兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

機動戦士ガンダム

2011-04-10 01:41:56 | アニメ・コミック・ゲーム

 前回のお話は、やはりわかりにくかったのかなぁ、と思っております。

 エントリにコメントくださった方は、(想像の域を出ませんが)或いはぼくが「ファースト『ガンダム』はニュータイプとオールドタイプの対立劇である」と主張しているように思われたのかも知れません。文章が拙く、そんな風にも読める書き方をしてしまいましたが、むろん、それはぼくの本意ではありません。

 ファーストが放映されたのは79年。日本はまだ冷戦構造下にありました。

 つまり国と国が対立して戦っている時代に、フィクションにおいて「いや、どちらの国がイイモノでどちらがワルモノかなど、簡単には言えないではないか」と主張したのがファースト『ガンダム』だったのです(これもちょっと極端すぎる解釈ですが、ひとまず我慢してください)。

 その図式は確かに先進的でしたが、とは言え、「国と国」ではなく「個と個」という文脈においてはファースト『ガンダム』も「ニュータイプ」という「わかりやすい、イイモノ」を配置してしまっているのではないか、ということです。むろん、そこで「ニュータイプ=イイモノ/オールドタイプ=ワルモノ」という図式が描かれたわけでは、全くありません。しかしオールドタイプはどこか「古い地球人」という劣った存在として描かれ、彼らは常に「ニュータイプという先進的な存在をどれだけ受け容れているか」を問われているという図式があったような……つまり比喩的に言えば「ニュータイプ」とは正義そのもの、「オールドタイプ」はそれをどれだけ理解しているかという試金石に試されている、という図式です。

 そしてそれは、劇中で悲劇的ニュータイプとしてララァ、フォオ、エルピープルなどの少女キャラが配されることも手伝い、どうしてもエコロジーフェミニズム的なムード(女性は天然自然に近く、それ故男性よりも高級である、女性の豊かな感性、感受性こそが尊いのだ、といった幼稚な価値観)を匂わせています。男性ニュータイプやニュータイプに味方するオールドタイプは差し詰め、フェミニズムに追随しようと必死な男性像、といった感じでしょうか。

 繰り返しますがぼくは「富野はフェミニストシンパであり、我々の敵だ」「作品としてファースト『ガンダム』は『SEED』に劣る」などと言っているわけではありません、上のような「深読み」も一面では可能だ、と言っているだけです。

 そもそもこうした「優れた能力を持ちながらマジョリティに抑圧されているマイノリティ」といった「ニュータイプ」観は、明らかにSFにおける「エスパー」観に影響を受けていますし、更にその「エスパー」の概念もまた、ニューエイジブームと密接に関わっていたわけです*。


*SF作家である星新一先生は自らの創作過程を明かしたエッセイで、自分が「超能力者は善玉だ」という先入観に囚われていたことを述懐しています。


 こうしたマイノリティという名の「試金石」をどんとテーブルにおいて「さあどうだ」と迫ってくるような「逆のレイシズム」はこの時代から今に至るまでを支配する、「新しい正義」であるように思えます(昨今では「石原に投票するヤツはホモ差別者だ!」と言い募るような、ホモを「人権兵器」として投入しようとする感覚、とでもいいますか。ホモは戦争の道具じゃないと思うのですけれどもね)。


 さて、ここで話はようやく「女災対策」について、に移ります。

 時々書いていますが、昨今、「男性差別」と言った言葉がネット上に散見されます(残念ですが、オフではほとんどお目にかからない言葉です)。

 しかしぼくは何度か、「男性差別」といった言葉は好きではない、との旨を書いているかと思います。

 その理由について、「フェミニズムとは『チャージマン研!』である」においては「差別」という言葉にまつわる欺瞞故だ、と述べました。

 また、そこで「男性差別」は「超光速やマイナス一兆度というものがこの世にないのと、全く同じに」この世においてはあり得ない、とも書きました。

 表現としては大変に拙いものですが、考え方としては、今も変わってはいません。

 現実に「男性差別」があるか否かは問題ではない。

 現代社会においては「男性差別」という概念その存在を認められない。それは丁度、ぼくたちの目が紫外線や赤外線を感知できないのと同様、現代社会の道徳律では「感知」が不可能なものだからです。

