ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

桜と日本列島-東条川

2010年04月13日 05時05分15秒 | Weblog
 加東市の木は桜。市内各所に桜の名所がありますが、東条川の堤にそって続くグリーンロードの桜は見事です。先日、加東市岡本の東条グラウンドを通りかかった際、空の青さに満開の桜ロード、そして、空を映して光る水の流れの中に白く輝く日本列島という光景が目にとまりました。
 東条川は多紀連山に源を発し、旧東条町の中央部をゆっくり流れながら、小野市に入り加古川に合流しています。この写真は加東市岡本にある東条温泉「とどろき荘」の下流にあたるところです。ゆったりと蛇行する東条川の中に白く光る日本列島。不思議な光景ですね。
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郷土ゆかりの日本画家の作品が掛けられている体育館

2010年04月12日 04時45分23秒 | Weblog
 4月9日、加東市立三草小学校の入学式に出席しました。今年入学した1年生は17人。校長先生や担任の先生の呼びかけに元気に答えていました。祝いにかけつけた来賓の人数の方が多かったのですが、校区内の地区の中には新入生がいない地区もあり、区長さんも少しさびしそうに話しておられました。
 ところで、式場の体育館の後ろの壁面に2枚の絵が掲げられているのが目に止まりました。校区にゆかりのある2人の画家の絵です。その2人とは、三木翠山(みきすいざん)と森月城(もりげつじょう)です。2人とも三草小学校の校区である上福田村木梨(現、加東市木梨)の出身で、大正から昭和にかけて活躍した有名な日本画家です。
 その高名な画家の絵が体育館の高い壁面に掛けてありました。郷土の誇る2人の画家の絵を見て、きっと子ども達も三草小学校の由緒ある伝統を感じていることだろうと思いました。
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桜の孝女ふさ碑

2010年04月08日 05時11分46秒 | Weblog
 加東市内各所の桜の名所は今が満開。どこも花を楽しむ多くの人で賑わっています。昨日は持寶院大師堂前での花見を紹介しましたが、今日は桜の「孝女ふさの碑」を紹介します。
 4月3日、やしろ国際学習塾(加東市上三草)に向かう際、旧道をゆっくり走って下三草から上三草に入ったところで、ちょうど「孝女ふさの碑」の前にさしかかりました。桜がまだ満開ではありませんでしたが、碑を取り囲む一角がぱあっと明るくなっていました。
 「孝女ふさ」はこの歴史ブログで何度も紹介してきましたが、戦前の修身教科書に「孝行」の項で取り上げられた孝行な女性「ふさ」の顕彰碑です。親孝行という言葉さえあまり聞かなくなった今の世の中ですが、道徳教育の必要性の声は高まっています。ふるさとにこうした「孝行」の手本、題材が身近に存在することにもっと注目が集まっていいと思うのですが。桜の花の下で、ふささんの親に孝行を尽くした人生、生き方に思いをはせるのもいいのではないでしょうか。
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日本一木造大師像の前でお花見

2010年04月07日 04時56分50秒 | Weblog
 4日(日)は、絶好の花見日和になり、市内各地で花見を楽しむ光景がみられました。まさに春爛漫の日曜日となり、加東市社の持寶院大師堂の前の庭でも桜の花の下で地元社一区の皆さんが集ってお弁当を開いて春の一日を楽しみました。

 さて、会話が弾むなかで、大師堂や加東四国霊場について知りたいということになり、日本一木造大師像や霊場について話をさせてもらいました。すでにこの歴史ブログで、平成18年(2006)7月11日、12,13日の3日間連続して紹介しましたが、この機会に再度紹介します。

持寶院の西側に寺の駐車場があり、その正面に大師堂が建っています。中には大きな弘法大師の木像がありますが、加東四国八十八カ所の巡礼の仕上げがこの大師堂ということになっています。 寺の門の近くに「第八十八番霊場涌羅野山慈眼寺持寶院」と刻まれた石柱が立つています。これは、持寶院が「加東四国八十八カ所」霊場巡りの仕上げの寺であることを示しています。
 「加東四国霊場」とは、四国八十八か所霊場を加東郡内(旧の加東郡で現在の加東市と小野市域)に写したもので、大正7年につくられました。江戸時代にもあったようですが、明治維新の頃に消滅し、新たにつくられたものです。
 第一番は光明寺(滝野・五峰山)で、加東郡内の真言宗の寺院を中心に121か所(番外を含めて)が結ばれ、その全行程は140キロメートルにもおよびました。
 

