兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

兵頭新児のレッドデータコンテンツ図鑑⑥ 東映まんが祭り 光速電神アルベガスvsビデオ戦士レザリオン 空中大激突

2024-04-27 19:25:40 | アニメ・コミック・ゲーム

 

 目下、暇空茜氏の件でWiLL Online様に寄稿させていただいております。
 雁琳氏の件にも連なる左派勢力のキャンセルについて語っています。どうぞご覧ください。

暇空茜氏のネガキャン――一本の線でつながっている!?

YouTubeでは近年のフェミについての動画も挙がっています。
こちらも未見の方はチェックを!


風流間唯人の女災対策的読書・第56回「覇権フェミと中堅フェミと派遣フェミ」

 さて、今回はそれと関係なく、サブカルのオタクへの加害。それが80年代のオタクコンテンツにおけるニヒリズムと大きく関わっていた……というお話です。
 と、そういうことで……。

     *     *     *     *

 が~んがんが~んがんがんがんが~んがんが~んがんがんがん♪
「おっ、『ゲッターロボ』か、懐かしいな」
「再放送じゃないっっ!」
「でも、今の子は『ゲッター』知らんだろ。笑えるかな」
「パロディじゃないッッ!!」


 ――というわけで久し振りにやって参りました、『レッドデータコンテンツ図鑑』。
 前回、次はタイムボカンシリーズと予告しましたが、ちょっと思いついたことがありまして……いずれも「価値相対化の時代である80年代に生まれた、ある意味あだ花」といった側面がある作品なので、語る内容はいずれにせよいっしょになっちゃうんですが。
 さて、数日前、ツイッター上に以下のような書き込みがなされました。

長くなりそうなんで書くのやめてましたが、最近のオタクはウヨったりミソジニーだったりと評判が悪いので、若い人にはオタ創世記?の頃が分からなくなっているらしく、結論を最初に言うと「元々オタクはリベラル寄りであり知的であった」です↓
例えば、円谷特撮で育った当時の子供にものすごい衝撃を与えたのはG・ルーカス『スターウォーズ』77年ですが(日本公開は78年)映画のあとすぐに出たムック本には、黒澤映画の影響(隠し砦~)やエロール・フリンの海賊映画、米国のスペースオペラの系譜(パルプ雑誌)などが↓
作品の裏側にはあるんだよ、ということが縷々説明されていました。これらの解説文を書いていたのは、日本に海外SFを紹介してきた人たちで(野田元帥など)ウルトラシリーズとゴジラくらいしか知らなかった、当時のガキには「そんなもんが外国にゃあるんだホゲー」でした↓
(中略)
つまり雑駁に言えば「創作物を通じて意味を汲み取り、自分が生きている現実を考える姿勢」は、当時の漫画ファン・アニメファン・映画ファン・活字マニアにとって「それは当たり前」でした↓
また、それらサブカルの紹介者もファンも言うまでもなく昔の日本はどんな国だったかはよく知っており、「住んでる世界が軍事独裁になればいい」というグロテスクな妄想は抱かないのが「普通」でした↓
(以下略)

https://twitter.com/Simizushi/status/1756990126482407911

 

 ――長い長いツイで、できれば略した部分も読んでみて欲しいのですが(よくある、自分の仮想敵としての「ネトウヨ」を妄想し、自己正当化を続ける、気持ちの悪い内容です)、要するにぼくがいつも言っているような、「愚かなサブカル君」を象徴するかのようなツイなわけです。
 読んでいくと円谷特撮に対し『スターウォーズ』を優位に見ているし、そもそも語るうちにホンネがまろび出て、当初は「オタク」だった主語が後半では「サブカル」へとすり替わっている辺りが微笑ましいですね。
「サブカル君は左派的価値観を振りかざし、オタクにマウントを取るが、その傲慢さ、古色蒼然さが嫌われている」。
「サブカル君はオタクの上位者を気取り、オタクを侮蔑しきっていたが、オタクがカネになると知るや擦り寄ってきた」。
「サブカル君はオタクを自称するようになったが、実際には上位者であるという醜い勘違いしきった自意識を捨てていない」。
 今までぼくが繰り返してきたことが、このツイには非常にコンパクトに実証されています。
 それに対し、今までぼくはガイナックスの母体となったDAICONフィルムの自主映画『愛國戰隊大日本』を例に論じていました(これについては少し前に書いた「山田太郎と岡田斗司夫とぼくらのオタク主義」を読んでください)。本作は上の世代(ぼくが言うサブカル君)の政治イデオロギーを徹底的に笑い飛ばした作品でした。
 ただ……イデオロギーを笑い飛ばす時点でイデオロギーに対するそれなりの知識や感情があるわけで、下々の若きオタクたちは、ぶっちゃけそれすらもなかったわけです。
 では、何を笑っていたのか。