 現代社会の正義は、女性という試金石によって計られるものなのですから。

 それは丁度、オールドタイプを殊更にはワルモノ扱いはしなくても、「ニュータイプという試金石の前でその価値を計られる」という図式と同じだ、と考えればわかりやすいのではないでしょうか。


 ネット上で「男性差別」関連のコミュニティに集まってくる人々の間には、結構過激な、強硬策を唱える御仁もいます。

 彼らは(どういうわけか痴漢冤罪などよりも、専ら)「男性をバカにするCM」などにばかり拘泥する傾向があるように、ぼくには思われます。

 そしてとある人物はそうしたCMの制作者に対して、「社会的制裁を加える」「ネットで社名や連絡先を公表」する、「担当者個人も、自宅などを標的に」する、などと言い立て、周囲から「いくら何でもそれは名誉毀損にあたるだろう」となだめられても、「公共の利益に関わる問題の場合は、名誉毀損にはならない」のだ、と強弁していました。「男性をバカにした(と彼の主観が判断した)CMの作者の個人攻撃」が公益に適うとは、裁判所だってとても認めないと思うのですが。

 むろん、この方はこの種のコミュニティにおいても例外的な急進派です。ただ、「男性差別」に関心のある人々の間である種、大変に素朴な「平等意識」や「人権感覚」が信じられてるような気が、ぼくにはするのです。

 即ち、「この問題は紛う方なく差別だ、男女は平等である以上、エラい人に訴え出ればわかってもらえるはずだ」と。

 しかしそんな感覚にぼくは、何だか京都に行って「お茶漬け出します」と言われて、そのままニコニコお茶漬けを食ってるようなそんな危うさを感じてしまうのです。いや、ぼくも言葉の裏なんて読めない方ですけれどもね。


 上に書いたように「差別」と言う時には、まず「被差別者」が想定されているのです。「○○の扱いをすること」が差別なのでは決してありません。「○○という対象に何らかの振る舞いをすること」こそが差別なのです。

 例えば「差別」という言葉を字義通りに考えてみれば、「白人差別」という事態もあるはずなのですが、白人が青筋立てて「これは白人差別だ!」と言い立てるという光景を、ぼくたちは決して許容しないでしょう。「被差別者」は最初から、決まっているのですから。

 それは何故かと言えば、女性という概念がニュータイプという概念同様、輝かしい聖性を持ってしまっているから、なのですね。

「平等」も同様です。

「平等」というとみんなで、例えば十個のおまんじゅうを十人で仲良く分けるイメージがあります。

 が、そこに罠があります。

 おまんじゅうというのは常に、足りないものだからです。

 みんなが十人いるのにおまんじゅうは五つしかないからです。

 そこで求められるのは「この五人は可哀想だから優先しておまんじゅうをあげよう」という選択をするための大義名分をウソでもいいから考え出すことです。

「平等」とは「この人たちにおまんじゅうをあげたことは正当だ、この人たちは弱者なのだから(キリッ」というための方便なのです。

(後、これはあくまで比喩なので「一個のおまんじゅうを二つに分ければいいじゃん」というツッコミはナシです)

 つまりぼくたちにおまんじゅうが届かないのは、決してNGOが手柄を独り占めしようとストップさせているからではなく、そもそもぼくたちの手に渡ることは政治的正義に適わない、ぼくたちの手に渡ることこそ、「平等の原則に反する」からなのです。


 上の過激派の御仁は――いや、彼だけに限ったことではないのですが――「平等の原則」を一本調子に振り回して、おまんじゅうをもらおうとする、言わば「エラい人に訴え出ればおまんじゅうをゲットできる」と信じている人でした。

