Takeda's Report

備忘録的に研究の個人的メモなどをおくようにしています.どんどん忘れやすくなっているので.

返答:「FIT2010 仮想社会と電子書籍:紙の本はなくなるのか?」コメント

2010年09月28日 | 書評
せっかく土屋先生がコメントしてくれたのに、自分のブログをみていなくて返答が遅くなってすいません。

編集コストが含めたとき、「同人誌」モデルは成り立つのか?
コストがかかり無料ならどうやっても成り立たないだろう。
もっともな疑問です。

私は「成り立つ」のではなく、「成り立つようになる」と思っています。マクロ的にみればこれから文化娯楽にまったくお金を費やさなくなるとは考えられません(考えたくないいうべきか:-))。きっと収入のなんらかの割合で文化娯楽に支出されるでしょう。もちろん文化娯楽といってもとても幅が広がってるので、レガシーメディアである文字メディアは相対的にウェイトが下がるでしょう(とっても携帯小説サイトとか見る限り、我々がおもったほど文字離れはないようです)。とするならば制作コストも物流コストもなくなってしまうなら、いま以上編集コストにお金が払われてようになってもおかしくはありません。というかもはや出版行為=編集行為なので当然でしょう。
でもお金を回収するビジネスモデルがないだろうと。

その点においては「同人誌」出版モデルにおいても出口を見据えてビジネスモデルを考えることが必要なります。土屋先生がいうような1万人の読者のための同人コミュニティなら1万人に耐えうるビジネスモデルが必要ということであり、もし同人がそれを目指すならそういう出口戦略をつくるということです。

そのようなビジネスモデルは今でもいろいろあるわけですし、これからはもっと新しいモデルができるでしょう。例えば、大手出版社(もう出版社と名乗らないかもしれませんが)がヒットしそうな作品や同人誌を拾い上げ、これまでと同じような販路で大量販売することもあり得ます。電子メディアを好まない人向けや電子メディアで表現しきれない部分を製本した本で販売するということあり得ます。あるいは関連商品販売というものよくやられています。ライブ系のイベントもありえます(音楽じゃなくても作者に会いたい、リアルに参加したいというのはある)。もちろん熱心な読者がいる世界なら少額での会員制度や販売も十分可能でしょう。もともと現在だって総出版コストに占める割合は小さいので今の1/10でも可能でしょう。

いいたいことは、お金を一定程度この世界に費やしてくれる人々がいるなら、なんらかのビジネスモデルが成り立って、やっていけるだろういうことです。とくに余計なコストが減った分可能であろうと。

私は楽観的に考えていて、短期的には混乱はあるかも知れませんが、長期的にはうまくいくだろうと思っています。むしろそういった変革に棹を差すような勢力があることのほうが未来に対する危
機なんだと思います。

「FIT2010 仮想社会と電子書籍:紙の本はなくなるのか?」コメント

2010年09月09日 | 社会問題
9/8にFIT2010という会議で「仮想社会と電子書籍:紙の本はなくなるのか?」なる企画があった。長尾氏(国会図書館)、高野氏(NII)、佐藤氏(Google)、土屋氏(千葉大)がそれぞれTalkを行った。前者3人は実はあまり表題とは関係なく、図書と電子化に関わる話題提供だったが、土屋氏だけは正面から表題の問いに答えていた。

答え:YES。

理由は以下の通り。そもそも電子化云々の前に日本の出版業は衰退産業、右肩下がりになっている。それは負の連鎖ができてしまっているから。いま生き延びているのは再販制度のおかげでかろうじて出版し続けるとOKという仕組みに支えられているだけ。日本の電子書籍は紙の本の出版を前提に考えている。ならば、電子書籍も成立しないだろう。まあメディアの多様化でメディアの一つとして生き延びるだろけど。じゃあ何かできるか?ほとんどないが、情報鎖国でしないかぎりだめでしょうね。

そのとき僕からも一つ質問(コメント)をした。時間がなかったのであまり突っ込めなかった。それをここで書いておく。

出版業界が衰退するのはしょうがない。事実だし、もう実際救えないのだろう。確かにそれは我々の文化を担ってきた産業を消えるというのは困ったことだ。でもそれをもって書物を出版してそれを読むという文化活動が衰退することにはならない。出版業界=出版ではない。まさにインターネットを通じた電子書籍はいままでのような産業構造がなくても本が出版できる環境を用意している。つまり、いままでの著者-編集者-出版社-印刷業-取り次ぎ-書店というような産業構造はなくても、「出版」は成立するのである。
ただし、それには新しい担い手と新しい文化的仕組みが必要である。単に技術的に可能ではだめである。現にいままでもインターネットで書籍相当の情報を出すことができるが、それが「出版」となっていない。

