♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■一番大切なこと / 佐々木真輝

2022年09月19日 | Weblog

2022/4/18放送

 「世の光」の時間です。北上聖書バプテスト教会の佐々木真輝(まさき)です。

 4月17日はイースターというキリスト教の記念日でした。最近はキリスト教とは関係なく春のお祭りとしてスーパーの食品売り場に「ハッピーイースター」というシールが貼られた卵が売られていたりします。けれどもイースターはイエス・キリストの復活をお祝いする日です。ご存じでしたか?

 復活したということは、その前に死んだということになります。ではイエス様はどうして死なれたのでしょうか。民族解放のために立ちあがり、戦いで命を落としたのではありません。また事故や病気で死んだのでもありません。イエス様の死は私たちの罪のためであったということが、聖書のことばから分かります。

 新約聖書のコリント人への手紙第一15章3節と4節をお読みします。
 「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと」
 
 イエス様は死に向かっていく恐ろしさや、すべてを失う悲しみを知っておられるだけではありません。私たちの心の中や最も愛する人たちとの関係さえ破壊してしまう罪の力を知っておられます。誰でもやってそうな、誰でも思いそうな、そんなちょっとした罪が、こすっても取れない黒カビのように私たちの心と生き方に深く根を下ろしています。この罪が私たちから安心や喜びを奪い、人生に闇を招き、人を傷つけてしまいます。罪は、神がお造りになり大切にしている世界といのちあるものを傷つけるということです。そして私たちに大きな負いきれない報いを招きます。その負いきれない報いを代わりに引き受けてくださったのがイエス様の死です。 

 しかし、イエス様がその死からよみがえってくださったことで、私たちには希望が与えられました。神が愛しておられるものを傷つけ汚す、そんな罪をもった私たちが、それでも赦され、喜びを取り戻し、他者を愛する者にさえ変えられていく希望です。

 死に向かっていく恐れがある。自分の中にある黒いものために傷つき傷つけてしまう。そんな私たちですが大丈夫です。私たちために死んでくださったイエス・キリストは復活し、今も生きておられ、私たちに新しいいのちを与えてくださいます。


    ( PBA制作「世の光」 2022.4.18放送でのお話しより )


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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。でも、新型コロナ禍で集まるのを制限したりオンラインの集まりに切り替えたりしているかもしれません。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。
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 このサイトは URL名として   http://yonohikari.biblica.info  が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。

 


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■痛む心に触れてくださる主 / 矢木良雄

2022年09月17日 | Weblog

2022/4/16放送

 「世の光」の時間です。お元気でお過ごしですか? 矢木良雄です。

 今日は新約聖書ガラテヤ人への手紙2章のみことばをご紹介します。
 「今、私が生きているのは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」(20節)

 注目いただきたいのは、「私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった」というところです。

 福音書にはイエス様が病気の人たちを癒やす出来事がたくさん記録されています。イエス様の癒やしの特徴は、病気の人たちに直接触れてくださるということでした。病人に「手を置いて癒やされた」(ルカ4章40節)とあります。目の病気であっても、当時人々が近づこうとさえしなかったツァラアト、ツァラアトは「重い皮膚病」とも訳されますが、そうした人々にもです。

 こんな実例がマルコの福音書1章に出てきます。「イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり」(41節)、きよくされます。それは文字通り、イザヤ書53章「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った」(4節)そんなお方だったからです。 

 私が小学生低学年の頃。体が弱く、よく病気をしました。6人兄弟の中でなぜか私だけが病弱だったのです。たまにやったのが当時は自家中毒症と言われていた、今はケトン性嘔吐症という病気です。

 いとこたちが遊びに来たり何か興奮するようなことがあると、夜から腹痛、吐き気、頭痛が始まり、何度も嘔吐を繰り返します。3日くらい、長いと一週間くらい回復に時間がかかりました。激しい吐き気で、脱水症状になって何回も点滴を受けました。とにかく苦しいのです。天井がグルグル回り、吐き気が続きます。

 その時に母親が枕元に座って、何回も額の手ぬぐいを換えてくれました。そして言うのです。「替わってあげられたらね。替わってあげられたらね。」 残念ながら、替わってもらうことはできませんでした。

 でもイエス様は私たちの病を負い、私たちの痛みを担ってくださるお方です。イエス様は私たちを愛してくださいます。愛するがゆえにご自身のすべてを与え、私たちの苦しむ心、悩む心に触れてくださるのです。


    ( PBA制作「世の光」 2022.4.16放送でのお話しより )


