解決が見えない「長い道のり」混乱と不安・そして対立

2015-03-11 15:52:47 | 日記

  解決が見えない「長い道のり」混乱と不安・そして対立

        「被災日3日後から発信続けたメールの綴り」

  東日本大震災・3月11日の3日後の14日から、メール友に「自分の今」を報告すべきと考え送信を続けたメールの一部である。「記憶は、時間の経過の中で薄れ、あるいは脚色してしまう場合が多い」。よって『記録として残す』ということが必要だという意図をもってメールを用いた。さらに、毎日のように繰り返す「余震」に、今後何があっても不思議ではないという切迫感もあった。そこで、今回の「3.11特集」にその一部を書き送ることにした。書き直しはしていない。

  3・14  原発災害は最悪・長期化は覚悟すべきだ

 1000年に一度とか、世界史上第四位の大災害と言われていますがひどく恐ろしい出来事です。犠牲者数は2万5000名を超えるのではないでしょうか。そこに原発災害です。第一・第二原発は合計10基です。1号機と3号機が水素爆発をしました。盛んに「容器は安全」だと主張していますが、これも史上はじめてのことであり、日本の原発技術からしてもマニュアルもノウハウもないと思います。

 「消せない火」となってしまいました。さらに2号機・4号機と続くことが考えられます。最悪の状態を覚悟しなければならないと思います。枝野官房長官も、国民のパニックを考慮しての発言と考えますが不明確です。

 政府は、現地住民に「安定ヨウ素剤」を使うなど、最悪の事態を覚悟しての対応をすべきです。 

 「部屋から出ない、窓を開けない、濡れたマスクで口を覆う」などの対策で済むものではないところまで行くと考えるべきです。また、経営の責任として、東電と原発メーカーのトップが現地で指導する姿があって良いはずです。それが企業の社会的責任と言うものでしょう。今朝、「社民党」の友人からメールが入った。今日、党本部に赴くが注文があるかというものでした。

 私は、最悪事態の対策を取らせること。そして避難してくる老人や乳幼児、病弱者などの弱者の避難先は、集会所などではなく、せめてホテルや旅館(今ガラガラです)などに収容すること。その金額は東電・東芝に持たせることくらいの注文をしてくださいと述べました。

 今また余震(震度4強)がきました。いつまで続くのか。これ以上の被害がないことを祈ります。それにしても恐ろしい現状です。第一原発には6基あります。1と3号機は爆発、そして2号機も時間の問題だと思います。最も恐れていたことが現実のものとなりました。

 避難者が郡山まで来ています。15万名の大移動です。まさに中東の日本版です。しかも、この「火が消せない・消す方法が知らない・マニアルもない」のです。 あってはならないことが現実のものとなってしまいました。

 政府は、最悪の対応に踏み切るべきです。住民のパニックを政府は恐れています。そして原発政策を否定することになることも恐れていると思います。

 加えて企業の責任です。東電・東芝のトップの姿勢です。頭を下げろと言っているのではありません。現地で、率先指導にあたるべきでしょう。東京にいる事態ではないということです。

 本日の毎日新聞の記事にありました。菅首相が「東電からの報告が遅い」との不満を述べたとの小さな記事です。これが企業の本性です。忘れてはならないことだと思います。

    3・17  津波からやっと逃れられたのに、今度は原発が命を奪う

 「津波から逃れられた命が、今奪われようとしている」ということです。原発から20キロメートルと、20~30キロメートルの線引きの問題です。60キロメートル離れた郡山にも避難者が来ています。そして身寄りの無い方は市内の集会場や学校の体育館が避難場所となっています。

 真冬並みの寒さです。ダンボールを敷いた上に毛布一枚です。とても暖がとれる状態ではありません。むすび一つを三人で分け合うというところもあると報道されています。

 どこでも「水と灯油」をと叫んでいます。

 南相馬市。ここは原発基地から20~30キロにあたります。そこは屋内退避地区です。「外に出るな、屋内に居ろ」です。ところが、医師をはじめとしてスタッフが避難し「医療機能を失った病院」が残りました。その中で残ったのが地元採用の看護師です。特別老人施設もそうです。地元の介護士が残りました。

 「換気はするな」と言うこともあってエヤコーンは使えません。オール電化の施設ですから灯油ストーブなどもありません。あったとしてもしばらく使っていないものが数台だけです。それでも集めました。しかし、灯油がありません。

 市長は訴えました。ようやくタンクローリーが来たのですが30キロ圏内には入ってこないのです。屋内退避地区だからです。運転手は被爆を恐れているからです。やむなく市長の努力で、運転士を確保しタンクローリーを取りに行ったというのです。

