縄文人のページ

何を書くかわからない

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

◆私達日本人は忘れてはならない。通州事件の惨劇

2018-01-14 11:32:36 | 政治

◆私達日本人は忘れてはならない。

『通州事件の惨劇 (Sさんの体験談)-日本人皆殺しの地獄絵-』

中国人の鬼畜行為
許せる物ではありません

通州事件の犠牲者が、中国人の鬼畜日本人の生体解剖事件の偽証写真に悪用されました。
中国人が通州事件の立ち会いを日本軍と共に行った時、写した写真です。
同じ写真が日本軍にもあって、中国捏造写真がばれました。
中国人はその捏造写真が、蝋人形にされ、資料館に展示されているのを知りません。
あれは日本人の犠牲者です。悔しいですね。合掌

◆通州事件の惨劇 (Sさんの体験談)-日本人皆殺しの地獄絵-【隠された歴史】
https://matome.naver.jp/odai/2135133303906592501
この通州事件は、昭和12年(1937)7月29日に起こった、中国人の保安隊による大規模な日本人虐殺事件です。殺されたのは、通州の日本軍守備隊、日本人居留民(多数の朝鮮人も含む)の約260名で、中国兵は、婦女子に至るまで、およそ人間とは思えないような方法で日本人を惨殺したのです。

更新日: 2016年04月08日


 
◆仕掛けられた「日中戦争」 盧溝橋事件の真実
http://www.teikoku-denmo.jp/history/honbun/rokokyo.html
http://www.teikoku-denmo.jp/img/photo/rokokyo.jpg
昭和12(1937)年7月7日夜半、北京の南を流れる盧溝河に架かる橋 ── 盧溝橋(右写真)を舞台に「日中戦争」(支那事変・日華事変)が勃発しました。当時、盧溝橋の近くで、現地に駐屯していた日本軍は夜間演習を行っていたのですが、不意に暗闇から銃撃を受けました。日本軍駐屯地の近くには、支那・国民党軍(蒋介石軍)も駐屯していたのですが、銃撃を受けた日本軍は、その銃撃が国民党軍によるものと思いこみ、遂に日本軍と国民党軍の武力衝突 ── いわゆる「盧溝橋事件」が起こったのです。そして、この事件を契機として、日本は広大な支那大陸を舞台に、昭和20(1945)年8月15日の終戦迄、「日中戦争」と呼ばれる終わる事の無い戦争の泥沼へと引きずり込まれていったのです。戦後半世紀を経た現在でも、支那が事ある毎に「日本軍国主義」の歴史的事実として引っ張り出す「日中戦争」。そして、その発端となった「盧溝橋事件」が、実は支那側によって仕掛けられたものだったと言ったら、皆さんはどう思われるでしょうか? と言う訳で、今回は、「日中戦争」の発端となった「盧溝橋事件」について書いてみたいと思います。

盧溝橋事件。結論から言えば、「日中戦争」の発端となったこの事件は、決して日本軍が仕掛けたものではありません。日本軍が最初に銃撃を受けた際 ── つまり演習をしていた際、日本軍は「丸腰」(演習の為、実弾を携行していなかった)だったのです。ですから、橋本群・陸軍中将(駐屯軍参謀長)も当時の状況を、「実弾を持たずに発砲された為、応戦出来ず、非常に危険な状況に置かれた」と証言しています。それは、そうでしょう。「丸腰」の所を銃撃 ── しかも、暗闇からの銃撃を受けたのですから、堪ったものではありませんでした。しかし、支那現政権は日本軍が先制攻撃したと言い、村山富市・元首相も当地を訪れた際、「盧溝橋で往事を反省してきた」等と寝惚(ねぼ)けた発言をしています。その様な事は到底あり得ないのです。考えても見て下さい。「丸腰」で演習していた日本軍が「銃撃を受けた」と称して、自ら好きこのんで「武装」しているであろう国民党軍と事を構えたでしょうか? これこそ「暴論」と言うものです。

それでは、盧溝橋で先に銃撃したのは、国民党軍だったのか? 実は事件当時、当の国民党軍も、日本軍同様、銃撃を受けているのです。盧溝橋で銃撃を受けた日本軍は国民党軍によるものと思い込みましたが、反対に、国民党軍は日本軍によって銃撃を受けたものと思い込んだ訳です。この事件が発端となって、日本軍と国民党軍は交戦状態に突入したのですが、双方共、腑に落ちない点があり、現地解決・事件不拡大方針で交渉、事件発生後5日目に、日支両軍は停戦協定を結んだのです。つまり、日本軍はこれ以上、事を荒立てたくは無い、と言った訳で、支那との全面戦争等、最初から欲してはいなかった訳です。しかし、それでは、日本軍・国民党軍双方に「銃撃」を加え、双方を戦わせる様にし向けたのは、一体「何者」だったのでしょうか?

