字脱字を指摘していただけなのかな? と、一応わかったつもりになっていました。

そうしたら、それから数日後に、新しい編集者が現れて、松崎史也の記事の誤記を訂正してくれました。先述した、櫻井千穂さんという利用者名の方です。1番間違っていた・抜けていたのは、2014年、BLAZBLUE、ブレイブルーの舞台の演出のお仕事の記載のようでした。当初僕は、「2015年、ダンガンロンパで、ゲーム原作の作品を初めて演出」といった記述をしていたのでしたが、松崎さんはそれよりも前にゲーム原作のを演出していたのでした。しかもこれは松崎さん自身にとってだけでなく、「格闘ゲームとしては初となる舞台化」でもありました。

なんで僕が誤ってそう記述してしまったのかというと、まず、ブレイブルーというゲームを知らなかったからです。一応、ウィキペディア内で同一名の他ページにリンクを繋げられるかどうかは確かめますが、舞台のタイトルで試していても、「BLAZBLUE」というタイトルでは試していなかったので。ただ、何が自分を1番間違わせたかというと、他人のせいみたいな言い方になりますが、松崎さん主宰の「SP/ACE=project」公式サイトのプロフィールです。このサイトの、演出家としての松崎史也の紹介の欄では、ダンガンロンパ演出がわりと強調されているので、これが特別なんだろうと先入観を持ってしまうわけです。

公式サイトの情報が間違っていると、知識が皆無の素人にはどうしようもない部分があって、たとえばほかに、SP/ACE=project公式サイトでは、演出作品一覧の中に「2010年 PRISM」という記載があります。僕はこれについて、全くわけがわかりませんでした。なぜなら、松崎さんのブログの2010年の記事を読む限りだと、そのような仕事をした形跡が一切ないからです。松崎さんのブログの記載を信頼すれば、演出家としてデビューした2010年は、最初に「アリスの愛はどこにある」、次に「スティール・スティール」、そして「OASIS」、これら3作品演出のはずです。つまりご本人のサイト同士で矛盾し合っているのですね。だから、「2010年 PRISM」というのは、どういう意味なのだろう、何が正しいのだろうと、僕は4日間思案していました。そしてようやく辿り着いた1つの答えが、SP/ACE=projectの公式サイトのほうが誤記であるということです。そう考えれば、全部辻褄が合います。公式サイトだと、OASISのほうの演出の年が2014年になっていますが、これは再演の年だけ載っている状態です。というわけでやっぱり2010年は、PRISMではなくてOASISなんですね。さらに言うと、プロフィールには、松崎さんは「2010年より演出家としてのキャリアをスタート」とされてある一方、2010年演出の作品は「PRISM」しか書かれていないため、これだと、デビュー作がPRISMであるかのような印象も持ってしまいます。

それこそ「エレキ隊」のころからの松崎史也ファンからすれば、些末な誤記には惑わされないでしょうが、僕は全然知らないですからね。だからこそ、僕のような「にわか」ではなくて、真の松崎史也ファンの人に、松崎史也のウィキペディアを作ってもらっていたかったのですが……。ウィキペディアに松崎史也のページが作成されていなかったことが、僕には非常に不思議なことでした。櫻井千穂さんは、今まで作成されなかった要因の1つは出典の問題(「信頼できる情報源」としてのニュースが足りなかったこと)と指摘したのですが、僕はそれを否定しました。確かに松崎さんは20代のころはあまり社会で話題になっていない芸能人だったでしょうが、人狼TLPT出演以後は、十分「特筆性」があるのですね。人狼プレイヤー(「人狼俳優」)として、演出家として。演劇作品を紹介するニュースに、松崎さんの名前が記される時代になっています。

★ほかの編集者との議論

僕はこの櫻井千穂さんと多くの議論をしました。今まで生きてきた中で、これほど、文書を通して意見の交換をしたことはないと思います。これまでこのブログに書いて来たように、僕が文書で意見を提出する場合は、相手がハラスメント的であるなど、圧倒的に僕のほうが正しい場合がほとんどだったため、言わば「主張のキャッチボール」の機会がなかったわけです。基本的にはそういうあり方が望ましいです。反対の立場をとっているただ1人の相手との口論を続け密室を作るのではなくて、周りの人に働きかけることが大事です。本当に、僕も18歳くらいのときにこういうことをわかっていれば、萩原先生を正すことができたんですけどね。1人の教員との間で起きている問題は、ほかの教員にも伝えないといけないです。要は公開ですね。ウィキペディアでの議論は、全ての人の目に晒されていて、これは望ましいことです。言い合いの光景は開かれていたほうが絶対いいです。