 また、手配ができたバスで圏外避難をしました。しかし、そのバスの中で死亡。避難所についたものの、またそこで死亡の確認。「ようやく津波から逃れた命が、そのあとで奪われている」のです。こんな悲しい、悔しいことがあって良いのでしょうか。

   

   3・24  「おにぎりトラック」が高速を走れない

 現地から言わせれば首都圏における買占めにはガマンがなりません。しかし、オイルシヨック時もそうですが、子どもがいればオムツ、ペットボトルとなります。学んだはずなのですがやむを得ないのかとも。それにしても災害支援の手続きをふんだ車輌は高速を走ることができます。しかし「おにぎりを積んだローソンのトラック走行」は許可されないのです。政治とは、法律とは、それで良いのか。ならば政治が「おにぎりの完全配付」に責任を持つべきです。指摘は幾つもあります。

 冒頭述べましたように、私はこの時に、この場で見たこと、考えたことをしっかりと記憶しておきたいと思っています。そして記録です。その意味で、郡山から全国の知人や友人に発信を続けています。そしてこの報告を、皆さんが自分の言葉で、皆さんの仲間に広めて欲しいと念じています。

    3・25  店頭から野菜が無くなりました

 第一報の時に書いたかと思いますが「死者2万5000名は超えるだろう」と。この予測は当たるどころか、大幅に超えることが考えられる状況になっております。加えて「津波でまぬがれた命が、今、避難先で絶つ」ということも連続して発生しています。そして原発の被爆です。本日の朝日新聞に掲載されていますが(私は朝日を取っていないのでネットで調べました)、それは、南相馬市(屋内退避圏)では生活ができなくなっているという実情です。当然です。外から生活物資が入らないのですから生活できません。

 方針を出した以上、その実情を検証すべきと、以前にも書きましたが改めて痛感しています。

 そして牛乳・野菜の汚染問題です。補償の問題などそれは先のことです。今、私たちが手に入れたいのは水、野菜、油です。郡山でも水の買い占めがはじまりました。店頭には品物がありません。市民の感情からすれば、行政がいかに説明し、要請しても、住民は店頭を走りまわります。そして在庫があるとなれば行列をつくります。

 そこで、今後はますます「西の産地」からの輸送を期待します。輸送ルートは、北陸道となるのでしょうが首都圏は大量消費地です。持っていけば、苦労少なく、大量にはぶける消費地である首都圏を業者は選びます。そこで業者は首都圏へと輸送ルートを変更します。関越道です。多分この指摘は当たっていると思います。

 津波の被害は、東北の太平洋ベルト地帯がもろに受けました。北からも、南からも入ってこない原発県福島は、「陸の孤島」と言っても過言ではありません。絶対に「首都圏まわし」だけはどうかやめて欲しい。政府は、検証と監視と統制を強めて欲しい。

 その中で、一つの明るいニュースが入りました。それは、3月26日に磐越西線が全線開通となります。よって新潟経由での貨物輸送が始まります。これは油の供給に結びつきます。

 「26日に郡山駅に到着、即、市内配送実現」と新聞は報じています。嬉しいの一言です。

  4.19  すべてを記憶し、記録に残したい

  今日は雨降りである。放射線量が一時は増加するだろう。その中で、雨に濡れながら作業をしている皆さんを見ると胸が痛む。作業者がこのことをどれほどの認識をしているかはわからない。仮に知っていても、その仕事を職業としている限り休むわけにはいかないのも現実である。

  しかし、事業主の責任は無いのか。事業主は従業員の安全と健康を守ることは「法」によっても義務付けられている。危険業務への制限、保護具の整備と着用、年一回の健康診断の実施など。ならばこの時期、被ばく対策の防護合羽の着用などの配慮義務はあるべきだろう。

  この事業主の責任のサボりの最たるものは「世界の東電」である。

  線量計を携帯させないで汚染現場の作業を指示したのである。このことはすでに述べたことであるが、またしても大変なことをやってのけたのである。

  それは、作業員の放射線管理手帳に線量の記載をしなかったということである。作業員の被爆線量は、法により5年間で100ミリシーベルト、1年間で50ミリシーベルト内に抑えることが定められている。ところが今回の作業に当たっては特別枠として250ミリに上げられた。

  第一原発の防災、修復作業にかかわった労働者の被爆線量記録を手帳に記入するのだが、その積算数値が法の制限を超えれば、今後は、別な原発現場では働けない作業者が出てくることになる。忘れたのであればまだ許せる。しかしこの労働者の弱みを逆手にとって、管理者は手帳に記録しなかったのである。現場の下請け作業員は、元請の東電社員から「心配するな、今回浴びた線量は手帳には載らないから」と言われたとある。そのことが4.21の新聞記事〈毎日〉により明るみに出た。