 はい、答えは「本作を笑っていた」でした。
 本作は1983年に放映された作品。
 世はガンダムブーム……がちょっと落ち着いてきた頃かな?
 ともかくリアルロボットが流行し、オタク世代、中高生のアニメファンが増えてきた頃です。
 そんな中、一昔前のスーパーロボットの復権を狙って作られたのが本作。
 三体のロボットが合体し、悪の軍団デリンジャーに戦いを挑む――という『ゲッターロボ』(74)を露骨に意識した作品でした。
 冒頭に書いた会話は当時のアニメ雑誌で若き日のゆうきまさみが描いていたもの。『ゲッター』そっくりだな、しかしもうちょっと何かプラスアルファがあってもいいんじゃないの、というこれ自体が本作への鋭い批評となっていました。
 もっとも独自性が全くなかったわけでもなく、主人公たちは青葉学園の生徒であり、学校の課題として作ったロボで敵に戦いを挑むという、近未来のテクノロジーの進歩を、そして『ガンダム』のニュータイプにも通ずるような若者たちが新たな技術を使いこなし、新たな時代を築くのだとの楽観性が、そこにはありました(何しろ次回作の『ビデオ戦士レザリオン』(84)ではコンピュータ少年がロボを「何か、作って」しまいます!)。
 当時は『3年B組金八先生』(79~)を考えてもわかるようにティーンエイジャーの多かった時代です。アニメの主人公がそうなるのも必然だし、また『ガンダム』(79)がそうであるように、この設定もオタク世代の視聴者を意識してのものだったと思えます。
 ところが……ゆうきまさみの評でもわかるように、本作は必ずしも「俺たちの作品」として迎えられたわけではありません。
 脚本(おそらくシリーズ構成めいたことも担当していたと想像できます)は上原正三。以前にも採り挙げたことのある、ぼくも尊敬する脚本家です。ウルトラシリーズから戦隊シリーズまで、そして本家『ゲッター』までも担当していた特撮、アニメ脚本の帝王なのですが、そして当時も宇宙刑事シリーズ(82~)を執筆し、何度目かの黄金期を迎えていたのですが……本作に関しては「外していた」と感じます。
 えぇとですね、主人公は円条寺大作。声は古川登志夫。
 同氏は80年代アニメを語るに外せない、『ガンダム』ではカイ・シデンを、『うる星やつら』(81)では諸星あたるを演じた、ある意味では当時の「ニヒリズム」を強く体現する声優なのですが……例えば本作ではこんなシーンがありました。
「来るなら来い、デリンジャー! どんな卑劣な手を使おうとも、俺たちが必ず叩き潰してやる!!」
 勇ましく拳を固め、決意する大作――ところがカメラが引いていくと、その後ろ姿は尻を丸出しにしている。風呂上がりで、シャツだけ着てパンツを穿いていなかったのだ……すみません、記憶で書いているので厳密には差異もあるでしょうが、何かそんなんです。
『超魔術合体ロボギンガイザー』(77)でも主人公が敵の前にギターを弾いて現れるという(つまり、ヒーローが前時代的なヒーローを演じ、それが笑えるという)ギャグをやっていましたし、そうしたセンスは別に80年代になって始まったものではないはずです。
 上原正三自身、以前にも書いたように『ゴレンジャー』(75)、『ジャッカー』(77)で先進的なギャグを書いておりました。
 が、上のギャグは申し訳ないけど「寒い」。
 先にも書いた次回作『レザリオン』は本作に比べシリアスな作風なのですが、たまに入るギャグが微妙でした(もっとも上原は後期からの執筆なので、下の全てが彼の手によるものかはわかりませんが……)。

