横浜のほほん・続

植物や生き物を見ながら歩いて感じたことなどを中心に日々を綴る。

三渓園の南側

2023-03-18 16:03:23 | 日記



三渓園で内苑から外苑へ向かう時、少し奥のほうに池があったり花が咲いているのが見えた。

そちらに向かうと、三渓園南口の外だと分かった。
係りの人に尋ねると「チケットがあれば再入場できます」とのこと。







南口から池畔に出ると、池の向こうの方に中国風の楼閣が見える。
ここは本牧市民公園の一画で「上海横浜友好園」というところらしい。







横浜上海友好都市提携15周年を記念するとともに市政100周年と開港130周年を祝して、
平成元年(1988)に江南様式の建物と庭園が上海市から寄贈された。







池にはキンクロハジロたちがのんびり浮かんでいた。
魚などの生き物は、どんなのがいるのだろうか。







本牧市民公園は桜を観るために訪れる人も多いのかもしれないが、行ったときは開花前だった。

しかし、桜色の花が見事に咲いている木が何本もあった。







近寄ってみると、アンズの花だった。梅の花に似ているが、たくさんの花が密に咲いている。

三渓園の南口から一旦出て正解だった。






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三渓園外苑、戦争の跡も

2023-03-16 17:13:17 | 日記



三渓園・外苑。
丘の上の三重塔は室町時代建築で京都・木津の旧燈明寺から大正3年(1914)に移築された。

大池の向こうには東屋(四阿)の涵花亭が見える。
涵とは包含するとか「ゆったりと満たされている」というような意味らしい。







内苑には茶室が多く配されていたが、外苑では右奥に見える林洞庵ぐらいだ。
林洞庵は他所からの移築ではなく、昭和45年に・寄贈建築されたものだという。

手前の初音茶屋は開園当時に無料の湯茶接待が行われていたそうだ。






今もイベントでは使われるらしい囲炉。

芥川龍之介も「ひとはかりうく香煎や白湯の秋」と詠んで、友人だった三渓の長男に送ったという。
もっとも手紙の最後には「あまり月並みなので弱った」との言葉を添えたとか。







外苑の奥のほうに建つ横笛庵は奈良の法華寺から移築とも言われ、
戦前は平清盛の娘として知られる「横笛」の像があったそうだ。

奥の右手には明治40年に移築された旧東慶寺仏殿があるが修復工事中で見学できなかった。







旧東慶寺仏殿の隣には合掌造りの大きな家があった。
昭和35年に白川郷の近くから移築された「矢箆原家住宅」で江戸時代中期建築という。
矢箆原家(やのはらけ)は飛騨三長者と呼ばれた豪農で、この住宅は農家建築と書院造りが合わさっている。






臼がいくつも               囲炉裏のある広い居間





書院造りの部屋には仏間も           仏壇は春秋のお彼岸とお盆に開扉される

 




小さな部屋も                漆塗りの立派な長持







矢箆原家住宅から池畔を正門方向へ向かうと右手に仏閣が見えた。
京都木津にあった旧燈明寺本堂で、三重塔と同じく室町時代(康正3、1457)の建築だ。
三重塔より遅れ昭和62年(1987)に移築された。







旧燈明寺本堂の裏手には石垣と石段がある。この上に建物があったということだろう。


原三渓は富岡製糸場などと共に栃木県大嶹(おおしま)製糸場も経営していたが、
その工場にあった茶室などと共に「皇大神宮」という神社を三渓園に移設した。
しかし昭和20年の大空襲により焼失してしまったのは残念なことだ。







皇大神宮の壊れた鳥居が残っている。







四阿の涵花亭を見守るような場所に小さな神社がある。
三渓園天満宮は近くの民家にあった間門天神(まかどてんじん)を昭和51年に移設したという。

ここには明治42年(1909)に大阪府河内長野から移設された楠公社の神殿があった。
しかし昭和20年の空襲により焼失することになってしまった。







狛犬は2体とも楠公社のものが残っているが、阿吽2体のうち吽形狛犬の頭部は損壊していた。




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本当に久しぶり、三渓園

2023-03-14 17:17:59 | 日記



久しぶり、本当に久しぶりに横浜市本牧の三渓園に行ってきた。







この前は18年前ぐらい? たしか6月下旬で、この池のハスも蕾が固かったように思うが、
ハンゲショウやアジサイ、ホタルブクロそれにドクダミなどが咲いていた。







大池にはキンクロハジロなどのカモがいっぱい。
池畔の藤棚の向こうの建物は鶴翔閣といい、明治35年に実業家の原三渓が住まいとして建てた。
このころから造園に着手し明治39年に三渓園が開園し、外苑は無料で一般公開された。