これからの担い手と文化的仕組みはいわゆる同人型になると僕は思っている。ある種の先祖がえりかも知れない。同人誌では必ずしも経済的利益のために活動するのではない人たちが同士を募って出版する。経済的面でいえばかつての同人出版は借金を背負ってまでという悲壮なものだったけど、電子出版ならコストはほとんどかからないのでそうはならない。同人出版の重要な点は経済的な点だけではない。同人出版において出版の基準は自分たちの基準で決める。それなりに基準があるというところが重要である。いわゆる普通の出版に比べればその基準は低かったり特異だったりする。読者はその基準が気に入ればその同人を購読する。いやなら購読しなければよい。でも、そういった基準があるおかげで、作者と読者は安定したつながりをつくることができる。出版ではこれが重要である。

学術出版、ことに国内に限れば、学術出版は限りなく同人出版に近い。まず経済的に作者側の持ち出しが大きい。一般の方は知らないかも知れないが、日本の学会誌では論文を載せる方がお金を払うというところが沢山ある。また、基準だって身内の基準である。論文掲載基準は一般にピアレビューといって同分野の研究者が論文を読んで論文の価値を決めて掲載か否かを決める。両方とも同人誌と同じである。学術誌が同人誌だなんていうと顔をしかめる人もいるかも知れないが、僕はネガティブにいっているわけではない。むしろ逆で、学術出版は同人出版として成り立っていることに可能性を見いだしているである。

先も述べたようにこれまでの同人出版はお金のかかるものであったが、電子出版になれば劇的にコストが下がる。経済的利益を第一に考えるのではなければ同人出版はコスト的には十分な成り立つ訳である。もちろん、読者がいなければ出版にならない。学術といういささか特殊な分野では成り立っていることは先にも述べた。
ご承知のようにもっと広く社会で受け入れられている。同人といってふつう思い浮かべるのは漫画アニメ系の同人であろう。これはもはや社会現象、風物詩となっているコミケをみれば一目瞭然であろう。三日間で50万人を集めるイベントはそうない。

日本の社会は職業的クリエータと趣味的クリエータの境界が低く、同人的文化は受け入れやすいものになっていると思っている。これは職業的クリエータの存在を否定するわけではない。頂点に作品でもうけることができる職業的クリエータがいて、一方でアマチュアがいて、それがシームレスにつながっているということである。このような文化はそれこそ、平安時代の詩歌から、明治期の同人誌まで面々とつながっていて、その末端に漫画やアニメの同人誌があるだろう。

同人というまとまりはもっていないけど、クリエティブな活動の裾野が広いことは数々のネット上のサービスに現れている。ニコニコ動画やpixivの膨大な作品、多数の携帯小説サイトとその中の大量の作品。これをみれば日本人がいかにクリエイティブな活動に参加していることがわかるだろう。

いままで同人出版は出版において価値の低いもの、あるいは怪しいものとして、商業出版という”正しい”出版の範疇外に置かれていた。ここでいいたいのは、むしろ逆で,同人出版を基本として、その特殊事例として商業出版があるという仕組みなら、可能ではないかということである。コストを最小すること、自分たちで基準を作り編集すること、自らで読者を開拓すること、こういった同人出版の仕組みが持続可能であり、その中で大きな読者を得られるものはいわゆる”商業出版”的出版になるという訳である。まあ先祖返りというか出版の原点に戻るだけ、ということも知れないけど。

まあ、そのくらいドラスティックな変化がないと、日本語という限られた話者の言語の文化を維持できないのはないかというのが僕の危機感である。

もっとも同人出版の電子化には別の問題がある。それは長くなったので別稿で。

産経記事:国費で作った研究報告書なのに読めない、コピーできない…年間2000億円の科研費

2010年08月20日 | 書評
8/20付け産経記事に表題のようなものがあった。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/100820/crm1008200131005-n1.htm
趣旨としては国の研究費の報告書がネットで読めないということ。
”国の科学研究費補助金(科研費)で作成された研究報告書47年分が、限定的な閲覧しかできないうえ、コピーも部分的にしかできない状態にあることが19日、分かった。”
って、そもそもそんなことが昨日「発見」されたのですか、と突っ込みたくなるほど、ピンぼけ記事。
あまりにピンぼけすぎる記事なんで、誤解を招かないためにちょっと説明をしたいと思う。