このブログの記事はウィキペディアの自己紹介ページにリンクを貼るので、櫻井千穂さん含め、僕が関わった編集者の方の人はこの記事を読むことと思います。その上で言いますが、僕は櫻井さんとの意見交換は、ずっと困っていました。というのは、櫻井さんはしばしば、意味不明なこと、愚かなことを言うからです。相手に対する言い方が乱暴なわけでは決してなくて、言葉遣いの礼儀の面で劣っているわけではないですし、ページを充実させる作業自体は堅実にやってくれているのですが、必要なだけのコミュニケーション能力がないように僕は判断しています。悪気があるのではなくて、ただ力がないのですね。櫻井さんが読んだら傷ついたり怒ったりするかもしれませんが、僕は不快にさせようと思って嘘の発言をしているのではなくて、心底「困ったな~、能力がないな~」と思って言っています。

現代日本で「コミュニケーション能力」「コミュ力」というと、「他人と仲良くする能力」のように解釈されることがありますが、コミュニケーションという言葉の第一義は「情報の伝達」です。だから、僕がここで言っているコミュニケーション能力というのは、「相手が何を言っているのか理解する力」「何が書かれているのか読み取る力」「自分が、相手の話を理解している状態でいることを、自分の言葉で相手に伝える力」「自分の主張をわかりやすく表現する力」などです。

「松崎史也」のノートページを見てもらえればわかるのですが、櫻井千穂さんは、ウィキペディアのルールが書いてあるページまで辿り着いていても、それを読んで理解できていない場合がけっこうあります。たとえばウィキペディアでは、主観的な記述はいけないというルールがあります。「マドックは強い」という表現はダメで、「○○では、マドックは人狼TLPTの看板役者と紹介された」「○○では、エースと紹介された」などと、情報の出所を明示して書かないといけません。櫻井さんはそれを誤読している期間が長くて、「○○では、エースと紹介された」という記述もダメだと考えているようでした。記述が特定化できていない、表現が抽象的である、と。僕はそうではないと反論しました。「ウィキペディアの意見」として「マドックは人狼TLPTのエースである」と書くことが禁止されているというだけ。論者やメディアによる意見自体は載せてよくて、その場合特定化しなければならないのは発言者であり、意見自体は抽象的でよいのだと。これを、今ではわかってくれているかもしれませんが、1回言ってもわかってくれないようで困りました。

最近だと、櫻井さんは、マドックの人狼プレイヤーとしての「評価」の項目と「周囲に与えた影響」の項目の区分けが不明瞭だという指摘をして、僕を困らせました。「マドックはこういうプレイヤーである」という言葉は「評価」だし、「私はマドックによってこうなっている」という言葉は「周囲に与えた影響」だし、そんな、問題提起するような箇所ではありません。

基本的に櫻井千穂さんは、自分の間違いを指摘されたとき、それを無視していきなり別の話題に入るという傾向があるので、わかってくれたのかわかってくれないのか、こちらからすると理解できなくて戸惑うんですよね。それまで続いて来た、ほかの人の話の流れに合わさない、単発的な発言が多くて。今では、単に受け答えが苦手な方なのだと解釈していますが……。ほかにも、「中立性」「過剰な内容」などの意味を間違っていて、ルールのページを見つけていながら、理解していないのですね。これはやっぱり、読み解く力の不足です。文脈、背景といった全体を見ないで、1つの単語や1つの言い回しに気をとられ、全部の意味を短絡的に判断してしまう。悪い癖です。 

★コミュニケーションの不成立……学園ステージでのマドックとノエル

コミュニケーションの参考として、人狼ゲーム中の一幕を取り上げます。人狼TLPT4周年記念公演の千秋楽、学園ステージからです。

この回では、初日に霊媒師COが3人いました。順に、キンバリー、ハイラム、マドックです。マドックは初日、予言者COをしている1人であるグレンから人間の判定をもらってい、さらに2日目、もう1人の予言者COした人物であるドリスからも人間判定をもらっているので、必ず人間です。1日目にハイラム、2日目にキンバリーを処刑と、順当に霊媒師に手を付けていき、3日目。マドックは、対抗霊媒師の2人がともに人狼であったと霊媒結果を述べているという状況です。

