あの頃は「腹が減っていた」、病床から「戦争の罪を思う」

2016-06-04 05:47:50 | 日記

   あの頃は「腹が減っていた」、病床から「戦争の罪を思う」

 

   戦後の数年、あの頃は腹が減っていた。学校の昼食時間になると決まって家に帰る者、また帰らずに校庭に出て行く者が数人いた。弁当を持ってこられない者である。幸いにして私は持参組であったが、その中身は、米粒はごく僅か、後は芋、大根そして菜類の「混ぜご飯」である。暖かいうちはまだ食べられた。しかし、冷めた中身は、空腹を満たすため無理に腹に押し込む以外、何ものでもなかった。

   また、当時は米を東京に運ぶ、いわゆる「闇屋」が横行した。東北線に乗り込み上野駅を目指すが、それを取り締まる警官とのせめぎ合いがあった。赤羽周辺に来ると警官が乗り込んでくる。闇屋は一斉に窓を開けて米袋を外に放り出す。それでも子供の背中にあるリックサックは見過ごしてくれた。物々交換が通用しなくなった事態の中ではやはり現金である。それを稼ぐために子どもも加わった。

   こんなこともあった。戦後3年頃と記憶をしている。家族で東京に出かけ、上野駅で時間待ちもあって路上に腰を下ろし「握り飯」を取り出し口に入れた。その時、私と同じ年齢であろう少年が私をじっと見つめている。そのわきには弟と妹がいた。空襲で親を失った兄弟であろう。そのような少年、少女は数えきれないほどいた。私は気にはなったもののそれを無視した。それは「決して同情をしてはならない、どこまでもついてくるから」という出発前の注意を守ったのである。

   あれから70年、年齢相応の幾つかの病名を頂くことになった。そして今般「内視鏡的粘膜下層剥離術」という治療を受けることになり10日間の入院を経験した。手術そのものは簡単でありあっという間に済んだが、4日間は何も口に入ることはできない。ただただ「点滴」の状態が続く。不思議なものである「腹は減らない」。不自由ではあるが病棟内を歩くこともできた。しかし、廊下を通る1日3回の配膳車と隣のベットから聞こえる箸、食器の上げ下ろしの音が無性に気になる。「腹は減らないが、目や耳は空腹」なのである。その時間になるとベットを離れ談話室のテレビの前に私はいた。その時に思い出したのがあの70年前の光景である。粗末なものであっても口にできた私は幸いであった。しかし、校庭の片隅で、その時を過ごしていた級友。そして上野で出会った3人の兄弟のその時の気持ちを思うと胸の痛みを覚える。

   僅か4日間、しかも発達した医療のお蔭で空腹感を味合うことのないにもかかわらず、ベットを離れてテレビの前にいた自分を考え「二度と経験をしてはならない時代」を振り返る、またと無い機会となった。

   私たちは、この70年間「戦場で人を殺し、殺されると」いうことをして来なかった。しかし、安倍内閣の勝手な憲法解釈の強行の下、「殺し合う戦場を日本国民が経験する危険」にさらされる法律が制定された。再び「親を戦場で失う子どもが生まれる」。

   「安倍首相が信を問う」と称する夏の参議院選。自・公の過半数の獲得を許さないとする私たちの結束をあらためて痛感した10日間であった。