13日(土)、加東市上福田地区の三草ふれあい広場主催のワクワク探検(地域の歴史自然探訪)に参加して、木梨地区の千鳥川河畔の桜堤を歩いていると、雲一つない春の陽気に誘われて亀がひなたぼっこがてら散りゆく桜を惜しむように花見をしているようでした。水面に出ているブロックの上でまるで置物のように見えます。それにしても急な斜面をよく登ったものだとみんなで感心しきりでした。
過日、加東市木梨の千鳥川の河畔の桜道を歩いていたとき、市内の西垂水にお住まいの武部さんから、あなたの先祖の名前が西垂水のお堂の棟札に書いてあったよ、と教えていただきました。その先祖の名は、藤本百之助(介とも書く)という名前です。
この藤本百之助(介)は、私の曾祖父にあたる人で、加東郡西垂水村(現加東市西垂水)の住人でした。その子、すなわち私の祖父、藤本嘉市は、大正9年(1920)に西垂水から社(現加東市社)に一家あげて移り住んだときいています。
百之助は、江戸時代末期から明治時代にかけて生きた人で、私の名前、百男は、この曾祖父の百之助から一字もらって名付けられたものであります。ただし、生まれてから中学卒業まで百呂(ひやくろ)という名前だったのですが、故あって、正式に改名し、百男(ひゃくお)となりました。小さい頃には、西垂水に墓参りに行っていたことを今でもよく覚えています。
その後、武部さんから、お堂(薬師堂)の棟札の写真を送っていただいたので紹介します。棟札の裏に周旋人の一人に百之助の名が書かれていました。
(裏)
加東郡西垂水邨
惣代
武部喜代太郎
仝村周旋人
上月與右衛門
上月利兵衛
上月熊太郎
上月常太郎
上月宗兵衛
藤本百之助
藤本吟蔵
藤本嶋蔵
この藤本百之助(介)は、私の曾祖父にあたる人で、加東郡西垂水村(現加東市西垂水)の住人でした。その子、すなわち私の祖父、藤本嘉市は、大正9年(1920)に西垂水から社(現加東市社)に一家あげて移り住んだときいています。
百之助は、江戸時代末期から明治時代にかけて生きた人で、私の名前、百男は、この曾祖父の百之助から一字もらって名付けられたものであります。ただし、生まれてから中学卒業まで百呂(ひやくろ)という名前だったのですが、故あって、正式に改名し、百男(ひゃくお)となりました。小さい頃には、西垂水に墓参りに行っていたことを今でもよく覚えています。
その後、武部さんから、お堂(薬師堂)の棟札の写真を送っていただいたので紹介します。棟札の裏に周旋人の一人に百之助の名が書かれていました。
(裏)
加東郡西垂水邨
惣代
武部喜代太郎
仝村周旋人
上月與右衛門
上月利兵衛
上月熊太郎
上月常太郎
上月宗兵衛
藤本百之助
藤本吟蔵
藤本嶋蔵
まだ世の中が動き出していない早朝のウォーキングでは、昼間気づかない身近な自然の姿に出会うことがあります。特にこの季節は朝日の色が濃く感じることがあります。加東市の社中央公園にはまだ若い桜の木が植わっていますが、池の堤の桜にちょうど日の出の朝日の光が差して桜の花が濃く輝いている姿は荘厳でした。ライトアップで夜景を夜桜を楽しむ時代ですが、実は朝日のライトアップはもっと素晴らしい。
10日午後、県立嬉野台生涯教育センターのキャンプファイヤー場近くを車で走っていると、林の中からキツネが出てきたのが目に入り、車を止めるとキツネも動きを止めて互いに目が合ったような気がしました。
静かにカメラを向けると、シャッターを押そうとした瞬間、くるりと向きをかえて再び林の方へ去っていきました。まさにキツネでした。久しぶりに本物の野生のキツネを間近かに見ましたね。
