内閣不信任の審議と「舛添都知事の醜聞」と天秤ばかりはどちらに触れる

2016-06-05 01:16:46 | 日記

         内閣不信任の審議と「舛添都知事の醜聞」と

                                             天秤ばかりはどちらに触れる

    舛添東京都知事の金銭をめぐる問題は、都民だけではなく、その関心は全国的に広がりを見せている。その中で6月1日からの都議会が開催された。初日、186枚の傍聴券を求めて都民は列をなした。このような状況は過去にもなかったと関係者は述べている。それだけ関心があるというのであろうが、問題はその関心の内容である。

   その前日の31日には、都議会開催同様の午後1時から衆議院本会議が開催された。野党4党が提出した安倍内閣不信任に対する審議である。どちらも国民の関心事であるが、国会中継はどのテレビ局も取り上げなかった。しかし、1日の都議会は、何故かNHKは取り上げなかったが、民報のTBSが特別番組を企画した。そのことは良しとすもののその内容である。顔を揃えた著名な評論家の口から飛び出す言葉は「お詫びの言葉があるのか、ないのか。どのような内容のものになるのか、発言は所信表明の冒頭か、終わりか。時間は何分か。かつての猪瀬元知事の場合との比較はどうか」などのお喋りである。それはどうでも良いことではないか。

 私はそのテレビを見終え、同席をしていた3人の女性(40代であろう)に「舛添さんの問題はテレビ中継されたが、安倍内閣不信任決議の国会中継は全くなかったというのもおかしいですね」と声を掛けて見た。それに対し「そうよね、おかしいですよね、しかし、皆さんの関心は舛添さんなのでしょう」との答えが返ってきた。つまりマスコミは視聴率なのである。

 それこそ「国内トップのカップル」の離婚劇からはじまり、再婚後の妻との私生活に公費が使われた。別荘に向かうのに公用車を使った。あるいは飛行機の座席が、宿泊ホテルのルームがということへの関心が、実は「国のあり方」をめぐる討論より優先するという国民の意識である。この事実を視聴率に結び付けて取り上げた民報。それに対し「不信任の可否討論」を国民に示すことを嫌った、自民党与党に忠実であったNHKの方針を読み取る必要があるのではないか。

 今、NHKの番組内容はますます「民放化」している。「食べる・遊ぶ・美容・ファッション・果てはアイドルの追跡」という企画が一杯である。さらには「事件報道」にしても「微に入り」にわたり、多くの時間を割いて数日間、しかもトップで報道する。それも良かろう。しかし、報じなければならない重要な問題は最後に「チョロット」と付け加える。この事実を見逃してはならない。そのことが衆議院中継を省略したNHKの姿勢と一致する。まさに「視聴率一辺倒」である。

 私は幸いにしてネット中継で国会審議を観ることができた。それ以外の国民は「蚊帳の外」であった。録画をすることもできなかった。だが国民の関心がそこにあらずとしても、その意識におもねるとするなら「NHKの姿勢」は問われなければならないだろう。

 時の権力、そして世論と対峙しながらも、マス・メディアは『いま』を語り、問い続けること、そして表現の自由の担い手として、市民の「知る権利」に応えていくことこそ問われなければならないのではなかろうか。ましてや国民の受信料で賄うNHKである。

 「内閣不信任の審議」と「東京都知事の醜聞」とそのどちらに天秤ばかりが触れるのか。その問いが今、私たちに掛けられているのではなかろうか。また、そのことへの回答を用意しなければならない。「民放の都議会中継とそれを見た3人の女性」の反応を受けて痛感した一コマであった。