・主人公・香取敬が寝坊なのを母ちゃんに叩き起こされるが、その時、怒った母ちゃんがゴジラと化す。
・敬を演じたのは古谷徹。「父ちゃん、俺はやるぜ!」、「敬、行きま~す」などと言う。「行きま~す」の後には「いけね、昔のクセが出ちまった」などと自己突っ込みが入る!
・敵に惑わされるレザリオン。味方の博士が周囲に解説し、「SF的に解釈するなら、異次元空間に取り込まれたのじゃ」などと言う!


 最初の母ちゃんがゴジラと化す、こういうのは当時、やたら多かったのです。ちょっと好例が思いつきませんが、例えば『マカロニほうれん荘』でキャラクターたちが次々変身していくような、そんなギャグを狙ったものだと思われます。
 が、それがやはり、申し訳ないけど寒い。
 古谷徹の声優ネタもそうで、(こういうのは同人誌など、オタクの間で確かに流行していたのだけれども)やり過ぎだろうと嘲笑されてしまいました。
 博士のセリフもそうで、いわゆる「メタ」的なギャグを狙ったわけでしょうが、シリアスな場面でいきなり発せられたため、「ポカーン(゚Д゚)」という感じでした。
 ちなみにこの三つ目のもの、「敵のジャーク星人が巨大ロボを操り、レザリオンを追い詰めていく様を、自ら琵琶法師の姿となって実況する」といったヘンな話で、同時期の『宇宙刑事』の敵が宇宙刑事を異空間に取り込むという演出を再現したものだと思えますが、正直、成功していません。
 一方、『アルベガス』の大作のケツ丸出しですが、シリアスな『レザリオン』に比べれば作風も明るく、大作自身二枚目半として描かれていたため、そこまで唐突感はないはずなのですが、それでも寒い。
「ヒーローに道化を演じさせる」というのはこの時期の流行りでした。
 しかしそこには正義と悪との戦いの相対化、という状況がありました。タイムボカンシリーズではそのため正義の味方が徹底的に道化とされたわけです。
 また、島本和彦作品は実のところこの当時の作品の中では例外に属し、これらとは逆に、「現代においては正義が道化とならざるを得ない」切なさのようなものが、根底に流れていました。
 そこを上のシーンは「あくまで正義のために戦っている、肯定的に描かれるべき主人公」に、「何か、流行りだから」という理由でギャグを演じさせ、しかしならば必要であるはずの「切なさ」も、そこでは描かれていない。竹に木を継いだだけであるために、「寒い」という印象しか与えないのです。
 上にも書いたように『ゴレンジャー』では先進的ギャグを、また同時期に『宇宙刑事』で時代の先端を走っていた上原正三がことここでだけうまくいっていないのは何故か、わからないのですが、やはりそれは「アニメが若者文化」だから、なのでしょう。
 上原にしてみれば普通に肯定されるべき正義の味方を描き、ただ、その後ちょっとギャグをつけ加えれば受けてくれるのかなと思っていたが、そうではない。オタク文化はそれまでの正義を根本から否定していたのです。一方、『宇宙刑事』は、オタクの間でも評価されていました(その中で描かれた正義をどこまで受け入れていたは措くとしても)が、それはやはり上原が媚びることなく自分の信念をぶつけていたからでしょう。
 翻ってこれら作品はロートルなおっちゃんが一生懸命一生懸命若者に媚びようとして失敗、という感じなんですね。