静かにカメラを向けると、シャッターを押そうとした瞬間、くるりと向きをかえて再び林の方へ去っていきました。まさにキツネでした。久しぶりに本物の野生のキツネを間近かに見ましたね。
加東市上久米の県立やしろの森公園の駐車場の近くの道路脇に2本の石柱が寄り添うように立っているのが目に入りました。公園を巡る散策道がありちょうどコバノミツバツツジが満開で春の光に美しく光っていました。
この石柱は道標で、以前にもこの歴史ブログで紹介したことがありますが、あらためて読んでみると、「すぐ栄枝 大深山」「北 久米の大日□□」の文字が大きく刻まれています。昔は上久米の大日さん(東光寺の大日如来祭)や大深山のお寺にお参りする人々がこの道を歩いたのでしょう。側面には「左 上久米村 清水」「右 辻の地蔵 天神□」といった地名も刻まれています。
小さい方は古いようで時が読み取れませんが、今はつつじを見に訪れる人々を2本の道標が見守っているようです。
この石柱は道標で、以前にもこの歴史ブログで紹介したことがありますが、あらためて読んでみると、「すぐ栄枝 大深山」「北 久米の大日□□」の文字が大きく刻まれています。昔は上久米の大日さん(東光寺の大日如来祭)や大深山のお寺にお参りする人々がこの道を歩いたのでしょう。側面には「左 上久米村 清水」「右 辻の地蔵 天神□」といった地名も刻まれています。
小さい方は古いようで時が読み取れませんが、今はつつじを見に訪れる人々を2本の道標が見守っているようです。
加東市の桜スポットの一つに千鳥川の桜堤公園がありますが、その上流にも見事な桜堤が続いています。
木梨地区のグラウンドから三草川との合流地点辺りの堤には40年以上経つ桜の木が並び、井堰で貯められた水の面にやわらかな春の光をいっぱいに映し出しています。堤のそばの田には黄色い菜の花も満開になっています。井堰で水が貯められているので、その景色はまるで城のお堀のようでもあります。まだ今週いっぱいは桜を楽しめそうです。ぜひ一度歩いてみて下さい。
木梨地区のグラウンドから三草川との合流地点辺りの堤には40年以上経つ桜の木が並び、井堰で貯められた水の面にやわらかな春の光をいっぱいに映し出しています。堤のそばの田には黄色い菜の花も満開になっています。井堰で水が貯められているので、その景色はまるで城のお堀のようでもあります。まだ今週いっぱいは桜を楽しめそうです。ぜひ一度歩いてみて下さい。
私が好きな桜スポットの一つが加東市上三草のやしろ国際学習塾の前を流れる三草川の桜です。川と桜と三草山が一つの絵となった景色を楽しめます。
この写真は5日(金)に撮ったものです。週末に爆弾低気圧が襲来するというので、今年の桜は見納めになると思い寄ってみました。7日(日)にこの場所で加東市消防出初式が行われ、恒例の放水が行われたのですが、雨は降らなかったものの放水時には空が曇っており強風のために放水が散ってしまい残念でした。ただ、風下の消防団員は大変だったろうと思います。
旧京街道にあたり、三草藩陣屋、松並木があった歴史的にも由緒ある場所です。当時の景色を見てみたいですね。
この写真は5日(金)に撮ったものです。週末に爆弾低気圧が襲来するというので、今年の桜は見納めになると思い寄ってみました。7日(日)にこの場所で加東市消防出初式が行われ、恒例の放水が行われたのですが、雨は降らなかったものの放水時には空が曇っており強風のために放水が散ってしまい残念でした。ただ、風下の消防団員は大変だったろうと思います。