 おまんじゅうは何十年も前からずっとなかったというのに、今更「俺のおまんじゅうがないぞ、くれ」と言い出したみたいで正直、「言わせんなよ、恥ずかしい」と言いたくなってくるところです。

 まず、自分たちがそもそもおまんじゅうをもらえない側にいること、そもそもオールドタイプ側の陣営に(頼んでもいないのに、いつの間にか)組み込まれていることを、大前提としなければならないというのに。

 拙著にも書きましたが、十五年ほど前、90年代の半ばに、「メンズリブ」「男性解放」と呼ばれる運動がちょっとだけ話題になったことがあります。しかしこれはフェミニストの理論を鵜呑みにし、男性性を捨て、女性性という尊いものを身につけた男性だけが神に赦されて天国に行くのだという、フェミニズムのヴァリアントに過ぎませんでした。

 今の一部の「男性差別」論者も「我々にも女性に与えられているおまんじゅうを」と求めているという点で、彼らに近しいものを感じます*。

 しかしぼくたちにとって本当に大切なのは今の社会が自明としている人権感覚、「フェミまんじゅう」の正当性を疑ってみる懐疑精神なのではないでしょうか。


*事実、彼ら「強硬派」はフェミニストたちに憎悪を抱いていながら、「女性も働くべきである」と言ったそのイデオロギー、企業にクレームなどを繰り返すその方法論に対しては不思議なほど賛同の意を示すのです。


●付記●


 相変わらず冒頭の文章、こなれてないですねw

 もうちょっと補足してみます。
 ファースト『ガンダム』の中において確かにニュータイプ対オールドタイプの図式はマジンガーZ対ドクターヘルのような正義と悪の対立として描かれたわけではない。とは言え、ニュータイプの「聖性」というのは作中、ずっと貫かれていた。だから「イイモノ」のオールドタイプはニュータイプの理解者として描かれた。
 逆にシャアは(言ってみれば)ワルモノでありながら、ニュータイプであったわけですが、しかしシャアの「ワルモノ性」はまさしく「ニュータイプへの無理解」として現れていた、とも言えるわけです。
 上にもホモが「対石原戦のための人権兵器」として投入される傾向があると書きましたが、どういうわけか彼らは「石原も実はホモなのだ」と(何ら根拠なく)強弁する傾向にあり、これは
「貴様だってニュータイプだろうに!」という言葉と、完全に重なっています。


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4 コメント

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はじめまして。 (senyou38)
2011-04-10 14:59:11
はじめまして。
兵頭様のブログ、毎回楽しみにしています。

私も、兵頭様の言う「女災」にウンザリしてその不満をブログに書き散らしている者です。


http://senyousociety.blog79.fc2.com/
↑こちらがそのブログです。

さて、私のブログにおいては、「男性が差別されている」という文言が使われていますし、「男性差別」という言葉も否定していません。

しかし、本音を言うと私自身、「すべての人間が平等」であるなどと思っていません。
そしてさらに言えば「差別は絶対にいけない」とも思っていないのです。

男女はそもそも異なる性質を持っているのだから、異なる扱いをするのは理にかなっているとも思います。

>おまんじゅうは何十年も前からずっとなかったというのに、今更「オレのおまんじゅうがないぞ、くれ」と言い出したみたいで正直、「言わせんなよ、恥ずかしい」と言いたくなってくるところです。

>まず、自分たちがそもそもおまんじゅうをもらえない側にいること、そもそもオールドタイプ側の陣営に(頼んでもいないのに、いつの間にか)組み込まれていることを、大前提としなければならないというのに。