 ――さて、ちょっとサブカル君のツイートに戻ってみましょう。
 サブカルチャーは本来、「下位文化」ですが、「下位文化」であるが故にそこでヒエラルキーを作ってしまいがちです。だから彼らは「権威主義」なんですね。
 しかし何も生み出せず、だからこそ権威に媚びへつらい続けるしかなかったサブカル君に対し、オタクは文化を生み出しました。
『マクロス』(82)は当時まだ二十代だったオタク世代による作で、『ガンダム』の数年後にはそうしたものが生まれていたわけです。
 先のツイにも円谷だ何だとあるように、サブカルは「上の世代(の、左派的感覚)」を専ら称揚します。そして円谷作品も『ガンダム』もオタク文化の範疇に入りましょうが、上の世代の作ったものであり、オタク世代の純正作品ではない。
 『マクロス』以降、言うならオタクがオタクによるコンテンツを持つようになった辺りから、サブカルはオタクを批判し始めるんですね。「権威」がありませんから。
 つまり彼らは「上位者へのカウンター」という理念を掲げつつ実際には「上位者に平伏」しつつ「下位者を見下す」という残念な矛盾を、ずっとはらんできた。
 一方、『アルベガス』は「上の世代がオタクに向けて作ろうとして、上手くいかなかった作品」、つまり失敗した『ガンダム』であり、オタク文化になれなかった『ガンダム』なのです。
 何故なれなかったかというと――オタク文化には上に縷々書いた細かい細かい「文脈」、まあ「お約束」みたいなことがあったからで、そしてそれが生まれるには「正義の喪失」と言っても「価値相対主義」と言っても「ニヒリズム」と言っても「男性原理の失墜」と言ってもいいのですが、それなりの必然があった。
 オタクは「上位者の依って立つイデオロギー」を無為だと知り、それを拒絶した(ここも詳しくは「山田太郎と岡田斗司夫とぼくらのオタク主義」を読んでください)。この当時のオタク文化は先代文化の否定(パロディ)という形でこそ、現れました。
 そしてだからこそ皮肉にも、オタクはサブカル君が喉から手が出るほど欲っしていた「新たな表現」を、それも驚くべき高クオリティと呆れるべき量とをもって生み出すことができた。
 しかしそれは、まさにサブカル側のイデオロギーを嘲笑し、無化するニヒリズムが本質であった。
 もうちょっと経つとオタク文化は「萌え」として結実するのですが、それもまたイデオロギーの敗北からの、恋愛などの「個人主義」の肯定という面を持っていました。
 一方、サブカル君は、依って立つイデオロギーによって自分たちで何かを生み出し、既存の社会にモノを申すことを欲していた存在だったが、しかしイデオロギーが終焉を迎えてしまったがため、何も生み出すことができなかった。
 だからこそ、サブカル君にはオタクが(何しろオタク君には自分たちの政治の駒になってもらおうというのが、彼らの目論見でしたから)絶対に許せなかった。
 そして『アルベガス』から四〇年。サブカル君は、いまだ「お前らよりも俺の方が、俺の方が」とつぶやきつつけているのです。


風流間唯人の女災対策的読書・第56回「覇権フェミと中堅フェミと派遣フェミ」

2024-04-13 18:39:36 | 弱者男性

 

 目下、『WiLL Online』様で書かせていただいております。暇空氏や反トランス本、松本人志など近年のトピックスについてです。

 
 どうぞ、応援をよろしく。

風流間唯人の女災対策的読書・第56回「覇権フェミと中堅フェミと派遣フェミ」


 さて、動画は第五十六回目です。
 近年、フェミブームであることは折に触れて述べていました。
 それが男性にとって好ましいことでないのはもちろんですが、女性の立場で考えても極めて無残、無慈悲な話です。
 フェミ内部では今、何が行われているか。今回はそれを調べてみましょう。


 劇中で言及された過去動画は以下を。

風流間唯人の女災対策的読書・第29回「貴女が結婚できなかったのはフェミニストのせいである」

風流間唯人の女災対策的読書・第43回「上野千鶴子というセーラームーン」

 


風流間唯人の女災対策的読書・第55回「パオロ・マッツァリーノの不埒な研究報告 フェミ騎士最終解答」

2024-03-16 19:49:22 | お知らせ

 

 五十五回目です!

