しばらくはさらば ニッポンノフレンチ・・・・・・・・・・・・・・
と思っていた(思い込んでいた)矢先に謹賀新年、夢枕にご啓示があった
東京最高峰、銀座でのキチンとした(笑)フレンチ体験が未完であったこと。
古今、銀座には名だたるシェフが腕を競おうと挑む、また引き寄せる風土がある。
ロオジェ、アシピウス、レカン、レカイヨ、シェ・トモ・レディザン・トトキ、レ・ロジェ・エギュスキュロール、タテルヨシノ、シェ・イノウエ、マノアールダスティン、ベージュ・アランデュカス、
ナキジン、ラール・エ・ラ・マニエール、ラ・トゥール、ル・デルジャン・デサヴール、ドミニク・ブーシェ、
綺羅星の中から選びに選んだ、というより実は他には眼中になく、スウッ~と入ってきたのがエスキス、1軒だけ選ぶのならここしかないでしょう、と断言しておく。
東京ナンバー1(自分のなかではだけど、もちろんこれを証明する自負もあり)の西新宿キュイジーヌ・[s]・ミッシェル・トロワグロから独立したリオネル・ベガ
彼がグランシェフを努めるレストランだ。
銀座でフレンチ、自分史の30年をも邂逅するささやかな旅――――
今でも夢にみることがある。
秋も深まったある日、受験を控えている身ながら、何の準備も心構えもないことに驚愕して目覚める、という夢だ。
目覚めて狼狽えながら浮世をうつつした過ぎ去った日々を取り返しがつかないと後悔しながら暗澹たる思いをするという、目覚めてもなお夢のなかにいる心地悪さ。
本当に目覚めてから、そのときいつも頭をよぎるのは受験よりももっと大きな人生の岐路についてだ。
あのとき、別の選択をしていたら―――?
大学4年生になってなお、まわりの誰しも級友たちが就職活動のさなかにありながら私は何もせずにいた。
明日の準備より今の快楽を優先するという抜けきれない性分をいまだに抱えている。
東京の空の下、私は食べて飲んで恋をして、ときどき旅に出て、そんな日々を謳歌していた。
お金のほんとんどを洋服と趣味の本と音楽と食事と酒に費やしていた。
就職活動はおろか、それまでほとんどの講義にまともに顔をださないままいた私が、あろうことか土曜日に新設された第三外国語ともいうべき自由受講のイタリア語講座に嬉々として通い始めていた。
講師の教授は普段はフランス語講義をしていたが、ロシア語とロシア文学の大家である父をもち、彼に反発してイタリア語を専門の道に歩んだということを伝え聞いていたが、教授自身は飄々として穏やかでとても好感のもてる講義っぷりだった。
土曜日の第三外国語にまで顔をだす奇特な学生は多いはずがなく最初の講義に7名ほど、5月の連休明けには4人ほどに減っていた。
そのなかのひとりに目を奪われるとても可愛いらしいひとがいた。
とても華奢で目が大きく、眉毛のラインが自然に美しく、睫毛の長い娘さんだった。
あとから大学の複数のひとから聞いた話だが、彼女は学年で1・2位を争う美人と評判だったらしい。
当時、私にはちょうどつきあい始めた子がいて、心の中にわずかながら葛藤があったが、私は彼女と近づきになれたことを素直に喜んだ。
土曜日の正午前、渋谷駅までの帰り道は同じ方向だし、他に寄ることもなければふたりは当然一緒になることが多い。
始めて声を交わしたとき、「なんでイタリア語を?」の問いかけに「今年、生協の研修旅行でヨーロッパを巡ったが、イタリアに感動したから」だという。
なんと驚いたことに理由が全く私と一緒ではないか。
