サイバーエージェントの藤田晋社長に取材した。同社が「アメーバブックス」という名前で出版業に進出したからである。いまさらどうして出版なのだろう? 真意を知りたかった。
ここ数年、「人々が本を読まなくなった」と言われ、出版不況と呼ばれる状況が続いている。書籍は1997年以降、年間販売額の前年割れが続いている。雑誌はどこも青息吐息で、販売収入のマイナスを埋めるためにタイアップを中心とした広告収入に頼ってしまっているのが現状だ。
サイバーエージェントというのは、1998年に設立されたインターネット広告企業である。藤田社長は、ライブドアの堀江貴文社長の盟友。女優の奥菜恵さんの夫でもある。同社もネットバブル崩壊後はネット広告市場に縮小にかなり苦しめられたが、一昨年ごろから急激に復活。検索エンジンのキーワード広告代理店業に加え、メルマ!やメールビジョンなどの自社媒体を使った広告配信が大ヒットし、急成長している。広告代理店でありながら、かなりメディア企業にシフトしつつあるような印象だ。
サイバーエージェントだけでなく、楽天にしろライブドアにしろ、インターネット企業の多くはメディア企業を目指しているように見える。そのあたりの疑問を藤田社長にぶつけると、こんな答が返ってきた。
「要するに、みんなヤフーになりたいんですよ。経常利益率が50%を越えているのは凄くて、メディアの利益率の高さを見せつけた。それに、いまやたいていの人は新しいニュースを新聞やテレビではなく、まずヤフーのニュースで知るという状況になりつつある。メディアとしてのパワーを持っているんです」
ヤフーの圧倒的な成功によって、多くのインターネット企業がメディアへの欲望を増幅させているということなのだろう。その動向は、よく理解できる。しかしそれにしても、なぜいま紙の出版業なのか。ネット企業なのだから、ウエブやメール、ブログなどを使ったコンテンツ配信を考えるというのが常識的ではないか。
そう質問を投げかけると、藤田社長は言った。
「ふたたび文字が読まれる時代になりつつあると思うんですよ。ぼくはそういう実感を持っていて、面白い本を作れば売れるのではないかと思っています」
確かに言われてみれば、インターネットは文字文化である。文化の流れをざっくりと追えば、もともとは文章を中心とした紙の文化があって、それが1960年代ごろからテレビに乗っ取られて、活字は著しく衰退した。60年代から90年代までの長い期間は、メディアの中心はテレビだったのである。
ところが90年代末になってインターネットが登場し、メールやブログによって「書く」という文化が再び台頭してきた。みんなが大量の文章を書き、そして大量の文章を読むようになったのである。それが証拠に、最近のインターネットユーザーの文章能力はものすごく高い。
電車の中でみんなが携帯電話の画面を見ているという状況を、相変わらず批判している人がいる。「なんとも不気味だ」「いよいよ人々は本を読まなくなった」云々。携帯のメールにやりとりには、「くだらないショートメッセージの交換ばかり」「出会い系」――。
だが携帯電話のコンテンツは最近、ますます広がりを見せている。小説「Deep Love」が大ヒットしたのは少し前の話になるが、小説を携帯メールで配信するという形態はごく当たり前になってきているし、教養をメールで読もうという「携帯大学」という面白い試みも始まりつつある。みんな携帯電話で「文字」を読んでいるのだ。しょせんは携帯電話は単なる通信インフラであり、媒体でしかない。刹那的なメールのやりとりもあれば、まごころのこもったメールだってある。
そんなふうにしてインターネットの文字文化はどんどんふくらみ、ブログの登場によってその文化はさらに新しい段階を迎えつつあるように思える。ブログを書籍化しようというビジネスはすでにいくつか始まっているし、逆に書籍の読者書評をブログで公開し、アフィリエイトで少し儲けるというのも流行になっている。書籍とネットが、何らかの相乗効果を生みだしはじめているのかもしれない。
ここ数年、「人々が本を読まなくなった」と言われ、出版不況と呼ばれる状況が続いている。書籍は1997年以降、年間販売額の前年割れが続いている。雑誌はどこも青息吐息で、販売収入のマイナスを埋めるためにタイアップを中心とした広告収入に頼ってしまっているのが現状だ。
サイバーエージェントというのは、1998年に設立されたインターネット広告企業である。藤田社長は、ライブドアの堀江貴文社長の盟友。女優の奥菜恵さんの夫でもある。同社もネットバブル崩壊後はネット広告市場に縮小にかなり苦しめられたが、一昨年ごろから急激に復活。検索エンジンのキーワード広告代理店業に加え、メルマ!やメールビジョンなどの自社媒体を使った広告配信が大ヒットし、急成長している。広告代理店でありながら、かなりメディア企業にシフトしつつあるような印象だ。