7月8日、つまり、「盧溝橋事件」発生の翌日、支那共産党は「対日全面抗戦」を呼び掛けているのです。これは、どう見ても、お膳立てが良すぎます。まるで、「盧溝橋事件」が起きる事を知っていたかの様な手際の良さです。と言うよりも、間違いなく共産党は、事件が起きる事を知っていました。それは、何故か? 実は、「盧溝橋事件」は何を隠そう、共産党による「謀略」だったからです。つまり、共産党の工作員が夜陰に乗じて、盧溝橋付近に駐屯していた日本軍・国民党軍双方に発砲し、両軍が交戦する様にし向けたのです。その証拠に、共産党軍の兵士向けのパンフレットには、

    「盧溝橋事件は我が優秀なる劉少奇同志(後の国家主席)の指示によって行われたものである」

とはっきりと記述されていました。又、昭和24(1949)年10月1日、「中華人民共和国」成立のその日、周恩来首相も、

    「あの時(盧溝橋事件の際)、我々の軍隊(共産党軍)が、日本軍・国民党軍双方に、(夜陰に乗じて)発砲し、日華両軍の相互不信を煽って停戦協定を妨害し、我々(共産党)に今日の栄光をもたらしたのだ」

と発言しています。共産党自らが「自白」しているのですから、これ以上の証拠はありません。

「盧溝橋事件」は、共産党による「謀略」だった。当時、国民党に対して劣勢だった共産党は、「起死回生」を図る為、日本軍・国民党軍双方を戦わせて疲弊させ、「漁夫の利」(つまりは、支那全土の支配権)を得ようと考えたのです。結果的に狙いは的中し、日本はその後、8年間の長期にわたって、広大な支那大陸を舞台に「日中戦争」を戦わされる羽目になりました。更に、その後、共産党は国共内戦で国民党に勝利し、遂に支那全土の支配権を獲得、「中華人民共和国」を建国(1949年)したのです。その意味においては、「盧溝橋事件」とは、日本軍が共産党軍(支那)に「填(は)められた」訳で、「日中戦争」とは、日本が支那に「仕掛けられた」戦争だった訳です。


   余談(つれづれ)

江沢民(支那国家主席)は事ある毎に、日本の「過去の戦争責任」・「正しい歴史認識」等と称しては、「日中戦争」によって「中国を侵略」した日本を糾弾し、「反省とお詫び」を要求しますが、そもそも、「日中戦争」の発端となった「盧溝橋事件」は、共産党軍が日本軍に仕掛けた訳で、「正しい歴史認識」と言うのであれば、先ず、「盧溝橋事件」における共産党軍の姑息な謀略行為を公式の場で認め、夜陰に乗じて日本軍に対して銃撃・挑発した事を「謝罪」すべきです。そして、「日中戦争」と言う両国の間に横たわる「不幸な過去」を招いた責任を自己批判すべきでは無いでしょうか?
 
◆盧溝橋事件
ろこうきょうじけん
1937年(昭和12)7月7日夜に始まる盧溝橋一帯での日中両軍の軍事衝突で、日中全面戦争の発端となった事件。中国では、「七・七事変」ともいい、日本政府は当時「北支事変」と称した。
 1935年、華北分離工作に本格的に乗り出した日本は、やがて支那(しな)駐屯軍を増強、豊台(ほうだい)にも駐屯するなど、北平(ペイピン)(北京(ペキン))に対する圧力を強めていた。盧溝橋は、北平の南西15キロメートル、豊台の西3キロメートル、平(京)漢線鉄橋のやや下流に位置し、中国軍の守る要衝の地であった。
 7日夜、支那駐屯歩兵第一連隊第三大隊第八中隊(中隊長清水節郎(せつろう)大尉)は、盧溝橋北西約1キロメートルの永定河(えいていが)右岸竜王廟(りゅうおうびょう)付近で夜間演習中、10時半ごろ、日本軍の軽機関銃の発射(空砲)に続き、竜王廟方面から小銃による実弾数発の射撃があり、さらに日本兵1名行方不明という事態が発生した。同兵は20分後に帰隊したが、この点は北平の連隊本部にただちには伝えられなかった。翌8日午前3時過ぎ、再度竜王廟方面に銃声があったことから、北平の牟田口(むたぐち)連隊長により、午前4時23分に攻撃命令が出された。交戦状態への突入は5時半、盧溝橋につながる宛平(えんぺい)県城での両軍代表による交渉の最中であった。
 8日、中国共産党は、華北の防衛、全民族の抗戦を訴える通電を発し、国民政府も10日夜、日本に抗議した。現地では、9日の停戦の合意にもかかわらず、10日夜ふたたび交戦状態に突入した。一連の戦闘で中国の民衆多数が日本軍によって殺傷された。11日夜8時、現地では停戦協定が成立したが、これより先、同夕6時過ぎ日本政府は「華北派兵声明」を発表、すでに全面戦争へ向けての重大な一歩を踏み出していた。[安井三吉]
『寺平忠輔著『蘆溝橋事件』(1970・読売新聞社) ▽秦郁彦著『日中戦争史』(1972・河出書房新社) ▽藤原彰著『日中全面戦争』(『昭和の歴史5』1982・小学館)』
[参照項目] | 日中戦争


