♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■永遠を見つめ今を生きる / 関根弘興

2021年09月18日 | Weblog

2021.4.3放送

「世の光」の時間です。お元気でお過ごしでしょうか、関根弘興です。

 キリスト教会のカレンダーでは今度の日曜日は、イエス・キリストが死からよみがえられたことを記念するイースターを迎えます。そこで今週はご一緒に、聖書から「死」と「復活」ということについて考えています。

 私たちの時間の流れというものは過去から現在そして未来へと流れています。ですから過去を振り返り、現在を見、そして将来を見つめようとします。過去を見て、あんなことがあったからこれからもいいことなどないと将来を見る人もいるでしょうし、こんなことがあったから将来は大きく変わるに違いないと判断することもあるでしょう。

 しかし聖書はもう一つの視点があることを教えています。それは、まだ見ぬ未来を見つめて、現在を見、過去さえも見ていくという、こういう見方です。つまり、永遠を見つめ、今の生活を見つめていくという見方ですね。

 聖書は、死は終わりではない、永遠の住まいが用意されている、と約束しています。そこにはいつも希望があるわけです。この見方の特徴は、将来に希望を見つめて、今を生きるということなんです。

 この地上の生涯は、喜び、悲しみ、痛み、苦しみ、様々なことが起こります。しかし、「わたしを信じる者は死んでも生きる」(ヨハネの福音書11章25節)とイエス・キリストは言われました。死は終わりではなく永遠の始まり、そう教えるわけです。ですから私たちはまだ見ぬ永遠の希望を見つめ、今というこの瞬間を生きていくのです。

 私はキリスト教の葬儀の司式をすることが度々あります。葬儀では賛美歌が歌われ、死は終りではない、と希望のメッセージを語ります。もちろん永遠の希望があるとはいえ、愛する人とのこの地上での別れというものは言いようもない深い悲しみです。涙があふれてきます。そして「神様どうしてですか!」と何度も叫び、疲れ果ててしまうこともあるでしょう。

 でもそんな時、どうぞその涙を止めないでください。なぜならその涙をぬぐってくださるイエス・キリストがいてくださるからです。

 ヨハネの黙示録にはこう記されています。
 「神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」(21章4節)

 永遠を見つめて、今を生きていきましょう。

      (PBA制作「世の光」2021.4.3放送でのお話しより)
 ***

さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。でも、新型コロナ禍で集まるのを制限したりオンラインの集まりに切り替えたりしているかもしれません。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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■復活がもたらすもの~平安 / 関根弘興

2021年09月17日 | Weblog

2021.4.2放送
 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

 
 キリスト教会のカレンダーでは今度の日曜日はイエス・キリストが死からよみがえられたことを記念するイースターを迎えます。そこで今週は、ご一緒に聖書から、死と復活ということについて考えていきましょう。

 さて私たちの人生に勇気を失わせてしまう理由があるとするなら、少なくても三つあるように思います。

 一つは、希望を見出せない、ということです。希望が持てないとき、あるいは希望があってもそれを信頼できない状態にあるときには私たちはただ絶望の中に落ち込んでしまいますね。

 二つめは、心から信頼できる存在がいない、ということです。自分一人で問題を抱え込んで悩むことはとても辛いです。問題の中で苦しみの中で、信頼できる存在がいなければ生きる勇気も失われていくでしょう。

 そして三番目は、問題があまりにも大きすぎて自分には到底立ち向かえない、と思えるとき。 まあ問題があまりにも大きすぎて自分ではどうしようもないと思ったら、それは勇気を失ってしまいます。

 こういうことを考えますと、死というものは人生に襲ってくる最も大きな困難と言えるのだと思います。死という前では人は全く無力です。ですから死の問題に対して希望を与え、信頼ができ、解決を与えてくれる存在がいるなら、私たちにとって最も大きな福音となるわけです。

 イエス・キリストはこう言われました。
 「わたしを信じる者は死んでも生きる」、こう言われたんです。

 そしてイエス・キリストはヨハネの福音書の14章で弟子たちにこう言われたんです。

 「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんあります。・・・わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」 ( ヨハネの福音書14:1-3 )
と言われたのです

      (PBA制作「世の光」2021.4.2放送でのお話しより)

 ***

 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。でも、新型コロナ禍で集まるのを制限したりオンラインの集まりに切り替えたりしているかもしれません。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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■死んでも生きる / 関根弘興

