♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■果たすべき務め / 山中直義

2012年09月18日 | Weblog
2012/9/18放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 山中直義です。

 人は誰も果たすべき務めというものを持って生きているように思います。

 旧約聖書創世記38章に登場するユダという人物は果たすべき務めをないがしろにしたことで一人の女性を大変苦しめてしまいました。

 ユダには三人の息子がいました。そしてユダは長男にタマルという女性を妻として迎え入れることにしました。ところがユダの長男もそして次男も神様に対して罪を犯し命を失うという事態が起こりました。当時のしきたりによればユダは最後の息子によってこのタマルに子孫を設けてやる務めがありました。ところがユダはもしかすると最後の息子まで死んでしまうかもしれないと恐れ、タマルを息子から遠ざけてしまったと言います。ユダは家族として迎え入れたはずのタマルに対する当然の務めをないがしろにし彼女に大変な苦しみを負わせたと聖書は言います。

 さてそのタマルが思い切った行動に出ました。彼女は遊女を装ってユダをだまし、何とユダの子ども宿したというのです。何も知らないユダはタマルが身ごもったということを聞くと、タマルを引き出して焼き殺せ、と激怒しました。ところがそのユダにタマルはこの子どもがユダの子であることを告げ、その証拠も示しました。そうしてユダはようやくタマルが抱えていた苦しみに気が付き「あの女は私よりも正しい。私が彼女にわが子を与えなかったからだ。」と告白するに至りました。

 私たちにもないがしろにしてしまっている果たすべき務めはないだろうかと思わされます。特に神様に対して果たすべき務めはないでしょうか。

 神様の独り子イエス・キリストは人となってこの世にきてくださり十字架にかかることで私たちに神様の悲しみを知らせ、私たちには神様に対して果たすべき務めがあるということを思い起こさせてくださったと聖書は教えています。イエス・キリストの命がけの行動、十字架の愛が気づかせてくれた私たちの務め、それは私たちが私たちを愛してやまない神様と共に歩むということなのです。

(PBA制作「世の光」2012.9.18放送でのお話しより )

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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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このサイトは URL名として 
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■創造の完成 / 関根弘興

2012年09月17日 | Weblog
2012/9/17放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

 旧約聖書の創世記の最初を読みますと神様がこの世界をどのように造られたかが記されています。神様はこの世界を6日で造られ、そして7日目に休まれたと書かれているんです。
 創世記2章3節
 「神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。

 このように書かれているんですね。神様が7日目に創造のみわざを休まれた、とは神様がすべての働きを終えて引退し今は天の住まいで休まれているというそういうことではないんですね。休むというのは何もしないということでありません。それは新たな別のものを創造するという事はなさらなかったという意味なんです。今でも神様の働きがなければこの世界のすべての営みは一瞬たりとも継続できません。今に至るまで神様はこの世界を治め、支え続けてくださっているんですね。

 そして、第7日目を祝福されたと書かれていますよね。それは神様は第7日目を創造されたすべてのものを祝福する事に専念されたというふうに取って良いんじゃでしょうかねえ。つまり神様の祝福は創造の完成した後は絶えることなく継続しているんだということを教えている訳です。

 私たちは当たり前のように自然の恵みを受け生きていますけども決してそれは当たり前ではなくて神様のその祝福があってこその恵みなのだということを私たちは知っておかなければいけないと思うんですね。

 そして神様の祝福は創造の時から今も絶えることなく一人ひとりに注がれているんだと約束している訳ですけれど、聖書には神様はこの7日目を聖であるとされたと言われたんです。

 聖、これはきよいということばですね、聖書の聖の字ですねえ。聖、これは分離されているとか他のものから取分けられているという意味を表すことばなんです。神様は第7日目を祝福しその7日目を取分けた。聖なる日とした。

 それは一体どういうことかと言えば、私たちにとっては私たち一人ひとりの毎週のサイクルが神様を賛美し感謝し礼拝し応答していくときとして一日が定められているということを表しているんです。だから教会では礼拝が行われますよね。神様の前に礼拝をささげていくことは人生の大切なサイクルとしての定めなんです。

 創造の完成はあなたが神様を礼拝していくという人生の大切なサイクルの中で完成されていくんですね。

(PBA制作「世の光」2012.9.17放送でのお話しより)

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  電話 052-762-2196 (自由ケ丘キリスト教会内)  東海福音放送協力会 へ
 