かくいう私は、昨年、彼女と同じ研修旅行に参加し、それまで夢見ていた、スイス・ベルナーオーバーラント・グリンデルワルドの地にたてたことに感激しながらも一番お気に入りの国になったのがイタリアだった。
帰国してからというものの、今からしてみれば滑稽なほどのイタリアかぶれになり、音楽はイタリアンポップスやオペラ、洋服はイタリアのブランド物、ワインはまずはキャンティ、バローロ、バルバレスコ、食べ物も断然イタリアン。
図書館に通ってはイタリア文学、歴史、紀行、建築、デザイン、イタリア関連のものなら何でも読み漁った。
イタリア語のご縁で知り合った彼女は、偶然と必然と当然が重なり合った出会いだと確信した。
私はその引き寄せられるくらい大きな瞳の彼女に魅せられ、彼女を選ぶことを心に決めた。
彼女もまんざらではなかったらしく、2回・3回と渋谷駅や山手線外回りに乗って別れる、というパターンから自然と進化したデートに移行していった。
「土曜だし、ね」とはじめて明治通りを歩き、当時フランスデザイナーが設計した流行の先端をいく話題のカフェでお茶をし(ミス・ティークというカフェバーだった)。
やがて、銀座にでかけ映画を観たり、街を散策したり、夜食事をともにするようになっていた。
夏のさなかになっても、なお就職活動などとんとしない私は、彼女と申し合わせ、私は帰省先から彼女は東京からという逢瀬を京都で敢行した。彼女のすべてが世界で、世界のすべては彼女だった。
彼女とはほんとに趣味があった。というより私と一卵双生児のようだった。
イタリアが大好きで、音楽はブリテッシュポップスで、でも最近はクラシックがよくて、アメリカやフランスの古きよき時代の名画を観るのが好きで、青山界隈や銀座界隈を散策するのが好きで、食べ物は断然イタリアン、でも新婚旅行に行くのは断然ギリシア。
そんなふたりは10月の声を聴き始めた頃には自他共に認める恋人関係になっていて、毎日のように一日中デートをした。何処へでかけようともたいていの夜はことあるごとに銀座にでていた。
パスタ屋やイタリア料理の店をどんどん開拓していった。
サバテーニ・ディ・フィレンツエ、リストランテ・フレスコ、リトルイタリー、カルトッチョ、カプリチョーザ、シシリア、スケベニンゲン、レナウン・ミラノ、アルフォンソ、
カプリ、イタリー亭、タベルナ・アリベデルチ、青の洞窟、パパ・ミラノ、ヴォーノ・ォーノ・・・・・・・・・・・エトセトラ、銀座だけでもまだまだある。
イタリアワインを飲んで、そのあとバーやカフェに寄って、決まってふたりはガス灯通りや金春通り、西五番街通り、すずらん通りを8丁目まで歩き、新橋駅を横目に大門まで歩いた。
必ず芝公園に立ち寄り、東京タワーのイルミネーションの下で接吻し抱擁を交わした。
浜松町駅まで歩き京浜東北線に乗って大井町で別れるはずが、いつも鶴見まで見送った。
やがて訪れる離別のきっかけは私が一方的につくり、別れは彼女からつきつけられた。
もうすぐ一年記念日を間近にしながら、お互い硬い覚悟があったはずなのに、そのときは四国と横浜という距離にいかんとも埋めがたいものがあったのだ。
私にとって銀座はそんな青春の芳醇でかつほろ苦い思い出が、充満しそうなくらいたくさん詰まった「物語」の街だ。
あのときもしああだったら、別の選択をしていたら、別の道を歩んでいたら、そんな人生には実は無いに等しいことかもしれない、それでもあのとき私が岐路に立った時、別の選択をしていたらという忸怩たる想いに、あの寝起きの悪い夢から目覚めた時に走馬灯のとうによぎることと重なり合うのが彼女と数々の逢瀬だ。
