ふうるふうる・たらのあんなことこんなこと

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脳の研究って

2013-06-09 16:15:37 | 本や言葉の紹介

中浦和“ふうるふうる”のたらです。
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 「脳はこんなに悩ましい」(池谷裕二 中村うさぎ 新潮社)は、脳研究者の池谷さんと作家の中村さんの対談集。
 いやいや、おもしろかった、びっくりした。「えー、本当??」「そんなことが!!」がみっちり。
 たとえば遺伝子診断。
 DNAは、アデニン、グアニン、チミン、シトシンという四つの塩基によって成り立つ。人ではこの四つの塩基の文字が三十一億個ほど並んでいるが、人によって微妙に違う。この違いをスニップといい、三百万か所ぐらいのバリエーションがあるらしい。
 アメリカには、唾液をチューブにとって提出すると百万か所ほどを調べてくれる会社がある。
 で、二人が遺伝子診断をやってみた結果、先祖のルーツや、肥満を決める九つの遺伝子、二種類の寿命遺伝子、近視の遺伝子、いろいろな病気の遺伝子、酒飲み遺伝子、タバコ遺伝子、ヘロインの常習癖遺伝子、味や匂いや痛みなどなど、とにかくたくさんのことについてわかっちゃう。
 今はもう“そんなこと”さえわかる時代なのかと仰天しましたよ。

 中村うさぎさんってものすごく頭が切れることにもびっくり。失礼ながら、借金、ホストへののめり込み、整形フリーク、派遣売春で自分の「女の価値」を確認、文章や話し方などの露悪趣味など、ご自分で発表してきたものからは想像できなかった。でも、この頭の良さが“自分”に向かったときのいろいろな葛藤がそのような行動を取らざるをえなくしていたというのはあるのだろうなあと……。

 さて、中村うさぎさんの返しがごくおとなしいものをいくつか抜粋します。

第二章 ダマし合う脳と身体
●手を動かさなきゃ脳は働かない
池谷 「覚えるためには出力せよ」ということを示した研究があるのです。たとえば、外国語の単語を暗記するためには、単語リストを何度も何度も眺めて覚えるよりも、とにかく確認テストをしてみるのです。間違えたらまた覚えて確認テスト、という手順を繰り返した方が記憶の定着が良いんです。
中村 テストするというのが重要なんですか。
池谷 はい。単語リストを見て学習するというプロセスは「人力」に相当します。テストで問題を解くのは知識の「出力」です。脳は「この情報はこんなに使う場面が多いのか」と重要性を判定するんです。出力の機会が多ければ多いほど、記憶は定着する。脳は出力依存なんです。
中村 なるほど! 知識詰め込み型ではダメなんですね。イメージとしては「出力は結果である」と思いがちですよね。でも違うんだ。出力が原因になって、結果がついてくるわけですね。

●「苦み」は万国共通
池谷 (顔の表情筋の一つで、上唇のはし、鼻の脇を上げる上唇挙筋の実験で)苦いものを食べたときのみ、上唇挙筋が収縮するんです。
 この筋肉がどれだけ縮んだかで「苦さ」が測定できます。
 (ウジ虫やゴキブリの写真を見ると上唇挙筋が収縮する)嫌悪は苦みと似た顔、おそらく同じ脳回路を使っているのでしょう。つまり、脳はまず「苦味」を検出する回路システムを作って、それを転用することによって嫌悪感という感情を獲得したのではないかと。
中村 苦虫を噛みつぶしたような顔、苦い思い出、とか言いますもんね。
池谷 英語でも「ビター・メモリー」と言いますから、言語を超えて共通した表現ですね。
 ちなみに嫌悪感は対人関係でも生まれますよね。(たとえばアルティマというお金の山分けゲームで、納得できない金額を提示されたときも上唇挙筋が上がる)
中村 それは怒りからくるものではないんだ?
池谷 (怒り、悲しみ、嫌悪の)三つの感情と上唇挙筋の動きを比べたところ、嫌悪感が拒否行動とよく相関していました。モラルは、怒りよりも嫌悪が元になっているのですね。
中村 苦味を感じるシステムを構築して、そこを拠点に、嫌悪感や社会的倫理も養っていったんだ。

第三章 脳はなぜ生まれたのか
●「空気を読めない人」と「失敗から学ばない人」
池谷 IQには大きく二種類あります。言語系のIQと非言語系のIQです。非言語性IQとは、パズルを解いたり、法則性を見抜いたりする能力です。一般にはそれぞれのIQの数値よりも、言語性IQと非言語性IQのバランスが重要だとされています。両者に開きがあると、対人関係を築くのが下手になります。

池谷 遺伝子データを眺めながらお話ししていると、何となく、自分が「そこそこ当たる露天占い師」になったような気がします(笑)。
 (ミネソタ大学で行った双子の調査で、IQの七割は遺伝子だという調査結果が出たが) 私は教育現場にいますから、「人の能力は均等」を前提として、教壇に立たねばなりません。しかし、最近思うのです。この理念はあまりにもロスが大きいと。 平等に扱うということは、「できないのは努力が足りないからだ」「教えかたが下手だから」となりますから、生徒側も教師側もよけいなストレスを強いられます。
 知能や性格に遺伝的な差があることを認めたがらない人は少なくありません。生理的嫌悪を覚えるのはよく理解できます。でも、その嫌悪は、よく考えれば、「もし差があるのなら、自分はそれを理由に差別する」という優性的な意識の裏返しなんですよね。
 事実、個人差はあるのだから、真実から目を背けてはいけないと思います。もちろん遺伝子ですべてが決まるわけではないことも、決して忘れてはいけませんが。