◎ヒマラヤ聖者の生活探究 第二巻 ~第四章 神人一体~ P70~79
わたしたちがくつろいで座っていると、イエスが話を始められた。「わたしたちが一切の智慧と一つになり、自分がその智慧の一部分に実際になっていること、この智慧が大原理、即ち、神であることが決定的に分った時、全宇宙の一切の智慧が、わたしたちと共に働いていることを自覚する。
又、肉体の一細胞の中にある小さな心の働きは勿論、すべての大天才たちの智慧も亦、完全に相調和して、わたしたちと共に働くことが直ちに会得されるのである。これこそ英智みてる一大宇宙心であり、わたしたちは確実にそれに繋がっている。わたしたちは実に宇宙そのものであり、宇宙の自意識なのである。
わたしたちがこのことを感じた瞬間、もはや何ものを以てしても、わたしたちの神性を曇らせることはできない。この宇宙意識から、わたしたちはどのような智識でも引き出せる。ことさらに勉学しなくても、また推理の過程を経なくても、一つの学課から他の学課へ、或は一つの点から別の点へと徐々に移って行かなくても、一切を知悉し得ることをわたしたちは自覚している。
学課というものは、こういう思想に誰でも入れるのだという態度を涵養するためにだけ必要なのである。そこまでゆくとわたしたちは心が広くなり、どのような考え方でも包容するようになる。宇宙には抵抗の出来ない動力ともいうべき想念の完全なる流れがあり、何者を以てしてもわたしたちの実相の開顕を妨げることは出来ないのである。
わたしたちは全体と一つであり、必然的に全体と共に進んで行く。どのような事態もわたしたちの実相開顕を妨げることはできない。一滴の水はこれを海洋から引き離せば、脆くも弱いものにすぎない。しかし、その一滴の水を海洋に戻せば、全海洋に等しき強大なる力となる。わたしたちが好むと好まざるとに拘わらず、また信ずると信ぜざるとに拘わらず、これは事実である。
それは智慧の法則であり、実はわたしたち自らがその智慧の法則そのものである。真理をすべて合計したものが大原理、即ち神である。われわれの評価の大小如何を超越して、久遠より久遠へと続くすべての真理、及び心中にあると、言葉に発せられたるとの如何を問わず、すべて真実の言葉は、偉大なる真理、偉大なる一者、一なる普遍的真理の一部分であり、しかもわたしたちは実にその一部分なのである。
わたしたちがこの神と一体であるとの真理を知り、絶対の真理の側に立つならば、わたしたちの背後にはあらゆる真理が後楯になり、わたしたちの力は益々抵抗し得ざるものとなってゆく。それは丁度、波の背後には大海があり、この大海が波に力を与えているようなものである。その大海の力にしても、神の力の一部にしか過ぎない。人間もまた然りである。
すべての愛を合計したものが大原理、即ち神である。神はすべての情愛、すべての湧き立つ思い、すべての愛に満ちた情(おもい)、目差(まなざし)、言葉、行いの総計である。大いなる愛にせよ、小さな愛にせよ、また高尚なる愛にせよ、低俗なる愛にせよ、すべての愛の行為は、やがてそれは無限の愛を引き出す。
われわれが、己れを忘れて愛した時、宇宙愛の完き海がわれわれと共にある。最も小さきものと思われたものでも(無我の愛により-訳者註)絶対的完全さへと急速に移ってゆく。その故に、それは最も大いなるものである。こうして愛の全宇宙がわれわれを意識してわれわれと共にある。
この地上においても、また天上においても、純粋の愛ほど大いなるものはない。純愛のあるところ地は天となる。天こそ人の真の住家である。最後に、個人、世界、惑星、星辰、原子、電子、或は又最微の粒子の如何を問わず、すべての状態、すべての形あるもの、すべての存在を合わしたものが、唯一無限の宇宙原理、即ち神である。
これらのすべてが唯一無限の全体を構成し、その体が宇宙、宇宙心、宇宙智であり、魂、宇宙愛である。これらの体(複数)や心や魂は、愛という結合力によってむすばれ、織り合わされて完体となる、それでいて、一つ一つが永遠に変わることなき独自の体として、それぞれの軌道と調和に満てる階程の中を、愛によって相牽かれ相寄りつつも自由に機能しているのである。
わたしたちは、この何者を以っても妨げることのできない偉大なる存在を構成している。この偉大なる存在は宇宙の各構成部分から成っているが、同様に又、一人一人の人間からも成っている。もしも或る一部分、即ち単体が全体から彼自身を疎外しても、原理者(Principle Being)としては何らの痛痒も感じないが、その単体自身にとっては大へんな違いである。