◆日中戦争
にっちゅうせんそう
1937年(昭和12)7月の盧溝橋(ろこうきょう)事件に始まり、1945年8月日本の降伏で終わった、日本と中国との全面戦争。日中十五年戦争という場合は、1931年9月の満州事変を起点とする。中国では一般に抗日戦争とよぶが、第二次中日戦争という言い方もある。
 日中戦争は、第二次世界大戦の東アジアにおける導火線であり、一貫してこの大戦の重要部分を占めた。[安井三吉]
発端目次を見る
1937年7月7日の盧溝橋事件が発火点であるが、当初「北支事変」と称したように、日本にとり局地的解決の機会は何度もあった。しかし、一撃で中国を降伏させる、あるいは、「膺懲(ようちょう)」のために増派せよという拡大論が政府、軍部、マスコミをリードし、ずるずると全面戦争へと進んでいった。杉山元(はじめ)陸相などは「1か月ぐらいでかたづく」といっていたが、それは中国の抗戦力を完全に見誤るものであった。日本は7月11日の「華北派兵声明」に基づき、朝鮮、満州から送り込んでいた部隊に加え、同月末さらに日本から増派した3個師団をもって北平(ペイピン)(北京(ペキン))、天津(てんしん)一帯を一挙に制圧した。即時抗戦を主張する中国共産党に対し、なお和平に賭(か)けていた国民党政府の蒋介石(しょうかいせき)も、ついに29日、「最後の関頭」(和平が絶望的となり、抗戦の避けられない事態)に至ったことを表明した。8月9日、大山中尉事件(海軍陸戦隊の大山勇夫中尉が上海(シャンハイ)の虹橋(こうきょう/ホンチャオ)飛行場付近で中国の保安隊に射殺された事件)が起こるや、日本は上海一帯にも続々と部隊を投入、13日ついに交戦状態に突入、上海事変(第二次)を起こすに至った。[安井三吉]

全面化
8月14日、国民政府は「自衛抗戦声明書」を発表、翌15日中国共産党も「抗日救国十大綱領」を提起した。日本も同日、上海派遣軍を編成する一方、戦争宣言ともいうべき「盧溝橋事件に関する政府声明」を発表、ついに全面戦争へと踏み切り、9月2日には「北支事変」の呼称を「支那(しな)事変」と改めた。
 他方、ソ連は8月21日国民政府と「中ソ不可侵条約」を結び、武器・弾薬の援助に乗り出すが、米・英の日本に対する態度は、この時点ではきわめて宥和(ゆうわ)的なものであった。この間、国共間の合作態勢は急速に進み、8月、華北の紅軍は国民革命軍の八路(はちろ)軍に改編され、前線に出動した(華中の紅軍は10月新四軍に改編)。9月陝甘寧(陝西(せんせい)・甘粛(かんしゅく)・寧夏(ねいか))辺区労農政府も陝甘寧辺区政府と改称、同月下旬中国共産党は第二次国共合作と抗日民族統一戦線の成立を宣言した。「蒙疆(もうきょう)」(察哈爾(チャハル)・綏遠(すいえん)地方)に入った関東軍は、大きな抵抗も受けず、8月末張家口(ちょうかこう)、9月大同、10月綏遠、包頭(パオトウ)を占領、11月張家口に傀儡(かいらい)組織蒙疆連合委員会を組織した。華北では、8月31日北支那方面軍が編成され、平型関(へいけいかん)で敗北したものの、9月保定(ほてい)、11月太原(たいげん)、12月済南(さいなん)と占領地を拡大、同月、北平に傀儡政権中華民国臨時政府をつくった。華中では、中国側の激しい抵抗を受け、11月上海を占領したときには、日本軍の戦死傷者は4万に達していた。同月7日中支那方面軍が編成され、12月南京(ナンキン)を占領した。このとき日本軍は大虐殺事件を引き起こした。この事件で「二十万を下らない中国軍民の犠牲者が生じた」(洞富雄(ほらとみお)著『決定版南京大虐殺』)との説もある。この事件は国際世論の厳しい批判を招き、中国の抗戦意識を一段と高めるものとなった。国民政府は11月すでに首都を南京から重慶(じゅうけい)に移しており、南京占領によって中国を屈服させるという日本の当初の企図は実現しなかった。しかし南京占領、臨時政府の成立をみた日本は、1938年1月、ドイツの駐華大使トラウトマンを仲介にして進めていた和平工作を打ち切り、同16日「爾後(じご)国民政府ヲ対手(あいて)トセズ」という同政府「抹殺」の第一次近衛(このえ)声明を発表するなどして、交渉による解決の道を自ら閉ざした。2月には中支那派遣軍が編成され、3月南京に傀儡政権中華民国維新政府を樹立した。「戦面不拡大」の方針とは裏腹に、同月台児荘(たいじそう)で敗北するや、5月徐州(じょしゅう)、10月武漢(ぶかん)、広州(こうしゅう)をも攻略、戦線を揚子江(ようすこう)中流、華南にまで拡大した。[安井三吉]

持久戦
1年余の間に日本軍は、中国の主要都市と交通路のほとんどを占領したが、それはいわば「点と線」の支配にすぎず、広大な農村や四川(しせん)省などの奥地は支配できなかった。戦線は延び切り、これ以上大規模な作戦を展開する力は乏しくなっていた。そこで日本軍は占領地確保に重点を置き、兵力漸減の方向を打ち出すが、その実行は困難であった。他方中国側にも、全面的反攻に出るだけの力はまだ形成されていなかった。こうして軍事的均衡に至り、戦争は持久戦となった。
 1938年11月、日本は国民政府否認を改め、「東亜新秩序」形成を提唱する第二次近衛声明を発表した。軍事的解決の見通しがたたない以上、日本には政治工作によって戦争収束を図るしか道はなくなっていた。すでに日本は、臨時政府、維新政府などを軍の力でつくりあげていたが、これらの政府に加わった者は中国人の支持を得られるような人物ではなかった。そこで、国民党親日派の大物汪兆銘(おうちょうめい)を重慶から「脱出」させ、1940年3月南京に「中華民国国民政府」を樹立させた。これに先行して、1939年9月「軍事及び政治工作を統轄し、汪政権樹立工作、他方での重慶工作を促進するため」(防衛研修所戦史室著『北支の治安戦1』)支那派遣軍総司令部が設置されている。汪は、国民党の旗を掲げ、三民主義を信奉、孫文(そんぶん)の継承をうたったが、日本の傀儡政権であることに変わりなく、中国人は彼らを「漢奸(かんかん)」(民族の裏切り者)とさげすみ、その打倒をねらった。日本は汪政権と1940年11月「日華基本条約」なるものを結び、戦争解決を企図したが、この政権は中国の国民を代表し実力をもつ政権ではなかったから、それはまったくの徒労に終わった。[安井三吉]