銀座で長女とフレンチレストランをともにした後、はやくも西日が差す並木通りを歩き、これからキャリーパミュパミュのコンサートに横浜アリーナまで行くという長女を新橋駅まで見送った。
長女が銀座口の改札を通る後ろ姿にはたと気づいた。
長女は高知の大学に今年進学し、勉学に励みながらもアルバイトをして父親譲りで大好きな東京に格安飛行機で成田まででてきた。
帰りは四国まで夜行バスという強行軍だ。
レストランでソムリエにそのことを話すと「まぁ、今だからこその経験でしょね」と軽く相槌を打たれた。
私は先月、二女と東京を遊んだばかりだったので長女のことも気にはかけており、今回別便で追いかけるように上京し、「お昼ごはんだけでも」と落ち合うこととした。
彼女は昨夜は駒場のカプセルホテルだったが、予定を変えさせ、私の宿パレスホテルへ招き寄せた。
前日、キングサイズからツインに慌てて変更もした。
そして、明日はまたふたりで銀座でお鮨だ。
新橋駅銀座口改札――――。
彼女の後姿を見送りながら頭を鈍器で打たれたような衝撃が走った。
私は長女のことを何も知らないままでいる。
そして、あのとき愛してやまなかった彼女のこともまるで何も知らないままでいることに。
そんな女性の思い出を重ね、長女と明日を奏でたエスキス
~~~~~~~~HPより~~~~~~~~~~~~~~~~~~
料理人は何よりまず職人(アルチザン)です。素描(エスキス)という手法を使って料理を創作しますが、料理は“ 決定的な作品” にはなりません。
料理人のアイデアひとつひとつが味というはかない形を取るものです。それは私たち料理人の感情やインスピレーション、欲求や情熱が、ある瞬間現れたもの…。
ひと皿が生まれるとき、それは終わりのない道の過程でしかありません。
日本は肥沃な土壌とそのまわりを囲む豊かな海に恵まれています。そこに住む人々は発想が豊かで魅力にあふれています。どんなシェフでも自分を表現するため、最高のキャンバスをそこに広げたいと思います。
すべてがスピードアップして、画一的になり、自然な形から遠くなる一方の現代社会。今私たちに必要なことは、本質的な行動に戻ること、本当に必要なもの、シンプルな生の喜びに回帰することではないでしょうか?
料理は80 万年前に生まれました。人類が火を発見し、それを使うことを習得した時にさかのぼります。食物は火を通す方が身体に消化されやすいということが本能的に分かったからです。そしてそのとき初めて5つめの感覚、すなわち“ 味覚” が呼び覚まされました。以来、食物に栄養を求めるとき、同時に味覚的な欲求や満足を求めるようになったのです。
おいしいものを食べて健康を保つことを求める、このシンプル極まりない関係、美味しい喜びと健康は同一であることを皆様と分かち合いたいと願っています。
リオネル・ベカ
Lionel Beccat
Mシンボルマークに込められた想いESqUISSE(エスキス)
東京都中央区銀座5丁目4-6ロイヤルクリスタル銀座9F
Royal Crystal Ginza 9F 5-4-6 GINZA, TOKYO
TEL03-5537-558
0Lunch12:00~13:00(L.O.)
Dinner18:00~20:30(L.O.)
Closed Sunday.
