新潟福祉文化を考える会

新潟の福祉文化を考える学会のブログです♪
福祉文化の発展のため、日夜努力しております☆

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ひとりごと

2012年02月17日 | Weblog
国会に卍固め」「消費税に延髄斬り」今は懐かしい、平成元年。猪木参議院議員選挙出馬のキヤッチフレ-ズです。私、猪木の全盛期は、やはり、アリ戦までと考えてます。アリ戦の後遺症か、長らく猪木の不調も続き、開き直っての必殺技が「延髄斬り」と思っています。これも、アリキックの正当性と効果、猪木VSアリは真研勝負だったという猪木の意地のような気がします。しかし、これを決め技にしても、フィニッシュに華がなく、中には、頭をかすめても、フォ-ルを奪われる者も出てきて物足りなさを感じたものです。昭和51年前半までが、猪木の試合、何を見てもおもしかった。二流選手でも、ピ-ク過ぎた選手でも光らせる試合でしたね。Bバ-ナ-ド、Jル-ジョ-、マクガイアブラザ-スとの変則マッチなど数多いですね。本当に何を見てもおもしろかった。金曜日夜8時が楽しみでした。

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「サライ」

2012年02月17日 | Weblog
我々の世代には、何故か心にしみる歌です。最近カラオケで歌う人をみかけるようになりました。やはり50代前半の方でした。スナックで歌っても、店の閉店エンディングではありませんが。
「サライ」


作詞:谷村新司/作曲:弾厚作(加山雄三)

遠い夢 すてきれずに 故郷をすてた
穏やかな 春の陽射しが ゆれる 小さな駅舎
別離より 悲しみより
憧憬はつよく
淋しさと 背中あわせの ひとりきりの 旅立ち

動き始めた 汽車の窓辺を
流れてゆく 景色だけを じっと見ていた
サクラ吹雪の サライの空は
哀しい程 青く澄んで 胸が震えた

恋をして 恋に破れ 眠れずに過ごす
アパートの 窓ガラス越し 見てた 夜空の星
この街で 夢追うなら もう少し強く
ならなけりゃ 時の流れに 負けてしまいそうで

動き始めた 朝の街角
人の群れに 埋もれながら 空を見上げた
サクラ吹雪の サライの空へ
流れてゆく 白い雲に 胸が震えた

離れれば 離れる程 なおさらにつのる
この想い 忘れられずに ひらく 古いアルバム
若い日の 父と母に 包まれて過ぎた
やわらかな 日々の暮らしを なぞりながら生きる

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日本福祉文化学会としての東日本大震災支援の基本方針

2011年08月03日 | Weblog
2011年5月20日

日本福祉文化学会としての東日本大震災支援の基本方針

                       震災対策委員会委員長  石田 易司

 3月11日のあの震災から2か月あまりたちました。私も何度か被災地に足を運びましたが、道路こそきれいになりましたが、また、場所によっては日常を取り戻しているところもありますが、多くの被災地は1週間後の3月18日に初めて見た様子とほとんど変わっていないというのが印象です。つまり、あまりにも広域で甚大な被害を受けた被災地の支援は、目に見える復興だけでも長い期間で取り組まないといけないと思いました。さらに、一人ひとりの心の問題や仕事、文化など形にならない支援は、数年、あるいはそれ以上の長い期間を想定して取り組む必要があります。
 また、私たちには大きなお金もありません。ブルドーザーのような力に頼る支援も出来そうにありません。長い期間にわたって、根強く、私たちの知恵や技術を使った支援を続けなければなりません。
 そのために、次のことを福祉文化学会の支援の基本的で具体的な方針にしたいとおもいます。
(1) 支援活動は数年にわたる継続的な活動にします。
(2) 皆様からお寄せいただいた寄金は、直接的な被災者との活動に使い、そのために必要な交通費や食費などは私たち自身の負担とします。
(3) 活動は、広く全被災地に行き渡る活動、また1回限りの活動というより、先遣的な活動をしている会員からの情報に基づき、被災者と心と心が通い合うような、定点の繰り返しの活動を主にします。
(4) しかし、学会のもっとも得意とする研究活動については、広く全被災地を対象にし、全会員の力を結集する必要もあります。研究のテーマとしては、阪神淡路大震災以来日本社会に根付いてきた、「災害支援ボランティア活動の動向」などを考えています。
(5) 学会大会も、今年に限り、被災地をこの目で見、少しでも被災者と触れ合えるように、被災地のどこかで実施したいと考えます。(予定されている大阪か被災地でするかの最終的な決定は7月2日の理事会でします)
(6) 当面、この方針で活動を続け、しかるべき時期に見直し、新たな展開も可能にします。

