ふるさとは誰にもある。そこには先人の足跡、伝承されたものがある。つくばには ガマの油売り口上がある。

つくば市認定地域民俗無形文化財がまの油売り口上及び筑波山地域ジオパーク構想に関連した出来事や歴史を紹介する記事です。

シーボルトが見た江戸の物価 ガマの油、今なら貝一つ分1,000円~1,500円か

2022-08-01 | ガマの油口上 技法


幕末のドイツ人医師・博物学者 
  シーボルトが見た江戸の物価    

 江戸時代・文政期、ドイツ人医師シ-ボルトは1826年(文政9年)4~5月、がオランダ商館長(カピタン)の江戸参府に随行した。その際、江戸・日本橋で売られていた食品の価格を記録した資料によると、魚の7割が米1-升(約1.5キロ)より高かったことがわかった。

 江戸中期頃は、1両=4000文が相場。また、日本銀行貨幣博物館によると、中期から後期の1両は米価から推定して現在の価値で4万~6万円ほどである。

 1文を10~15円と想定して大まかに計算してみると、
米1升124文(1240円~1860円)、魚は米より高く、
最も高いタイ・カツオが18万円、サケ・マス1万円となり、高級魚とはいえ値段の高さに驚く。

ドウツ人医師・博物学者、シーボルトとは 
 ドイツの医学者・博物学者シーボルト・Philipp Franz Balthasar von Sieboldは、
1796年(寛政8)2月17日、ドイツのヴュルツブルクに生まれる。
1820年(文政3)ヴュルツブルク大学を卒業(24歳)、
1822年(文政5)オランダの陸軍外科少佐になり(26歳)、
1823年(文政6年)、シーボルトがオランダ商館の医師として長崎に到着した。
翌1824年(文政7)鳴滝塾を開いた。


 1828年(文政11年)の帰国までの6年あまり、シーボルトは日本の動植物、歴史、言語などを研究するとともに、鳴滝塾を開いて高野長英などに蘭学、蘭方医学を教え、日本の蘭学研究に大きな影響を与えた。

 1866年(慶応2)10月18日、ドイツのミュンヘンで亡くなる(70歳)。
ちなみに、明治元年は1868年、シーボルトが亡くなった2年後である。  

 鎖国の江戸時代、オランダ商館があった長崎は、日本と外国を結ぶ唯一の窓口で、蘭学、蘭方医学のメッカとなっていた。出島内において開業の後、1824年には出島外に鳴滝塾を開設し、西洋医学(蘭学)教育を行う。

 日本各地から集まってきた多くの医者や学者に講義した。代表として高野長英・二宮敬作・伊東玄朴・小関三英・伊藤圭介らがいる。塾生は、後に医者や学者として活躍している。そしてシーボルトは、日本と文化を探索・研究した。

 また、特別に長崎の町で診察することを唯一許され、感謝された。日本へ来たのは、プロイセン政府から日本の内情探索を命じられたからだとする説もある。 

 1826年4月には162回目にあたるオランダ商館長(カピタン)の江戸参府に随行、道中を利用して日本の自然を研究することに没頭する。地理や植生、気候や天文などを調査する。

 1826年には将軍徳川家斉に謁見した。江戸においても学者らと交友し、蝦夷地や樺太など北方探査を行った最上徳内や高橋景保(作左衛門)らと交友した。

 徳内からは北方の地図を贈られる。景保には、クルーゼンシュテルンによる最新の世界地図を与える見返りとして、最新の日本地図を与えられた。その間に日本女性の楠本滝との間に娘・楠本イネをもうける。

 1828年に帰国する際、先発した船が難破し、積荷の多くが海中に流出して一部は日本の浜に流れ着いたが、その積荷の中に幕府禁制の日本地図があったことから問題になり、国外追放処分となる(シーボルト事件)。 

 1830年、オランダに帰着する。
翌年には蘭領東印度陸軍参謀部付となり、日本関係の事務を嘱託されている。オランダ政府の後援で日本研究をまとめ、集大成として全7巻の『日本』(日本、日本とその隣国及び保護国蝦夷南千島樺太、朝鮮琉球諸島記述記録集)を随時刊行する。同書の中で間宮海峡を「マミヤ・ノ・セト」と表記し、その名を世界に知らしめた。

タイ・カツオ18万円、サケ・マス1万円 
  シーボルトの記録をもとに計算 
 江戸時代の料理書「古今料理集」と「黒旨精味集」,などからは、格の高い魚は分かっても、食品の価格の記載はなく、市場の実情については不明だった。そこで阿部さんが着目したのが、シ-ボルトが1826年(文政9年)4~5月、江戸・日本橋で売られていた食品を記録したリストだ。

 記載された381種の食品には、青物類、ノリ類などのほか、魚類(クジラやイカを含む)90種、貝類26種が含まれていた。調べてみると、魚の価格は料理書での格付けにほぼ比例していた。 

 江戸中期頃は、1両=4000文が相場。また、日本銀行貨幣博物館によると、中期から後期の1両は米価から推定して現在の価値で4万~6万円ほど。1文を10~15円と想定して大まかに計算してみると、魚の値段の高さが読み取れる。

 最も価格が高かったのは、タイとカツオで、1匹で3両(1万2000文)から1分(1000文)。時には、18万円費やしていたことになる。値段幅が大きいのは、型の良し悪しの差があるほか、江戸っ子が初夏の到来を告げる初ガツオには、金に糸目をつけなかったからかもしれない。

 続いてスッポン、サワラ、サケ、マス、カレイなど安く見積もっても1万円以上の魚が並ぶ。安かったのはイワシ1匹120~180円、ハゼ100~150円など。当時は、さっぱりした白身魚が好まれたらしいが、現在高級魚のフグは2000~3000円と比較的お値打ちだ。毒を恐れたからと思われる。 

 魚との比較に選んだのは米。リストでは、米は1升で124文(1240~1860円)。アワ(800~1200円)、ヒエ(500~750円)などと比べ、穀物で最も高かったが、魚類の71%は、米1升の価格を上回っていた。ちなみに29種あった烏類も79%が米より高く、ともに高額な食材だったといえる。
 海産物でも、貝類は、米より高かったのは16%だけ。最も高いアワビとホラ貝も1個1500~2250円だった。 
  
 

 発掘調査の出土品もこうした結果を裏付けている。
東京都豊島区の巣鴨遺跡からは、町家部分のゴミ穴跡から目立った魚骨は出土しないが、貝類が多く見つかった。

 一方、港区の会津藩下屋敷跡のゴミ穴跡からは、大量の魚骨が見つかった。
アジなど1匹1000~1500円以下の魚が62%を占めたが、4000~6000円以上の魚も12%あった。  
 

ガマの油、江戸時代後期の値段、
  今なら1000円から1500円か
 ところで、ガマの油売り口上は、
「さあて、.此のガマの油、本来は一貝が二百文、二百文ではありますけれども、今日ははるばると出張ってのお披露目、男度胸で女は愛嬌、坊さんお経で、・・・・・・・・筑波山の天辺から真っ逆さまにドカンと飛び降りたと思って、その半額の百文、二百文が百文だよ。・・・・・・・・効能がわかったらドンドン買ったり買ったり」で終わる。  
  
 1文を10~15円と想定すると百文は1000円から1500円、
小さな貝一つ分で2000円から3000円となる。

 効能あらたかな薬であっても手が出せないが、その半額に値引すれば法外な値段とも言えないかもしれない。



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