大正3年に京都・木津から旧燈明寺三重塔を移築した。







三渓園は大池まわりの外苑と鶴翔閣に連なる私庭としての内苑からなる。
太平洋戦争の空襲で大きな被害を受けたが、昭和28年に(財)三渓園保勝会の管理となり復旧工事が進められた。

前回は大池周りを歩いた程度だが、今回は内苑のほうも見てきた。
内苑の入り口は、この御門だ。宝永5年(1708)に建てられた京都・西方寺の薬医門を移築したという。







薬医門というのは棟の中央付近を支える本柱と後方に控柱がある構造になっている。







御門から進んでいくと臨春閣、月華殿、天授院、聴秋閣、春草廬、蓮華院など10棟ほどの建造物がある。







臨春閣は紀伊徳川初代藩主の頼宜が和歌山・紀ノ川畔に建てた数寄屋風書院造の別荘で、
慶安2年(1649)に建築され、大正6年に移築された。







臨春閣を過ぎて渓流沿いを上がっていく。岸辺にタンポポが咲き始めていた。







蓮華院はどこかからの移築ではなく、原三溪が自らの構想により大正6年(1917)に建てた茶室だ。
一部に平等院鳳凰堂の古材が使われているそうだ。







春草廬は桃山時代に織田有楽斎(信長の弟で茶人)により京都伏見城に建てられた茶室で、
その後、京都・宇治の三室戸寺金蔵院に移されていたのを、大正11年(1922)三渓園に移築した。
ちょうどオオカンザクラが咲いていた。

一つ一つの建物の中に入ることは出来ないが、蓮華院以外は重要文化財に指定されていて外見だけでも興味深かった。



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早春の黄色い花

2023-03-12 18:26:33 | 日記



家のそばの公園、その道路沿いの木に今年も黄色い花が咲き始めた。






ヒュウガミズキだ。1cmちょっとの小さな花で3個足らずの花序を作っている。







別のところでも同じような黄色い花が咲いていた。







トサミズキだ。花はヒュウガミズキに似ているが、5個以上で作る花序は3~4cmぐらいと大きい。







泉の森でも黄色い花が木を覆いつくすように咲いていた。






サンシュユだ。小さな花が2,30個も集まって花序を作っている。






さっそくヒラタアブの仲間が蜜を求めてきていた。

早春は黄色い花が咲く木がけっこう多い。



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いつもと違う入り口から

2023-03-10 16:37:36 | 日記



大和市ふれあいの森の入り口は大和駅から西へ進んだところにある。
今までは、そのコースを取って自転車で行っていたが、
今回は家から歩いて最短距離のコースとして陸上競技場の前をまっすぐ行くことにした。

東入り口を入ると「緑の見本園」の一段高いところで今はクリスマスローズが咲いていた。
季節によってはバラがたくさん咲くところだ。







何か動いているなと思ったらシロハラがいた。







緑の見本園に降りるとユキワリソウ(ミスミソウ)が咲いていた。雪割りの姿は一度も見たことがない。
例年通りとすると先月下旬から咲いていたのだろう。







引地川沿いをさかのぼって「泉の森」まで歩く。
しらかしの池でヒドリガモやカワウなどを見ながら奥の林に行った。
ここでもミスミソウが咲いていた。







こちらは例年「緑の見本園」より遅れて咲くので、まだ咲き始めたばかりかもしれない。







それでも広い範囲に色とりどりで咲いていた。







いつも一緒に咲いているイカリソウはまだ見られなかった。

もう少ししたらカタクリの花も咲き始めることだろう。



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