大師堂は、大正14年(1925)に建てられました。設計は武田五一京都大学名誉教授によるものです。大師堂は現在文化庁の有形文化財に指定されています。 大師堂ができる前は、廃寺になった一乗院の跡に、飾磨県の出張所や税務署、加東郡役所などの役所が一時置かれていました。駐車場の入口の石柱は役所時代の門柱の名残ではないでしょうか。
大師堂に入ると、正面の大きな弘法大師像に圧倒されます。その高さは一丈六尺(約4・8メートル)とされ、木像の大師像では日本一といわれています。
 仏様の身長が一丈六尺と伝えられていることから、この大師像の高さもこれにちなんで、一丈六尺にしたものではないでしょうか。
 この木造大師像が日本一であるという証明はできませんが、愛知県武豊町の岡川寺の木造大師像も日本一といわれています。ちなみにその高さは3・6メートルとなっているので、持寶院の大師像はやはり日本一といえるかもしれません。

 持寶院に伝わる大師像のエピソードを紹介しましょう。
 この大師像は名古屋の仏師が作ったもので、仏師はこの大師像をどこかの寺に納めたいと願っていました。その話を大阪に出て商売をしていた社の人が知り、持寶院に持ち込んだのです。先々代の住職はこれに応じ、木像を持寶院に安置することになったということです。
 寺では木像を安置するための大師堂を建てる計画を進めました。木像は7つか8つの部分に分けられ、はるばると鉄道で運ばれてきました。そして、播鉄の社駅から持寶院までは、丸太を並べたコロの上を滑らせ、稚児行列を仕立てて引いてきたそうです。
 大師堂ができるまでは、庫裏の奥座敷に仮安置されました。しかし、何せ巨大な木像だったので、床をはずして地面に安置してようやく入るという状況だったようです。
 大師堂の建築は、実際に木像を見てから始められました。用材が集められ、境内に置かれていました。
 その頃、持寶院の前に、社自動車運輸株式会社の車庫があったのですが、これが火事になり、自動車の燃料なども置いてあったために人々はその火が用材に燃えうったらたいへんとたいそう心配しました。しかし、大火にもかかわらず、とうとう火は燃えうつりませんでした。
 用材置場の四隅の御幣が燃えなかったために、これはやはりお大師さんの力だと信じられました。それ以降、このお大師さんは「鎮火のお大師さん」として知られるようになったということです。


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嬉野青年学徒錬成場-八紘寮

2010年04月06日 04時41分31秒 | Weblog
 昨日に続いて、県立嬉野台生涯教育センターの「うれしの資料館」に展示してあった懐かしい写真を紹介します。昨日は嬉野飛行場でグライダーの滑空訓練を行っている写真でしたが、今日は嬉野青年学徒錬成場の宿泊施設としてつくられた「八紘寮」の写真を紹介します。
 昭和16年(1941)に、兵庫県下の青少年学徒に国防訓練や航空技術の訓練をするために、県立嬉野学徒錬成場がつくられ、社高等女学校や青年学校の生徒が整地作業に出たという話は昨日紹介しましたが、錬成場は同18年に竣工し、宿泊施設として「八紘寮」がつくられました。
 「八紘寮」の名前は「八紘一宇」(世界を一つの家となすの意)から付けられたもので、建物はこの精神を表す八角形になっています。現在の生涯教育センターの青少年宿泊棟はこの形を引き継いで八角形につくられています。当時の嬉野は松が生い茂っていましたが、この写真にも大きな松が写っています。
 ※写真の白い部分は光の反射です。
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嬉野飛行場-グライダー滑空

2010年04月05日 05時02分27秒 | Weblog
 1日、県立嬉野台生涯教育センター(加東市上久米)を訪れた際、 敷地の一角にある「うれしの資料館」の展示を見せてもらいました。この資料館は、木造の八角形の建物で、同センターの前身である県立公民研修所、さらにその前身の県立嬉野学徒錬成場で宿泊施設として使われていた「八紘寮」を縮小復元したものです。
 「八紘寮」という名前は戦前のスローガンである世界を一つの家となすの意味である「八紘一宇」から付けられたもので、八角形の建物の中は柱がなく、真ん中に囲炉裏があり車座になって語ることができるようになっています。今はその中に歴史を伝える写真などの資料が展示されています。
 その中で目にとまったのが今日紹介する写真です。嬉野にグライダーの滑走場すなわち飛行場があったという話は聞いていましたが、その光景が写っています。
 嬉野飛行場については、社町史第二巻本編2「近代編」第3章に、社飛行場(嬉野の飛行場)の記述があります。飛行場があったのは、兵庫教育大学の附属小学校(旧社中学校敷地)、社高校の敷地、新しい住宅街あたりです。
 町史によると、昭和16年に、県下の青少年学徒に国防訓練や航空技術の訓練をするために、県立嬉野学徒錬成場がつくられることになり、社高等女学校や青年学校の生徒が整地作業に出たそうです。18年に竣工し、八紘寮もつくられました。昭和20年には滋賀海軍航空隊伊吹部隊に引き渡されました。伊吹部隊では、第一、第二播磨特攻隊が結成され、その支援部隊を含めて300人余りが嬉野にやってきました。伊吹部隊は開発中の局地戦闘機「秋水」に搭乗することになっており、そのための訓練を行っていたが、開発、実用化が遅れ、実戦に出動することなく敗戦を迎えたということです。
 今回、その嬉野でのグライダーの滑空訓練の写真を許可を得て撮影させてもらいましたので紹介します。写真上部真ん中あたりに光って白くなっている横にグライダーが写っています。