下記の台詞で、「聖夜(せいや)」というのはノエルで、「段間(だんま)」というのはダンカンです。 

ノエ「あのさ、ノエたんってね、いちばん最初に、ラムハイを疑ったの。覚えてない? 『俺はラムハイ疑ってるよ! 投票すると思うよ』って言ったから、(ハイラムは)『じゃあもう霊媒師です』って言ったの。でも(ハイラムは)人狼だったんでしょ? じゃあ、ノエたん違くない?」

マド「聖夜、俺がお前を疑っているのは、人狼にのみ、俺が本物だということが初日からわかっていた。(霊媒師3人の内訳が)『人狼・人狼・霊媒師』だからだ。だから、初日に俺を疑っていた者の中に人狼がいると考えている。俺が偽物の可能性を残し続けたのが、聖夜と段間だ。それは、貴様らが頭が切れるからだということも理解している!」

ノエ「えーと、全然話を聴いてくれてないように見えるんだけど、今の、ノエたんの意見をどう思うんですか、って訊いてんの」

マド「……」

ノエ「……」

(同時に)マド「あぁ?」・ノエ「しかとかよ」

マド「誰にものを言っている!?」

ノエ「あんただよ!」

ドリ「こわいよ~」

パン「喧嘩しないで、喧嘩しないで……」 

ノエルとマドックはお互いに論理的に自分の意見を述べているので、ぱっと見た感じ・聞いた印象だと、「人狼ゲームしてる」感は満ちています。しかしノエルは、マドックが、「(自分の)話を聴いてくれていない」と感じて、そこから一気に、このゲーム中最大のバチバチムードになります。

何が問題だったのかというと、ノエルの言う通りで、この場面でマドックは、ノエルのコメントを一切拾っていないのですね。ノエルの主張は、「マドック視点では人狼であるハイラムを追い詰めた自分は、マドック視点では人狼ではないはずなのでは」。対するマドックの主張は、「人狼の視点から本物の霊媒師と判明している自分を疑ったノエルは、人狼の疑いが強い」。お互いに論理的なことを言い合ってはいるが、相手の話を聴き合い受け答えをしているわけではありません。

なぜマドックが、ノエルの発言に触れなかったのかというと、これもただ単にノエルの言う通りで、マドックはノエルの話を聴いていなかっただけなのだと思います。この会話の直前に、マドックはドリスと1対1で話していたので、ノエルの説得の意味が、すぐには頭に入ってこなかったのでは、という想像が妥当です。そうでなければ、マドックは、ノエルの発言のあとに、たとえば「それはわかるが」とか「それも理解しているが」とか、ワンクッション挟んでから自分の説を言うはずだからです。

こういうのが、コミュニケーションが成立していない例ですね。役者さんはじめ、人前で話すことを仕事としている芸能人は、「あ、この話はもう広がらないな」「これ以上おもしろくならないな」と感知したら、ばっさり切って話題をするりと替える場合はあるでしょうが、普通そういう人たちは、他人の発言を拾い上げる技術にも長けているものです。その意味で、マドックとノエルとのこういうやりとりを見られるのは、そこそこ貴重だったのではないですかね? 

★婚歴の記載について

「松崎史也」のページで1番長々と議論になっていたのは、離婚を書くか書かないか、という問題です。松崎さんは2011年に離婚していることが、ご本人のブログで同年報告されています。今でも確認できます。最近だと、アルティメット人狼4の幽霊タイムだったり「マメばん」だったりで、松崎さんはネタにしています。病気の話題に絡めている場合は、ネタにはなっていませんが。