サイバーエージェントだけでなく、楽天にしろライブドアにしろ、インターネット企業の多くはメディア企業を目指しているように見える。そのあたりの疑問を藤田社長にぶつけると、こんな答が返ってきた。
「要するに、みんなヤフーになりたいんですよ。経常利益率が50%を越えているのは凄くて、メディアの利益率の高さを見せつけた。それに、いまやたいていの人は新しいニュースを新聞やテレビではなく、まずヤフーのニュースで知るという状況になりつつある。メディアとしてのパワーを持っているんです」
ヤフーの圧倒的な成功によって、多くのインターネット企業がメディアへの欲望を増幅させているということなのだろう。その動向は、よく理解できる。しかしそれにしても、なぜいま紙の出版業なのか。ネット企業なのだから、ウエブやメール、ブログなどを使ったコンテンツ配信を考えるというのが常識的ではないか。
そう質問を投げかけると、藤田社長は言った。
「ふたたび文字が読まれる時代になりつつあると思うんですよ。ぼくはそういう実感を持っていて、面白い本を作れば売れるのではないかと思っています」
確かに言われてみれば、インターネットは文字文化である。文化の流れをざっくりと追えば、もともとは文章を中心とした紙の文化があって、それが1960年代ごろからテレビに乗っ取られて、活字は著しく衰退した。60年代から90年代までの長い期間は、メディアの中心はテレビだったのである。
ところが90年代末になってインターネットが登場し、メールやブログによって「書く」という文化が再び台頭してきた。みんなが大量の文章を書き、そして大量の文章を読むようになったのである。それが証拠に、最近のインターネットユーザーの文章能力はものすごく高い。
電車の中でみんなが携帯電話の画面を見ているという状況を、相変わらず批判している人がいる。「なんとも不気味だ」「いよいよ人々は本を読まなくなった」云々。携帯のメールにやりとりには、「くだらないショートメッセージの交換ばかり」「出会い系」――。
だが携帯電話のコンテンツは最近、ますます広がりを見せている。小説「Deep Love」が大ヒットしたのは少し前の話になるが、小説を携帯メールで配信するという形態はごく当たり前になってきているし、教養をメールで読もうという「携帯大学」という面白い試みも始まりつつある。みんな携帯電話で「文字」を読んでいるのだ。しょせんは携帯電話は単なる通信インフラであり、媒体でしかない。刹那的なメールのやりとりもあれば、まごころのこもったメールだってある。
そんなふうにしてインターネットの文字文化はどんどんふくらみ、ブログの登場によってその文化はさらに新しい段階を迎えつつあるように思える。ブログを書籍化しようというビジネスはすでにいくつか始まっているし、逆に書籍の読者書評をブログで公開し、アフィリエイトで少し儲けるというのも流行になっている。書籍とネットが、何らかの相乗効果を生みだしはじめているのかもしれない。
文章を読むという行為の敷居の高さを、Webで
公開されている文章が下げたというのは確かだと
思います。
一方で、Webで公開されている文章によって、間違った
日本語を広めてしまったという問題も存在していると
思います。
Webで公開されている文章の多くは校正を受けていない
文章ですので、誤字、辞書的な意味とは違う意味で
使われている言葉、意味はあっているけれども状況に
そぐわない言葉などが多く含まれています。
本や新聞の文章は校正を受けてきていたので、少なくとも
私は、新聞や本に出てくる言葉を「正しい言葉」として
受け取り、自分の語彙を増やしてきました。
しかし、Webで公開されている文章に対して、このような
本や新聞に対するのと同じ態度で臨むと多くの間違った
言葉を自分の語彙に加えてしまう可能性があります。
すぐに思い浮かぶのは「うる覚え」です。「うろ覚え」
を聞き間違って覚えている言葉と思われますが、Google
で検索すると8800件もヒットします。
他にも「こんにちわ」「いちよう(一応)」など。
言葉は変化するものですが、もう少し緩やかな変化の
仕方が好ましいので校正を受けた「活字」の復権に
期待したいです。
僕も確かに、間違った表現が増えているのは、明らかだと思います。ただし、少なくともあなたの挙げた3つの例は明かにもとの表現を念頭においたうえでの、遊びの表現であると思われます。こういった表現の特徴は、もとの言葉と一字しか違わないことで、おそらく最初に使った人はタイプミスしてしまったのだろうと思います。語感がすぐれていたので、広まった表現であり、ある意味インターネットの世界の文化だと思いますがどうでしょうか?