2021年09月15日 | Weblog

2021.3.31放送
 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

 キリスト教会のカレンダーでは今週はイエスキリストが十字架につけられたことを覚える受難週で、今度の日曜日はイエス・キリストが死からよみがえられたことを記念するイースターを迎えます。そこで今週はご一緒に聖書から死と復活ということについて考えていきましょう。

 新約聖書のヨハネの福音書11章に、ラザロという人が病のために死んでしまったことが記されています。
 
 イエス様は弟子たちに、「わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。」(11節 新改訳聖書第三版)と言われたのです。

 イエス様はここでも、人は眠っている状態だと言われたのです。

 イエス様が村に着くと、ラザロの姉妹であるマルタとマリヤが出迎えました。

 そしてイエス様はこう言われたのです。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」(25節)

 しかしこの姉妹はイエス様のことばを理解することができませんでした。

 そこでイエス様はラザロが葬られた墓に行かれ、「その石を取りのけなさい。」(39節)と言われ、大声で「ラザロよ、出て来なさい。」(43節)と言われたのです。

 すると、何と布に包まれたラザロが墓から出てくるではありませんか。

 イエス様は「わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」と言われましたが。日本語の「いのち」ということばは「息の内」が省略されて「いのち」ということばになったと言われます。ですから、息が絶えたら全てが終わってしまうという大変合理的なことばだと言われます。

 しかしイエス様は、この息の内を超えたいのちがあると言われたのです。つまり私たちの肉体の死はすべての終わりではないというわけです。

 こういうことばが語られるときに、そのことの証明が大切です。

 その一つは、イエス様がラザロを生き返らせてくださったということです。そしてイエス様はこの後、十字架につけられるのですけれども、聖書に記されている通りに三日目に死からよみがえられた、復活されたのです。もしイエス・キリストが十字架で死んで全てが終わりであるなら、イエスキリストのことばには何の説得力もありません。しかしイエス・キリストが死を打ち破り復活されたのなら、死は終わりではないということを証明したことになります。そこにこそ大きな希望があるわけです。

      (PBA制作「世の光」2021.3.31放送でのお話しより)
 ***

さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。でも、新型コロナ禍で集まるのを制限したりオンラインの集まりに切り替えたりしているかもしれません。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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■復活がもたらすもの ~希望 / 関根弘興

2021年09月14日 | Weblog

2021.4.1放送
 「世の光」の時間です。お元気でお過ごしでしょうか、関根弘興です。キリスト教会のカレンダーでは、今週はイエス・キリストが十字架につけられたことを覚える受難週で、今度の日曜日はイエス・キリストが、死からよみがえられたことを記念するイースターを迎えます。そこで今週は、ご一緒に聖書から「死」と「復活」ということについて考えていきましょう。

 イエス・キリストは十字架につけられ、葬られ、三日目に復活された。これは、聖書が教える素晴らしい知らせ、福音です。もしイエス・キリストが、十字架で死んですべてが終わりであるなら、イエス・キリストのことばにはなんの説得力もありません。しかしもしイエス・キリストが言われた通り、「わたしを信じる者は死んでも生きる」というなら、そこには死を乗り越える希望というものが生まれてきます。

 私たちは、このいのち、永遠に続くとは誰も考えていません。いつかは必ず過ぎ去ります。ですからどんなに華やかな人生であってもいつかは朽ちていくわけですね。しかしもし聖書が約束しているように、このいのちを超えたいのちがあり、永遠の天の御国があるとするなら、希望を見つめて生きていくことができると思いませんか? 

 私は小さい頃、銅山で有名だった足尾町に住んでいました。私は牧師の家庭に育ち、教会の中に住んでいました。教会の隣には大きな墓地がありました。そこには、町の名士の方の立派なお墓が建っていました。そしてその墓には、その方の辞世の句が刻まれていたのです。こんな句です。

 「行く先の 知れぬ旅路や 衣替え」

「行く先」っというのは、自分が死んだ先という意味です。自分が死んだ先はどうなるんだろう、死んだ先の旅路はどうなっているんだろうという句です。これはとても正直な思いがあらわされている句だと思うんですね。

 しかし、その立派なお墓の斜め後ろに、あるクリスチャンの墓が建っていました。そこには文語訳聖書で、ヨハネの福音書11章25節のイエス様のことば「我は復活なり、生命なり、我を信ずる者は死ぬとも生きん。」と側面に刻まれ、正面には、「我らの国籍は天にあり」(ピリピ人への手紙 3章20節 )と刻まれていました。