それで、僕は最初にページを作ったときに、僕からすると当然の記載事項として、離婚を書きました。数日後に、ナポタリアンという方が、離婚歴を削除していました。病歴と一緒にです。コメントは、「病歴・婚歴など、センシティブで来歴としても必要ではない箇所を削除」といったものでした。僕はこれを見て、普段ウィキペディアなんて使わない、マドックファンの19歳くらいの女の子、あるいは45歳ぐらいのおばさんあたりかな? と思ったのですが、「松崎さん自身が公開していることなので大丈夫」といったコメントで、僕は離婚歴・病歴を復元しました。そのあとに櫻井千穂さんが現れました。櫻井さんは、松崎さんの来歴を簡潔にする目的で、箇条書きにし、その過程で離婚歴も削除していました。先に書きましたが、ウィキペディアでは、人物伝は、箇条書きの編年体ではなくて、流れのあるまとまった文章を形作るのが望ましいので、僕はその変更を取り消しました。もちろん離婚歴も復元です。そしたらさらにそのあと、櫻井さんは離婚歴を削除していたので、僕はさらにそれを復元しました。「離婚歴を隠すと中立性を欠いてしまう」と。そしたらさらにそのあと、ナポタリアンさんが現れ、またしても離婚歴を削除していました。「来歴として不適切。そもそも結婚を取り上げず離婚だけ取り上げるのは百科事典の体をなさない」といったコメントでした。この時点で、松崎史也の離婚歴を、ナポタリアンさんが通算2回削除、櫻井千穂さんが2回削除、そして僕が通算4回復元です。

これにより、ウィキペディアの管理者が登場したのでした。「編集合戦はおやめください」と。Bellcricketという名前の方です。これにより1週間、「松崎史也」のページは改造不可能となってしまいました。とある記述を、消したり戻したり、その争いが起きると、「編集合戦」と認定されてしまい、こういう制裁がとられます。

調べたらわかったのですが、このBellcricketさんというウィキペディア管理者は、国内プロバスケットボール系の記事を精力的に編集している人物でした。それを初めて知って、僕は心を動かされました。今まで自分が読んできた記事は、この人が作っていたのか、という衝撃です。世界的に有名なバスケ選手ならまだしも、日本に1シーズンしか訪れていないようなアメリカ人選手の記事、「チェイス・マクファーランド」とか、よくもまあ日本語のウィキペディアにできているな、と思っていましたが、それはこの方の成果だったわけです。知識の作り手の正体に気づく、大げさに言って、これは世界の新発見です。知識とは、あらかじめ用意されているものではなく、誰かが作っていかなければならないもの。先に取り上げた、国語の教科書での「ネット時代のコペルニクス」の文章の本質自体は、とても正しいです。

それで、僕は初めてウィキペディアのノートページを使うようになりました。松崎史也さんの離婚歴を書くのは穏当である、という主張です。まずそもそもご本人が公開している情報であるわけで、ご本人に迷惑はかからないし、百科事典の記事を作る以上、できるだけ充実させるべきであると。

すると櫻井千穂さんがノートページで反応してくれたのですが、その内容があまりにも愚かで、僕は驚き呆れました。というのは、「プライバシーの侵害に抵触しかねない」というものだったからです。有名人がブログで「離婚した」と書いているにもかかわらず、一般人がほかの場所で「あの人は離婚したんだって」と言うことが犯罪になるなんて、そんな考え方はアホ過ぎます。インターネットに掲載することは、全世界に伝え広めるということです。仮に松崎史也さんが、「なんで俺が離婚したことがウィキペディアに書いてあるんだよ!」とキレて僕を訴えたとしても、裁判で絶対に僕は勝ちます。まあでも、僕がしていることが犯罪であると今まで思っていたのなら、櫻井さん・ナポタリアンさんの行動の意味は理解できます。

僕は櫻井さんを、馬鹿な人なんだな、と思って長々と諭すと、櫻井さんの返信の第一声は、「なるべく簡潔にお願いします」というものでした。そして反論は、「そもそも離婚歴は松崎さんの活動(俳優・演出家・脚本家としての仕事)・業績に関係がないので、記載に違和感を覚える」、「一方病歴については活動休止の理由なので、記載に値する」というものでした。これを聞いて僕は実は、「それなりに頭がいい姿も見せられるんだな」と少々感動しました。離婚歴の記載が犯罪だと指摘してきた櫻井さんのことを、僕はどうしようもない愚か者だと思っていたので、「病歴はこうだが、離婚歴はこうである」と賢く比較をしていることに感心したのです。落差の効果ですね。そして、離婚歴の記載が犯罪ではないとわかってもなお言ってくるということは、櫻井さんは本当に離婚歴を載せたくないんだな、そんなに言うなら、願いを受け入れてあげてもいいかな、と思い、仕方なく僕は離婚歴の削除に同意したのでした。

