三重を中心に徹底訪城 検索「山城遺産」「セルフコラボレーション」 ペン画で歴史を伝承 時々徒然に

中世の城を主に訪城しています。三重県が多いです。百名城は96/100。総数で600城。新発見が4城です。

兄国氏

2018-05-15 02:13:33 | 古里の歴史

えくにし

多気町史 飯野郡の兄国氏より抜粋

兄国は承平年間(931~938)成立の『和名鈔』に「兄国郷」と記され、

「承久注文定」(1220)には、「飯野郡兄国郷」とみえる。

康永三年(1344)の「太神宮法楽寺文書紛失記」(大西源一写)にも同様に記されているので、兄国郷は飯野郡に含まれていたのであった。

 多気郡相可郷には古代から大鹿氏という豪族が住んでいたが、これと並んで飯野郡兄国郷には兄国氏一族がいた。

 延長七年(929)7月14日の「伊勢国飯野庄太神宮勘注」の末尾にみえる「勾当兄国定輔・(こうとうえくにさだすけ)」は在地にある大国荘園の役人である。また、長承二年(1133)5月に大国荘田堵(たど)住人らが東寺政所へ裁可を求めている文中に「井出郷兄国子屎(おぐそ)の名がある。さらに、「公文抄」の弘安五年(1282)4月9日の条には、正六位上兄国時尚を射和村刀禰(とうね)職に補任(ぶにん)する大神宮祭主からの補任状がある。これら兄国氏はいずれも兄国に居住していた豪族であった。また「太神宮法楽寺文書紛失記」には同寺領として戸田五反を寄進した者に兄国常真の名がある。さらに、貞治七年(1368)2月の宮田前大宮田忠緒朝臣の「紛失記」には「大領郡司兄国宿禰の署名がみられる。大領というのは郡の長官である。

 本町兄国集落の東端、字バンバにある個人の邸内は兄国宿禰の邸宅跡であると伝えられる。この宅跡について『伊勢名勝志』の多気郡城砦及宅址の条に「兄国宿禰宅址 兄国村字バンバニ在リ 今僅ニ小丘ヲ存ス 伝エヘ云ウ 貞治中、兄国宿禰之ニ居ルト 古老口碑」と記されている。

 ちなみに黒田山山麓、初瀬本街道沿いの兄国集落付近に「かうとの垣内」という小字名がある。これはおそらく「勾当の垣内」を短く言い縮めたものであり、先に述べた勾当兄国貞輔のいた場所ではなかろうか。また、佐奈川西岸辺りにある地名に「上・下たこり」があるが「たこり」は「田郡(たごうり)」で、郡衙(群の役所・ぐんが)あったところと考えられる。このことから、飯野郡の郡衙は兄国にあり大領兄国宿禰もこの地に居住していたと考えられる。

 以上の史証や残っている地名などによって、本町兄国は古代から飯野郡の中心地であり、豪族兄国氏一族の本貫(出身地)であったとみることができる。

大国;弟国(おおくに) 勾当;事務方役人 刀禰(とね);下級役人、神職(神域の掃除番) 宿禰(すくね);敬称、奈良時代以降は出身を問わず,功績などのあった氏などに与えられるようになった。

 

 

 兄国は少なくとも10世紀頃から美田を軸に栄えた土地柄であった。

 かうとの垣内についてはその位置、及び区域内を街道が走ることから想定するに関所的機能を有する施設であったと考えてもよいのではないだろうか。

 そこに後世の伊勢本街道が通ればその地勢などから同じように関所的機能を持たせた施設ができても何ら不思議ではない。

 黒田山城の誕生がそのあたりに隠されているような気がする。黒田山城が戦いの城ではなく街道を抑える砦的城であったと想定するその背景に結びつくような気がする。

 

 

 

 

 

 



最新の画像もっと見る

コメントを投稿