元来、科研費の報告書(一定規模以上の課題の種類)には冊子体の報告書の提出を義務づけていた。この記事でいう「報告書」とはこのことを指している。ちなみに報告書には他にも実績報告書とか別種のものがある。冊子体での報告書は国会図書館に納本されて、保存と閲覧が保証されるというのが旧来のやりかただった。これはインターネット時代以前ではまったく正しい(他の選択肢がない)方法だった。
ちなみに冊子体以外のほとんどの報告書(実績報告書など)はNIIのKakenサービスで過去分すべてにわかって閲覧可能である。(この遡及入力だって大変だったのだから)

さすがにこの時代、冊子体でもなかろうということで研究報告書の方法が改訂されたのが20年度で、ページを限定した上でPDFでの提出となった。まあ20年度というのは遅きに逸した感はいなめないけど。で、この年度以降は提出されたPDFをNIIのKakenサービスの中で閲覧できるようにしたわけです。この記事でいうところの3年間云々というのはそのことを指している。閲覧が3年分に限定されているのではなく制度がかわったからなに誤解を招く文章である。(そもそも今は22年度なので22年度の報告書なんてありえないですけどね :-))。
我々としては現行の報告書のフォーマットやフロー(機関からCDROMで提出なんて...)には不満があり、その結果公開まで時間がかかっていうのは事実です。

過去分にさかのぼってインターネットに公開することはシステムや予算の問題というよりは著者との関係で難しい。インターネットで公開することを前提に執筆した内容ではないので、権利面や倫理面での課題があるわけです。国会図書館が一般図書のルールと適用して答えているのは当然でしょう。むしろ、遡及分に関しては、国会図書館の電子化の公開の問題の中で解決すべきことでしょう。

事実誤認はもとより、この記事のネガティブなトーンには辟易します。

PS.この記者は若いですかね。インターネット非公開=公開されてない、的発想。ネットピープル的にはOKなんですが、高々十数年の常識で47年間を切るというのは新聞記者としては情けないですね。

OR2010参加記

2010年07月13日 | 会議参加記
OR2010 (The 5th International Conference on Open Repositories)に参加してきました。

私はORにははじめて参加です。ほんとは昨年参加するつもりだったのですが、例のインフル騒動でキャンセルせざるをえませんでした。今回はoral1件、poster1件の共著者です。

日本からはNIIから3名、あと3名ぐらいだったかな。

この会議にきて驚いたことはRepositoryが非常に大きな広がりをもって受け止められていることです。もちろん、このコミュニティにおいてもDspaceやEprintが主要なソフトウエアであるように文献を中心とする機関リポジトリ(Institutional Repository)が中心ではあります。しかし、すでにそこからどう展開していくかをみんなが考え、実践していることがわかりました。

KeynoteでのDavid De Roure (Oxford e-Research Centre)はe-Researchの動向を踏まえ、プロジェクトで行っているmyExperimentというソーシャルサイトの説明を説明していました。myExperimentは研究者版"mySpace"というわけですが、単に文献のshareだけでなく、多様なデータやmethodのshareができることがポイントです。もっぱらバイオインフォマティクスを対象にしているようだけれど、履歴やworkflowのshareといったことができるようです。

またパネルでもリポジトリの概念の広さが垣間見ることができました。Sandy Payette(DuraSpace)はクラウド化しdata curationをするのがリポジトリの次の世界であると述べました。 Francoise Genova (International Virtual Observatory Alliance)も天文学における観測データの共有の現状と今後について述べました。Norbert Lossau (Confederation of Open Access Repositories)はCOARの話でまあRepositoryの連携といったところ。 Stephen Abrams (DataONE / UC Curation Center California Digital Library) はCaliforniaにおける組織連合として、環境データのShareを行っていることを述べました。多くがdata repositoryのことを語っており、ここをどうするかが次世代の鍵となることは間違いないでしょう。

一方、別の点でおもしろかったのは様々な学問分野における情報の共有の仕方の違いです。自分を含めて、研究者はどうしても自分の周りの世界が学問の他の世界でも同じだと考えがちなんですが、実際には論文の位置づけとか情報共有とかの仕組みが分野ごとに違うわけです。それを実感することができました。