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なでしこ国民栄誉賞「すごい方々と名が並び光栄」沢主将ら会見

2011年08月02日 | Weblog
サッカー女子ワールドカップ(W杯)で初優勝した日本代表「なでしこジャパン」の国民栄誉賞受賞が決まり、INAC神戸レオネッサ所属の沢(さわ)穂希(ほまれ)主将ら代表7選手が2日、神戸市東灘区のグラウンドで会見し、沢選手は「すごい方々と名を並ばせていただき光栄。この先もいい成績や結果を残せるよう頑張りたい」と喜びをかみしめた。

 会見では率直な感想を求められ、一様に「まだ実感がない」と戸惑いつつも「光栄です」「うれしい」などと口々に述べた。

 川澄奈穂美選手は「サッカー界、さらに団体での受賞というのは初めてのことなので大変うれしい」と話し、近賀(きんが)ゆかり選手も「女子サッカーが国民栄誉賞をいただいたことが、何年も先に残ることがうれしい」と笑顔で語った。

 今後の目標について、7選手全員が日本女子リーグ(なでしこリーグ)での優勝を掲げ、さらに「(来年の)ロンドン五輪に出場してメダルを狙いたい」と抱負を語り、9月に始まる五輪予選と本大会での活躍を誓った。

産経新聞 8月2日(火)20時1分配信





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日本福祉文化学会大会開催のお知らせ

2011年07月30日 | Weblog

日本福祉文化学会会員 各位
第22回日本福祉文化学会
 
大阪大会実行委員会
 
実行委員長 石田 易司

 日本福祉文化学会大会開催地変更について(連絡)
 陽春の候、皆様には、新年度を迎え、業務ご多忙の日々をお送りかと存じます。
 さて、既にお知らせしております、第22回日本福祉文化学会大阪大会につきまして、
9月17・18日の開催に向け、実行委員会として鋭意、準備を進めてまいりましたが、
3月11日に発災しました‘東日本大震災’に鑑み、被災地への復興応援を目的として、こういう時にこそ、現地での開催を検討すべきではないかという話し合いを実行委員会でいたしております。
 つきましては、開催月日については、変更いたしませんが、開催会場、プログラムについては、現在、検討を進めており、詳細は、7月2日予定の学会理事会後にお送りしたいと考えております。
 会員各位には、誠に申し訳ございませんが、現在の状況に鑑み、ご理解、ご協力をいただきますよう、よろしくお願い申しあげます。
 重ねて、日程の変更はいたしませんので、スケジュールの確保のほど、よろしくお願い申しあげます。 
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丸山浩路さんかく語りき

2011年07月29日 | Weblog

徳洲新聞 11月4日 338号 8面
Talk on
今週のゲスト

丸山浩路さん

丸山浩路(まるやま こうじ) 1941年新潟県生まれ。明治大学卒業後、心理セラピスト、手話通訳などの仕事に携わる。83年からは「講演パフォーマー」として全国を回り大勢の人に語りかける活動を始める。テレビドラマ『愛していると言ってくれ』などの他に舞台、映画などで数多くの手話コーディネートを手がけている。主な著書は『本気で生きよう! なにかが変わる』(大和書房)、『手話あいうえお』(NHK出版)、『鈍行列車』(ダイナミックセラーズ出版)など。NHK教育テレビ『手話ニュース845』のキャスターとしても有名。