  そして驚くべきことがさらにあった。重複するが、今回の原発災害に対し、原子力管理の内閣府の機関である「原子力安全委員会の現地派遣」がなかったこと。それだけではない「委員会の招集」もなかったということである。

  さらに原発20㌔範囲の放射能測定記録の公表を住民が求めていたことに対し、東電が3月末に測定し、その結果を4月1日文科省に提出している。文科省はそれを受け取りつつも、検討中ということで今もって公表していないと言う事実。「何をか言わんやである」。 

  国会論議でそうである。質問に立つ議員のほとんどが「首相の初動行動」についてくどくどと、そして声高に詰問している。私はテレビを見ていて「馬鹿野郎、いつまで言い続けているのか。それよりも討論しなければならないことが山ほどあるだろう」がと叫んでいた。「浜岡原発」の建設はまず完全に中断させなければならない。最大危険岩盤の上に存在しているのである。青森「大間」もそうだ。

 何故、そのような討論に発展させられないのか。

   4・23  メールの発信を終える

 災害発生時の二日後から続けたメール発信は4月19日をもって一旦終了した。前記したように私にやれることは何かの問いに対する自分の答えであった。今にして思えば、なんと浅い受け止め方をしたものと恥じる部分もある。しかし、どこまでも記憶ではなく、記録に徹したいと考えてのメールの発信であった。

 さて、文言の中で何回か次の言葉を使っている。

 「燃やしてはならない、消せない火を私たちは使ってしまった」と。

 人類が「言葉と火」を使うことによって初めて『人間』となり、あらゆる生物を支配する立場にたったという逸話がある。

 支配者となった人間の傲慢は、言葉をたくみに使い、火を支配することによって人間同士の殺戮である戦争を繰り広げてきた。しかし、それでも飽き足らず「消せない火」である核をつくり、燃やした。その火は広島・長崎の地で炸裂し、十数万の人命を奪い、今なおその影響に苦しんでいる。

 その火はアメリカのスリーマイル島とソ連のチェルノブイリの原発災害を生み、そして今、ちっぽけな「日本島」で抜き差しならぬ不安と痛みを消せないでいる。

 日本の未曾有な経済成長は、エネルギー政策によることが大であった。そのエネルギーは原発を主体としたものであることは誰もが認めるところであろう。また、「原発を否とする者が、自分の生活も含めて、原発エネルギー〈電力〉に頼らないだけの生き方をしてきたであろうか。そして電化万能の生産社会の中で選択の余地の無いとしても、それに頼らない生活改善にどれだけの工夫と努力をしてきたであろうか。むしろ、いつの間にかその電化万能を「容認」してきたことは事実ではないか。

 だから、私も含め「私たちは」という表現を使った。

 もちろん原発の危険性を知ることの学習もしてきたし、「反原発」の行動もそれなりに展開してきた。しかし今、具体的事実を目の前にして驚き、たじろぎ、そして逃げ惑う姿も事実である。だからこそ、今を生きている者の責任としてこの事実をしっかりと記憶に残すことが必要であると言いたい。

 実現しなければならない廃炉への道は長く、また危険が伴うであろう。それを見極めたいが、私も、そして今を生きる4割の国民も、その終わりの姿を見ることはできない。

 おわりに、あらためて「原発廃炉」を考えたい。

 その例示としては、1979年3月に発生したアメリカ・スリースマイル原発の廃炉の記録をたどることが望ましいと思う。スリースマイルも燃料は溶解したが幸いにして炉内にとどまった。その塊は80トンである。それを取り出すのに5年の年月を要したという。そして3500キロ離れた砂漠の中に建設されたコンクリート保管庫で厳重に管理されている。しかし、最終処分場は未だ決定していない。しかも今なお原発の解体は完了していない。

 ところが福島原発は3基である。溶解した塊270トン。しかもすべてが炉を突き破っていると想定されている。この塊の取り出しに何年かかるだろうか。そして、全ての燃料棒の取り出しと解体。高レベル廃棄物の一時保管。この解決を見るには40年ともいやそれ以上とも解説されている。まさに「先が見えない」。それだけ長期にわたるものであり、かつ膨大な費用と大きな犠牲をともなう作業となることを覚悟しなければならない。

 「人間がコントロールできないものを、私たちは生み出してしまった」。

 「いやいやそれは違う。原発の建設と稼働は国策であり、国、東電の責任だ。私たちの責任ではない」と。もちろん、責任の追及は緩めてはならない。しかし、それで済むのだろうか。

 私の意識の中では、今後もこの問いを続けることになるだろう。

  「エピローグ」

 「国道6号線を仙台に向かう右側に、巨大なセメントの山が10個ある。風雪に晒されたその山は灰色に汚れ。一部ひび割れも生じている。異様な光景である。ボタ山であればいつかは緑が茂る。しかしコンクリートはコンクリートのままである」。