解放区
中国共産党は1940年の百団大戦などを例外とし、主として遊撃戦術を駆使して日本軍と戦いつつ、解放区を建設、拡大していった。解放区は抗日民族統一戦線の模範地域とすることが目ざされた。農民を主体としたひとりひとりの民衆の立ち上がりが、中国の抗戦力の奥深い源泉であった。日本軍は、正規軍との戦いのほか、このような広範な人々と対決しなければならなかった。解放区は、1941年から翌年にかけて、殺し尽くす(殺光)、焼き尽くす(焼光)、奪い尽くす(搶光(そうこう))の三光政策を伴った日本軍の激しい攻撃と国民党軍の締め付けにより、一時大幅な縮小を余儀なくされた。しかし、解放区は1945年春には、全部で19、面積約100万平方キロメートル、人口約1億を擁するまでに発展した。この間、毛沢東(もうたくとう)の「新民主主義論」(1940年1月)の発表などがあり、解放区では、中国共産党の物的・人的な基盤が形成されていった。[安井三吉]

国共関係
比較的順調だった国共関係にも、武漢喪失(1938年10月)前後からさまざまな矛盾、対立が表面化する。国民党に対する日本の政治工作に加え、解放区拡大など中国共産党の勢力拡大に国民党が危惧(きぐ)を抱き始めたためである。1939年以降国民党は、中国共産党の活動に対する制限を強め、武力弾圧すら惹起(じゃっき)した。その最大の事件は1941年1月の皖南(かんなん)事件(安徽(あんき)省南部で国民党軍が新四軍を襲撃した事件)であった。このときは、中国共産党が国民参政会への出席を一時拒否するなど国共関係は著しく悪化したが、かつてのような全面内戦の状態に戻ることはなかった。[安井三吉]

兵站基地
日中戦争の泥沼からの脱出を、日本は「南進」に求めた。ヨーロッパにおけるドイツ軍の電撃的勝利は、このような方向に弾みを与えた。1941年12月8日、日本は太平洋戦争に突入した。このときすでに日本は、中国との戦いで戦死者約18万、戦傷病者約43万を出していた。
 太平洋戦争の初戦における勝利は華々しかったが、早くも1942年6月、ミッドウェー海戦で主力空母4隻を失うという大敗北を喫した。米・英との戦端を開くや日本は、中国戦線から兵力の一部を引き抜いて南方へ転出させなければならなくなり、中国に対する軍事的勝利の可能性はいよいよ遠のいていった。日本は、中国の豊富な資源を米・英との戦いに動員し、中国を「大東亜戦争」の兵站(へいたん)基地化した。一方、日米交渉の最後の焦点が、日本軍の中国からの全面撤収にあった(ハル・ノート)ように、開戦前後から米・英は中国支持を明確化し、ビルマ・ルートなどの援蒋ルートを通じて国民政府に対する軍事援助を本格化させた。[安井三吉]

降伏
揚子江中流の要衝宜昌(ぎしょう)への攻撃、重慶・成都(せいと)への空爆(1940)、華北での中原(ちゅうげん)会戦(1941)、華中での長沙(ちょうさ)作戦(1941~1942)、浙(せっかん)作戦(1942)、そして大陸打通(だつう)作戦(1944)など、日本はなお幾度かの大規模な作戦を試みたものの、ついに中国を屈服させることはできなかった。それは、長期にわたった中国の人々の抗戦を基礎に、ソ連・米・英の援助、さらに解放区・国民党地区での日本人の反戦運動、朝鮮人の抗日闘争などの国際的支援があったからである。そして1945年8月、アメリカの2発の原爆投下、ソ連・モンゴル軍の参戦により、日本はついに降伏した。降伏文書の調印は9月2日行われたが、中国では翌3日を「抗日戦争勝利記念日」としている。支那派遣軍は9月9日南京で、第10軍は10月25日台北でそれぞれ中国軍に投降した(関東軍は極東ソ連軍に投降)。こうして中国の日本軍約200万はすべて降伏した。中国(満州・台湾を含む)に展開した日本軍の戦死者は約54万人に達した。「満州国」と南京の「中華民国」は、日本降伏とともに崩壊した。植民地台湾、澎湖(ほうこ)列島、租借地関東州はすべて中国に返還された。中国に渡った約200万の一般日本人も、そのほとんどが帰国することになった(ソ連の対日参戦後、満州において、戦闘、襲撃、病気、飢餓、自殺などにより亡くなった日本人は約18万人である)。こうして、1894~1895年(明治27~28)の日清(にっしん)戦争以来の中国に対する侵略と植民地支配の歴史に終止符が打たれたのである。[安井三吉]