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■かなかすとなったイスラエル / 羽鳥頼和

2012年09月15日 | Weblog
2012/9/15放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 羽鳥頼和です。旧約聖書のエゼキエル書の22章には、罪を犯し神から離れてしまったイスラエルの人々への神のことばが記されています。神様はエルサレムの町を滅ぼすことを預言してこう言いました。
 「人の子よ。イスラエルの家はわたしにとってかなかすとなった。」と。

 かなかすとは汚くて役に立たない金属の小さな塊です。ですから罪を犯した者は神にとって役に立たない者、汚いものなのだということが分ります。神様はそのような罪ある者をどうされるのでしょう。

 エゼキエル書では神様はこう言われました。
銀、青銅、鉄、鉛、すずが炉の中に集められるのは、火を吹きつけて溶かすためだ。そのように、わたしは怒りと憤りをもってあなたがたを集め、そこに入れて溶かす。」(エゼキエル書22章20節)と。

 「怒りと憤りをもってあなたがたを・・・溶かす」とは恐ろしいですね。
 しかしちょっと考えてみましょう。この炉に入れて溶かすということは精錬するということです。精錬とは金属から不純物を取り除いて質の良いものにすることです。ですからここで神様は罪あるものを「汚い」と捨ててしまうのではなく、奇麗にするために精錬すると言っているのです。このことからここでの神のさばきは人を滅ぼしてしまうさばきではなく、人を悔い改めに導こうとするもので、人に回復の機会を与えるものであるということが分ります。

 新約聖書のヨハネの黙示録3章19節で神様はこう言われました。
わたしは愛する者をしかったり懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい。

 「炉に入れて溶かす」と言われる神様の怒りは実は人を何とかして救いたいという神様の愛から出てきているのです。

 自分の思いと行いを見てみましょう。あなたを愛しておられる神様をあなたは忘れていませんか? あなたと共にてくださる神様からあなたは離れてしまっていませんか? 聖書は必ず最後の審判というべき神のさばきがあることを教えています。その時、悔い改めなかった者は永遠の滅びに入るんです。この最後の審判というべき神のさばきがあることも忘れてはいけません。自分の思いと行いをしっかりと省みてみましょう。もし自分の罪に気付いたなら、その罪を悔い改めなければなりません。

 神様を信じて救われたいと願う方、ぜひお近くのキリスト教会にいらしてください。

( PBA制作「世の光」2012.9.15放送でのお話より )

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■神に背負わされる豊かさ / 岩井基雄

2012年09月14日 | Weblog
2012/9/14放送

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。もうすぐ敬老の日ですね。私たちはみんな歳を重ねていく者ですが、それ故に病気や弱さを覚えるときもありますね。歳を取ると自分の力では乗り越えられることが徐々に増えていくものです。でも聖書はそんな弱さを認めることの大切さを語り、真に私たちを支え背負い導いてくださる方に目を留めるようにと招いています。聖書の語る神様はあなたに次のように語りかけています。

 「胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」 旧約聖書 イザヤ書46章3節と4節です

 私たちはみな神様によって創造され、母の胎の中にいるときから神に愛され、担われ、力ある御手で運ばれてきました。私たちがまだ若い時、自分の力と知恵のみで生きていると過信して いた時も実は私たちは神様に愛され支えられ背負われてきていたのですね。そして歳を重ね髪の毛にも白いものが混ざり、弱さを覚えるようになっても神様は私たちを、いや、あなたを背負い続け、運び続けてくださるのです。

 自分の弱さに向き合わざるを得なくなった時こそ私たちは神様の愛に支えられてきたその事実に目を留めやすくなるかもしれませんね。このイザヤ書の背景には神の民と呼ばれたイスラエルの人々の姿がありました。この民は聖書が語る神様を知りながらも拒絶し自分の力や知恵や他の国の神々や王様に力を求め、失敗を重ねてきたのです。そして国を奪われバビロンに曳いて行かれる憂き目を経験する前に、イザヤという預言者がイスラエルの民に語ったことばが先のことばでした。

 自分の弱さや愚かさに向き合うことは神様の恵みです。そこで心を神様に向け神様の愛と恵みに気が付き、日々を愛なる神様に背負われて歩むこと、そこにこそ本当の平安の道、祝福の人生があるのです。創造主なる神様に背負われ続ける豊かな人生をあなたも歩み始めませんか?

