当ブログでは、空と電信柱の出現率が高い。理由はブログの添える写真がなかなか撮れないからだ。大体の所文章を書いてから写真を撮りに行く訳ではない。たまにネタを決めてから写真を撮る場合もあるが、コモンズの悲劇なんて小岩井農場に行くのか?そして資料館でウロウロするのか?となります。そうした方がいいのでしょうが、小岩井農場の説明だけで1500字は軽く行きそうです。大体今はこうだけど昔は悲惨だった事を説明するのは大変です。
一番大きなのは仕事の合間とか、暇な時間に撮影して帰って来れる物と言えば、電信柱と空くらいの物でしょうか。大体の所ここまで曖昧な被写体も無いというのがあります。雲と空なんて何にでも使えますね。特に私の曖昧な文章ではピッタリかと。とはいえコモンズの悲劇の時にこの組み合わせで全編つくって調子に乗った所はあります。
今日は一日お菓子作りです。以前出したググロフもどきのレシピを卵黄を多くしたものに直している所なのですが、これを一回やるためにはメレンゲクッキーを4回作らなければいけない。そういったジレンマがあります。卵白は冷凍が可能ですが、どうも冷凍した物だとメレンゲクッキーには合わないような気がします。逆にマカロンだと冷凍した方がいいと言うのもある様です。で、卵がお一人様一回一パックの特売。焼いて、卵を買いに行って、焼いて、そんな一日でした。積んどいた日経ビジネスやダイヤモンドオンラインも消化しました。
ググロフもどきは、手順を入れ替えるとか最適化を目指しているのですが、かなり難しいのと試作コストが高いと言うのがネックです。手順を入れ替えると言う暴挙は、お菓子屋さんには分らないところですね。発酵食品ならではのものかと思います。
まあ悩ましい。
発酵物の不安定さを嫌うのがお菓子屋さんでしょうか。発酵させる所に意義があるのがパン屋でしょうか。
アレックス・カー氏がまた日本は看板と電線で景観を損ねている、と書いている様です。で、これは私も認めます。
ただもうこの電線に慣れてしまっている訳です。そしてこれはこれで見ていれば面白い物でもあります。大都市圏の電柱は面白いですね。真すぐなのが少ない。電線の重みでやられてしまっている訳です。その一本一本に何らかの変化がある訳で、それが生活圏と重なっているからなおさら面白いのです。
次ぎにヨーロッパで電線地中化がなぜ出来たのかというのがあります。これが実は分らないのです。私には。
多分なのですが、電柱と言うのは仮設と言う考え方があったのではないのかと思います。そのうちインフラが出来れば撤去すると言う考えがあったのかと思います。そのインフラは下水道だったと思います。
それと最初に電化がはじまった地域は都市部だと思うのですが、ヨーロッパは建物が石ですよね。建物の外にに電線を通す事は可能だったのではないのかと思います。私有財産権がきついので可能だったかは分りません。日本の家屋のように木であったら無理でしょう。
そして都市部での交通の問題があったと思います。当時は馬車でしょうが、それでも往来が激しかったはずです。そして各都市は中世のままの道だったと思います。すると電信柱を立てるスペースが無い訳ですね。多分これが一番説得力がある考えだと思います。
だからヨーロッパの田舎では電柱があったのではないのかと思います。アメリカでもそうだったと思います。
さて日本では電気の普及は全国通津裏裏までというのは戦後の話。経済力がつくまで時間がかかった言えます。で、その間仮設の電信柱だったのですが、電力網が整備されて行くに従って仮設が延々と続く事になります。都市整備や火災もあってその時々で電力網が変わって行く訳で、電信柱はうってつけの材料だったと思います。
あと今の日本では考えられませんが、電線に使われている銅はかなり高価な物でした。まあそれを地面に引いたらどうなる事やら、そう言った心配もあると思います。
ヨーロッパでは市街地の電線土中化と、日本の電柱との間にはなにがあるのでしょうか。ヨーロッパでは電気の発明から利用法まで一貫とした流れがある訳です。なので自分たちの生活に合わせようとした訳です。所が日本は文明開化でございまして、電信柱が通っているのが自慢だったりする訳です。わざわざ引かせて、お大尽ぶるとかそう言った所があった訳です
電信柱が文明開化だったのです。
そして工事をする人の考えも違う訳です。フツーは危険な作業はしたくない訳で、高所作業は嫌われるのですが、なぜか日本人は好んだ訳です。今では全く嫌われていますが。目立ちますしね。電気って危険だとかそう言ったイメージがありますからなおさら、見栄があると言う時期があったと思います。
ちなみに何で電気の国家免許が必要なのかと40代の職人に聞いた所、「死ぬから」でした。30代になると「死ぬからって言うのは業界を守るためだけでしょ?。古いですね。知識と経験は必要だけど、今のシステムだったら間違いが起こりえないです」
なおこの二人はかなり優秀だと思っていますが、個人的には「死ぬから」のほうが面白かったです。そういってクスっと笑っていました。
そう、日本で電話が通った時に電話線に手紙をぶら下げたエピソードは有名です。この目に見える物しか信じない感覚が素敵です。そして目に見えないと不安でしょうがなかった時代があったのです。
神様とか仏様では、電気はおこさねえべから。見える電線と電柱で納得していたと言うのはあると思います。
脱線したが、職人が持っている技術が180度違う訳で、急には変わらないと言うのが本当の所ではないのでしょうか。電信柱が当たり前の日本の職人はそこに特化して来た訳で、土中化に特化したヨーロッパではそちらが経済的に有利な訳です。
とはいえアレックス・カー氏が言っても何年かかったのか。今ある氏の発言では芸術新潮の1995年2月号でも同様の発言をしていると思いますが、そこから数えれば20年か。その前から彼はいっていると思うので、相当残念なのだろう。
そして看板の問題と言うのがある訳です。それはおいおい。
脇道はガンガン凍っています。今年のこの中途半端な天気は何なんでしょうね。