島原半島博物日誌

島原にある某施設のスタッフが綴る非公認・非公式の個人ブログです。

海岸にて

2012-11-09 13:22:02 | 歴史・史跡
センチメンタルな気持ちになって行ったわけではありません、あらかじめ言っておきますが。
雲仙のおしどりの池にオシドリが渡ってきているそうです。
そこで毎年冬鳥の確認を行っている島原病院下の池を見に行ったのですが、カイツブリが2羽いるだけでカモの姿は見られませんでした。
海の方はどうだろう?と見に行ったついでに立ち寄った場所で、偶然解説板を見つけました。
「島原のキリスト教徒殉教地について
 1616年、徳川幕府から島原半島四万石を領地として与えられた松倉重政が、大和国五條から有馬へと移りました。1618年には島原に築城を開始し合わせて城下町も整え始めました。
 一方、幕府の命によりキリシタン弾圧も始め、最初は穏やかだったという禁教政策も年を経るごとに厳しさを増し、殉教者も多数出るようになりました。
 『日本切支丹宗門史』によると、1627年2月21日には、教えを変えないキリシタンたちの指を切り、『殉教者達は、幾度も繰返して、海中に投込まれ、一息入れさせるために引上げられ、また突込まれた。そして最後に沈められた。』ように島原の海において激しい弾圧が行われました。
 このとき殉教したのは16人(茂木7人、有家1人、口之津2人、深江3人、島原3人)、特に島原の3人は教徒の中の有力者であった内堀作右衛門の子で一番下の子はわずか5歳でした。これらの殉教者は2007年ローマ教皇から福者に承認されました。
 彼らが殉教した場所は、島原の海ということで具体的には分かりませんし、さらに島原大変によって地形も変わっていることも場所の推測を難しくしています。
 しかし、歴史上明らかなキリシタン弾圧の具体例を示すため、大手川河口の海が望めるここに説明板を設けるものです。
 平成20年11月 島原市教育委員会」(一部字が欠けたところは、私が書き加えました。)
あまり人通りのない、ひっそりとした場所にも何かしらのいわれや所以ってのがあるのですね。
コメント
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