 天にまでつながり、死を乗り越えるいのちがあるからこそ、そこに大きな希望が生まれていくのです。

      (PBA制作「世の光」2021.4.1放送でのお話しより)
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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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■眠りにつく / 関根弘興

2021年09月14日 | Weblog

2021.3.30放送
 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

 キリスト教会のカレンダーでは今週はイエス・キリストが十字架につけられたことを覚える受難週で、今度の日曜日はイエス・キリストは死からよみがえられたことを記念するイースターを迎えます。そこで今週は、ご一緒に聖書から死と復活ということについて考えていきましょう。

 昨日は、人は誰も例外なしに死を迎えるというお話をしました。しかしイエス・キリストこそ死を乗り越えるいのちを与えることができる方だと聖書は伝えています。

 新約聖書のマルコの福音書5章を読むと、会堂管理者のヤイロという人が、自分の娘が死にかけているので助けてください、とイエス様に懇願してきました。

 しかしイエス様がヤイロの家に着いた時には、すでにこの娘は息を引き取っていました。周りの人々の泣き声が響く中、イエス様は何と「恐れないで、ただ信じなさい。なぜ取り乱して泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。」と言われました。人々はイエス様を嘲笑い、呆れてしまったのです。

 しかしイエス様は子どものいる所へ入って行かれ、「少女よあなたに言う。起きなさい」と語りかけると、すぐさま起き上がり、歩き始めたんです。

 この出来事はイエス様の働きがどのようなものなのかを伝える大変象徴的な出来事になりました。

 つまり、イエス・キリストの前では死は眠っているにすぎない。そしてイエス・キリストは眠りから覚ましてくださるお方だということです。新約聖書の後半の手紙をたくさん記したパウロは、テサロニケに送った手紙の中でこう記しています。

 「眠っている人たちについては兄弟たちあなたがたに知らずにいて欲しくはありませんあなたがたが望みのない他の人々のように悲しまないためです」 

 こう記しています。「眠っている人たち」とは死んでしまった人たちのことです。既に眠ってしまった人たちがどうなるんだろうか、と誰もが考えていました。しかし聖書は、「あなた方が望みのない他の人々のように悲しまないためです」と書かれてるように、たとえ悲しい涙を溢れるほど流したとしても永遠の望み・希望がある、と実は約束しているんです。なぜなら眠りから覚ましてくださるイエス・キリストがいてくださるからです。
      (PBA制作「世の光」2021.3.30放送でのお話しより)
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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。でも、新型コロナ禍で集まるのを制限したりオンラインの集まりに切り替えたりしているかもしれません。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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■弔いの鐘 / 関根弘興

2021年09月13日 | Weblog

2021.3.29放送
 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

 キリスト教会のカレンダーでは今週はイエス・キリストが十字架につけられたことを覚える受難週で、今度の日曜日はイエス・キリストが死からよみがえられたことを記念するイースターを迎えます。そこで今週は、ご一緒に聖書から死と復活ということについて考えていきましょう。

 さて、旧約聖書の最初の書物である創世記5章を読むと、初めの人アダムからの系図が記されています。でもこの系図を見ると、とても不思議に感じることがあります。それは登場人物が皆考えられないほどの長寿なんですね。例えば、アダムは930年生きたとか、エノシュは905年生きたと書かれています。こういう箇所を読むと、当時の年数の数え方は今と違うのではないかとか、当時の地球の環境や空気中の酸素濃度などが今と違っていてみんな長生きができたのではないかとか、ま、いろんな解釈が出てきます。

 しかしこのケースについて寿命の長さをあまり詮索する必要はありません。なぜなら、この系図には、普通の系図には含まれていない独特な表現が出てくるからです。それは、誰々は何年生きた、こうして彼は死んだ、という表現です。

 普通、系図は死んだ先祖の名前を記録していくものなのですから、死んだなどということはこれ当然です。しかしこの系図には丁寧に、「こうして彼は死んだ」と繰り返し繰り返し記されていくんです。

 ある聖書学者は、この創世記5章を「弔いの鐘が鳴っている」と表現しました。つまり人はどんなに長寿であったとしても、「こうして彼は死んだ」とあるように、決して避けることのできない死という現実に人は直面しなければならないということなんです。

 私たちはどんな人でも死亡率100%の世界に生きてるわけですねえ。しかしもし聖書が、人は何年生きて、こうして彼は死んだ、とだけ記す書物なら、そこには励ましも慰めも希望もありません。しかし私たちは旧約聖書を読む時、いつも新約聖書の約束を通して読んでいくのです。