僕にとって、松崎さんの離婚歴の記載は、ウィキペディアを作るにあたって、「書いて当然のこと」であって、「書きたい!」という感覚ではなかった部分です。たとえば空腹を感じたときに、あれが食べたい、と思うことはあっても、箸を持ちたい、皿を手に取りたい、といった気持ちを抱くことはありませんが、それと同じです。目的を完遂するための条件として当たり前のことであり、欲望そのものではないです。とは言え、今でも僕は、離婚歴の削除には100%反対です。書き方についての検討はあっていいでしょうが、ページのどこかには、離婚したことを残すべきだと思います。今後松崎さんが再婚したら、櫻井さんはどうする意向なんですかね、結婚にはノータッチという方針のまま?

あともちろん、櫻井さんの、「離婚歴は活動に無関係なので記載の必要なし」という理屈自体は、完璧なものではありません。なぜなら結婚したかどうか以外にも、活動に無関係の情報はあるからです。たとえば松崎さんの血液型はO型ですが、これは活動に関係がないし、世の中で話題になっていることでもありません。櫻井さんの言い分に従うなら、わざわざウィキペディアに載せなくてもいい個人的な情報です。また生年月日は、「1980年生まれ」くらいは載せる価値があるかもしれませんが、誕生日まで書かなくてもいいはずです。1月生まれでも2月生まれでも3月生まれでも、才能に変化はないはずです。子どものころ太っていてメロンパンが好きだった、という記述も、書く必要はないわけです。

このあと僕は、「児玉健」のページを作りました。それにあたって、児玉さんが「結婚している」「娘がいる」「父親は児玉光雄」という、ご本人がネットで公開している情報を用いたわけですが、記事を投稿する前、「また今回も、『結婚している事実を勝手に明かすべきではありません』みたいなことを言ってくる者がいるんだろうな」と悲観していました。しかし、全然文句はありませんでした。「松崎史也」のページに比して、「児玉健」のページは全然反響がないですね。 

★役職は何かな

児玉さんのウィキペディアを作る中で迷ったことの1つが、児玉さんの職業です。「けん玉パフォーマー」であることは明白ですが、人狼ゲームの「何」なのかが、一言では言い表せないので、僕は考えました。まず根幹として、児玉さんの活動の最初はドイツゲームスペースの創設であって、児玉さんは「ドイツゲームゲームマスター」です。「アミューズメント施設経営者」と書くのは、違うような気がしたのですが、これでもよかったのかもしれないです。それから、児玉さんは「人狼プレイヤー」ではあるだろうな、とは思えるし、人狼TLPTでは「ゲームアドバイザー」だから、これも記すべきなんだろうな、とも思えました。児玉さんのツイッターの自己紹介欄には、「ドイツゲームスペース@Shibuya」「人狼ルーム」代表、これらの次にある肩書きは、「アルティメット人狼主宰」です。これをどう扱うかでしたが、「人狼ゲームイベントプランナー」と名づけました。僕自身はその呼称を聞いたことがないので、苦肉の策ではあるものの、この言い方だと、アルティメット人狼だけじゃなくて、色々イベントを考案している方なんだよ、と広く範囲をとれるので、利点があります。最初に書いたときは「人狼ゲームイベント企画者」だったのですが、ほかの職業が、「マスター」「プレイヤー」「アドバイザー」「パフォーマー」と外来語なのに、ここだけ「企画者」と漢語であるのは統一性がないなと気づいて、今どき風の「プランナー」にしています。

児玉さんは、世界的に見て、人狼ゲームよりもけん玉の分野のほうで有名そうに見えるのですが、児玉さんのツイッターの自己紹介だと、「ず~まだんけ」が最後に書かれているので、一応それを尊重して、人狼の後にけん玉のことを書いています。 