開けたワインはこちら
シャサーニュ・モンラッシェ マルキ ド ラlギッシュ 2006
プルミエ・クリュの中でも高い評価を得ているモルジョ。その畑を最も長く、現在まで受け継いできたラギッシュ公爵家の葡萄を用いている。泥灰土と石灰岩質土壌、グイヨ仕立て(19世紀後半にフランス人科学者ジュール・グイヨが開発した垣根仕立ての一種)で、1ha当たりの収量は52hリットル。フレンチオーク樽(新樽率20%)で12カ月の熟成を施した。
色調はグリーンを含む、やや濃いイエロー。香りは芳醇かつ華やかで、かりんや洋梨のコンフィ、黄色の花に、トースト香やナッツ、発酵バター、ブリオッシュ、ミネラル、白い土や白いきのこなどの香りが調和。まろやかでふくよかな果実味が広がり、酸味は溶け込んでバランスがよい。余韻は非常に長い。
と思っていた(思い込んでいた)矢先に謹賀新年、夢枕にご啓示があった
東京最高峰、銀座でのキチンとした(笑)フレンチ体験が未完であったこと。
古今、銀座には名だたるシェフが腕を競おうと挑む、また引き寄せる風土がある。
ロオジェ、アシピウス、レカン、レカイヨ、シェ・トモ・レディザン・トトキ、レ・ロジェ・エギュスキュロール、タテルヨシノ、シェ・イノウエ、マノアールダスティン、ベージュ・アランデュカス、
ナキジン、ラール・エ・ラ・マニエール、ラ・トゥール、ル・デルジャン・デサヴール、ドミニク・ブーシェ、
綺羅星の中から選びに選んだ、というより実は他には眼中になく、スウッ~と入ってきたのがエスキス、1軒だけ選ぶのならここしかないでしょう、と断言しておく。
東京ナンバー1(自分のなかではだけど、もちろんこれを証明する自負もあり)の西新宿キュイジーヌ・[s]・ミッシェル・トロワグロから独立したリオネル・ベガ
彼がグランシェフを努めるレストランだ。
銀座でフレンチ、自分史の30年をも邂逅するささやかな旅――――
今でも夢にみることがある。
秋も深まったある日、受験を控えている身ながら、何の準備も心構えもないことに驚愕して目覚める、という夢だ。
目覚めて狼狽えながら浮世をうつつした過ぎ去った日々を取り返しがつかないと後悔しながら暗澹たる思いをするという、目覚めてもなお夢のなかにいる心地悪さ。
本当に目覚めてから、そのときいつも頭をよぎるのは受験よりももっと大きな人生の岐路についてだ。
あのとき、別の選択をしていたら―――?
大学4年生になってなお、まわりの誰しも級友たちが就職活動のさなかにありながら私は何もせずにいた。
明日の準備より今の快楽を優先するという抜けきれない性分をいまだに抱えている。
東京の空の下、私は食べて飲んで恋をして、ときどき旅に出て、そんな日々を謳歌していた。
お金のほんとんどを洋服と趣味の本と音楽と食事と酒に費やしていた。
就職活動はおろか、それまでほとんどの講義にまともに顔をださないままいた私が、あろうことか土曜日に新設された第三外国語ともいうべき自由受講のイタリア語講座に嬉々として通い始めていた。
講師の教授は普段はフランス語講義をしていたが、ロシア語とロシア文学の大家である父をもち、彼に反発してイタリア語を専門の道に歩んだということを伝え聞いていたが、教授自身は飄々として穏やかでとても好感のもてる講義っぷりだった。
土曜日の第三外国語にまで顔をだす奇特な学生は多いはずがなく最初の講義に7名ほど、5月の連休明けには4人ほどに減っていた。
そのなかのひとりに目を奪われるとても可愛いらしいひとがいた。
とても華奢で目が大きく、眉毛のラインが自然に美しく、睫毛の長い娘さんだった。
あとから大学の複数のひとから聞いた話だが、彼女は学年で1・2位を争う美人と評判だったらしい。
当時、私にはちょうどつきあい始めた子がいて、心の中にわずかながら葛藤があったが、私は彼女と近づきになれたことを素直に喜んだ。
土曜日の正午前、渋谷駅までの帰り道は同じ方向だし、他に寄ることもなければふたりは当然一緒になることが多い。