 
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軍事絵葉書-万里の長城で東方遙拝

2010年04月04日 05時03分03秒 | Weblog
 今日紹介する軍事絵葉書は、「東方遙拝」と大きい文字の下に万里の長城で朝日に向かって万歳をする兵隊と中国人らしい子どもが描かれているものです。右隅に「新」の署名があります。
 万歳をするその手には日の丸が握られ、遠く故国を離れた大陸で、昇る朝日のその方角には祖国日本がある。そうした兵隊さんの思いが伝わってくるような絵です。
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軍事郵便絵葉書-陣中の火(あかり)

2010年04月03日 05時36分40秒 | Weblog
 「寺内部隊発行」の軍事郵便絵葉書を紹介します。「秋声画」とあり、このシリーズは以前にもこのブログで紹介しましたが、地元の方から提供していただいたものの一つです。
 今日紹介する絵葉書は「陣中の火」と題され、ランプやローソクなどが描かれています。日の丸と皇軍の赤い文字が「火」に浮かびあがっているような感じがします。この「火」の下で遠い故郷への想いを一文字一文字に込めながら便りを書いたのでしょうか。
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昭和18年-報国薪供出

2010年04月02日 04時43分19秒 | Weblog
 社区(現加東市社)の「社町役場ヨリノ書類綴」(昭和十七年以降)の中に昭和18年(1943)の報国薪供出に関する通知が綴じられています。戦時中は物資不足、石油不足のために薪が燃料として使用されていました。また、年輩の方から当時山に入って薪を集めてきた体験談を聞いたこともあります。通知をみると、各地区毎にまとめて供出していたことがわかります。種類、長さなども規定があったんですね。



 昭和十八年十月十四日
           社 町 役 場

各区長殿
 
 報国薪供出ニ関スル件

報国薪供出ニ関シテハ種々御高配ニ預リ厚ク御礼申上候 就テハ本年度第一回(九月、十月分)供出ニ関シ左記通リ致度ニ付御手数乍ラ手配相成度願上候

  記

一、薪集荷ハ成ルベク各区一地区トシ(検査都合上)出来得レバ数日(配車ノ都合ニヨリ)保管出来得ル箇所トシ十月十八日迄ニ完了セラレ度
二、報国薪検査申請書作製ノ都合上左記事項(別紙ニヨリ)十月十八日中ニ報国相成度
 1.名柄(種類、樹種)
 2.容量(長サ、胴廻り)
 3.数量(束数)
三、検査日ハ数量取纏メノ上検査申請ノ上日時ハ追而通知ス
四、出荷ハ社町駅ナルニ付各区ニ供出日決定セバ通知スルニ付手配ノ上運搬サレ度
  但シ運賃ハ各供出者ノ負担ナルモ本供出薪助成金ニヨリ得ルニ付了知ノコト
五、其ノ他
  必要時期ニ夫々連絡致サンニ付了承ノコト

この通知と申請書の様式が綴じられていますが、申請書の記載上の注意には、樹種として、樫、松、杉、雑を記入すること、長さは一尺二寸~六寸、胴廻りは二尺五寸とされています。
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軍事絵葉書-和田三造の描いた大凌河

2010年04月01日 05時08分57秒 | Weblog
 今日も軍事絵葉書を紹介します。3月14日に紹介した朝日新聞のマークが印刷された絵葉書で、「三造」のサインがある風景画の絵葉書です。
 上端に「大凌河 和田三造 写」と小さな活字が印刷されています。広大な大陸(満州)を流れる大凌河が白く、遠くの山は黄色く描かれています。河の中に小さな隊列のようなものが描かれており、凍った河を渡っているのでしょうか。
 和田三造は兵庫県出身(生野町生)で、「南風」で第1回文展で最高賞を受賞しています。美術の教科書だったか資料集にも掲載されているあの筋肉たくましい漁師が明るい太陽の光を受けて船の上に立つ、あの絵の作者です。戦後、大映映画の『地獄門』でアカデミー賞の衣裳デザイン賞を受賞しています。
 
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