 イエス・キリストはこう言われました。
 「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」(ヨハネの福音書11章25節 )

 人は生き、そして死にます。しかしイエス様は「わたしを信じる者は死んでも生きる」と死を打ち破るいのちがあることを約束されたのです。


      (PBA制作「世の光」2021.3.29放送でのお話しより)
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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。でも、新型コロナ禍で集まるのを制限したりオンラインの集まりに切り替えたりしているかもしれません。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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■神のわざが現れるためです / 福井 誠

2021年09月11日 | Weblog

2021/3/27放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井 誠です。継続は力なり、聖書を一日一日と読み進むなら不思議にも自然に養われるものがあります。今日も聖書を開いてまいりましょう。今日はヨハネの福音書9章3節から「神のわざが現れるためです」と題してメッセージをお伝えいたします。

 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。

 今週は、一人一人に向かい合われるイエスの姿を見ながら色々と教えられるところがありましたね。もしヨハネの福音書のメッセージを続けてお聞きになりたい方は、ぜひユーチューブ YouTube で 「パスターまこと」 と検索してみてください。

 聖書は断片的にではなく、また文脈や背景を収めながら読むことがとても大切ですね。それによって本当に語りかけてくださる神様に出会うことができると思います。

 さて、今日の箇所は私にとってはとても心に残ることばです。というのも、私の友人がこのことばによって信仰を持つ決心をしたからです。どうしてイエスを信じる気になったのか理由を聞くと、こうでした。「人というものは不幸な人がいれば、この人はどうしてこうなったのか、この人が悪いのか、家族に何かあったのか、と弟子たちのようにあれこれ噂をするものでしょう。まあそれが人間というものじゃないですか。しかしイエスはそうではなかったのですね。『神のわざが現れるため』・・・人間の口からは絶対にこんなことばは出てこないものじゃないでしょうか。まさにイエスが人間ではなくて救い主である証拠です。そのように気づいたから神を信じようと思いました。」というのです。

 この物語の大切な部分は、この男の肉眼の目が見えるようになったことよりも心の目が見えるようになった部分です。

 この生まれつき盲人であった男も、この世界には世の人々とは全く異なる考え方をする神がおられることを知ったのです。人は誰しもがどこかかしこ痛みを持っているものでしょう。しかしその痛みに対して「神のわざが現れる」と語ってくださる神がおられることに目を開かれたいものですね。

 では今日も良き一日となるように祈ります。

    ( PBA制作「世の光」 2021.3.27放送でのお話しより )


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■わたしは世の光です / 福井 誠

2021年09月10日 | Weblog

2021/3/26放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井 誠です。継続は力なり、聖書を一日一日と読み進むなら不思議にも自然に養われるものがあります。今日も聖書を開いてまいりましょう。今日はヨハネの福音書8章12節から「わたしは世の光です」と題してメッセージをお伝えいたします。

 イエスは再び人々に語られた。
 「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」

 以前、世の光放送は『暗き世の光』と呼ばれていた時代があったと聞いたことがあります。確かに世の中には明るい話題もあることにはありますが、それ以上に人の心の暗闇をそのまま映し出す出来事も多く、この暗い世の中を何とか明るくしたいと思っておられる方々もいることでしょう。

 さて今日の箇所には、そんな人や社会の闇を語るようなエピソードが取り上げられています。ユダヤ人の宗教家たちが一人の女を姦淫の現場で捕まえ、イエスのもとに連れてきたのです。

 ユダヤ人の掟によれば、このような女は殺されなければなりませんでした。イエスはそこでいかなる判断を下すのか、人々はイエスに目を向けたのです。

 しかしこれは実に社会の暗闇そのもののような事件でした。裁かれるのは女のみならず男もでした。しかし男の姿はありません。明らかに、イエスを陥れるためにこの女を利用したのです。イエスを失脚させようとする深い妬み心、そして一人の女を自分たちの目的のために利用し、殺されるはめになっても構わないとする冷え切った冷たい心。しかも彼らは人の道を説く宗教家です。実に嘆かわしい暗き世の現実がそこにありました。

 それは決して昔物語ではないでしょう。イエスはこの女を彼らの罠から救い出し、言うのです。「決して罪を犯してはなりません。」と。暗き世には様々な落とし穴がある。近づくな、ということでしょう。