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■なぜ十字架なのか / 矢木良雄

2022年09月16日 | Weblog

2022/4/15放送

 「世の光」の時間です。お元気でお過ごしですか? 矢木良雄です。

 今日は金曜日、イエス・キリストが十字架につけられた記念日になります。「なぜ十字架なのですか?」は良く聞かれる質問です。

 なぜ十字架なのか、いったい十字架の意味とは何なのか。・・・ 答えはあります。それは愛です。

 ヨハネの福音書13章の書き始めに
 「イエスは・・・ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。」
 とあります。

 この最後の部分は、文語訳の聖書では「極みまでこれを愛し給へり」となっていました。共同訳では「愛し抜かれた」です。気持ち的には文語の「極みまで」が、言いたいことが伝わってくる気がします。

 ヨハネ第一の手紙3章の初めに
 「私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったか・・・事実、私たちは神の子どもです。」
 と、ここでも「すばらしい愛を与えてくださった」と記されています。

 13世紀の神学者で、ローマ教会の枢機卿であったボナヴェントゥラがこんな言葉を残しています。
 「わが愛するイエス様。教えてください。全世界の救いのためには、いとも貴い御血の一滴で十分であったのに、なぜあなたはみからだの御血を残らず流し尽くされたのですか。主よ、私は知っています。それは、どんなに深く私を愛しているか、それを示してくださるのだと。」

 確かにそうだと思います。神の独り子の流される血、その一滴で十分だったはずです。でも十字架上でイエス様はすべての血を流されました。それは私たちを極限まで愛するためでした。

 本来、十字架とはローマ帝国の残酷な死刑の道具でした。何時間も、時には何日もかけて最大限の苦痛を強いながら、確実に死に向かわせるのです。教会はこの残虐行為の象徴と見える十字架を、礼拝堂のてっぺんに掲げてきました。それはこれ以上に神様の愛を表すものがないからです。

 神様の愛の極み、すべてを注ぎだした愛を、見える形で表したのが十字架なのです。だから私たちは「愛されている」と確信できるのです。


    ( PBA制作「世の光」 2022.4.15放送でのお話しより )


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■背負ってくださる神 / 矢木良雄

2022年09月15日 | Weblog

2022/4/14放送

 「世の光」の時間です。お元気でお過ごしですか? 矢木良雄です。

 旧約聖書イザヤ書63章には感動的なみことばが記されています。
 「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、・・・その愛とあわれみによって、主は・・・ずっと彼らを背負い、担ってくださった。」(9節)

 このみことばはその前の53章、私たちの罪の為に主イエスがかかってくださった十字架の予告とも言える「苦しむしもべの歌」と響き合って私たちの心を熱くします。

 以前、東京神学大学の学長をされた神学者の熊澤義宣先生が、ご自分の本にこんな体験を綴っておられるのを読んだことがあります。その時先生は心筋梗塞で救急搬送され、集中治療室で絶対安静を命じられていました。酸素マスク、手には点滴の管、胸には心電計のコード、そして尿管挿入です。それほど重篤な状態だったのです。

 先生はこんなふうに書いておられます。
 「全く無力な姿の中に放り出されたその時、十字架というものは私たちの手に届かない何か高いところに輝いているものではない、ということに目が開かれました。では一体、十字架ってどこにあるんだろう。十字架は私が横たわっているこのベッドの下にあるんだ。つまり無力の極み、どん底に身を横たえなければならない私を、そのどん底の一番下のところで受けとめてくれる、それがイエス・キリストの十字架の姿なのだ。それが今まで以上にハッキリと見えてきたのです。」

 
 イザヤ書53章に私たちの救い主が紹介されています。
 「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。」(4節)
 「その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」(5節)

 もう10年以上も前になりますが、大腸がんの手術を受けたとき、熊澤先生の言葉を思い出していました。・・・「ベッドの下にイエス様がおられる。」でも、そのとき思ったのは、何という固いベッドだ、腰が痛くてたまらない、でした。なかなか熊澤先生のレベルに達することはできませんでした。それでも振りかえると、何度も「主は・・・ずっと彼らを背負い、担ってくださった」(イザヤ63章9節) そのことは分かります。

 私たちは今日も、背負ってくださるイエス様の背中を感じることができるのです。


    ( PBA制作「世の光」 2022.4.14放送でのお話しより )


