乗っ取られた聖書

 『乗っ取られた聖書』(秦剛平著、京都大学学術出版会刊)を読む。
 表題からして不穏なこを感じさせるが、これはキリスト教が成立する過程で、ユダヤ人たちがつくったギリシア語訳の聖書がイエスがキリストであることを論証する(予型論的解釈)ために利用されたことをもって「乗っ取られた」ということである。そして著者の推定によるとそもそもアレクサンドリアで創世記や出エジプト記が翻訳されたのは、民族の歴史の古さを誇示するためにギリシア語訳が必要とされたためであるという。
 この「乗っ取り」の過程では前135年のユダヤ戦争におけるユダヤの敗北が決定的であったようだ。この後ギリシア語訳聖書は、キリスト教徒の聖書となっていく。翻訳書が唯一絶対の聖なる書物と変貌する。この過程で、ユダヤ人指導者たちは、キリスト教が使用しているギリシア語訳の不備を指摘するために、新たな訳(アキュラ訳)を生み出していく。このアキュラ訳は、ヘブル語テクストからの逐語訳であり、著者が「チンプンカンプン訳」というくらい難解なものだったらしい。こうしたユダヤ教とキリスト教徒の確執の過程で七十人訳聖書の権威付けがなされていったらしい。
 詳しいテキストの論考についてはさておき、この本を読んで面白かったことは、二つの宗教の歴史的主導権争いが翻訳という場で争われたということを教えられた点である。ユダヤ側にとっては、その争いがギリシア語という土俵で戦わなければならなかったのは不利だったに違いない。しかしこれは現代で考えてみるならば、国際語として通用している英語という言語を土俵にして、すべての言説は戦われるということになるだろう。日本の歴史にしても英訳された歴史によって紹介されているわけだし、過去の歴史の論争もそれに則ってなされることになる。
 イザヤ書の「若い娘」(アルマー)の訳が「処女」(パルテノス)とされ、それがマタイ福音書においてイザヤ書を引いてイエスの母マリアを「処女」としたことにより、処女懐胎したマリアを生んだとすれば、宗教に関係のない者には笑い話ですまされるエピソードであるが、信仰者にとっては重大事である。この古い翻訳に纏わるエピソードは、翻訳というものが歴史的・政治的にいかに重要なことかを改めて考えさせてくれる。
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コメント
 
 
 
処女懐胎は広域思想? (近藤俊文)
2007-06-21 12:53:25
誤訳が新思想をうむなんて面白いし、わくわくさせられます。でも、処女懐胎は仏教にもじゃいな教にもあるそうですから、紀元0世紀前後のヘレニズム世界に普遍した宗教観念だったかも。
 
 
 
コメントありがとうございます (烏有亭)
2007-06-21 19:01:56
誤訳でもそれがまじめに受け取られ、伝達可能であったということは、確かにそれを受容する素地があったということでしょう。処女性というものを考える上で興味深いことです。
 
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