333 ○ 感動の声禁止です図書館は
世の中が、「管理社会」に移行しているのは、みんな、無意識ながら実感しているのではないか?
一部の選良、リーダーが特権的に「力」を行使し、われわれ庶民は、それに唯々諾々と従い、ミスなどすればミスした者が悪いとか能力がないとかというふうに扱われる。
そんな時代に移ったような気がする。
図書館で大声を出しても周囲の人の顰蹙を買うか、程度がひどい場合図書館の管理者から注意される程度で、法律的に罰せられることはまずない。
真綿で首を絞めるような、それでいてきっちりと「管理」されている。
これに呼応するように、このごろは、多くの人が見て見ぬふりをする。面と向かって注意する人はまれだ。
大声の主が幼年ならあるかもしれないが、以前よりは確実に減少している。
大声を日々抑制され、「いい子」を演じている少年は、いや大人でも何かの弾みで「切れ」たりするのが常態化しているのが今の社会だ。
一方で、自己を主張することが奨励され一方では「上の者」と称される「権力」に従うよう無言の強要がなされている。
いわばダブルバインド状態なのだ。
「脱原発」問題にしたって、国民投票で白黒はっきりしようじゃないか、と言った機運はどこにもない。
ネオコン安倍が九条憲法廃棄を画策した時、国民投票法案を検討しかかったのだから、それをふまえて、こんな機会だからこそ「国民投票」によって、真に民意を確かめたらいいのではないか。
TPP参加議論にしたところで、民主党政権もアメリカの戦略に乗るということが、初めからの結論で、「どじょう野田」やその周辺のやっているのは「国民的議論」からははるかに遠く、それらしいポーズに過ぎない。
黄昏の超大国アメリカのために何で御奉仕しなければならないのか。
「国を開く」と言う意味ではTPPに基本的には賛成だが、アメリカのルールに乗るかどうかが現実問題である以上、これも「国民投票」がいい。
とは言え、安倍のときの「やらせ」公開討論会、九電の「やらせ」原発討論会で為政者の都合のいい世論誘導は除いてのことだが。
外圧でしか変われない、自ら自己決定のできないという、だらしのないこの国の長い間の伝統がまたぞろあらわに顔を出している。
G20で国内のコンセンサスも得られていないのに「どじょう」は消費税10%を国際的に公約してしまう始末だ。
小沢を振りおろした、現民主党政権は、ネオコンの集団で、前自民党政権よりも始末が悪い。
「松下政経塾」などろくでもない。
「上の人」「偉い人」に何事も決めてもらおうという考え方や態度だけは、我々庶民は拒否しなければならない。
どじょう野田の影の首相だと思い込んでいる、小泉と波長のあった前原など、己の権力欲と国家を一番に考えているのだから、現政権など信用するに足りないのではないか。・・・・・・
久しぶりにこのブログ書いたので、いつもにも増して、話がどんどん妄想的になっていく。
この句、「図書館」を他のものに置き換えても読めるのではないか、ということが言ってみたかっただけである。
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