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■赦すことによって / 矢木良雄

2022年09月14日 | Weblog

2022/4/13放送

 「世の光」の時間です。お元気でお過ごしですか? 矢木良雄です。

 聖書には、十字架上でのイエス・キリストの祈りが幾つか記録されています。ルカの福音書23章34節にはこうあります。
 「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが、分かっていないのです。」
 
 弟子たちにとっても十字架のイエス様は理解不能でした。彼らが期待したのは革命家のような救世主だったのです。弟子たちは当時、占領軍だったローマ兵を蹴散らしまたイスラエルの指導者たちを失脚させる、そうしたことを(イエス様に)期待していたのです。
 なのにイエス様は革命の指導者として立ち上がるどころか、今は十字架に釘付けにされているのです。

 皆さんは車を運転して煽られた経験はおありでしょうか。急に割り込まれたり、危険な追い越しをされたり、そんな経験は多少なりともあると思います。どう感じますか? 私はむかつきます。戦車のように大砲を積んでいたら、ドカン!と砲弾を打ち込んで、木っ端微塵にしてやりたいと思います。・・・実際にはしませんが。

 弟子たちもそんな物騒な提案をイエス様にしたことがありました。ルカの福音書9章で
 「天から火を下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか」(54節)
 と。私と同じことを考えていたのです。

 問題はそれで何が解決するのかです。報復は無限の連鎖を引き起こします。やられたらやりかえす。またまたやりかえす。それは神様の方法ではなかったのです。

 イエス様は決定的な方法を取られました。それが赦しです。イエス様は徹底的な赦しを与えなさいました。

 一番弟子だったペテロが、自分に悪さをした兄弟を「七回も赦したら十分ですよね」と得意げに言ったことがありました。(マタイの福音書18:21、22節 )

 イエス様はすぐにたとえを語り、1万タラントの負債を赦してもらった家来の話をされました(マタイの福音書18:23~35節 )。私の計算では5千億円くらいの負債です。5千億円をローンで返済しようとしたら、私たちのレベルでは2万年はかかります。もう無理です。その負債を免除するのです。

 私たちの償いようのない失敗をイエス様が赦してくださるとはそういうことです。十字架の赦し以外に私たちの未来はないのです。


    ( PBA制作「世の光」 2022.4.13放送でのお話しより )


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■あなたを孤児にはしない / 矢木良雄

2022年09月13日 | Weblog

2022/4/12放送

 「世の光」の時間です。お元気でお過ごしですか? 矢木良雄です。

 ヨハネの福音書14章18節でイエス様は「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。」と語っておられます。

 ちょっと恥ずかしい思い出なのですが、恐らく私が4、5歳の時だったと思います。私は六人兄弟の末っ子、兄が二人、姉が三人います。その日、家族で江ノ島の海岸に海水浴に行ったのです。上の兄姉たちは海に泳ぎに行っていました。私一人が砂浜に残り、夢中で砂遊びをしていました。ふと気が付くと、たった一人なのです。さっきまで一緒だったすぐ上の姉も、かき消されたように姿がありません。母親もいないのです。一人置き去りにされた。独りぼっちになってしまった。もう家族に会うことができないんだ。・・・もちろん、あらん限りの声をあげて泣きました。
 砂浜に大きなボートが引き上げられていました。そのボートの中からむくむくっと母親が身を起こして「どうしたの?」と声をかけてきました。母はボートの中で休んでいたのです。

 70年近くたった今でも、あの砂浜、太陽のまぶしさ、風の音、母親の顔、すべてを鮮明に記憶しています。つまり小さな子どもにとって、見捨てられ孤児になるということが、いかに衝撃であるのか、消えることのない記憶として心に深く刻まれています。たぶん、すさまじいトラウマだったのだと思います。

 最近、世界のいたる所で分断が起きています。今の社会を表すキーワードは「孤独」だそうです。

 それを真っ向から否定するようにイエス様は宣言されます。
 「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。」

 そしてすぐ次のヨハネの福音書15章で、イエス様はぶどうの木のたとえを語っておられます。
 「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。」

 どんなに激しい嵐が来ても、小枝のようにちっぽけな私たちをイエス様はしっかりとその強い腕で捉えていてくださいます。

 今日も一日、イエス様に手を取っていただき、歩いて行きたいと思います。


    ( PBA制作「世の光」 2022.4.12放送でのお話しより )


