文と不呂愚、私とPogosyan

異形の蒐集
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仕える事

2009年06月22日 00時26分04秒 | Weblog
人のために何かをしてあげて、それが仕事と呼ばれるようになった。

自己満足に生きろと思ったけどそれは。。。

自分の身の回りにあるものがすべて誰かの「しごと」の産物であるという事実。
机も、コンピュータのCPUだって、
自分が今この世界で今の生活を保てているのは誰かが「仕事」をしたから
誰かの仕事の上に自分の生活が成り立っている
それが人間が生物として獲得した「生き方」
今は本当にその規模が大きくなった。

身近な人のために。誰かのために。あの人のために。

「この程度でいい」と言うことのむなしさ。

それを強いる今の社会。顔の見えない生産。意識の薄れ。

身近な人のためなら「仕事」をできる。でも誰のためかわからなければそんなものはむなしい。

「こんなものでいいでしょ」ではないものづくり。

誰かのために何かをやるなら、それは何だって「仕事」になる。
だからお金を媒介しない「仕事」もある。
自主的なオープンソース開発、ボランティア活動
その延長線上に現代の仕事があるはずだが、

誰かが必要としているものを、その人のために自分が調達してきてあげることが仕事。
誰かのために何かをしてあげると言う精神が「仕事」
誰かのためにプレゼントを買うことも、誰かのために野菜を育てることも。
腹が減っている子どものために料理を作ってやることも、女を欲している男に体を差し出すことも、

他人への愛の産物?

他人も喜び、その結果、自分も満足を得られる。
自分の満足のために他人へ奉仕してもそれは成り立つ。

「お金」は現在では「仕事」に対するお礼の対価になっている
そう考えると多くの人に欲せられている「仕事」には多くの「お金」が支払われることは当然に見える。
統一された対価で何を欲するか?
現代はそれが過剰。
お金だけが巡り、資源と人のエネルギーは消費され続けている。


自分の好き勝手やることは「仕事」ではない
その結果やプロセスを誰かが欲するのなら「仕事」になるがしかし

ならば「仕事」を選択する意味は?
本当は何を他人に差し出したってお互いに満足は得られる。しかし、そこで「何を」差し出したいかを選ぶことは自分の興味と自己満足に完全に直結している。

「お金」は関係の割り切り。
見知らぬ人からの報酬。
「お金」を授受しない奉仕のし合いもある。
お互いがお互いのために。
「お金」は対価のひとつでしかない。
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