語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【アラン】デカルト讃/デカルト礼讃 ~小林秀雄訳と中村雄二郎訳~

2017年08月11日 | 批評・思想
(1)小林秀雄訳
 デカルトを理解するために僕らに不足しているものは、常に知恵である。見たところ明瞭で、模倣も容易なら反駁も容易なようだ。しかも、いたるところほとんど底のしれない感じだ。おそらくだれもこれほどみごとに、おのれのために思いをこらしたものはなかった。あんまり孤独すぎるかもしれない。語っているときの彼はことに孤独だ。彼の言葉は、なにごとも吹聴しない、世のならわしどおりの言葉だ。デカルトは、自分の宗教も情熱も性癖も、ただ一つの言葉さえつくりだしはしなかったが、そういうものはみな一体となって、すべて内からの光に照らされ、あの癖のない自然な言葉に乗って僕らに伝わる。言葉の意味を変えるどころか、一語一語のすべての意味を同時に悟った。人間が当然すべきことをしたまでだ。『メディタシオン』の神は、信心深い女たちの神だった。ロレットに行くように、『感情論』を書いた。あの有名な夜の天啓は、奇跡でありまた彼の思想だ。デカルトはここにいる、どこにでもいる、分割できない全体だ。自己にあれほど即して哲学の仕事をした人はなかった。感情はなにものも失わず思想となる。そこに全人間が現れ、読者はおのれの姿を見失う。それ以上のことを、この疑いぶかい目は約束しない。いんぎんには対してくれるが、勇気をつけてはくれない。そこから、革命を否認する、軽蔑を浮かべた、この保守的な精神を理解しなければならない。若いころの自分のなにものも否定はしなかったのだから。組織の革命はしなかったが、革命もなく、新しい道もなく、精神のうちで、すべてを改変したのだから。
 整然と思索して、ひとたび思想と延長を区別したら、もはやどんな混乱も困難も恐れなかった。すべては、持ち場持ち場におくりかえされた。魂を精神のうちに確保して、物の手にゆだねない、そのかわり、あらゆる運動は、延長をもった物の手に回送され、あらゆる情熱は、おそろしいものだが、結局限定された扱いうる物として、肉体のなかに投げこまれる。読者がとやかく考えをめぐらすまでもなく、これでことはかたづく。動物機械論者ではさっぱりかたづきはしない。他のいろいろなことについて常識を容易に満足させていると同じ理由から、動物機械論者は常識の満足しているところに反抗しているのだ。なぜかというと、動物機械論者は、常にあいまいな瑣細な分別にとどまって、デカルトの場合は、やはり同じことを一段と声を大きくしてくりかえしているにすぎない、ということを理解しないからだ。彼はくりかえす、どんな物にも部分と運動があるだけだ、すべては部分と運動の上に展開されていて、拾いあげた神秘もなければ、希望とか傾向とか、力とかよべばよびたいような思想の胚芽もない。すべての運動はただ機械的なものであり、すべての物質はただ幾何学的なものである。だから主人の顔をしている犬の運動などを気にしてはならぬ、それどころか怒りとか欲とか憎悪とかいう人間の情熱も、思想や理知をはるかにじょうずにまねしているではないか、情熱のなかには、判断も認識も証明もなく、ただ身ぶりと音とがあるだけなのだから、情熱のおもむくがままにまかせるのは狂人だが、動物が思索するなど、かりにも口にだすな、たとえば、自分が描いた三角形を前にして、夢想する犬というような唯一の証拠が、全然欠けているではないか、と。この犬の注意がためになるような人間もかなりいることだろう。デカルトの肖像が、あまり期待もせずに人々の理解を待ってから、やがて三世紀になる。

□アラン(小林秀雄訳)『精神と情熱とに関する八十一章』(創元ライブラリ、1997)の第2部第6章「デカルト讃」を引用

 *

(2)中村雄二郎訳
 デカルトを理解するにあたって、われわれにいつも欠けているのは知性である。見かけはしばしば明瞭だし、やり方は従うことも容易ならば、反駁することも容易だ。が、至るところほとんど底が知れない。おそらくだれも、自分のためにこれほどみごとに考察したものはなかった。だが、あまり孤独すぎるかもしれない。語っているときでさえ孤独だ。彼の言葉はなんら警告がましいことは言わない。それは慣習どおりのものだ。デカルトは、言葉のひとつもつくらなかったし、自分の宗教も、自分の情念も、自分の気質もつくりなおさなかった。これらすべてがひとつになって、内側から照らされ、ごく自然な言葉によってわれわれにもたらされる。彼は、言葉の意味を変えるどころか、ひとつひとつの言葉のすべての意味を同時に理解した。これこそ人間としてなすべきことだ。『省察』の神は、善良な女たちの神だった。彼は、ロレット詣りをしたように、
『情念論』を書いた。あの有名な夜の啓示は、一個の奇蹟であり、彼の思想だ。デカルトはここでも、どこをとっても分割できない全体だ。彼ほど自分の身近で哲学したものはいなかった。感情が、なにものも失わずに思想になる。デカルトという人間の全体がそこにあらわれ、読者はわれを忘れる。彼の暗いまなざしはそれ以上のことを約束しない。彼は丁重ではあるが、ほとんど勇気づけてくれない。そこから、革命から身を守る保守的で孤高なこの精神を理解しなければならない。彼は若い自分をなんら否定せずに、すべてを変革した。ただし、それは外的構築物のなかにおいてではなく、ただ精神のなかにおいてであった。革命も、新しい町の建設も、精神の変革であった。
 ひとたび順序立てて、思考と延長とを区別しようと考えたら、それからはいかなる混乱も、いかなる困難も恐れなかった。すべては本来の場所に送りかえされた。魂はすべての精神のうちにおかれ、物の手にゆだねられることはない。そのかわり、あらゆる運動は、延長をもった物へ送りかえされ、あらゆる情念は、恐るべき、しかし操作しうる有限な物として、肉体のなかに投げこまれる。だが、これらすべては、読者があまり考えすぎなければ、うまくいく。ところが、動物機械のほうは全然うまくいかない。他のことについて容易に常識を満足させているまさにその理由によって、読者はそれに反対するのだ。というのは、読者は、つねに議論の余地があるささいな理由にこだわって、著者がここでも同じことを、しかしいっそう強く繰りかえしていることがわからないからである。すなわち、いかなる物のなかにも、あるのは部分と運動だけであり、すべてはその上に展開されて、いかなる神秘も拾いあげられず、欲求だの、傾向だの、力だのといった思考の萌芽もない。すべての運動はただ機械的なものであり、あらゆる物体はただ幾何学的なものである。したがって、主人に感謝している犬の動きなどに足をとどめてはいけない。さらに、怒りだとか、羨望だとか、憎しみだとかいった人間のさまざまな情念は、思考や推論をはるかにじょうずにまねしている。もっとも、情念のなかには判断も認識も証明もなく、あるのはただ身ぶりと物音だけだから、情念に身をまかせ。、われを忘れるのは狂人である。だから、動物がものを考えるなどとは絶対言ってはならぬ。犬が、自分の描いた三角形を見てとくと考えている。などといった証拠が、まったく欠けているのだから。この用心が役立つ人間はかなりいるのではなかろうか。ところが、デカルトの肖像が、人々の理解をあまり期待もせずに待ってから、まもなく三世紀になる。

□アラン(中村雄二郎・訳)『哲学講義』(白水社、2012)の第2部第10章「デカルト礼讃」を引用

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