旧京街道にあたり、三草藩陣屋、松並木があった歴史的にも由緒ある場所です。当時の景色を見てみたいですね。
加東市社の明治館(元加東郡公会堂)の広場に旧社町(今の社小学校区)の忠魂碑があります。このブログでも度々紹介をしてきましたが、その碑の台座の脇に石板が置かれています。
苔むしており刻まれている字は読みにくくなっていますが、明治天皇の御製が刻まれています。明治天皇は約10万首もの御歌を詠まれていますが、軍人に関する御歌も多く、この石板に刻まれている御歌もその一つです。
限りなき世に残さむと國の為たふれし人の名をぞ留むる
忠魂碑の前に立つとき、英霊への感謝の思いをこの御製の通り御霊の名と共に胸に刻み込んでおきたいと思います。
苔むしており刻まれている字は読みにくくなっていますが、明治天皇の御製が刻まれています。明治天皇は約10万首もの御歌を詠まれていますが、軍人に関する御歌も多く、この石板に刻まれている御歌もその一つです。
限りなき世に残さむと國の為たふれし人の名をぞ留むる
忠魂碑の前に立つとき、英霊への感謝の思いをこの御製の通り御霊の名と共に胸に刻み込んでおきたいと思います。
明日は春の低気圧が通過し強い雨風に襲われるという予報を聞き、せっかく見頃となった桜を今のうちに見ておかねばと、まずは国道372号の加東市馬瀬の桜橋の桜を見に行きました。
国道372号を三草山を右に見ながらさらに走ると、馬瀬公民館があります。その向かいに架かる小さな橋を跨ぐように生えている桜の古木があり、これが桜橋の桜です。車で走っていると一瞬の間に通り過ぎてしまいます。
毎年桜の季節になると、この桜橋の桜を紹介していますが、今年も取りあげます。
橋の桜の由来は次の通りです。
地元の方の話によると、幕末か明治のはじめの頃、村の人が山から山桜の幼木を抜いてきて橋のたもとに植えたそうです。しばらく経った頃、村の若者が幹を途中からきってしまったのですが、そこから枝が三本に分かれて、川をまたぐように横に伸びていったそうです。やがて幹は太くなり、大人が一抱えするほどの大木になりました。今は国道がついて根元はコンクリートで固められ、窮屈な場所になっています。そして、枝も一本だけが残っています。
まだ満開というには物足りない感じですが、今年も楽しませてくれました。桜橋の向こうに見えるのが馬瀬公民館。この桜も見事です。
国道372号を三草山を右に見ながらさらに走ると、馬瀬公民館があります。その向かいに架かる小さな橋を跨ぐように生えている桜の古木があり、これが桜橋の桜です。車で走っていると一瞬の間に通り過ぎてしまいます。
毎年桜の季節になると、この桜橋の桜を紹介していますが、今年も取りあげます。
橋の桜の由来は次の通りです。
地元の方の話によると、幕末か明治のはじめの頃、村の人が山から山桜の幼木を抜いてきて橋のたもとに植えたそうです。しばらく経った頃、村の若者が幹を途中からきってしまったのですが、そこから枝が三本に分かれて、川をまたぐように横に伸びていったそうです。やがて幹は太くなり、大人が一抱えするほどの大木になりました。今は国道がついて根元はコンクリートで固められ、窮屈な場所になっています。そして、枝も一本だけが残っています。
まだ満開というには物足りない感じですが、今年も楽しませてくれました。桜橋の向こうに見えるのが馬瀬公民館。この桜も見事です。