★人狼ゲームの用語

今まで当たり前のように「人狼プレイヤー」と使ってきましたが、たぶんあまり、「非外来語+プレイヤー」っていう言い方は、世の中にはないですよね? 「将棋プレイヤー」とか「相撲プレイヤー」とは言いません。「人狼プレイヤー」とは、「人狼ゲームプレイヤー」の略語ですね。「人狼ゲーム」と1字違いの言葉に「人生ゲーム」がありますが、人生ゲームをする人物のことを、「人生ゲームプレイヤー」「人生プレイヤー」とは言わないです。今更「人狼選手」のような言い方にもならないだろうし、「人狼プレイヤー」は定着しているんですね。

占われの結果を示す色として、「白」「黒」「グレー」がありますが、グレーだけ外来語です。これって、実社会においても同じなんですかね? 警察の人は、「あいつはグレーだ」とは言うが、「あいつは灰色だ」とは言わない? グレーはgrayで、yで終わっているので、「グレイ」のほうがたぶん正しいのでしょうが、明治時代?に訳してから、そのまま続いている一例です。「player」の場合は、「プレイヤー」よりも「プレーヤー」のほうが僕は親しみ深い感じがします。「プレー」「ナイスプレー」「プレーオフ」などがいいです。でもそれだと、「リプレイ」を「リプレー」と書かなければならなくなって、これはすっきりしません。「プレーステーション」も変だし、playは「プレイ」がいいということになります。ウィキペディアでは、一回「プレーヤー」で書いたあと、「プレイヤー」に直しました。

「人外」という言い方は、僕は納得できないです。人でない怪物、人狼・妖狐を人外と呼ぶのはいいのですが、人狼と狂人を合わせて人外というのは、受け入れられないですね。人でありながら人の心を持っていないという理由で、批判して狂人を人外と呼ぶのは理解できるものの、それを言うなら、霊媒師や狩人も、人間の通常のアビリティを軽々と超えているわけで、よっぽど人外のように思えます。狂人は、病んでいるとか自殺願望・破壊衝動があるという意味で、むしろ人間らしいです。つまり、①人狼・妖狐を人外と呼ぶ、②狂人・狂信者・背徳者を人外と呼ぶ、このどちらか一方にするのなら納得できるという話です。そういえば、TLPTで、夏から「狂人」を「狂陣」と表記するようになりました。配慮ですね。人狼ゲームは「処刑ごっこ」「殺し合いごっこ」なので、根本的に乱暴なんですけどね。たぶんアルティメット人狼も「狂陣」になるんだろうな、と僕は思って、だからウィキペディアに書かないといけないな、と思ったのですが、アルティメットのほうは表記変更していません。

それから、僕は「吊る」という表現にあんまり馴染めないんですよね。処刑する、の意味で、正式な用語です。アルティメット人狼のウィキペディアのゲームごとの表では、処刑を「吊」と書いていますが、文字数を削減して表を小さくしたいので、仕方なくこの書き方をしています。「吊る」だと、処刑の方法が絞首刑と決まりきっていて、もう少し人狼ゲームの世界を曖昧にしていてもいいと思うんですよね。まあでも、死刑のためには縄が要るという舞台設定で、「吊り縄が足りない」という言い方があるのは、世界観にマッチしているよさがあるとは思います。でもなんかな~と思うんですよね。縄じゃなくて武器(刃物・銃器)で処刑するんじゃないかな~と思います。「殺す」のほうが命の重さがあります。「処刑する」は、適当な大和言葉がないのでしょうかね。「処する」「刑する」……。

★淡い色

アルティメット人狼の各ゲームのレビューの際には、TLPT公式サイトプレイログに準拠した、席順・役職・生存を記した表を載せています。最初に載せたとき、意外と見えづらいことに気づいて、あとからカラーにしました。

このブログで前に触れたような覚えがありますが、埼大の国語専修だった、村……村中先生? あれ? 村山先生? 村田先生? あれ? 誰だっけ……、村……村西? 村野? あれ? 村本だっけ? 村……、鈴村? あれ? 困ったね? 村中、じゃなくて、村竹じゃなくて? あれ~? 思い出せないよ~、何だっけ? 村山? 村井? あ!!、村上だ!、村上先生だ!! 思い出した思い出した、村上先生! もう埼大にはいらっしゃらないようですが、その国語学の村上先生が、「表はわかりやすい、とよく言われるが、そうとは限らない。表にするほうがわかりづらいときがある」と言っていて、その通りだと思った、ということを僕は今言いたかったわけです。

 