始めて声を交わしたとき、「なんでイタリア語を?」の問いかけに「今年、生協の研修旅行でヨーロッパを巡ったが、イタリアに感動したから」だという。
なんと驚いたことに理由が全く私と一緒ではないか。
かくいう私は、昨年、彼女と同じ研修旅行に参加し、それまで夢見ていた、スイス・ベルナーオーバーラント・グリンデルワルドの地にたてたことに感激しながらも一番お気に入りの国になったのがイタリアだった。
帰国してからというものの、今からしてみれば滑稽なほどのイタリアかぶれになり、音楽はイタリアンポップスやオペラ、洋服はイタリアのブランド物、ワインはまずはキャンティ、バローロ、バルバレスコ、食べ物も断然イタリアン。
図書館に通ってはイタリア文学、歴史、紀行、建築、デザイン、イタリア関連のものなら何でも読み漁った。
イタリア語のご縁で知り合った彼女は、偶然と必然と当然が重なり合った出会いだと確信した。
私はその引き寄せられるくらい大きな瞳の彼女に魅せられ、彼女を選ぶことを心に決めた。
彼女もまんざらではなかったらしく、2回・3回と渋谷駅や山手線外回りに乗って別れる、というパターンから自然と進化したデートに移行していった。
「土曜だし、ね」とはじめて明治通りを歩き、当時フランスデザイナーが設計した流行の先端をいく話題のカフェでお茶をし(ミス・ティークというカフェバーだった)。
やがて、銀座にでかけ映画を観たり、街を散策したり、夜食事をともにするようになっていた。
夏のさなかになっても、なお就職活動などとんとしない私は、彼女と申し合わせ、私は帰省先から彼女は東京からという逢瀬を京都で敢行した。彼女のすべてが世界で、世界のすべては彼女だった。
彼女とはほんとに趣味があった。というより私と一卵双生児のようだった。
イタリアが大好きで、音楽はブリテッシュポップスで、でも最近はクラシックがよくて、アメリカやフランスの古きよき時代の名画を観るのが好きで、青山界隈や銀座界隈を散策するのが好きで、食べ物は断然イタリアン、でも新婚旅行に行くのは断然ギリシア。
そんなふたりは10月の声を聴き始めた頃には自他共に認める恋人関係になっていて、毎日のように一日中デートをした。何処へでかけようともたいていの夜はことあるごとに銀座にでていた。
パスタ屋やイタリア料理の店をどんどん開拓していった。
サバテーニ・ディ・フィレンツエ、リストランテ・フレスコ、リトルイタリー、カルトッチョ、カプリチョーザ、シシリア、スケベニンゲン、レナウン・ミラノ、アルフォンソ、
カプリ、イタリー亭、タベルナ・アリベデルチ、青の洞窟、パパ・ミラノ、ヴォーノ・ォーノ・・・・・・・・・・・エトセトラ、銀座だけでもまだまだある。
イタリアワインを飲んで、そのあとバーやカフェに寄って、決まってふたりはガス灯通りや金春通り、西五番街通り、すずらん通りを8丁目まで歩き、新橋駅を横目に大門まで歩いた。
必ず芝公園に立ち寄り、東京タワーのイルミネーションの下で接吻し抱擁を交わした。
浜松町駅まで歩き京浜東北線に乗って大井町で別れるはずが、いつも鶴見まで見送った。
やがて訪れる離別のきっかけは私が一方的につくり、別れは彼女からつきつけられた。
もうすぐ一年記念日を間近にしながら、お互い硬い覚悟があったはずなのに、そのときは四国と横浜という距離にいかんとも埋めがたいものがあったのだ。
私にとって銀座はそんな青春の芳醇でかつほろ苦い思い出が、充満しそうなくらいたくさん詰まった「物語」の街だ。
あのときもしああだったら、別の選択をしていたら、別の道を歩んでいたら、そんな人生には実は無いに等しいことかもしれない、それでもあのとき私が岐路に立った時、別の選択をしていたらという忸怩たる想いに、あの寝起きの悪い夢から目覚めた時に走馬灯のとうによぎることと重なり合うのが彼女と数々の逢瀬だ。
銀座で長女とフレンチレストランをともにした後、はやくも西日が差す並木通りを歩き、これからキャリーパミュパミュのコンサートに横浜アリーナまで行くという長女を新橋駅まで見送った。