昭和3年(1928)、青野ヶ原で計画されていた飛行大会の延期についての通知が当時の社町社(現加東市社)の雑書綴に綴じられていました。
ライト兄弟が初めて飛行機を飛ばしたのが1903年。日本では1910年(明治43年)に徳川大尉が初飛行したことが知られています。それから18年後ですからもうこの頃には飛行機は戦争にも使われていたわけですが、やはり珍しかったのではないでしょうか。平成の今、青野原上空は陸上自衛隊のヘリコプターがよく飛んでいます。延期通知は次の通りです。
昭和三年四月廿二日
社 町 役 場
各区長殿
飛行大会延期通知
本日青野ヶ原ニ於テ挙行相成ヘキ飛行大会雨天及機体ノ故障ニ依リ廿四日午前拾時ニ延期方申越候条在郷軍人、消防組員、青年団、其他一般ヘ延期方周知セシメラレ度至急及御依頼願候也
ライト兄弟が初めて飛行機を飛ばしたのが1903年。日本では1910年(明治43年)に徳川大尉が初飛行したことが知られています。それから18年後ですからもうこの頃には飛行機は戦争にも使われていたわけですが、やはり珍しかったのではないでしょうか。平成の今、青野原上空は陸上自衛隊のヘリコプターがよく飛んでいます。延期通知は次の通りです。
昭和三年四月廿二日
社 町 役 場
各区長殿
飛行大会延期通知
本日青野ヶ原ニ於テ挙行相成ヘキ飛行大会雨天及機体ノ故障ニ依リ廿四日午前拾時ニ延期方申越候条在郷軍人、消防組員、青年団、其他一般ヘ延期方周知セシメラレ度至急及御依頼願候也
末永忠男さんの名前を忠魂碑(加東市社、明治館前の広場)脇の英霊碑の中に見つけました、満支事変の一番最初にその名がありました。郷土兵で最初の戦死だったのでは、と思います。
今日は町葬式場と参列者の配置図を紹介します。
式場の正面と左右は幕で仕切られ、式場正面(東)に祭壇が組まれています。
祭壇に向かって右に、委員長席、長机が置かれ、奧から、遺族、委員、僧侶、神官、赤心会席が並んでいます。
机の前に二列で、前列に正斎主、後列に楽手席が6,7席置かれています。反対の左側には同じく長机が置かれ、県及び軍部その他参列者の席となっています。その机の前には一列で副斎主の席が置かれています。
正面の祭壇に正対(西側入口側)して各種団体参列者の席が設けられています。
右から天理教関係者2列-80人、婦人会3列-120人、女子青年団3列ー120人、有隣女学校1列-40人、女学校10列-400人、小学校16列-800人、涌羅野1列-40人、青訓青年5列ー200人、在郷軍人2列-80人、消防組7列-280人、戸主会10列-400人となっています。1列は40人で小学校のみ50人になっています。合計すると60列、約2500人という大きな人数になります。
盛大な町葬が執行されたようです。
今日は町葬式場と参列者の配置図を紹介します。
式場の正面と左右は幕で仕切られ、式場正面(東)に祭壇が組まれています。
祭壇に向かって右に、委員長席、長机が置かれ、奧から、遺族、委員、僧侶、神官、赤心会席が並んでいます。
机の前に二列で、前列に正斎主、後列に楽手席が6,7席置かれています。反対の左側には同じく長机が置かれ、県及び軍部その他参列者の席となっています。その机の前には一列で副斎主の席が置かれています。
正面の祭壇に正対(西側入口側)して各種団体参列者の席が設けられています。