TLPT公式サイトのカラーが上で、ウィキペディアのカラーが下です。最初はTLPTのとなるべく同じ色合いにしていたのですが、ちょっとダークな感じが強く、ここまできつくしなくてもいいな、と思って、パステルカラーっぽく変えています。TLPTのサイトは背景の色が黒なので調和がとれているのでしょうが、ウィキペディアは背景が白なので。もちろんウィキペディアは僕のものではないので、利用者はどんどん編集していいわけですが、今から表の色を全体に渡って変更するのは相当めんどくさいと思います。1マスずつ、色を表すコードを貼り替えていかないといけません。 

★ゲームレビュー

そしてその表の下に、各ゲームのレビューを記載する形式を採っています。ゲーム内容は、僕は相当かいつまんで書いています。余計な要素を省きまくって、なるべく短く、というのが方針です。アルティメット人狼のウィキペディアについて、けっこうみなさん、詳しいと評価してくれているようなのですが、僕の感覚だと、「開催までの経緯」あたりはわりと丁寧にまとめていると思いますが、ゲームのレビューはかなりあっさりしていると思います。初日の議論なんて、基本は全カットですからね。だからこういうのは、作品の作り手と受け手との、感覚の違いなのかな、と思います。

まあ、そんなに詳細を書き過ぎるわけにはいかないです。根本的に、13人の名前を全部出して物語を要約するのは無理があります。アルティメット人狼の初日の会議時間は、自己紹介・投票を除くと、9分? テレビのバラエティ番組でのトークで、13人が9分で全員目立って収まるように構成するのは難しいと思います。中心人物を数人確かにして、彼らにスポットライトを当てて、ストーリーを組み立てる方法が楽だし、わかりやすいです。そういう観点だと、1番物語の芯がはっきりしているのは、2-1です。門倉啓太さんが予言者の回です。主人公は最初から誰からも信用されてもらえず、最後は全員に裏切られて死亡するという、かわいそうな物語です。一方6-2なんかは、能力者COをしている人、していない人、色々ごちゃまぜで、簡略な物語にまとめるのはちょっと難しめかな、と思います。狂人である初美メアリさんが、最後衝撃の展開を作るので、もっと初美さん中心に書いたらおもしろかったかもしれないですね。

僕のパソコンで8行以内になるように、どのゲームもレビューを書いていましたが、それが無理だったのは、5-3です。これは構造が複雑で、どんなに縮めても、ほかのゲームの1.7倍くらいの文章量になってしまいます。それでも村中さんと伊藤さんの名前は、申し訳ないけれど出せませんでしたね。この回の内容を縮めまくった究極の形は、「霊媒師騙りの人狼と狩人騙りの人狼が、信頼を得て生き残った。人狼勝利」なのですが。

5-3と言えば、工藤雅人さんという編集者の方が、僕の原文に編集を加えました。5-3に最も思い入れがあるようで、たとえば、僕が抜き取っていたマドックの最後の台詞は、「これが人狼TLPTだ」でしたが、工藤さんは、「ニコ生の奴等にも伝えておく、これが人狼TLPTだ!」に改造していました。こういった編集なら、そのまま相手のやり方を尊重して放っておけますが、改造の比率が大きくなると、文章全体としておかしな部分が現れてきます。バランスが崩れてしまうのですね。「1人で授業をするのと比べ、2人で授業をするのは、実は2倍大変だ」という、教育実習で聞いた名言の通りです。共同作業をすると、かえって、作品の調和が取れなくなったりします。仕事を分担するときは、漫画みたいに、原作はAさんで作画はBさん、とか、メインキャラクターの絵はCさんで背景はDさん、みたいに、明確に仕事内容を分けるのが、本来なら望ましいです。

人狼ゲームの記事の特別さは、この「物語づくり」にあると僕は思います。小説や漫画とも違って、ただその場で、13人が即席でストーリーを創造していかないといけない。ウィキペディアだと、「あらすじ」の扱いになるのかなと僕は判断しています。 

★アルティメット人狼のこれから

この前眞形隆之さんが、アルティメット人狼の出演者についてツイートしていました。 

眞形@人狼伝道師_予言問題作成師‏@newmagata  2016112 

眞形人狼会というのがあって、日本で一番豪華なメンバーが集まる人狼会だと思う。あ、堀江さんの人狼会にはかなわないかもしれない。でも、まぁ、すごい売れっ子が集まる。これをアルティメット人狼にすればいいのだけど、事務所の関係とか、大人の関係で無理。出演料とか支払えない。むむー。