 そして重ねて言います。「わたしは世の光である」と。イエスに聞き従う者は安全に住み、災いを恐れることがなく、安らかに生きることができます。

 では今日も良き一日となるように祈ります

    ( PBA制作「世の光」 2021.3.26放送でのお話しより )


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■わたしのもとに来て飲みなさい / 福井 誠

2021年09月09日 | Weblog

2021/3/25放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井 誠です。継続は力なり、聖書を一日一日と読み進むなら不思議にも自然に養われるものがあります。今日も聖書を開いてまいりましょう。今日はヨハネの福音書7章37節から「わたしのもとに来て飲みなさい」と題してメッセージをお伝えいたします。

 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」

 ヨハネの福音書7章2節では「仮庵の祭り・・・が近づいていた」とあります。仮庵の祭りはイスラエルの三大祭りの一つで、収穫感謝祭という性質を持っていました。またイスラエルの人々にとっては、かつてエジプトの奴隷から解放され、約束の地カナンに戻ってきた時の神の様々な配慮を思い起こす特別な祭りでもありました。

 ヨハネはその祭りで起こったイエスにまつわるエピソードを取り上げています。

 その祭りも終盤に入った時の事、イエスは群衆の中で大声を発せられました。
 「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」(7章37節、38節)


 仮庵の祭りは基本的に、エジプトからカナンへの乾いた荒野の旅路で神が水を与えてくださったことを思い起こすと同時に、豊かな収穫のための雨乞いを求める意味もありましたから、祭りの終盤では水の儀式で沸き返り、すべてを備えられる神への期待で高まるのです。

 ですからそこで「だれでも渇いているなら」とキリストの声が響き渡ることは、人々の耳目(じもく)を集め引きつけた実に衝撃的な出来事でありました。

 旧約聖書のヨブ記には、人は金や銀などの鉱脈を見つける力がありながら人生の問題を解決する知恵を見つけることができない、と語られています。しかしイエスはここでご自身にこそ救いと助けの知恵があると示していると言えるでしょう。

 人生において何を羅針盤として生きているのか、何を支えとして生きているのか、改めて考えさせられるところですね。

 では今日も良き一日であるように祈ります。

    ( PBA制作「世の光」 2021.3.25放送でのお話しより )


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■わたしだ、恐れることはない / 福井 誠

2021年09月08日 | Weblog

2021/3/24放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井 誠です。継続は力なり、聖書を一日一日と読み進むなら不思議にも自然に養われるものがあります。今日も聖書を開いてまいりましょう。今日はヨハネの福音書6章20節から「わたしだ、恐れることはない」と題してメッセージをお伝えいたします。

 イエスは彼らに言われた。「わたしだ。恐れることはない。」

 ヨハネがこの福音書を書いた時はかなり高齢になっていたのではないかと考えられています。つまりこの福音書は、イエスを見たこともないしイエスの肉声を聞いたこともない人々に向けて書かれたというわけです。

 ヨハネは改めてキリストを深く理解し、キリストに従う心を持たせる必要を感じていたのでしょう。

 そのような意味で、ヨハネは、イエスと出会いイエスによって支えられた人々を具体的に取り上げていますねえ。つまり4章ではサマリアの女のエピソードを取り上げ、イエスが旧約で約束されたメシアであることを示し、5章のベテスダの池のエピソードではメシヤが神の憐れみをそそがれるお方であること、神が生きておられることを語ります。そしてここ6章では、その神の力のいかばかりであるかを五つのパンと二匹の魚で五千人の腹を満たした奇跡、また強風で荒れた湖を鎮める奇跡をもって示すのでした。

 そしてヨハネは、このようなイエスに当時の人々が三つの反応を示したことを加えます。イエスの話を聞いて受け入れられない思いで離れていく者たち、イエスの力を認めてさらに信仰を深める者たち、面従腹背となってついていく者たちでした。

 ヨハネは一つの態度決定を求めていると言えるでしょう。信仰を持つということは横のつながりだけで生きてきた人生に縦の軸を加えることを意味します。つまりそれは、いつも天を仰ぎ、神の可能性を信じ、神との関係の中で生きていくことです。

 ですから真に神を信じる者は地上の事柄で息詰まるようなことがあっても落胆しないものです。「わたしだ。恐れることはない。」と語られるイエスが共におられることを覚えて歩ませていただきましょう。

 では今日も良き一日となるように祈ります。

    ( PBA制作「世の光」 2021.3.24放送でのお話しより )


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