この指摘はまさにその通りだと思います。

しかし、今でも、女性(とうかフェミ団体)は「男女平等」にすべく男性側のおまんじゅうを男女共同参画を通して奪い続けているのです。

だからこそ、私もできるだけそれに対抗しておまんじゅうを奪い返したいと思うのです。

そのフェミへの対抗方法として、今までフェミが散々用いてきた(兵頭様が嫌うような)「我々は差別されている!『平等』をよこせ!」という方法をもってやりかえすのを見て、兵頭様もウンザリされるかもしれません。

しかし、私は
>ぼくたちにとって本当に大切なのは今の社会が自明としている人権感覚、「フェミまんじゅう」の正当性を疑ってみる懐疑精神なのではないでしょうか。

ということについて、多くの人々がフェミまんじゅうの正当性について疑えるほどの懐疑精神を持つようになることを期待できないのです。
もはやフェミの腫瘍は政治、マスコミの奥深くまで根をはり、根治するのは困難だと思っているからです。

だから、兵頭様は嫌うかもしれませんが、あるいは「フェミと同類」と言われるかもしれませんが、私たちができる対抗手段はこれくらいしかないと思うのです。

もちろん、こんな方法をとらずとも、社会が女災を認識して腫瘍を取り除こうとする意欲を見せるようになればいいと思いますが、どうすればいいのかわからないのです。
初めまして、コメントありがとうございます。 (兵頭新児)
2011-04-10 22:22:22
初めまして、コメントありがとうございます。


>男女はそもそも異なる性質を持っているのだから、異なる扱いをするのは理にかなっているとも思います。


そうですよね。
一本調子な「平等」は「ジェンダーフリー」に近しい原理主義につながると思うわけです。
ただ、ぼくも「男性差別」という言葉を使うべきではないとか、「女性専用」などに対する抗議が無意味だとか考えているわけではありません。


ブログを拝見しました(まだ全部ではありませんが)。
「女の主張 ~とある少女の被害~」「男の主張 ~とある少年達の迫害~」はリアリティがあるというか、胸に迫る筆致で(少女側も少年側も)感銘を受けました。
が、「悪いのは誰だ?」は落としどころを警察や鉄道会社になさっていてちょっと「え?」と思いました(この辺は女性に対して攻撃的になりすぎない戦略、という面もあるのかも知れませんが…)。


おっしゃっていることは確かにごもっともではあるけれども、でも例えば「DV冤罪」「セクハラ冤罪」などの場合、鉄道会社に責を押しつけることはできない。
ぼくはむしろ目下、「痴漢冤罪」ばかりが問題になっているのは(フェミニストが直接法改正などの介入をしていないこともあって)「警察」や「鉄道会社」に責任を押しつけることができるからではないかとすら、勘繰っています。


その辺の「女性側の欺瞞」をひっくり返さないことには(それはつまり、現代の「差別観」「人権感覚」をひっくり返すと言うことです)、仮に女性専用や痴漢冤罪がこの世からなくなっても、モグラ叩きのように「別な女災」が現れてくると思うんですよ。
だから、「実践」の面では女性専用車両などに抗議をすることも検討しつつ、「理論」をも構築していくという二面作戦が望ましいと思うのですね(ぼくは頭が抽象的にできていて、後者にしか頭が回らず、このような言い方しかできないのですが)。


ところで、ブログにリンクさせていただいてもいいでしょうか?
>その辺の「女性側の欺瞞」をひっくり返さない... (senyou38)
2011-04-16 13:38:50
>その辺の「女性側の欺瞞」をひっくり返さないことには(それはつまり、現代の「差別観」「人権感覚」をひっくり返すと言うことです)、仮に女性専用や痴漢冤罪がこの世からなくなっても、モグラ叩きのように「別な女災」が現れてくると思うんですよ。
だから、「実践」の面では女性専用車両などに抗議をすることも検討しつつ、「理論」をも構築していくという二面作戦が望ましいと思うのですね。


