(cache) 宮崎法制局長官が辞職 答弁禁止も影響か(共同通信) - goo ニュース
内閣法制局は「令外官」にすぎないのだから、その長官の国会での答弁を禁じることは、それほど奇異には感じられません。それよりも、昨秋以降、何らの留保もなく(*1)内閣法制局がやたら「法の番人」として持ち上げられていることのほうが、よほど奇異に感じられます。この際、内閣法制局に国会の立法権や裁判所の司法権を「干犯」させてきた慣行は、再考されるべきでしょう。
他方、私としては、むしろ、民主党が「55年体制や官僚主導といった『見えない憲法』を、自分たちが理解した『見える憲法』で壊そうとしている」(*2)ことのほうが興味深いです。やはり、日本は「イスラーム革命後のイラン」に向かっているのかもしれません。それとも…。
(*1)たしかに、「事実上」、内閣法制局は「法の番人」であるのですが…。「個々の法案を審査し、必要な時には有権解釈を示して法のネットワーク全体がちゃんと働くようにし、法の支配を守ってきたのが内閣法制局です。」(『対談・「政治主導」と民主主義の行方』朝日新聞2010年1月6日4面の長谷部恭男発言)
(*2)「民主党は…自民党政権とは違い、自分たちの統治の基礎が憲法にあると思っているようだ。その憲法観だけでいいかどうかはさておき、その点は憲法学者としては理解できる。」(宍戸常寿「国会議員は解釈能力を磨け」『憲法解釈 内閣法制局長官の答弁は不要か』朝日新聞2010年1月15日17面)
内閣法制局は「令外官」にすぎないのだから、その長官の国会での答弁を禁じることは、それほど奇異には感じられません。それよりも、昨秋以降、何らの留保もなく(*1)内閣法制局がやたら「法の番人」として持ち上げられていることのほうが、よほど奇異に感じられます。この際、内閣法制局に国会の立法権や裁判所の司法権を「干犯」させてきた慣行は、再考されるべきでしょう。
他方、私としては、むしろ、民主党が「55年体制や官僚主導といった『見えない憲法』を、自分たちが理解した『見える憲法』で壊そうとしている」(*2)ことのほうが興味深いです。やはり、日本は「イスラーム革命後のイラン」に向かっているのかもしれません。それとも…。
(*1)たしかに、「事実上」、内閣法制局は「法の番人」であるのですが…。「個々の法案を審査し、必要な時には有権解釈を示して法のネットワーク全体がちゃんと働くようにし、法の支配を守ってきたのが内閣法制局です。」(『対談・「政治主導」と民主主義の行方』朝日新聞2010年1月6日4面の長谷部恭男発言)
(*2)「民主党は…自民党政権とは違い、自分たちの統治の基礎が憲法にあると思っているようだ。その憲法観だけでいいかどうかはさておき、その点は憲法学者としては理解できる。」(宍戸常寿「国会議員は解釈能力を磨け」『憲法解釈 内閣法制局長官の答弁は不要か』朝日新聞2010年1月15日17面)
これは全くの私見ですが、日本国憲法が改正されてこなかった理由は、日本にキリスト教的素地がないために、自然法による憲法の相対化ができなかったという点に求められるのではないでしょうか。自然法がないために日本国憲法が宗教法の地位に繰り上がった…とまでは言いませんが、日本国憲法が相対化できないという意味で絶対化し、「不磨の大典」になってしまったとは言えると思います。これも安直な日本特殊論と言われればそれまでですが…。
日本国憲法が改正されてこなかったのは、別にそれが神聖な律法として捉えられているからではなくて、国論を二分する争点が含まれていたために発議が忌避されているという政治的理由に過ぎないのではないでしょうか? それを「日本人が憲法を不磨の大典にしている」というふうに言ってしまうと、非常に安直な日本特殊論になってしまうでしょう。
これに対してイスラーム法の場合は、社会生活を規定する「法律」と宗教上の「律法」が統一された規範なわけですから、明らかに日本の憲法および法律とは異なるものでしょう。法学者の機能について言えば、私見では、彼らが行う解釈の概念が、ヨーロッパおよびその影響を受けた法体系とイスラーム法とで最も異なっているように見えます。前者の場合であれば法文のほか判例・学説史に主要に依拠するのに対し、後者の場合はそれに加えて神学体系を根拠として判決やファトワを下しているようです。解釈の幅が法学体系の枠内で収まるかどうかという点に世俗化した法としていない法の差異があるということだと思います。ですから日本の場合、法解釈の役割が拡大したとしてもイラン革命体制の如き法学者支配に接近することは100%ないでしょうし、そもそもそんなアナロジー自体成立する余地がないでしょう。
でも、日本は、良くも悪くも憲法を「不磨の大典」化してしまう点で、普通の近代国家とは違うから…。