言葉は聞かせるだけでなく見せるもの
手話は感動を伝えられる

空気を動かす仕事がしたくて講演パフォーマーに

 NHK教育テレビ・手話ニュース八四五・のキャスターとして活躍する丸山浩路さんの本職は「講演パフォーマー」だ。講演で全国を回る忙しい毎日を送っている。
――講演パフォーマーとして活動を始めたのはなぜですか。
丸山 一言でいうと、空気を動かしたかったからです。体を動かすと、流れてくるのは汗。心が動くと、流れるのは涙。そして空気が動くと、生まれてくるのが人と人との出会い。哲学者の西田幾多郎先生は「生きることは、ハッとすることです」とおっしゃっているのですが、人と人との出会いはまさに、ハッとすることです。その生きる基本ともいえる出会いを生み出す仕事をしたいと思ったのです。
――手話も使われてるそうですね。
丸山 ビジュアルコミュニケーションとして、使っています。言葉は聞かせるだけでなく、見せるものでもあると思います。そこで大きな力を発揮するわけです。手話は多くの感動を伝えられるのですよ。
――どんなふうに講演をなさっているのですか。
丸山 例えば、BGMをバックに派手な格好とパフォーマンスで出ていって、「若さとは人生のある時期のことではなく、心のあり方を言うのだ。人は長い歳月を重ねるから老いるのではない、理想を失う時に老いるのである」などと、ちょっと芝居がかったメッセージ。最初、呆気にとられ、思いっ切り身を引いていた聴衆が急に拍手してくる。なかなか激しい講演ですよ。

少年時代に出会った聾唖者の村長の言葉に感動

 数々のテレビドラマの手話コーディネーターも務める丸山さんが、手話と出会ったのはわずか十歳の時だった。
――手話を始めたきっかけは何だったのですか。
丸山 最初に手話を教えてくれたのは、今から五十年以上も前、新潟の小黒村(現安塚町)の横尾義智さんという聾唖者の村長でした。少年時代、信越線の電車の中でよく会い、なぜか可愛がっていただいた。
――聾唖の方が村長さんだったのですか。
丸山 聾唖者で、政治の長に立ったのは世界でも横尾さんくらいではないでしょうか。三期十二年務めておられます。
――その村長さんと少年時代に出会って……。
丸山 印象に残っているのは、横尾さんが汽車の窓から日本海を指さして、「押し寄せて引き返す波の形はみんな違う。人間もあの波の形と同じで、みんな違っていて、みんないいのです。私は耳の聞こえない波の形をしている。それは恥ずかしいことではない」と語られたこと。私が十二歳の時ですが、この言葉には非常に大きな影響を受けました。
――意味深い言葉ですね。
丸山 講演でも、よくこの波の話をします。「数多くの人間がいても、あなたはあなただけの波の形を持っています。それなのに、どうして人と比べて落ち込むのか。自分に与えられた波の形をまず『良し!』と受け止め、そこから始めよう」と。
――自分自身を受け入れろということですか。
丸山 そうですね。そして自分の中の一番いいところ、「オンリーワン」を磨いていくことが大事です。ナンバーワンは人が決める価値だけど、オンリーワンは自分自身が決めるもの。自分のオンリーワンを磨いて、自分を包む光にしなさいと若者に話すと、とても納得されますね。

福祉は社会を外側から包むものであるべき

 丸山さんは、日本で初めて「プロ手話通訳者」宣言をした人としても知られている。一九六六年、二十七歳の時だったが、このため丸山さんは大きなバッシングを受けた。
――なぜプロ宣言をされたのですか。
丸山 心理セラピストの仕事をするかたわら、警察や福祉関係からの依頼でボランティアで手話通訳の仕事をしていたのです。ところが、帰りにこっそり謝礼をくれる。どうせ謝礼をくださるなら、堂々とされるべきではないかと思いました。
 さらに聾唖者の立場からすると、中立の立場で責任感と能力を持ったプロの手話通訳者の存在こそが必要ではないか。そこでプロの手話通訳者を宣言しました。場合によっては、行政や福祉事務所などに交渉して予算を作ってもらうように働きかけてほしいと頼みました。
――それがバッシングを受けたんですね。
丸山 福祉の仕事で、お金を儲けるとは何事だと大変な非難を受けました。でも、ついに平成元年に手話通訳士という国家試験に準ずる資格試験が誕生し、現在、全国に約千人の手話通訳士がいます。
――福祉は閉ざされた世界という印象があると思いますが。
丸山 福祉を、限られた世界に囲ってはいけないんですよ。バリアフリーという言葉は古い。障害者だけが楽をするような印象があるでしょ? 本当は障害のあるなしに関係なく、みんなが暮らしやすい環境を作るべきです。ユニバーサルデザインと最近で
は言うようですが。
 この世の中は障害を持っている人と、これから障害を持つ人でできています。やがてはみんな歯が抜け、目が見えなくなって、歩けなくなる。だから社会の片隅に福祉を置くのではなく、社会の外側から福祉を包むべきなのです。そう変えていきたい。これが私のライフワークです。
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小黒村の ろうあ村長 横尾義智