 (PBA制作「世の光」2012.9.14放送でのお話しより)

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■あなたの王が来られる / 福井 誠

2012年09月13日 | Weblog
2012/9/13放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「あなたの王がこられる」です。それではマタイの福音書21章5節から読んでみましょう。

 『見よ。あなたの王があなたのところに来られる。柔和で、ろばの背に乗って、それも、荷物を運ぶろばの子に乗って。


 イエスが公に伝道開始して三年目のこと、イエスはエルサレムにやってきました。多くの群衆が道に上着を敷いたり木の枝を切って敷いたりと、イエスを大歓迎して迎え入れました。それはみながイエスの約束のメシヤとして受けとめたからです。

 ところがそのあとイエスは彼らの期待通りにイスラエルの解放者となった訳ではありません。むしろ十字架上で処刑されてしまうのです。一体この騒ぎは何だったのか、当時の人々はそう思ったものでしょうねえ。

 しかしそれから何年も経って後にマタイはもう一度この出来事を自分の福音書の中で取り上げ振り返っているのです。そして結論は、やはりそれは旧約聖書の預言の成就であった、イエスを約束のメシヤと確認される出来事だったのだ、というのです。

 マタイがその根拠として取り上げた旧約聖書はゼカリヤ書です。ちょうどイスラエルの人々がバビロンという国の支配から解放された紀元前500年頃に書かれたものです。この時、バビロンに捕虜として連れ去られた多くのユダヤ人が自分たちの国に帰ることを許されました。彼らは世界の覇者としての王がいかに横暴な征服者であるかということを身をもって教えられていました。そんな彼らにゼカリヤは預言するのです。やがて全人類の王となられる方が来られる、その方は正しく汚れなく柔和なお方である、だから意気盛んな軍馬ではなくおとなしい平和を愛する人の乗り物である子ろばに乗ってやって来る、と(ゼカリヤ書9章9節)。

 救い主イエスはこの世界の紛争解決のために来た訳ではありません。テロ撲滅のためや国家統合のために来た訳でもありません。むしろ救い主イエスは一人ひとりの心の中から始めて全世界に平和をもたらす救い主として来られたのです。

 あなたもイエスの救いについて更に聖書から深く学んでみませんか?

 (PBA制作「世の光」2012.9.13放送でのお話より )

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■民族に歴史あり / 板倉邦雄

2012年09月12日 | Weblog
2012/9/12放送

世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。

 今日は「民族に歴史あり」という題でお話いたしましょう。

 人に歴史あり、とよく言われますが、民族にも歴史があります。今日はロトから出た二つの民族を紹介したいと思います。旧約聖書の創世記の続きです。

 さて、ロトと二人の娘はいのちからがら逃げて近くの村へ行きました。しかしやはりロトは村を出て山中に住みます。村に住むのを恐れたからでした。ロトは山中にある洞穴(ほらあな)に二人の娘と共に住みました。

 しばらくして姉が妹に提案します。「私たちの父親は年老いていますし、それにこの所は私たちと結婚する男性などいません。ですから父に酒を飲ませ、共に寝て父によって子どもを残しましょう。家系を絶やさないようにしましょう。」

 姉妹たちはその夜、父親に酒を飲ませ、姉が入って父親と共に寝ました。父親ロトは泥酔していたので娘が来たのも起きたのも知りませんでした。次の日は今度は妹が同じようにしたのです。こうしてロトの二人の娘は父親によって妊娠しました。

 姉はやがて男の子を産み、その名をモアブと名付けます。モアブ民族の先祖となりました。妹もまた男の子を産み、その名をベニアンミと名付けます。これは後のアンモン民族の先祖となりました。

 それにしましても破廉恥な出来事が書かれていますね。こんなことが聖書には書いて有るんですかと驚くでしょう。私も初め読んだときにびっくりしました。朱に交われば赤くなると言いますが、ソドムの町で何十年も生活してきたロト家族にとっては普通のことだったかもしれませんね。現代でも酒に泥酔して様々な問題やトラブルが起こります。それが後々まで引きずっていくことになります。自分だけではなく、子どもや孫たちにまで及んでゆくのです。酒乱による暴力、アルコール依存症による精神的・知的な障害が生じています。望まない子どもの出産、あるいは闇から闇へと葬られてゆく胎児たち。くれぐれも酒の勢いや薬の勢いで将来を選ぶことが無いように神様はこの箇所を通して私たちに警告し、ロトとその家族を反面教師として描いているのではないでしょうか。

( PBA制作「世の光」2012.9.12放送でのお話より )

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■失敗談から学ぶこと / 山中直義

2012年09月11日 | Weblog
2012/9/11放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、山中直義です。