惨勝
勝利した中国も、1000万の生命を奪われ、500億ドルもの物的損害を被った(沈鈞儒(しんきんじゅ)「関於戦争罪犯的検挙和懲罰」1951年9月)、といわれる。約4万もの中国人が労働力不足を補うために強制的に日本に連行された。台湾では、日本語使用の強要、姓名の日本式化(改姓名)など皇民化政策が進められ、何万という人々が「大東亜戦争」に日本兵として動員された。「満州国」でも、「五族協和・王道楽土」の掛け声の下で、中国人に対する民族的抑圧と差別が行われた。関東軍「七三一」石井特殊部隊による生体実験などはその代表的な一例であった。
 中国革命により、台湾に逃れた蒋介石政権との間に、日本は1952年(昭和27)4月「日華平和条約」を結んだが、日本と中華人民共和国との間に「戦争状態の終結」が宣せられるのは、1972年9月29日の「日中共同声明」においてであった。戦闘が終わって27年もの後のことである。[安井三吉]

『日本国際政治学会太平洋戦争原因研究部編『太平洋戦争への道3・4』(1962、1963・朝日新聞社) ▽臼井勝美著『日中戦争』(1967・中公新書) ▽歴史学研究会編『太平洋戦争史』全6巻(1971~1973・青木書店) ▽秦郁彦著『日中戦争史』(1972・河出書房新社) ▽伊藤隆著『十五年戦争』(『日本の歴史30』1976・小学館) ▽藤原彰著『太平洋戦争史論』(1982・青木書店) ▽藤原彰著『日中全面戦争』(『昭和の歴史5』1982・小学館) ▽江口圭一著『十五年戦争の開幕』(『昭和の歴史4』1982・小学館) ▽木坂順一郎著『太平洋戦争』(『昭和の歴史7』1982・小学館) ▽島田俊彦・稲葉正夫・臼井勝美他編『現代史資料 日中戦争1~5』全5巻(2004・みすず書房)』
[参照項目] | 汪兆銘(おうちょうめい) | 解放区 | 関東軍 | 皖南事件 | 紅軍 | 国民政府 | 国共合作 | 近衛声明 | 上海事変 | 杉山元 | 太平洋戦争(第二次世界大戦) | 中国共産党 | 中国国民党 | 中ソ不可侵条約 | 東亜新秩序 | 七三一部隊 | 南進政策 | 日華基本条約 | 日中共同声明 | 八路軍 | ハル・ノート | 満州事変 | 盧溝橋事件
 
◆満州事変
まんしゅうじへん
1931年(昭和6)9月18日の柳条湖(りゅうじょうこ)事件に始まった日本軍の満州(中国東北地域)侵略戦争。[君島和彦]

前史
満州、とくに南満州は、日本が日露戦争後に長春(ちょうしゅん)(寛城子)―旅順(りょじゅん)間の鉄道およびその付属の利権を獲得し関東州を租借して以来、日本資本主義にとって資本投資・商品市場・重工業原料供給地となり、特殊権益地域、日本の「生命線」として重視された。日本は第一次世界大戦後、奉天(ほうてん)軍閥張作霖(ちょうさくりん)を援助しつつ中国関内への侵略をねらっていたが、1928年(昭和3)の張作霖爆殺事件によって、張学良(ちょうがくりょう)が蒋介石(しょうかいせき)の国民政府に合流〔易幟(えきし)〕して以来、満州でも帝国主義的利権の回収運動や日本商品排斥運動が激化した。また大恐慌によって、大豆をおもな輸出産物とする満州農業経済は不振となり、工業恐慌も加わって満鉄の営業成績が悪化した。そのうえに、国民政府や張学良政権による、満鉄線以外の鉄道を使って北満の物資を南満の営口(えいこう)などへ輸送するための、いわゆる満鉄包囲線(並行線)の建設計画が満鉄に脅威を与えた。これらが日本国内では「満蒙(まんもう)の危機」と宣伝され、31年7月の万宝山(まんぽうざん)事件や8月に公表された中村大尉事件とともに排外主義の高揚に利用された。[君島和彦]

柳条湖事件
かねてから関東軍高級参謀板垣征四郎(いたがきせいしろう)大佐、同作戦主任参謀石原莞爾(かんじ)中佐らが中心となり、満蒙領有計画が立案されていた。1931年の三月事件の経験や、排外熱の高揚を踏まえて関東軍は、参謀本部第一(作戦)部長建川美次(たてかわよしつぐ)少将をはじめ軍中央部と連絡をとりつつ、9月18日夜10時半、奉天郊外の柳条湖村で満鉄線路を爆破、これを張学良軍の仕業と称して軍事行動を起こした。張学良軍の宿営北大営(ほくだいえい)と奉天城への攻撃から始まり、翌日には奉天市をはじめ満鉄沿線の主要都市を占領した。さらに吉林(きつりん)への出兵を機に、9月21日には朝鮮軍が司令官林銑十郎(せんじゅうろう)中将によって独断越境、戦火は南満州全体に拡大した。事件勃発(ぼっぱつ)直後、不拡大方針をとった若槻礼次郎(わかつきれいじろう)内閣も22日の閣議では、独断越境という統帥権干犯を追及せず、他の軍事行動とともに既成事実を追認、予算支出を承認した。24日には日本軍の軍事行動の正当性と今後の不拡大方針の声明を発表し、政府は事件を公認した。[君島和彦]