右から天理教関係者2列-80人、婦人会3列-120人、女子青年団3列ー120人、有隣女学校1列-40人、女学校10列-400人、小学校16列-800人、涌羅野1列-40人、青訓青年5列ー200人、在郷軍人2列-80人、消防組7列-280人、戸主会10列-400人となっています。1列は40人で小学校のみ50人になっています。合計すると60列、約2500人という大きな人数になります。
盛大な町葬が執行されたようです。
昭和8年(1933)に執行された郷土兵の町葬について当時の文書を紹介していますが、今日は式順序を紹介します。
故陸軍歩兵伍長末永忠男町葬
式順序
一、一同着席 (午後一時三十分号砲)此ノ間奏楽
一、委員長開式ノ辞
一、祓詞奏上
一、大麻行事
一、副斎主誅詞奏上
一、斎主玉串奉献告別詞奏上 此ノ間奏楽
一、祭員一同列拝
一、仏心教会吊辞読経
一、遺族代表玉串奉献 此ノ間奏楽
一、委員長玉串奉献吊辞 此ノ間奏楽
一、参列者玉串奉献吊辞
一、生徒ノ唱歌
一、遺族謝辞
一、祭員ノ退拝
一、委員長閉式ノ辞
一、一同礼拝退席
備考 吊辞ヲ供セラル丶方ハ受附ヘ申出デラレタシ
故陸軍歩兵伍長末永忠男町葬
式順序
一、一同着席 (午後一時三十分号砲)此ノ間奏楽
一、委員長開式ノ辞
一、祓詞奏上
一、大麻行事
一、副斎主誅詞奏上
一、斎主玉串奉献告別詞奏上 此ノ間奏楽
一、祭員一同列拝
一、仏心教会吊辞読経
一、遺族代表玉串奉献 此ノ間奏楽
一、委員長玉串奉献吊辞 此ノ間奏楽
一、参列者玉串奉献吊辞
一、生徒ノ唱歌
一、遺族謝辞
一、祭員ノ退拝
一、委員長閉式ノ辞
一、一同礼拝退席
備考 吊辞ヲ供セラル丶方ハ受附ヘ申出デラレタシ
今日は遺骨出迎の配置を紹介します。写真はその配置図です。
配置図によると、遺骨の進路は、姫路から高岡を経由し、福田橋(加古川に架かる橋)を渡り、社町貝原へと入ります。
鳥居(兵士の出身村)までの沿道には、社小学校生徒が両側に、そして、女子青年団、青年団、青訓生、婦人会、消防組員、在郷軍人、町会区長、各公官衙、鳥居民が配置され出迎えるようになっています。青年訓練生の一部は伝令及び警備員として配置されています。
ところで遺骨となって無言の凱旋をされた末永忠男さんは社町鳥居(現加東市鳥居)出身の方です。鳥居地区の80歳代の方の話によれば、満州事変で戦死され町葬があった、ということをよく聞いた、ということでした。
配置図によると、遺骨の進路は、姫路から高岡を経由し、福田橋(加古川に架かる橋)を渡り、社町貝原へと入ります。
鳥居(兵士の出身村)までの沿道には、社小学校生徒が両側に、そして、女子青年団、青年団、青訓生、婦人会、消防組員、在郷軍人、町会区長、各公官衙、鳥居民が配置され出迎えるようになっています。青年訓練生の一部は伝令及び警備員として配置されています。
ところで遺骨となって無言の凱旋をされた末永忠男さんは社町鳥居(現加東市鳥居)出身の方です。鳥居地区の80歳代の方の話によれば、満州事変で戦死され町葬があった、ということをよく聞いた、ということでした。
前回に続き、昭和8年(1933)、郷土出身兵の町葬について紹介します。前回紹介した町葬についての役場での協議の結果、次の通り町葬執行計画が決まりました。遺骨の神戸港到着から社小学校での町葬までの詳細が決められています。
町葬執行ノ件
一、遺骨到着日時 五月十日午前七時三十分頃神戸入港
午前十一時三分神戸駅発午後零時三十七分姫路駅着聯隊葬
午後四時三十分頃姫路発帰還
イ.神戸ニ迎フル者、町長、兵事主任、遺族二人、町会議員区長代表各一人
ロ,姫路ニ迎フル者、小学校長、分会長、老兵会長、各種団体代表各人
