語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【社会哲学】格差社会における「承認の欠如」 ~第三世代のフランクフルト学派~

2016年11月08日 | 批評・思想
 
 はじめに
 第1章 社会研究所の創設と初期ホルクハイマーの思想
 第2章 「批判理論」の成立--初期のフロムとホルクハイマー
 第3章 亡命のなかで紡がれた思想--ベンヤミン
 第4章 『啓蒙の弁証法』の世界--ホルクハイマーとアドルノ
 第5章 「アウシュビッツのあとで詩を書くことは野蛮である」
 第6章 「批判理論」の新たな展開--ハーバーマス
 第7章 未知のフランクフルト学派を求めて
 おわりに

 *

 (1)ハーバーマス以降の世代はフランクフルト学派のいわば第三世代だ。その代表がアクセル・ホネット・フランクフルト大学教授/社会研究所長だ。
 ホネットは1949年生まれ、日本でいう団塊の世代だ。彼の『承認をめぐる闘争』(1992年)は、ハーバーマス『コミュニケーション的行為の理論』を基本的に継承しながらも、それをさらに新しい方向へ展開させようとした。それは「批判的社会理論の承認論的転回」と呼ばれている。
 ホネットは現在の社会哲学が取り組むべき課題として「承認をめぐる闘争」を明確に設定し、ヘーゲルが『精神現象学』(1807年)にいたる過程で構想していた承認論をあらためて再構成している。それらによってホネットは、親密な関係における「愛」、市民社会における「法(権利)」、さらには社会的な「連帯」という三つの構造をもつものとして、社会的な承認関係を説明している。
 ホネットがヘーゲルから継承している「承認」は、客体のたんなる認識とは異なる。ヘーゲルの「承認」は平たく言うと、この「私」が自由な人格をもった主体として認められることだが、さらに遡るとフィヒテに由来する。フィヒテ以来、そのような「承認」は一方的には実現せず、相互承認としてはじめて成立すると考えられてきた。つまり、自由な人格をもった主体としておたがいに認め合うこと、それが相互承認だ。ハーバーマスのコミュニケーション的行為においても、フィヒテ、ヘーゲル以来の相互行為としての承認は、その理論的前提にもなっている。一方、ホネットは、コミュニケーション的行為の根底にあるものとして、承認ないしは承認をめぐる闘争に、あらためて強い光をあてるのだ。
 
 (2)<さまざまな社会的な抗争の根底にあるのは、この承認の欠如に対する不満ではないか、それがホネットの構想の出発点です。ホネットはそれをさらに明確に「侮蔑の体験」とも呼んでいます。私たちはしばしば、学校で、職場で、あるいは地域社会で、自分の存在が黙殺されている、と感じることがあります。さまざまなマイノリティの位置で暮らしているひとびとは、社会のマジョリティから自分の存在が無視されていると感じざるをえないことがしばしばあります。「私たちの存在を認めよ!」という訴えが、現にさまざまな局面で社会運動として展開されてもいます。それらを「承認をめぐる闘争」として哲学的に位置づける、それがホネットの社会哲学です。
 さきに紹介しましたように、ホネットはそれを、親子の関係からはじまる「愛」、市民社会における「法(権利)」関係をつうじた承認、さらには社会的な「連帯」における承認までをふくめます。ヘーゲルの承認論の場合、家族と市民社会のあとには「国家」が来るのですが、ホネットは国家ではなくて社会的な連帯を置きます。私たちは家族に代表される親密な関係のなかでまず人格として承認され、市民社会では法(権利)の主体として承認されます。しかし、私たちはそれだけではなく、自分が社会の重要な構成員であることを積極的に認められたいと願います。名誉や尊厳を社会的な次元でも認められたいと望むのです。こういうホネットの承認をめぐる議論は、ハーバーマスのコミュニケーション論を超えて、いわゆる格差社会のなかで日々格闘している私たちの経験にリアルにふれるところがあります。>

 (3)ホネットの承認論も、ロールズの『正義論』への批判という意味合いをもっている。ロールズ『正義論』は、リベラルな個人を前提として、社会的富をどのように再分配するか、という新たな問題提起だった。マルクスは、本来労働者がその労働をつうじて生み出した富が生産手段を所有している資本家に独占されている現状を搾取理論という形で批判した。しかし、それは資本主義社会のメカニズムによって蓄積された富を、誰にどのように分配するか、という問題でもある。資本主義社会の生み出した富が労働者にもきちんと分配ないし再分配される制度が整えられれば、ことさらな「革命」は不要ということにもなる。それは賃金の調整、税率の適切な設定、さらには福祉政策の充実という形で達成されると見なすこともできる。しかもそれは、生産力がさらに発展することで可能になる、という問題ではない。現在の生産力の段階で、ただちに実現されるべき「正義」だ。

 (4)<しかし、たとえば、何らかの理由からどんな職業にも就けず生活費も得られないといったひとの場合、生活するのに十分な福祉手当を支給されるだけで事態はすべて解決するのか、という問題があります。福祉手当の支給という富の再分配が社会的な承認の否定に繋がる場合もあります。少なくとも、富の分配・再分配だけでは、ホネットが想定している「承認」の次元の問題は解決しない可能性が高いのです。あるいは、何らかの権利の侵害に対して被害者が賠償をもとめる場合、それはお金だけをもとめてなされているのではありません。肝心なのは権利や名誉の回復です。要するにお金が欲しいのだという言い方は、被害者の尊厳をふたたび傷つけます。つまり、私たちがこの社会で生きてゆくうえで必要としているのは、富の分配・再分配だけではなく、さきの三つの次元での「承認」でもあって、ロールズの『正義論』ではそういう問題への視点が弱いのではないか。>

 (5)こういう文脈でホネットの承認論は、米国を中心としたロールズ『正義論』以来の、リベラルな個人主義と共同体主義(コミュニタリアニズム)をめぐる議論にも絡んでくる。実際、ホネットの承認論をめぐって、「アメリカ・フランクフルト学派」のひとりにも数えられているナンシー・フレイザーとのあいだで論争が生じた。
 フレイザーはホネットの議論にヘーゲル的な共同体主義の匂いを強く感じざるをえなかったのだ。最終的にはどちらも、分配か承認かは、二者択一ではなく、問いそのものが間違っている、というところに落ち着く。
 ただし、21世紀に入ってからの私たちの社会は、分配か承認か、どころか、分配もなければ承認もない、といった事態に立ちいたっているのかもしれない。この点はあらためて考えておく必要がある。 

□細見和之『フランクフルト学派 ホルクハイマー、アドルノから21世紀の「批判理論」へ』(中公新書、2014)の「第7章 未知のフランクフルト学派を求めて」 
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コメント (3)
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