満州国
1931年10月の錦州(きんしゅう)爆撃などにより南満州を占領したのち、関東軍は北部満州の占領を企図し、11月チチハルの占領に続いて32年2月にはハルビンを占領、以後北満の主要都市を占領した。当初満蒙領有を計画していた関東軍は9月中旬に満州支配方式を傀儡(かいらい)国家樹立に変更決定し、10月には「満蒙共和国統治大綱案」を作成、統治方針や政府組織を決めるとともに、各地の軍閥軍人に地域的独立政権をつくらせ、11月には天津(テンシン)に亡命中の清(しん)朝最後の皇帝溥儀(ふぎ)を脱出させ、新国家の元首にする準備を進めた。32年1月末、中国でとくに抗日運動の激化している上海(シャンハイ)で日本海軍陸戦隊と中国軍の衝突が起こった(第一次上海事変)。この間を縫って3月1日、張景恵(ちょうけいけい)ら旧軍閥軍人による東北行政委員会が「満州国」成立を宣言し、9日溥儀が執政に就任して新国家が出発した。「満州国」は関東軍がその実権を握った傀儡国家である。また満州での日本の軍事行動は、中国によって国際連盟に提訴され、リットン調査団が派遣されていたが、「満州国」成立の日は調査団が東京に着いた翌日であり、日本が「満州国」を承認し日満議定書に調印した9月15日は、調査団がその延期を要望し、報告書執筆中の時期であった。日本はいずれも既成事実で調査団に対抗したのであり、国際世論への挑戦でもあった。「満州国」成立に至る過程は、おもに関東軍の推進したものであるが、それは政府や軍中央部の許容範囲であり、三井(みつい)・三菱(みつびし)両財閥が「満州国」成立直後の4月に、満州中央銀行設立のために各1000万円の融資を行ったように、独占資本の要求でもあった。これに対し、中国では国民党と共産党が内戦中であり、一致して民族的危機に立ち向かえなかった。満州と国境を接していたソ連も国内建設を優先しており、大恐慌の荒れ狂う英米も日本の侵略に宥和(ゆうわ)的であった。満州侵略はこのような条件下で実行されたのである。[君島和彦]

華北分離工作
日本は満州植民地支配を、1933年5月末の塘沽(タンクー)停戦協定によって国民政府に事実上認めさせた。しかし35年に入ると、日本陸軍は、中国の華北五省(河北、山東、山西、チャハル、綏遠(すいえん))を国民政府から分離独立させ日本の支配下に置く計画をたて始めた。その理由は、反満抗日軍の根拠地が華北にあり、満州国の治安を安定させるためには、華北五省の支配が不可欠というものであり、同時に、華北の石炭、鉄などの資源と農産物、そして市場をもねらっていた。満州事変の処理が、新たに華北への侵略を必要とし、やがて日中全面戦争へと突入していくのである。[君島和彦]

『江口圭一著『日本帝国主義史論』(1975・青木書店) ▽歴史学研究会編『太平洋戦争史1 満州事変』(1971・青木書店)』

[参照項目] | 華北分離工作 | 満州国 | リットン調査団 | 柳条湖事件


◆リットンほうこくしょ【リットン報告書】
満州事変に関する国際連盟調査委員会の報告書。満州事変について日本は国際連盟で不拡大を言明したが,1931年10月8日関東軍の錦州爆撃,11月の遼西進攻作戦などにより,国際連盟は日本に対する不信を強めた。孤立に陥った日本は,国際連盟事務総長ドラモントJ.E.Drummond(1876‐1951)のすすめで,現地への調査委員会派遣を提案し,12月10日の理事会でこれが可決され,32年1月委員長にリットンV.A.G.R.Lytton(1876‐1947)(イギリス),委員にマッコイF.R.McCoy(アメリカ),クローデルH.Claudel(フランス),シュネーH.Schnee(ドイツ),アルドロバンディL.Aldrovandi(イタリア)が任命された。

◆満州国
まんしゅうこく
満州事変の結果,大陸進出の前進基地,さらに中国革命の波及を阻止する拠点として,日本が中国東北三省および熱河省につくった傀儡国家(かいらいこっか)。首都,新京。1932年3月清朝の廃帝愛新覚羅溥儀を執政として満州国樹立を宣言。同年 9月日本は日満議定書を結び同国を承認。1934年より帝政がしかれ,最高諮問機関に参議府,行政機関に国務院が置かれて,国務総理,各大臣には満州族があてられたが,議会にあたるものはなく,実権は関東軍司令官が掌握し,駐満大使,関東庁長官を兼任していた。建国当初は日,漢,満,蒙,鮮の五族協和による王道楽土の建設が理想とされ,関東軍は財閥の資本進出を排した。しかし,軍事的観点からも石炭,鉄鋼,機械,化学工業の導入が必要となり,日産コンツェルンの誘致にみられるように,逐次民間資本の投下が歓迎されていった。その後,日本の資本進出はめざましく,これに対し 1933年抗日救国会,1936年東北抗日連合軍など抗日組織の結成がはかられ,1945年8月日本の敗戦に伴い崩壊した。