というのはどうしてなのでしょうか?
コメントを投稿させていただきます。
> 通りすがり様
まず、私の挙げた例が言葉遊びによるものであるのか、本当の間違い
であるのかについては、真実が分からないので意見を保留します。
"ある意味インターネットの世界の文化だと思いますがどうでしょうか?"
に関してですが、私も言葉遊びはインターネット世界の文化であると思います。
従来の校正を受けることが基本のメディアを校正済メディア、
校正を受けないメディアを校正なしメディアとしますと、
活字を読む人々にとって、従来本流であった校正済メディアが傍流となり、
従来傍流だった校正なしメディアが本流になりつつあります。
この本流と傍流の逆転によって、遊びを遊びとして受け取らない人々が
ある一定の割合で増えていくと考えられます。
私の危惧は、言葉遊びを理解して遊んでいる分には良いと思うのですが、
「遊び・傍流」であることを理解せず「本気・本流」であると誤解してしまうことが
あるのではないかという点にあります。
なぜ、これを危惧しなければならないのかというと私の考えの
"もう少し緩やかな変化の仕方が好ましい"という考えが基礎になっています。
wowow_turk様の問いかけにも合わせて回答させていただきますが、
急激な言葉の変化は、世代間、地域間のコミュニケーションを阻害します。
なぜならば、言葉は意思疏通の道具であり、道具の優秀さを測る基準の
一つには「万人が簡単に使えるかどうか」というものがあるからです。
直感的に使用方法が分かる道具を除いて、一度身につけた使用方法を
そのまま利用できるということは使いやすい道具の必要条件です。
人間誰しも、年をとるにつれて従来の行動様式、思考方法の変更が
苦手になります。また、新しい道具とその使用方法の広まりは、情報インフラ、
交通インフラの整備の有無によって大きく異なります。
これらのことから、急激な言葉の変化は、世代間、地域間の
コミュニケーションを阻害すると考えます。
以上、ご質問に私なりの回答を述べさせていただきました。
余談ですが、「遊び」が楽しく、粋であるのは本流に対して傍流であるため
です。遊びが本流になってしまったら、その遊びはもう粋ではありません。
粋な遊びを続けるためには、本流にはしっかりとがんばっていただく必要が
あると思います。
確かに。そうなのですが、元々「文章能力の高い人々」をネットが掬い上げ始めた。とも私は思っています。そういった人々は実は文章のプロ達が想像するより幅広く存在していて、昔は彼らの活躍の場は、あの偏狭な同人誌や、地元のミニコミぐらいしかなかったはずなのです。
それが突如日本語を使う圏内すべてに到達可能なメディアを手に入れてしまった。これはある種「爆発」しないではいられないでしょう。
また文章というものは日常的に書き言葉を使う機会が増えればやはり素人なりに「読めたものも」書けるようになるのでは、と思います。まあスポーツみたいなもので、慣れと訓練が無意識に広まっているわけなんですね。
こうなってくるとプロがプロたる所以はアカデミックな裏打ちがあるかどうか、ということぐらいで、面白さや切り口の意外さという点では何も見分けが付かないということになり、いったいどういうことになるのか恐ろしくも楽しみというところですね。