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■エマオ村への途上で / 矢木良雄

2022年09月12日 | Weblog

2022/4/11放送

 「世の光」の時間です。お元気でお過ごしですか? 矢木良雄です。初めまして。

 今週は、キリスト教の暦では受難週と呼ばれる一週間になります。15日の金曜日は、イエス・キリストが十字架につけられたことを記念する「受難日」です。

 今日はまず私の大好きな詩をご紹介したいと思います。島崎光正(みつまさ)さんの有名な『エマオ途上』です。

 エマオ村に向かう 足の重い二人の弟子に よみがえりのイエスは加わった 
 それとは知れず 互いに 話はアネモネの花のように心にはずみ
 蝕まれた丸木橋の上では イエスが一番先に渡り また三人並んで旅を行った。

 アネモネが良いです。アネモネってどんな花か私は知らないのですが、響きがとても温かいです。これは受難週の詩ではなくイースターの詩じゃないですか?と言われそうです。そうなんです。この詩を今日ご紹介したのは、ルカの福音書24章に記されているエマオの途上の場面が詩われているからです。

 エマオの途上は、イエス様の十字架に立ち会い重たい気持ちで自分たちの村に帰ろうとする二人の弟子に、復活されたイエス様が出会うシーンです。

 ルカの福音書には「イエスご自身が近づいて来て、彼らとともに歩き始められた」(ルカ24章15節)とあります。でもエマオの村に向かっていた二人の弟子たちの目がさえぎられていて、それがイエス様だとは分からなかったのです。

 一緒に歩いておられるのがイエス様だと分からない。・・・私たちにもあることです。足の重い二人だったのに、いつの間にか話はアネモネの花のように心にはずむのです。

 十字架は終わりではありません。今週は受難週ですが、それは、イエス・キリストのよみがえりによって新しい世界が始まる、そんな週なのです。エマオの途上が記されているルカの福音書24章は「週の初めの日」から始まります。それは新しい時代が始まった日でもありました。

 私たちにはわからなくても知らないうちにイエス様は私たちと一緒に歩いておられるのです。受難週の一週間、主が一緒に歩いておられる。それを心に留めてスタートしたいと思います。


    ( PBA制作「世の光」 2022.4.11放送でのお話しより )


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■キリストにある真の平和を求めた - 住谷天来 / 岩井基雄

2022年09月10日 | Weblog

2022/4/9放送

 「世の光」の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。

 今日は、歴史の中を歩んだクリスチャンの生涯から学びましょう。群馬県にゆかりのあるキリスト者としては、新島襄、内村鑑三、柏木義円が挙げられます。そして、もう一人挙げるとしたら今日ともに学ぶ住谷天来(すみや・てんらい)です。

 明治2年、現在の群馬県高崎市に生まれた住谷天来は農家の次男として育ちます。学問に興味を持ち、前橋の幽谷義塾に学ぶ中、生涯の友となる井上浦造と出会い、二人で前橋のキリスト教会に通うようになり、自分の罪を認め、キリストが自分の為に十字架にかかってくださったことを信じ、信仰を告白し洗礼を受けます。また「上毛青年会」にも参加し、悲しみを通る女性たちを助けたい、と廃娼運動にも熱心に参加したのです。平和を求める心は若い頃から与えられていたのですねえ。

 その後上京し、早稲田と慶応に学びます。卒業後、群馬に帰郷した後は「上毛青年会」の機関誌『上毛之青年』で自己の主張を発表する傍ら、現在の共愛学園につながるキリスト教主義の学校、前橋の上毛共愛女学校の教師として、聖書を中心とした女子教育に力を入れるのです。

 退職後再び上京する中、明治29年27歳の時にある大会でキリスト者内村鑑三と出会うのです。そして盛んに平和を求める自分の主張、特にキリストの愛に基づき、明治36年には、内村主筆の『聖書之研究』に「墨子の非戦主義」(※墨子は中国戦国時代の諸子百家の墨家(ぼくか)の開祖)を載せ、非戦論を展開していきます。日露戦争の前に彼が紹介したトルストイの本や生き様は、聖書の教えとともに人々の心に深く届けられていったのです。

 再び教師となりますが、明治末期から大正には群馬の伊勢崎や富岡のキリスト教会の牧師となり、神の愛と平和を語り続けていきました。

 当時、軍国主義が強まる日本の中にあって、キリストにある平和を力強く語り続けた教育者また牧師がいたのです。

 キリストのことば

 「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」
    新約聖書 マタイの福音書 5章9節

 私たちも悲しみを通る人々に、神の愛に基づく真の平和を届けさせていただきたいと願います。


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■ゲッセマネの園での祈り / 岩井基雄

2022年09月09日 | Weblog

2022/4/8放送

 「世の光」の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。

 私たちは自分の弱さを認めることがなかなかできませんね。最後の晩餐の後、十字架に向かうキリストは、弟子たちが失望しキリストから離れつまずく、と語りました。この後起こることも自分の弱さも知らないペテロは「皆がつまずいても、私はつまずきません。」と語ります。しかし主は、ペテロが三度、キリストを否定すると預言するのです。ペテロはなお「ご一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」と豪語し、他の弟子たちも同じように語りますが、彼らはまだ自分たちの愚かさを知らなかったのです。