 私たちは成功談よりも失敗談の方から大切なことを学びとることが多いのではないでしょうか。聖書は不思議な書物で沢山の失敗談が記されています。その中でも今日は旧約聖書ヨナ書の主人公ヨナの失敗談から教えられたいと思います。

 彼は自分の失敗を赤裸々に語り自分の恥をさらけ出すことで私たちに大切なことを伝えようとしてくれています。ヨナが赤裸々に語る彼の失敗、それは彼が神様のことを十分に知っていると思い込んでいたことにありました。

 彼は神様が自分にどんなメッセージを語らせるのか、そしてその結果どんなことが起こるのか。全部自分で勝手に決めつけて神様にしっかりと耳を傾けようともせず、何と神様の前から逃げ出してしまったと言います。そしてヨナは自分の思い通りにことが運ばないことに腹を立てて、生きているより死んだ方がましだとまで言い放っていました。

 ところが、懸命に関わってくださる神様の憐れみの中で、彼は自分が大変な間違いを犯していたことに気づくようになっていきます。余りにも小さなことに一喜一憂して神様に咬みついていた自分を知らされたヨナは自分がいかに偏狭で思い込みが強く間違っていたか、そして神様は彼の思いをはるかに超えて情深く恵み豊かなお方として人と関わっていてくださったかということを大きな驚きと共に知るようになっていきました。

 私たちも神様のことはもう十分に知っていると思い込んでいることはないでしょうか。そして神様のことば聖書のことばに真剣に耳を傾けることをやめて神様から離れていってはいないでしょうか。ヨナはそんな私たちに自らの失敗談を通して懸命に訴えようとしています。ヨナが伝えようとしたこと、それは神様は私たちの思いをはるかに超えて憐れみ深く恵み深いお方であるということ、そして私たちはその語りかけに真剣に耳を傾けることでこの神様を知り続けるというかけがえのない恵みに与ることができるということです。

 神様は知り尽くすことができないほどに恵み豊かで素晴らしいお方です。どうぞ聖書のことばに真剣に耳を傾けることであなたも神様を知り続けてください。

(PBA制作「世の光」2012.9.11放送でのお話しより )

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■人は土から / 関根弘興

2012年09月10日 | Weblog
2012/9/10放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。 

 聖書を通して自分自身を知るということはとても有意義なことです。旧約聖書の創世記というところに人がどのように形づけられたかが記されています。創世記2章7節
その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」(新改訳聖書 第2版)

 神様が人をお造りになる時に用いられたのは何と土地の塵と書かれているんです。塵というのを辞書で引いてみてください。こう書いてありますよ。「利用価値のない細々とした汚いもの。全くねうちのないもの」と書かれているんです。神様は全く価値のない塵から私たち一人ひとり人間を造られたというんですねえ。それはもろく壊れやすいそういう存在として造られているということでもあるんです。

 旧約聖書はヘブル語で書かれていますが、「人」と訳されることばはヘブル語では二つあります。一つは「アダーム」ということばで、これは塵とか土を意味することばからできています。もう一つは「エノス」ということばで、これは弱いということばからできているんですねえ。要するに人間は本来土くれに過ぎず、弱い存在であると聖書は教えているんです。

 でも神様はそんな弱い壊れやすい塵に過ぎないような人をご覧になって何と「それは非常に良かった。」(創世記 1章31節)と言われたんですねえ。

 私たちが「非常に良かった」ということばを使うときはどういうときでしょう。健康で物事がすべてうまくいってすべてが完璧なときこそ非常に良い状態だっていうふうに考えますよね。でも神様は人を塵から創造された時、弱さを持った存在として造られたんです。そしてその弱さを持った一人ひとりに対して「非常に良かった」と言ってくださるんですねえ。

 一体どういうことなんでしょうか。聖書が教えていることは私たちが塵で造られたもろい存在であることを自覚することが大切だということを教えます。だから一人ひとりは神様を信頼しない1人よがりの生き方ではなく神様を信頼しながら生きていくという事の中に本当の良さは輝いて来るんですよと教えるんですね。

 人は独りでは生きていけない弱い存在です。だからこそ神様を信頼し生きて行くとき本来のあなたの人生が始まっていくんです。天地を創造された神様に向かって「天のお父様」と呼びかけることのできる状態にあるとき、それはあなたにとって「非常に良かった」という状態をあなたの人生につくり出していくことになるんですね。

 人は弱い土くらいに過ぎない存在です。しかし神様はそんなあなたを御覧になってそ、れでいいんだよ、非常に良かった、わたしと共に歩んで行こう、と聖書のことばを通して教えているんですね。