長女が銀座口の改札を通る後ろ姿にはたと気づいた。
長女は高知の大学に今年進学し、勉学に励みながらもアルバイトをして父親譲りで大好きな東京に格安飛行機で成田まででてきた。
帰りは四国まで夜行バスという強行軍だ。
レストランでソムリエにそのことを話すと「まぁ、今だからこその経験でしょね」と軽く相槌を打たれた。
私は先月、二女と東京を遊んだばかりだったので長女のことも気にはかけており、今回別便で追いかけるように上京し、「お昼ごはんだけでも」と落ち合うこととした。
彼女は昨夜は駒場のカプセルホテルだったが、予定を変えさせ、私の宿パレスホテルへ招き寄せた。
前日、キングサイズからツインに慌てて変更もした。
そして、明日はまたふたりで銀座でお鮨だ。
新橋駅銀座口改札――――。
彼女の後姿を見送りながら頭を鈍器で打たれたような衝撃が走った。
私は長女のことを何も知らないままでいる。
そして、あのとき愛してやまなかった彼女のこともまるで何も知らないままでいることに。
そんな女性の思い出を重ね、長女と明日を奏でたエスキス
~~~~~~~~HPより~~~~~~~~~~~~~~~~~~
料理人は何よりまず職人(アルチザン)です。素描(エスキス)という手法を使って料理を創作しますが、料理は“ 決定的な作品” にはなりません。
料理人のアイデアひとつひとつが味というはかない形を取るものです。それは私たち料理人の感情やインスピレーション、欲求や情熱が、ある瞬間現れたもの…。
ひと皿が生まれるとき、それは終わりのない道の過程でしかありません。
日本は肥沃な土壌とそのまわりを囲む豊かな海に恵まれています。そこに住む人々は発想が豊かで魅力にあふれています。どんなシェフでも自分を表現するため、最高のキャンバスをそこに広げたいと思います。
すべてがスピードアップして、画一的になり、自然な形から遠くなる一方の現代社会。今私たちに必要なことは、本質的な行動に戻ること、本当に必要なもの、シンプルな生の喜びに回帰することではないでしょうか?
料理は80 万年前に生まれました。人類が火を発見し、それを使うことを習得した時にさかのぼります。食物は火を通す方が身体に消化されやすいということが本能的に分かったからです。そしてそのとき初めて5つめの感覚、すなわち“ 味覚” が呼び覚まされました。以来、食物に栄養を求めるとき、同時に味覚的な欲求や満足を求めるようになったのです。
おいしいものを食べて健康を保つことを求める、このシンプル極まりない関係、美味しい喜びと健康は同一であることを皆様と分かち合いたいと願っています。
リオネル・ベカ
Lionel Beccat
Mシンボルマークに込められた想いESqUISSE(エスキス)
東京都中央区銀座5丁目4-6ロイヤルクリスタル銀座9F
Royal Crystal Ginza 9F 5-4-6 GINZA, TOKYO
TEL03-5537-558
0Lunch12:00~13:00(L.O.)
Dinner18:00~20:30(L.O.)
Closed Sunday.
開けたワインはこちら
シャサーニュ・モンラッシェ マルキ ド ラlギッシュ 2006
プルミエ・クリュの中でも高い評価を得ているモルジョ。その畑を最も長く、現在まで受け継いできたラギッシュ公爵家の葡萄を用いている。泥灰土と石灰岩質土壌、グイヨ仕立て(19世紀後半にフランス人科学者ジュール・グイヨが開発した垣根仕立ての一種)で、1ha当たりの収量は52hリットル。フレンチオーク樽(新樽率20%)で12カ月の熟成を施した。
色調はグリーンを含む、やや濃いイエロー。香りは芳醇かつ華やかで、かりんや洋梨のコンフィ、黄色の花に、トースト香やナッツ、発酵バター、ブリオッシュ、ミネラル、白い土や白いきのこなどの香りが調和。まろやかでふくよかな果実味が広がり、酸味は溶け込んでバランスがよい。余韻は非常に長い。