 弟子たちの弱さも愚かさも、この後起こるすべてをご存じのキリストは、オリーブ山にあるゲッセマネの園で祈りました。それは悲しみのあまり死ぬほどの苦しみを伴う祈りでした。

 キリストはこう祈ったのです。

 「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」
      新約聖書 マルコの福音書 14章36節

 この「杯」とはキリストの十字架のことを示していました。神の御子キリストは、私たちすべての罪の裁きを身代わりに受け、父なる神から完全に見捨てられるという壮絶な苦しみを受けるために、この地上に来てくださったのです。その苦しみは、私たちの思いをはるかに超える、耐えられないほどの苦しみでした。キリストはその苦しみをすべて味わいつくし受けとめるべく、神が望まれることが行われるように、と自らを神にゆだねられたのです。

 キリストは、この苦しみの祈りをともにしてほしい、と弟子たちに願っていましたが、皆眠ってしまっていました。キリストは深い孤独をも味わい尽くされ、真っ直ぐに十字架に向かってくださったのです。

 キリストはあなたの弱さも愚かさもすべてご存じで、あなたを愛し、あなたの罪の赦しの道をあの十字架の上で開かれました。しかし、どれほどの孤独と苦しみをイエス・キリストが味わい尽くしてくださったことでしょうか。

 そのことに心を留め、自分の弱さや愚かさ、罪と向かい合い、罪を告白する者でありたいと心から願います。


    ( PBA制作「世の光」 2022.4.8放送でのお話しより )


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■最後の晩餐の新しい意味 / 岩井基雄

2022年09月08日 | Weblog

2022/4/7放送

 「世の光」の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。

 「最後の晩餐」というと、レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた絵が有名ですね。イタリア、ミラノにある教会の食堂に描かれた有名な絵です。

 キリストの最後の晩餐の食事は、旧約聖書が語る「過ぎ越しの祭り」の食事でした。この祭りは神の民イスラエルが、かつて奴隷状態であったエジプトから助けられたことを記念していました。家の門に子羊の血を塗った家は、神の約束通り、(※エジプトにある家々の長子の命がとられるという)神の裁きが過ぎ越して、皆の命が守られたからです(参照 出エジプト記12章1~30節)。この脱出の時に急いで食べたことを覚える食事が「過ぎ越しの食事」で、膨らませないパンや、あまり発酵させない葡萄酒などが用いられたのです。

 キリストは、このパンと葡萄酒に新しい意味、本当の意味を与えました。
聖書は、こう記しています。

 「イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取りなさい。これはわたしのからだです。』また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、彼らにお与えになった。彼らはみなその杯から飲んだ。イエスは彼らに言われた。『これは、多くの人のために流される、わたしの契約の血です。』」
   新約聖書 マルコの福音書 14章22~24節

 弟子たちは、この食事の本当の意味を理解していませんでした。しかし、この後キリストの十字架の出来事を通して、パンは十字架上で裂かれるキリストの体、また葡萄酒は、キリストが流される血、という真の意味を知るのです。そして、その式を聖餐式と呼び、キリストの十字架の恵みを思い起こすものとして、今日のキリスト教会で行われ続けています。

 キリストの十字架は、すべての人の罪がキリストにあって赦されるためでした。それこそ本当の過ぎ越し、罪からの解放と真の救いを示しているからです。

 あなたのすべてを知る神は、あなたのすべての罪を赦すことができる唯一のお方です。あなたも自分の心の闇を認め、罪を悔い改めて赦しを受け取りませんか? そして、愛と恵みの道を歩んでいただきたいのです。

 聖書のことば

 「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」

    新約聖書 ヨハネ第一の手紙 1章9節


    ( PBA制作「世の光」 2022.4.7放送でのお話しより )


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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。でも、新型コロナ禍で集まるのを制限したりオンラインの集まりに切り替えたりしているかもしれません。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。
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 このサイトは URL名として   http://yonohikari.biblica.info  が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。

 


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