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■悔い改めて、生きよ / 羽鳥頼和

2012年09月08日 | Weblog
2012/9/8放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 羽鳥頼和です。今日は旧約聖書のエゼキエル書18章30節から32節についてお話ししたいと思います。

 神様は「わたしはあなたがたをそれぞれその態度にしたがってさばく。」(30節)と言われました。神様は正しい方です。神様はどんなに小さな罪も見逃しません。神に見逃される悪は一つもないのです。

 「わたしは・・・さばく」と言われる神様は続いてこう言われました。「あなたがたの犯したすべてのそむきの罪をあなたがたの中から放り出せ。」(31節)と。これは罪を捨てて二度と同じ罪を犯さないと決心しなさいということです。

 ここで罪のことをそむきの罪と言っています。これは罪の本質が神にそむくことにあるからです。ですから神にそむくことをやめて神に心を向けなさいと言っているのです。これが悔い改めるということです。

 「悔い改めよ」と言われる神様は続いてこう言われました。「こうして、新しい心と新しい霊を得よ。」(31節)と。

 どうしたら新しい心と新しい霊を受けることができるのでしょう。それは私たちがイエス・キリストを信じることによって神から与えられるものです。新約聖書のコリント人への手紙(第二) 5章17節に、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。」とある通りです。神様の救いを得るために、人はまず自分が神にそむいている罪人であることを認め、その罪を悔い改めなければなりません。そしてイエス・キリストが自分の罪のために十字架にかかってくださったことを信じるのです。イエス・キリストを信じることによって人は新しい心、新しい霊を与えられ新しく造られた者となることができるのです。

 エゼキエル書の18章32節には神様の本音が語られています。「わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。----神である主の御告げ。----だから、悔い改めて、生きよ。

 これは神様からのあなたへのメッセージです。神様はあなたに生きて欲しいと願っておられます。罪を犯してしまうかもしれません。でもその都度神様の「悔い改めて、生きよ。」とのことばを思い出して悔い改め、イエス・キリストの十字架を思い出しましょう。神様は悔い改めて生きようとするあなたに新しい心と新しい霊を与えてくださいます。そしていつも神様と共に歩む幸せな人生を与えてくださいます。

 あなたに生きる希望を与える神様にお会いするためにぜひキリスト教会にいらしてください。

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■私たちの祈りを退けないお方 / 岩井基雄

2012年09月07日 | Weblog
2012/9/7放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。今日もご一緒に旧約聖書の詩篇を味わいましょう。今日は詩篇66篇18節から20節です。

 「もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。しかし、確かに、神は聞き入れ、私の祈りの声を心に留められた。ほむべきかな。神。神は、私の祈りを退けず、御恵みを私から取り去られなかった。」 旧約聖書 詩篇66篇18節から20節

 私たちには祈り心がありますねえ。誰に祈ったら良いのか分からないときでさえ私たちは祈り願うことがあります。聖書が語る神様はあなたの祈りや願いを待っていてくださいます。

 しかしここに一つの指針があります。「もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。」 つまり私たちの心に正しくない思いや罪があるならば主なる神様は聞いてくださない、と言うのです。

 しかしすぐに「しかし、確かに、神は聞き入れ、私の祈りの声を心に留められた。」と続いています。どういうことでしょうか。本来ならば退けられて当たり前の私たちの祈りや求めを憐れみ豊かな神様は聞いていてくださるというのですね。

 「神。神は、私の祈りを退けず、御恵みを私から取り去られなかった。」というその次の箇所は神様の深い恵みと憐れみ、私たちへの愛を表していると言っても良いでしょう。憐れみ豊かな神様は私たちの心の叫びやことばにならない祈りを聞き、御恵みを取り下げどころか豊かに与えてくださるのです。

 この詩篇の直前にはこのようなことばがあります。「さあ、神を恐れる者は、みな聞け。神が私のたましいになさったことを語ろう。私は、この口で神に呼ばわり、この舌であがめた。」 詩篇66篇16節、17節

 祈りを聞いてくださり、御恵みを与えてくださる神様の前で私たちの心が取り扱われ魂が変えられるとき、私たちの心や唇から神様への賛美と感謝が溢れ出るのです。神様に自分の心を向け、思いも叫びも願いも、恵み豊かな神様に祈り届けてみませんか? 何よりも神様はあなたの心を魂を変え、喜びと賛美へと導いてくださいます。あなたの祈りを聞き、あなた自身を神様が変えてくださるのです。

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。
こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし、日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。
PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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