なるほど、女性専用車両などに対する個々の問題の面と、現代社会の価値観全体に対する理論の面の両方から闘っていくのですね。

ただ、日々の仕事・生活に忙殺されている人が、社会の意識・風潮を理論的に解釈して他社と共有するような余裕はあまりないのではないかと思っています。

現場で実際に不愉快なことを味わっている男性に、個々のことに少しづつ「おかしい」と思ってもらうことで、そのうち社会全体の意識に疑問を持つようになるということもあると思います。

たしかに、女性専用車両もその他の女性優遇も、すべての根っこはフェミから生じているというのはその通りだと思いますが、フェミの考えを無批判で受け入れ実際に運用しているのは鉄道会社や商業施設なので、「女性優遇を行うと売上が減る」といった形で対抗すれば、彼らも考えざるを得なくなるのではないかと思います。

そのためには、当事者である男性が個々の問題に、鉄道会社のやり方に、商業施設に、警察や裁判所の異様な女性優遇に疑問を持ち、反対意見を言えるような空気を作りだすことが重要であるので、私はまず、「実践」を重視しています。
(もちろん「理論」の方も大切だと思っていますが、私の戦略としてはそうしている、ということです)


ちなみに
>(この辺は女性に対して攻撃的になりすぎない戦略、という面もあるのかも知れませんが…)。


というのも当たっています。
要は、私の言いたいことは「お互い気を遣い合って、仲良くしようや」ということだけなのです。
シンプルですが、実践するのは難しいことです。


是非ともリンクさせてください。
よろしくお願いします。

返事が遅くなってしまい、申し訳ありませんでした。
Unknown (兵頭新児)
2011-04-16 23:35:34
どうも、早速ですがリンクさせていただきました。
これからよろしくお願いします。


>現場で実際に不愉快なことを味わっている男性に、個々のことに少しづつ「おかしい」と思ってもらうことで、そのうち社会全体の意識に疑問を持つようになるということもあると思います。


そうですね。
ただ「実践」という場合でも、CMなどを槍玉に挙げるより、痴漢冤罪などをターゲットに選ぶ方がいいと思うわけです。
というのは、痴漢冤罪の問題にはこの「女災社会」のカラクリの綻びが見え隠れしているからです。
そして、そうした問題意識がDV冤罪、セクハラ冤罪などに広がっていくかどうかが勝負の分かれ目だと思います。
「広げて」行かないことには、世間の人々がカラクリに気づかないまま、「警察が/鉄道会社が/裁判所が悪い、はい、終了」となり兼ねないかな、と。
しかし逆にここはちょっといじってやればセクハラ冤罪などにも世間の目を向けさせ、ひょっとしたら世間もカラクリに気づくのではないか。かなり大きなチャンスなのではないかと思っています。


新しい記事を見ていただければわかる通り、フェミニストは男性による女性への性犯罪を捏造して、その噂を拡散させ、風評被害を広げています。
これは、むろんひとつにフェミニズムの偏向したイデオロギーが悪いとも言えるのですが、一方では性犯罪冤罪全般に共通する、女性側の「ニーズ」が生み出した「女災」だという言い方もできるのですね。
女性様に味方するインテリ君たちは、ぼくたちが痴漢冤罪などについて批判すると「いや、オトコが痴漢などするから痴漢冤罪が生まれるのだ。オトコに全ての責任があり、女性様は無辜なのだ」と泣きわめきますが、実はそれは全く当たっていない、性犯罪冤罪は女性側の「ニーズ」がまずあって生み出されているものなのだ、ということが昨今、明らかになりつつあるわけです。
確かに一般の人々にリクツを説いていくことは困難かとは思いますが、このような「女災」のケースを挙げていくことで、リクツ以前の感覚として、女性側の欺瞞を感じてもらうことは不可能ではないのではないか、と思います。
(「フェミニストなんてブスの集まりじゃねぇか」という言い方が象徴するように、一般の人々もフェミニズム的な考え方の欺瞞は、何となく感じてはいると思うんですよね)

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