風流間唯人の女災対策的読書・第55回「パオロ・マッツァリーノの不埒な研究報告 フェミ騎士最終解答」

 炎上を続ける松本人志の性加害疑惑。ここしばらく松本氏有利の感もありますが、それまでは誰もがこぞって彼を叩いておりました。
 そんな中、衝撃的だったのがパオロ・マッツァリーノの支離滅裂な論考「松本人志さんの罪についての考察と提案」。
 これを機に、「フェミ騎士」とは一体どういう人たちなのか、考えてみましょう。
 また、できれば『WiLL Online』様での記事もあわせてお読みいただくと、より理解が深まるかと思います。

松本人志さんの騒動に便乗する怪しい人たち
https://web-willmagazine.com/social-history/usbkn
松本人志さんの騒動に便乗する怪しい人たち2
https://web-willmagazine.com/social-history/Y510r


「悔い改めよ、オタク君!」とサブカル君はいった

2024-03-02 13:28:26 | サブカル

 

 ここしばらく「サブカルとオタクの関係」について書いた記事を再録してきました。
 以前も「サブカルそのものの悪質さ、低劣さ」についてのマガジンをまとめたことがありますが、今回はあくまで「彼らがいかにオタクに被害を与えてきたか」についてまとめました。
 一応有料なので、ご覧になりたい方はnoteの方を見てみてください。

 それと、お報せです。

『WiLL Online』様で書かせていただいた記事が、永らく人気第一位となっておりました。

松本人志さんの騒動に便乗する怪しい人たち【兵頭新児】

 おかげさまで、昨日、第二弾が発表されました。

松本人志さんの騒動に便乗する怪しい人たち2【兵頭新児】 

 いずれも松本人志氏の性加害疑惑についての、パオロ・マッツァリーノ師匠のおかしな論法について。今回は師匠の資料読解力のなさ(ではないですね、資料をねじ曲げて平然としている卑劣さ)に加え、『文春』の問題、そして本件がはらむ想像以上のおぞましさについて指摘しています。


 では、そういうことで……。


24話目の復讐

2024-02-17 19:01:22 | 弱者男性

 目下、『WiLL Online』様で書かせていただいた記事が、人気第一位となっております。

 松本人志氏の性加害疑惑についてですが、とにもかくにも思い込みとデタラメなリクツで「松本はやったに決まっているのだ、決まっているのだ」と泣き叫び続けるパオロ・マッツァリーノ師匠の卑劣さには、センリツを覚えずにはおれません。
 そんなわけなので未読の方は、チェックをお願いします。

 ――さて、記事の方は半月前のモノで、今となっては既に古びた話題となってしまいましたが、「フェミニストが精神障害者を差別した件」について。
 しかしそれについてはアンチフェミにはあまり同意できない、という主旨です。
 では、そういうことで……。

 

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忙しくて、時間がとれないんですが……新規記事です。

・一ぬけ男


 どうも、最近のアンチフェミ界隈がおかしいと感じることが増えました。
 お断りしておきますが、「表現の自由クラスタ」は「アンチフェミ」ではありません。彼らは「フェミの手先」であり、彼らとフェミとの争いは、「山小屋内でのバトル」であると繰り返し言ってきた通りです。
 しかしそうした枠を超えるまともなアンチフェミがここ数年、育ってきた……というのがここしばらくのぼくの見立てだったのですが、ここへ来てどうもそれも楽観的に過ぎるか……と思えることが増えました。
 トランスの味方をしてTERFを叩く人たちにも、ぼくは今まで否定的な評価をしてきましたが、これはまあ、表現の自由クラスタがやってるんだろうなあ、とも思えます。
 フェミもアカデミズムなどで地位を持つ人は親トランスが多く、TERFはそうでない者が多い。表現の自由クラスタもまた、左派の地位を持った連中に逆らえず、親トランス派になっていると考えられるわけです。
 が、ここ数日、フェミニストvs精神障害者という対立構造がクローズアップされるようになってきました。
 おそらくですが「新居を探す時、障害者向けの設備に力を入れているマンションには要注意」といった主旨のツイが炎上した――というのがきっかけではないかと思われます。基本的には精神・知的障害者による性的被害に怯える「フェミ」の声が、問題にされているようなんですね。
 そんなこんなでツイッター上では「フェミ」を腐すアンチフェミ(含む、真のフェミ)の声で溢れることになったわけですが――何というか一体全体いつの間に、ここまでネット世論は左傾化してしまったのだろう、というのがぼくの感想です。小泉しゅうすけ師匠など、「障害者に危ない目に遭わされた!」と叫ぶこと自体がまかりならぬと言っていましたし、ってことは泣き寝入りしなきゃならんのですかね
 いえ、上に書いたリクツで言えば今回「フェミ」を叩いていたのはアンチフェミではなく(まさに小泉師匠が象徴するように)表現の自由クラスタ寄りの人々だったのだ、という理解の仕方もありますが……。