 
◆満州事変
まんしゅうじへん
1931年(昭和6)9月18日の柳条湖(りゅうじょうこ)事件に始まった日本軍の満州(中国東北地域)侵略戦争。[君島和彦]

前史
満州、とくに南満州は、日本が日露戦争後に長春(ちょうしゅん)(寛城子)―旅順(りょじゅん)間の鉄道およびその付属の利権を獲得し関東州を租借して以来、日本資本主義にとって資本投資・商品市場・重工業原料供給地となり、特殊権益地域、日本の「生命線」として重視された。日本は第一次世界大戦後、奉天(ほうてん)軍閥張作霖(ちょうさくりん)を援助しつつ中国関内への侵略をねらっていたが、1928年(昭和3)の張作霖爆殺事件によって、張学良(ちょうがくりょう)が蒋介石(しょうかいせき)の国民政府に合流〔易幟(えきし)〕して以来、満州でも帝国主義的利権の回収運動や日本商品排斥運動が激化した。また大恐慌によって、大豆をおもな輸出産物とする満州農業経済は不振となり、工業恐慌も加わって満鉄の営業成績が悪化した。そのうえに、国民政府や張学良政権による、満鉄線以外の鉄道を使って北満の物資を南満の営口(えいこう)などへ輸送するための、いわゆる満鉄包囲線(並行線)の建設計画が満鉄に脅威を与えた。これらが日本国内では「満蒙(まんもう)の危機」と宣伝され、31年7月の万宝山(まんぽうざん)事件や8月に公表された中村大尉事件とともに排外主義の高揚に利用された。[君島和彦]

柳条湖事件
かねてから関東軍高級参謀板垣征四郎(いたがきせいしろう)大佐、同作戦主任参謀石原莞爾(かんじ)中佐らが中心となり、満蒙領有計画が立案されていた。1931年の三月事件の経験や、排外熱の高揚を踏まえて関東軍は、参謀本部第一(作戦)部長建川美次(たてかわよしつぐ)少将をはじめ軍中央部と連絡をとりつつ、9月18日夜10時半、奉天郊外の柳条湖村で満鉄線路を爆破、これを張学良軍の仕業と称して軍事行動を起こした。張学良軍の宿営北大営(ほくだいえい)と奉天城への攻撃から始まり、翌日には奉天市をはじめ満鉄沿線の主要都市を占領した。さらに吉林(きつりん)への出兵を機に、9月21日には朝鮮軍が司令官林銑十郎(せんじゅうろう)中将によって独断越境、戦火は南満州全体に拡大した。事件勃発(ぼっぱつ)直後、不拡大方針をとった若槻礼次郎(わかつきれいじろう)内閣も22日の閣議では、独断越境という統帥権干犯を追及せず、他の軍事行動とともに既成事実を追認、予算支出を承認した。24日には日本軍の軍事行動の正当性と今後の不拡大方針の声明を発表し、政府は事件を公認した。[君島和彦]

満州国
1931年10月の錦州(きんしゅう)爆撃などにより南満州を占領したのち、関東軍は北部満州の占領を企図し、11月チチハルの占領に続いて32年2月にはハルビンを占領、以後北満の主要都市を占領した。当初満蒙領有を計画していた関東軍は9月中旬に満州支配方式を傀儡(かいらい)国家樹立に変更決定し、10月には「満蒙共和国統治大綱案」を作成、統治方針や政府組織を決めるとともに、各地の軍閥軍人に地域的独立政権をつくらせ、11月には天津(テンシン)に亡命中の清(しん)朝最後の皇帝溥儀(ふぎ)を脱出させ、新国家の元首にする準備を進めた。32年1月末、中国でとくに抗日運動の激化している上海(シャンハイ)で日本海軍陸戦隊と中国軍の衝突が起こった(第一次上海事変)。この間を縫って3月1日、張景恵(ちょうけいけい)ら旧軍閥軍人による東北行政委員会が「満州国」成立を宣言し、9日溥儀が執政に就任して新国家が出発した。「満州国」は関東軍がその実権を握った傀儡国家である。また満州での日本の軍事行動は、中国によって国際連盟に提訴され、リットン調査団が派遣されていたが、「満州国」成立の日は調査団が東京に着いた翌日であり、日本が「満州国」を承認し日満議定書に調印した9月15日は、調査団がその延期を要望し、報告書執筆中の時期であった。日本はいずれも既成事実で調査団に対抗したのであり、国際世論への挑戦でもあった。「満州国」成立に至る過程は、おもに関東軍の推進したものであるが、それは政府や軍中央部の許容範囲であり、三井(みつい)・三菱(みつびし)両財閥が「満州国」成立直後の4月に、満州中央銀行設立のために各1000万円の融資を行ったように、独占資本の要求でもあった。これに対し、中国では国民党と共産党が内戦中であり、一致して民族的危機に立ち向かえなかった。満州と国境を接していたソ連も国内建設を優先しており、大恐慌の荒れ狂う英米も日本の侵略に宥和(ゆうわ)的であった。満州侵略はこのような条件下で実行されたのである。[君島和彦]

華北分離工作
日本は満州植民地支配を、1933年5月末の塘沽(タンクー)停戦協定によって国民政府に事実上認めさせた。しかし35年に入ると、日本陸軍は、中国の華北五省(河北、山東、山西、チャハル、綏遠(すいえん))を国民政府から分離独立させ日本の支配下に置く計画をたて始めた。その理由は、反満抗日軍の根拠地が華北にあり、満州国の治安を安定させるためには、華北五省の支配が不可欠というものであり、同時に、華北の石炭、鉄などの資源と農産物、そして市場をもねらっていた。満州事変の処理が、新たに華北への侵略を必要とし、やがて日中全面戦争へと突入していくのである。[君島和彦]