とくになぜarXivが重要なのは理解しました。高エネルギー物理(HEP)ではすでに60年代からジャーナルでは速報性に欠けるので世界中の機関間でプリプリントを交換するカルチャーが始まっていて、それがのちのarXivになるわけです。実に90%の情報アクセスはプリプリント(arXiv, SPRIES)に頼っているそうです。あとで北大の行木先生に伺いしたところ数学の世界でもジャーナル論文は時間がかかるので、プリプリントは重要でとりあえずプリプリントでだすそうです。これは僕の知っている工学系あるいは情報系ではないカルチャーです。また先のmyExperimentでも紹介されているようにバイオインフォマティクスではすでに特定のデータの共有は広く行われているようです。

こういった分野特有の文化をどうリポジトリ運営に活かしているかが課題で、それはやっぱり分野の研究者を積極的に巻き込んでいくしかないのでしょう。myExperimentもソフトウエアとしても素晴らしいものですが、やっぱり一つの分野でもいいから実ニーズを取り込んでいるところが迫力をだしているだと思います。

PS. ちなみにマドリッドは40度にも達する暑さで体にしんどいものでした。ただ
W杯の準決勝の日がディナーの夜で、会場のテレビを持ち込んでディナー中観戦というとってもめずらしい状況となりました。実は会議会場はサッカースタジアムの隣でバスで戻ってくると、熱狂する人々の群れがまだいて、これはよい体験でした。

実名の信頼性、匿名の信頼性

2010年06月17日 | 研究
旧聞になるがNIIのオープンハウスでの北大の山岸先生の話は大変示唆に富むものであった。

山岸先生にいうように日本社会が安心型社会であることはだいたいに合意するところであろう。安心型社会では社会に人々はいわばロックインされており、それゆえに逃避できないという制約から裏切らないということが期待できる。このため相手を信頼するか否かという判断を下す必要がない。これが実は日本社会が安心型社会だけれども低信頼性社会であるゆえんである。

それを検証する被験者実験ではおもしろい結果が出ている。再参入可能でない設定では、実名(実験ではID固定)にくらべ匿名のほうがよくない結果である。一方、再参入可能な設定の場合は、ポジティブな評価があることがよい結果をもたらしている。

これは現在の日本のネット社会がなぜほかと違い匿名型・ニックネーム型であることのよい説明になっている。アメリカなどの社会においては実社会のそのものが安心型ではなく再参入可能な信頼型社会である。このため、ネット社会においても実社会とリンクされる実名で問題ない。一方、日本では実社会が再参入不可能な安心型社会である。そこでネット社会ではあえて実社会と切り離して匿名社会とすることで、再参入可能な社会を作り上げている。ネットで実名を使ってしまうとそのまま安心型社会である実社会にリンクされてしまうので、再参入可能な社会でなくなってしまう。

こう考えると日本のネット社会が匿名型になったのは信頼型社会をつくりたいという我々の自然の思いが作り上げたすばらしい仕組みである。つまり幸か不幸か、日本では匿名にすることで信頼型社会が構築されているわけである。

そのエビデンスはばらばらある。2ちゃんねるの興隆はいうまでもない。2ちゃんねるは匿名性の最たるもので、ハンドルネームすらまれである。しかしそれによって安心型の実社会ではない自由度のある社会が作られている。2ちゃんねるに信頼性があるか?「電車男」ストーリーが示唆するところは可能であり、たぶん成立しているということである。

ニコニコ動画ではほぼ全員がニックネームであるが、よい評判がよい評判が呼ぶということで有名クリエータが登場している。日本ではtwitterは半実名型(ニックネームだが比較的容易に実名にリンク可能)だが、これもtwitter上の発言の自由度(安心型社会の制約に縛られない)をうまく利用しているといえる。

普通の意味でのSNSが日本で絶滅しつつあるのもこのエビデンスの一つである。SNSは個人が容易に特定できるサービスである。この点ではSNSは信頼型社会でしか成り立たないサービスである。結果として日本のSNSはことごとくゲーム用のSNSになってしまった。匿名で内容も実社会と関係なければ、実社会にリンクされる危険性は少ない。

ちなみに中途半端なのはmixiである。mixiは元々アメリカ型SNSを直輸入したコンセプトで始まったが、すぐに実名を推奨しなくなった。それはプラバシー問題が多発したからであるけれども、安心型社会に直接リンクされた結果である。ところが一方で携帯電話メールを条件にすることで再参入が難しい仕組みを残してしまった。これは失敗であろう。

ともかく日本のネット社会の匿名性はネガティブな現象でなく、我々なりのイノベーションである。我々はそれをうまく利用し発展させることが、日本流のネット技術をつくる鍵になるのかなと。