・ビョー鬼人間


「狂鬼人間」をご存じでしょうか。
 円谷プロの名作『怪奇大作戦』。これはSF的なオーバテクノロジーを駆使した犯罪者に戦いを挑む科学調査研究室SRIの活躍を描くドラマであり、「狂鬼人間」はその24話。精神障害者に夫と子供を殺された女が復讐のため、人間を精神障害者にする装置を作り出すという話です。
 何しろ刑法39条に「心神喪失者の行為は、罰しない。心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。」と定められており、この装置を使えば一時的な精神障害者になり、その間に殺人を行えば無罪で済む、というわけです。
 さすがに攻めすぎた内容で再放送の時もこの話だけカット。後に売り出されたLDやDVDには収録されていたものの、発売直後に回収騒ぎが起き、物議を醸しました。
 本話について調べた『封印作品の謎』を読むと、当時のスタッフは口を閉ざし、特撮ライターに取材をしても言葉を濁すだけ、円谷プロにまで恫喝めいた対応を受ける、などといった穏やかでない場面が続きます。
『ウルトラセブン』12話も似た経緯を持ちますが、封印の経緯ははっきりしていますし、この問題を扱い続けている同人作家が抗議した団体とも十年来の友好的なつきあいを持っているのに対し、24話の方は比較にならないヤバさを持っているわけです。
(ただし、24話の方が12話より生々しく、また描写にも問題があると指摘されるなど、やや作品側の分が悪いのも事実です)
 こうした情報は、ゼロ年代のネットではかなり共有されていました。いえ、これはぼくの主観で見れば、といったことかも知れませんし、当時のネットのオタク比率、オタク濃度の高さとも関連していましょう。ネットがまだ「裏モノ」であり、そこでこそホンネが書き込まれていた状況が、今では変わってしまったという側面もあります。
 もっとも、当時はネットの外に目を向けてみても、日垣隆という作家さんが活躍していました。やはり39条を問題視し、『そして、殺人者は世に放たれる』といった著作で注目を集めた人物です(上の『封印作品の謎』でも取材を受けていますが、作品に対しては、意外や辛口の評価をしていました)。
 近くは伊是名夏子師匠がネットで炎上し、(いかに白饅頭が賛否両論だと歴史修正しようとも)これまた極めて辛口の評価がなされました。これはまあ、伊是名師匠のキャラクターの強烈さも炎上の一因でしょうが、ぼくはこの騒動を障害者タブーすらもが絶対視されなくなってきた、思考停止を脱した、好ましい傾向として捉えていました。
 そこへ来て、本件や先にも書いたトランスの問題と並べてみると、「アンチフェミが女というとにもかくにも気に食わない存在へと、“マイノリティ”という爆弾を投げつけている」という光景が、ぼくの目には見えてきます。
 これはペド問題もそうで、逆行しているとしか言いようがありません。ペドファイルが忌避感を持たれるという(ある意味、仕方のない)ことを「公的な差別」に並ぶ「絶対に許されない、なくすべき悪」とする考えに、ぼくは同意できないのです。
 そもそもぼくたちはフェミニズムに対して(何せ「女の思想」なのだから)あくまで一「男性」として立ち向かうべきだと、ぼくは考えます。そこに障害者だったりペドだったりオカマだったり、「何か、弱者性のオマケ」をくっつけることは、好ましくないのです。
 まあ、もっともそうした「戦略」を採る人たちの気持ちもわからないではありません。何しろ女性は現代社会の王侯貴族ですから、確かにそうした左派的な戦略(上位者へと弱者爆弾をぶつけて倒す)を採りたくもなるのは、わかります。
 しかしそれで物事がいい方へ行くのかとなると、それこそフェミ含めた今までの弱者運動がいずれもオワコン化している現状を考えると、もう答えは出ているのではないでしょうか。