2011年07月29日 | Weblog
ステ-ジ・パフォ-マ-丸山浩路さんの体験手記です。それにしても感動的な出会いでしたね。丸山さんのご冥福をお祈りします。

「ダメらっ。切符も持たんで汽車に乗ろうとしてもダメらてぇ。」越後訛り荒々しい男性の声が響いたのは、新潟県内を走る当時は国鉄と称し、黒煙吐く蒸気機関車に引っ張られて走っていた信越線の車内のことだった。時代は終戦直後の昭和20年代の前半。その怒声に乗客は一斉に声のするほうを見た。車掌が20代後半ぐらいの若い男性の襟首を掴んで、小突きまわしていた。男性はしきりに自分の耳を示して掌を顔の前で左右に振る。「そんげ耳の聞こえねぇフリして同情してもらおうたって、オレはだまされねぇ。いつもこの手で無賃乗車しているがろう。次の駅で交番に突き出してやるすけぇ。」抵抗する男性をズルズル引き摺りながら近づいてきた。ちょうど小学一年生だった僕の横を通った瞬間、その男性は僕の前に座っていた紳士に向かって両手を激しく動かした。僕は本家である酒造りの瓶洗いやレッテル貼りのアルバイトをするために長岡から高田まで往復することがしばしばあったが、そんなときこの立派な紳士をよく目にしていた。50代前半の中肉中背、終戦直後にもかかわらず四季にふさわしいスーツを召し、べっ甲のフレームの眼鏡にソフト帽をかぶって、いつも読書している姿であった。僕は内心(ボクも大きくなったらこんな立派な大人になろう)と密かに憧れている“憧れの君”であった。襟首を捕まれていた若い男性はその憧れの君を目にすると身を乗り出すようにして両手を動かす。それまで車内の出来事に一瞥すらくれなかった紳士は本を閉じて静かに立ち上がり車掌の前に立った。そして静かに顔の前に右手を立てて(そんなことをしてはいけません)という風に左右に振った。それを見た車掌はさらに声高に「おめえも耳の聞こえねぇフリしてしてんがか。オレは絶対ゆるさねぇからなっ。」と言い放った。僕の憧れの君は手帳を出しながらなにやらスラスラと書いて静かに車掌の面前に出した。車掌は「なんだ!こりゃ…なに「この人は本当に聞こえません。切符を落としてしまったので困っています。どうしたら良いか教えてあげて下さい。横尾義智」。」荒々しく読み上げていって「よこお・よしとも?」驚いたように声を張り上げた。「あの横尾先生ですか。生まれつき耳も聞こえず話も出来ない先天性ろうあの御身でありながら、東頚城の小黒村の村長さんを12年間努められた…横尾義智先生ですか。」唇の動きを見て静かに頷いた憧れに君に向かって、車掌は突然最敬礼のポーズをとって「名誉です。本当に…本当にご尊敬申し上げていました。」最敬礼を続ける車掌を制して一件落着という次第。そのあと憧れの君は僕の前に立つと手帳に何か書き込んで目の前に差し出してくれた。そこには…「きみとは よくあいますね。これからは おともだちに なりましょう」の一言。憧れの君から「おともだちになりましょう」のお言葉。「ハ…ハイッ」。それからだった。月に二、三度駅前の食堂で、駅の待合室で、ご一緒する車内で20年近く手話の手ほどきをしていただいたのが、丸山浩路の手話のルーツである。“運命は誰と出会ったかで決まる”のフレーズが心に鮮やかに蘇ります。
      講演パホーマー 丸山浩路(NHK手話ニュース担当していた人)     2007.