ハ.一般出迎場所、福田橋鳥居側(配列図別紙)
小学校生徒、青訓生、各種団体員、区長、町会議員其他一般
二、町葬日時 五月十三日午後一時三十分社小学校々庭ニ於テ執行
午前十一時葬家ニ於テ祭典執行午前十一時四十分出棺午後零時三十分葬場着
イ.葬家ノ祭典参列者 町長、町議、区長、小学校長、分会長、老兵会長、各種団体代表一人(途中順序ハ別ニ定ム)
ロ.小学校前道路ニ迎フル者、小学校生徒、青訓生、各種団体員全部、其他一般
ハ.葬儀参列者
1.郡外、姫路郡部関係者、知事、満蒙稿軍会長、赤十字社兵庫支部、愛国婦人会兵庫県支部長
2.郡内、町村長、中等学校長、小学校長、在郷軍人分会長、各種団体長、各教化団体長、
3.町内、官衙学校、銀行、会社、代表者、町会議員、区長、寺院、各種団体員全部、学校生徒全部(四校)、青訓生、其他一般(着席位置ハ別ニ定ム)(式順別紙ノ通リ)
三、埋葬 午後三時三十分頃葬儀終了鳥居墓地ニ埋葬
参列者 出棺ノ時ニ仝ジ
四、葬儀委員
委員長 町長ヲ以テ充ツ
委 員 町会議員、鳥居区長、小学校長、分会長、老兵会長、女子青年団長、役場吏員
(職務分担ハ別ニ定ム)
五、香榊料ニ関スル件
本町ヨリ弔慰料ヲ贈呈スヘキニヨリ一般ハ之ヲ廃止セラレタキコト
但シ特志者ハ此ノ限リニアラズ
団体ノ供花ハ本日取纏メ致シタシ
六、弔辞ニ関スル件
弔辞ハ各団体代表者ニ於テ準備シ置クコト
但シ町外参列者ノ弔辞多数ニ上ルトキハ町内ノ分ハ朗読ヲ廃スルコト
七、号砲
遺骨鳥居出発ノ時、式場到着ノ時、葬儀開始ノ時、式終了ノ時、煙火ヲ打掲ケテ合図をナス
町葬執行ノ件
一、遺骨到着日時 五月十日午前七時三十分頃神戸入港
午前十一時三分神戸駅発午後零時三十七分姫路駅着聯隊葬
午後四時三十分頃姫路発帰還
イ.神戸ニ迎フル者、町長、兵事主任、遺族二人、町会議員区長代表各一人
ロ,姫路ニ迎フル者、小学校長、分会長、老兵会長、各種団体代表各人
ハ.一般出迎場所、福田橋鳥居側(配列図別紙)
小学校生徒、青訓生、各種団体員、区長、町会議員其他一般
二、町葬日時 五月十三日午後一時三十分社小学校々庭ニ於テ執行
午前十一時葬家ニ於テ祭典執行午前十一時四十分出棺午後零時三十分葬場着
イ.葬家ノ祭典参列者 町長、町議、区長、小学校長、分会長、老兵会長、各種団体代表一人(途中順序ハ別ニ定ム)
ロ.小学校前道路ニ迎フル者、小学校生徒、青訓生、各種団体員全部、其他一般
ハ.葬儀参列者
1.郡外、姫路郡部関係者、知事、満蒙稿軍会長、赤十字社兵庫支部、愛国婦人会兵庫県支部長
2.郡内、町村長、中等学校長、小学校長、在郷軍人分会長、各種団体長、各教化団体長、
3.町内、官衙学校、銀行、会社、代表者、町会議員、区長、寺院、各種団体員全部、学校生徒全部(四校)、青訓生、其他一般(着席位置ハ別ニ定ム)(式順別紙ノ通リ)
三、埋葬 午後三時三十分頃葬儀終了鳥居墓地ニ埋葬
参列者 出棺ノ時ニ仝ジ
四、葬儀委員
委員長 町長ヲ以テ充ツ
委 員 町会議員、鳥居区長、小学校長、分会長、老兵会長、女子青年団長、役場吏員
(職務分担ハ別ニ定ム)
五、香榊料ニ関スル件
本町ヨリ弔慰料ヲ贈呈スヘキニヨリ一般ハ之ヲ廃止セラレタキコト
但シ特志者ハ此ノ限リニアラズ
団体ノ供花ハ本日取纏メ致シタシ
六、弔辞ニ関スル件
弔辞ハ各団体代表者ニ於テ準備シ置クコト
但シ町外参列者ノ弔辞多数ニ上ルトキハ町内ノ分ハ朗読ヲ廃スルコト
七、号砲
遺骨鳥居出発ノ時、式場到着ノ時、葬儀開始ノ時、式終了ノ時、煙火ヲ打掲ケテ合図をナス