楽天爺さんの気まぐれ日記

・田舎暮らしを楽しんでいます。

心に響く!!名経営者の言葉No.098

2018-08-13 | 先人の知恵に学ぶ

 PHP『心に響く・名経営者の言葉』
        第6章 失敗から学ぶ成功学・No.009

「およそ人間の地位や名誉、財産ほどくだらないものはない。

  わしは無一文で生まれてきたのだから、無一文で死ぬのが理想だ」
        矢野恒太   第一生命 創設者 (18661951

矢野恒太は岡山県上道郡角山村(現在の岡山市)の生まれ。
矢野家は地元で代々医業を務める家柄だった。
 長男だった恒太も当然のように医業の道へ進むことになり、明治11(1878)年に岡山
大学の前身である岡山医学教場へ入学した。
 ところが明治13年3月に、親に無断で同校を退学。
上京して東大医学部を目指したが、親に仕送りをストップされたために果たせず、帰郷
して岡山県医学校に入学した。
 24歳で同校を卒業した矢野は、恩師の勧めもあって、翌年に日本生命に診査医として
就職した。だが、経営陣と対立して3年後に退社。独力で生命保険理論について研究し
ていた矢野は、安田財閥の創始者・安田善次郎に注目され、共済生命保険(現在の明治
安田生命保険)の設立に尽力するようになった。
 その後、ドイツ留学をして保険業務を学んだ矢野は、帰国後に共済生命保険の支配人
に就任。そして、明治30年に農商務省の嘱託職員となり、自らの生命保険理論を基にし
て保険業法制定の起草に尽力し、農商務省の初代保険課長となった。
 明治35年に農商務省を辞した矢野は、日本初の相互会社である第一生命の創立に
参画し、専務に就任。その後、社長に就任し、昭和13(1938)年に石坂泰三を社長に任命
すると自らは会長に就任した。
 その後、昭和20年まで同社の会長として第一生命の発展に尽力した。
当時の生命保険は「死ななければ損」といわれていた。しかし、矢野は払込保険料に対す
る配当を実行するなど、「長生きすればするほど得」という、それまでとはまったく違った
価値観を保険業にもたらした。
 この間にも矢野は、大正11(1922)年に第一相互貯蓄銀行(現在のりそな銀行)を設立し
て頭取に、大正13年には東京横浜電鉄(現在の東京急行電鉄)の社長に就任するなど、
大正・昭和期の実業界で影響力を誇った。
 しかし紹介した言葉からもわかるとおり、矢野は自ら地位や名誉などを求めたことはなく
ほとんどの地位とチャンスは周囲からもたらされたものだった。
『秀でていれば、仕事は自然と集まってくるものだ』
というよい例だろう。  

  論語に学ぶ 人生とは?
    その10:【勇】正しい事をする勇気
       自分が正しいと思ったら
       貫く通す勇気をもつ
  子曰わく、
  その鬼に非(あら)ずしてこれを祭るは諂いなり。
  義見て為(せ)ざるは勇なきなり。
               【為政第2-24】

    自分の家の先祖でもないものを祀るのは、へつらうことだ。
     正すべきことを正せないのは、真の勇気がない証拠だ。

 孔子の教え:他人に流されない生き方をしなさい。
         独りよがりにならないように注意しながら、
        間違っていたり、道理に合わないと思ったら、
               たとえわれ一人になっても
        勇気を持ってそのことを指摘すべきだ。

   お堀の主役を潔く降りた華達・・・お疲れ様、ありがとう!!

              

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