横尾義智(よしとも)氏プロフィール


 明治26年8月、新潟県東頚城郡小黒村大字行野(現上越市安塚区行野)横尾義周の長男として生まれた。生まれつきろうあ者であったので、東京聾唖学校(現筑波大学付属聾学校)へ入学。昭和9年(41歳)、村民に推され小黒村長に選出。
 戦争協力で公職を追放されるまで12年間、人望厚く多難な村政の舵取りを行った。農地開放と社会事業に多額の支出をした後、行野の本邸を引き払い高田市(現上越市)西城町の別邸を本拠としたが、昭和38年2月に亡くなった。
(越佐人物誌、雪のまちかわらばんより)

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八百長・やおちょう・ヤオチョウ

2011年02月14日 | Weblog
 相撲界では台風ふきあれるまさに、荒れた本場所になっています。昔から相撲界には八百長があると言われてましたが、その決定的証拠が現代文明の機器「携帯メ-ル」とはこれもさもありなん。星の貸し借りはあっても、金が動いては言い訳のしようがない。今までも何回か裁判になっても勝訴の相撲協会も今回だけは年貢の納め時か・・・・・。それにしても、春日錦、恵那司の両名は今どんな気持ちなんでしょうか。・・・。私の考えですが、もし従前から八百長があったとしたら2人からとことん話してもらいたいものです。八百長力士の実名をあげて相撲界も浄化しないと・・・。それでなくても、2人の処分は最悪の解雇しかないのだから・・・。2人も良い意味で開き直って相撲界が傾いても仕方ないという気持ちで・・。まさか大関・横綱もかかわっていなければよいが・・・。それにしても、昔から「二子山部屋」はガチンコ部屋といわれていたのですが本当だったようですね。

八百長について
八百長(やおちょう)とは「いんちき」の意で、まともに争っているようにみせながら、事前に示し合わせた通りに勝負をつけること。対義語は「真剣」「ガチンコ」。
なお、事前の示し合わせがなく、プレーの態度でそれとなく試される“談合”は八百長ではない。

八百長は明治時代の八百屋の店主「長兵衛(ちょうべえ)」に由来するといわれる。八百屋の長兵衛は通称を「八百長(やおちょう)」といい、大相撲の年寄・伊勢ノ海五太夫と囲碁仲間であった。囲碁の実力は長兵衛が優っていたが、八百屋の商品を買ってもらう商売上の打算から、わざと負けたりして伊勢ノ海五太夫の機嫌をとっていた。

しかし、その後、回向院近くの碁会所開きの来賓として招かれていた本因坊秀元と互角の勝負をしたため、周囲に長兵衛の本当の実力が知れわたり、以来、真剣に争っているようにみせながら、事前に示し合わせた通りに勝負をつけることを八百長と呼ぶようになった。

なお1901(明治34)年10月4日付の読売新聞では、「八百長」とは、もと八百屋で水茶屋「島屋」を営んでいた斎藤長吉のことであるとしている。

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明日から3連休です

2011年02月10日 | Weblog
 明日から3連休です。何をしようかな~。除雪かな・・・・。
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「泣いてたまるか」

2011年02月05日 | Weblog
日本国民なら誰もがご存知の、渥美清さんであります
高度成長時代を誠実で懸命に生きる庶民の姿を描いた名作シリーズ。懐かしい昭和の東京を泣いて、笑って、じんわりと心温まる。昭和41年4月から全国で放映された、渥美清主演の一話完結式ドラマ。後に『男はつらいよ!』で大ブレイクする渥美清が「一生懸命で不器用な男」を好演しています。


「泣いてたまるか」
歌手:渥美清
作詞:良池まもる
作曲:木下忠司

天が泣いたら 雨になる
山が泣くときゃ 水が出る
俺が泣いても なんにも出ない
意地が涙を 泣いて泣いて泣いて
たまるかヨ 通せんぼ

海は涙の 貯金箱
川は涙の 通り道
栓をしたとて 誰かがこぼす
ぐちとため息 泣いて泣いて泣いて
たまるかヨ 骨にしむ

上を向いたら キリがない
下を向いたら アトがない
さじをなげるは まだまだ早い
五分の魂 泣いて泣いて泣いて
たまるかヨ 夢がある

この歌詞が大好きす。

一番の歌詞の出だしの天が泣いたらは、空が泣いたらと歌います。
三番特にいいですね。上を向いたらきりがない、下を向いたら後がない、さじを投げるはまだまだ早い。今のわれわれの世代にはじんとくるものがありますね。







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