『江口圭一著『日本帝国主義史論』(1975・青木書店) ▽歴史学研究会編『太平洋戦争史1 満州事変』(1971・青木書店)』

[参照項目] | 華北分離工作 | 満州国 | リットン調査団 | 柳条湖事件

◆柳条湖事件
りゅうじょうこじけん
1931年(昭和6)9月18日の謀略的満鉄線路爆破事件。満州事変の引き金となった。従来、柳条溝事件と通称されていたが、1980年の中国における学会報告で、事件現場の地名などから柳条湖事件と改称すべきであると提起された。31年3月、宇垣一成(うがきかずしげ)内閣を企図する軍事クーデターが発覚した(三月事件)。関東軍高級参謀板垣征四郎(いたがきせいしろう)大佐や同作戦主任参謀石原莞爾(かんじ)中佐らはすでに満蒙(まんもう)領有計画を作成していたが、三月事件後に石原は「満蒙問題私見」などを執筆、満州で軍事行動を起こし、それを機に国内の軍事的改革を断行する計画を作成した。柳条湖事件はこれらの計画を具体化する謀略であった。関東軍の計画には、軍中央部の参謀本部第一(作戦)部長建川美次(たてかわよしつぐ)中将、同支那(しな)課長重藤千秋(しげとうちあき)大佐、支那班長根本博中佐らも加わっていた。軍事行動は計画の漏洩(ろうえい)により早められ、9月18日に実行された。満鉄線路の爆破といっても、列車の運行に影響を与えないように爆薬量が計算され、爆破を合図に奉天(ほうてん)にいた板垣高級参謀が軍司令官名で奉天城と張学良(ちょうがくりょう)軍の宿営北大営(ほくだいえい)を攻撃させ、19日中には計画どおりの軍事行動で営口(えいこう)、安東(あんとう)、鳳凰(ほうおう)城、長春(ちょうしゅん)など満鉄沿線の主要都市を占領した。さらに計画には朝鮮軍の増援があったが、参謀総長金谷範三(かなやはんぞう)大将が出兵を中止させた。そこで吉林(きつりん)で事件を起こし、吉林出兵を実施、これに伴い朝鮮軍を独断越境させた。これに対し、事件勃発(ぼっぱつ)直後、不拡大方針をとった若槻礼次郎(わかつきれいじろう)内閣は22日の閣議で軍事行動を追認し、予算の支出を承認、さらに24日には軍の行動の正当性を認める声明を発表し、軍の行動を容認した。[君島和彦]
『島田俊彦著『関東軍』(中公新書)』

 
◆柳条湖事件
りゅうじょうこじけん
1931年(昭和6)9月18日の謀略的満鉄線路爆破事件。満州事変の引き金となった。従来、柳条溝事件と通称されていたが、1980年の中国における学会報告で、事件現場の地名などから柳条湖事件と改称すべきであると提起された。31年3月、宇垣一成(うがきかずしげ)内閣を企図する軍事クーデターが発覚した(三月事件)。関東軍高級参謀板垣征四郎(いたがきせいしろう)大佐や同作戦主任参謀石原莞爾(かんじ)中佐らはすでに満蒙(まんもう)領有計画を作成していたが、三月事件後に石原は「満蒙問題私見」などを執筆、満州で軍事行動を起こし、それを機に国内の軍事的改革を断行する計画を作成した。柳条湖事件はこれらの計画を具体化する謀略であった。関東軍の計画には、軍中央部の参謀本部第一(作戦)部長建川美次(たてかわよしつぐ)中将、同支那(しな)課長重藤千秋(しげとうちあき)大佐、支那班長根本博中佐らも加わっていた。軍事行動は計画の漏洩(ろうえい)により早められ、9月18日に実行された。満鉄線路の爆破といっても、列車の運行に影響を与えないように爆薬量が計算され、爆破を合図に奉天(ほうてん)にいた板垣高級参謀が軍司令官名で奉天城と張学良(ちょうがくりょう)軍の宿営北大営(ほくだいえい)を攻撃させ、19日中には計画どおりの軍事行動で営口(えいこう)、安東(あんとう)、鳳凰(ほうおう)城、長春(ちょうしゅん)など満鉄沿線の主要都市を占領した。さらに計画には朝鮮軍の増援があったが、参謀総長金谷範三(かなやはんぞう)大将が出兵を中止させた。そこで吉林(きつりん)で事件を起こし、吉林出兵を実施、これに伴い朝鮮軍を独断越境させた。これに対し、事件勃発(ぼっぱつ)直後、不拡大方針をとった若槻礼次郎(わかつきれいじろう)内閣は22日の閣議で軍事行動を追認し、予算の支出を承認、さらに24日には軍の行動の正当性を認める声明を発表し、軍の行動を容認した。[君島和彦]
『島田俊彦著『関東軍』(中公新書)』

『政治』 ジャンルのランキング
コメント   この記事についてブログを書く
« ●大塩平八郎 | トップ | 広島原爆の投下直後に、日本... »

コメントを投稿

政治」カテゴリの最新記事