・教徒がいます

 何より、大前提として、みなさん――少なくとも先の24話の封印について憤慨していた方たちは――ご存じだと思いますが、そもそも、精神障害者による犯罪は大変に多いのですから。
 以下は令和五年版の犯罪白書のデータです。

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 見れば強姦や強制わいせつ犯のうちの精神・知的障害者の占める割合は0.7%。
 ここで脳をストップさせて「つまり精神・知的障害者の犯罪は極めて細微だ」と思い込むのが左派しぐさですが(白饅頭もこの伝統技を使っておりました)、当然、精神・知的障害者の母数自体が少数。大雑把に言えば人口の0.3%ですから、犯罪率は倍以上なのです。もっとも放火や殺人に比べれば、性犯罪はまだしも少ないのですが。
 これらに加え、39条を考えた時、果たして障害者に危機意識を持つことが、本当に不当な差別と言えるのでしょうか。
 いえ、ガイジンと比べればいずれにせよ安全も安全だとは言えます。何しろ大雑把に言ってアメリカにおける強姦件数は日本の18倍、韓国は7倍。そう、いつも言うように日本人ほどおとなしい、犯罪率の低い国民はいません。
 例えばアメリカに旅行に行く時、やはり女性は「性犯罪に気をつけろ」と言われるのではないでしょうか。もちろん、しかし、そうした言葉は「ポリコレ的にアメリカ様の方がエラいから」問題になりません。
 では韓国旅行の際はどうなのでしょうか。比率は下がれど、同様の注意がなされるべきだけれども、「ポリコレ的に日本の方がエラいので」あまり大っぴらには言えないのではないでしょうか。
 しかしこうした傾向は、やはりおかしいとしか言いようがありません。

・呪いドツボ

 ぼくは度々、「差別はもうない」と言ってきました。少なくとも先進国で公的には人種や性別による扱いの極端な差はなくなっているはずだからです。
 だからこそ(これもいつも言うように)ポリコレ教徒は「ヘイト」などという「言ってもどうしようもないこと」を持ち出してきたわけです。
 しかし本件(というのはツイッターでフェミの障害者差別発言がバズった件ですが)においては、アンチフェミの口調が、それらポリコレ教徒とそっくりになりました。
 先の「マンション云々」も公の場での発言としてはまずかった、言い方に気を遣う必要があったといった批判はできるかも知れませんが、しかし発言自体を果たして絶対に悪だと言い切れるのか(そもそもツイッターは私的領域なのか公的空間なのか)。
 個人が住居を定める時、障害者に排除的な方向で選択をすることが、絶対に許されない差別なのか。
 公的に、例えばA会社がその会社での業務をこなすのに何ら支障がないのに○○人であるからと応募者を排除したら差別でしょうが、B氏が○○人を恋人に選ばないのは「個人の勝手」としか言いようがないし、繰り返す通り危機意識自体が、必ずしも偏見によるものとも言いがたいのです。
 そこを、障害者というポリコレ爆弾で敵を攻撃するのが果たして好ましいことなのか、ぼくには大いに疑問です。
 こうした戦略は、「だから障害者同様、弱者男性をも尊重せよ」といった考え方にどうしたってつながります。ただ「弱者男性」を「忖度を受け続ける伝統的な弱者たち」のワンオブゼムとして仲間入りさせてくれと言っているのも同然で、ぼくとしては「お前ら、あいつらの偽善を批判してたんじゃなかったの?」と唖然とならざるを得ないわけです。
 それはいつも言う、「何か、上に向かって口を開け、餌をくれと言っている人たち」の最後列に並ぶ行為であり、しかし餌は先に並んでいる連中に食い尽くされ、こっちには回ってこないのではないでしょうか。