実は、アルティメット人狼シリーズに今まで出演していたのは、豪華さでは「眞形人狼会」に劣る、2軍、3軍的なメンバーだったのですね。これは主宰の立場からすると、本当は、もっと煌びやかなメンバーでイベントをやりたいのに、というフラストレーションが溜まるもので、もどかしい問題です。その豪華な人々が出演できない理由は、①出演料が高額すぎて払えない、②所属事務所が出演を許さない、それから、③本人が絶対に出たくない、というのもあるんですかね。

テレビ番組だと、文化人はギャラが安い、というのは聞いたことがあります。堀江さんや勝間さんは、たとえば多くのお笑い芸人よりも世の中では大物ですが、テレビ出演に際してはそこまで高い報酬を払わなくていいということでしょうか。それなら、彼らがアルティメット人狼に出演しているという点で辻褄が合います。ガチガチのテレビタレントは、たぶんまだアルティメット人狼には出演していないはずです。

しかしこれはおそらく第1部の問題であって、第2部は、わりと報酬が安そうです。TLPTのキャスト、ゲームクリエイター、将棋棋士・女流棋士。それでいて、1部よりも客を呼べるので、コストパフォーマンスがよさそうです。この3団体による戦いのあり方は、それだけで独特の高級感があります。ブランドです。外国の人にも自慢できる文化です。ゲームを創造することで生きているゲームクリエイター、ゲームを自らすることで生きている将棋棋士、そして鑑賞されていることで生きている人狼俳優、人狼ゲームを通してみんなで見世物を創っています。この根幹は今後も不変なんだと思います。

とは言っても、仕方ないことですが、マンネリを指摘されたりもしていますね。2ちゃんねるでは、くじ引きで1部・2部決めるのがいいのでは、とか、色々意見が出ていました。人狼系の芸能人として最も話の上手なマドックが、色んなジャンルから人が出演する1部に出ないのはもったいない感じはするんですよね。そのへんはどうなるんですかね。むしろ1部に出てないからいいのかも?

ただアルティメット人狼7は、あまり視聴者数は稼げなかったみたいですね。理由としては、土曜日だったこと、裏番組が叡王戦だったこと、5では歌広場淳が、6ではドラクエ軍がいたが、そのような、視聴者を呼ぶ出演者がいなかったこと、など? ツイッターのフォロワー数だとホリエモンが断トツなので、ホリエモンに関心のある人がたくさん観るのでは、と思うんですけどね。ホリエモン→人狼ゲーム、というふうには興味が流れていかないのでしょうか。

 

僕自身の、アルティメット人狼7についての感想を言うと、とてもおもしろかったです。初めて現地で観ることができました。どきどきしていました。今回はたまたまチケットを買うことができましたが、もう一生、生観戦できないかもしれないわけであり。これが最後かもしれないと思ってその日を過ごしていました。本当におもしろくておもしろくて。記憶を消してもう1回、開演前の時間に戻りたいです。1番鮮烈だったのはマドックの入場シーンです。暗闇の中マドックにライトが当たって、白衣が強く激しく光っていて、座っている人々が「きゃー」「わー」「まどっくー」などと叫んでいる……。ドリス森本未来さんはディズニーランドが大好きですが、たぶん、僕にとっての夢の国の1つは、アルティメット人狼なんだと思います。僕は今のところディズニーランドにあまりいい思い出がないので……。その意味で人狼プレイヤーたちは、僕にとっては、いわゆる、夢を与える存在です。

もちろんこれはあくまで現在の話で、これからどうなるか、いつ飽きるかなんてわからないですからね。自分にとっておもしろくなくなったらそのうち離れていくだろうし、ウィキペディアも書かないです。「アルティメット人狼」のウィキペディアもそのうちもっと色々改善のための提案が出てきて、関わるのがめんどくさくなるかもしれないですね。

てか人狼ゲームに飽きたほうがたぶん自分のために絶対いいんですよね。人狼ゲームを観る時間を、歴史や政治、科学・外国語などの勉強の時間に回すのがよいです。どうなるかな?

(おわり)

 

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