大海としてはその一滴が離れたところで意識はしないが、その一滴としては、再び大海と一つになれた時、大海の存在を身に沁(し)みて感じるものである。人間は一大宇宙原理(Great Cosmic Principle)即ち、神に近いというだけでは十分ではない。人間はこの原理そのものと全く一つであってその中にあり、その一部分であり、この原理、即ち神より引き離されることのできるものではないことを、知らなければならない。
こうしてわたしたちは、一切の力であるところの力の原理(Principle of Power)と共に働くのである。まことに原理の中にわたしたちは生き、動き、且つ存在を保つのである。そしてこれは法則である。かくして、わたしたちが神と接触したいと望むとき、それは何も及びもつかない遠いところにある、何か知らない或る者のことを考えているのではないのである。
要するに神はわれわれの周囲にもあるが同様にまたわが内にもあり、人間は完全に神の中に抱擁されており神の臨在(Presence of God)の中に確かにあるのであり、神の中にあって全権能を握っていることを知ればよい。故にわたしたちは今更立ち止って、とつおいつ考えてみる必要もないのである。
わたしたちはわが内なる神に直ちに参入すればよいのである。キリストはこの真理の上に毅然と、且つ気高くも立っておられるのであり、われわれも亦、神と共に永生なのである。わたしたちは、こうして死せる我(が)を内なる生命へ目覚めしめ、その生命がわたしたちを死者より甦えらせる。
かくしてわたしたちは永遠の生命に環るのである。わたしたちは生命を確信する。この生命を十分、且つ完全に生きる権利のあることを確信する。故に内なるキリストは現われて言い給う、『汝らに完(まった)き生命を得せしめそをより豊かに生かしめんが為に吾れは来れるなり』。
これこそが意識の中における真の甦えり、生命と心理と愛とのより高き波動圏への死せる感覚の高場でなければならない。わたしたちの周囲のすべての自然は目覚めている。然らばわたしたちもまた目覚め、この近づきつつある日の黎明を見ようではないか。かくてわれわれは起ち上がり、死衣を脱ぎ捨て、今日まで肉体をしばりつけてきたすべての制約より脱する。
物質感という墓石、即ち、内なる生命と外なる生命とを引き離し、生命の表現形態である肉体のもつ生への権利を認めず、そのためそれを死の中にとどめて、生への復活を否定する考え方という重荷を、われわれの意識から取り除けるのである。では起ちあがり、死より脱出しようではないか――以上が甦えりの意味である。
それは、かの全智、全能にして遍在する生命が今、此処に於いて既に完全に実現している、ということに目覚めることである。在らざるところなく、力なきところなく、意識せざるところなく、完全にあらゆる処に在り、力に溢れてすべてを知り、自由にして、輝か満つる表現と、不断に拡がり行く行動。
この悟りに情(こころ)が炎と燃えた時、わたしたちの全存在はこの内なる生命で輝き、わたしたちもまた直ちに手をのばして、『ラザロよ来り出でよ。墓より出でよ。汝は死の世界の属するものにあらず。生の世界に出でよ。迷妄より目覚めよ。今此処において目覚めよ』ということが出来るのである。
それとともにわたしたちは自分が大師であるという意識に目覚める。しかし又、この目覚めを余所事(よそごと)として傍観している人達の鈍き心に泣くであろう。この目覚めは過去数千年もの間、人類に示されて来たのに、多くの者が徒(いたず)らに惰眠を貧りつづけている。しかし彼らが惰眠を貧っているからといって、わたしたちまでそうしてよいということにはならない。
わたしたちが目覚めて見せて、初めて人類全体がこの正当なる相続(神の子として神の一切の権能を受け継ぐこと-訳者註)に目覚めるのである。わたしたちがこの正当なる相続に目覚めた時、わたしたちの身体が常に美しく純粋なる霊体であり、最も神聖、荘厳、真実なる神の宮であるという、永遠の昔から伝えられて来た真理の美しさと純粋さに、又目覚めるのである。
その時、わたしたちの身体は、本来この至高の状態より未だ曾て低下したことはなかったのだという確信が出てくる。低下したというのは、実は人間が勝手にそう思い込んでいたのである。このような迷いが消える時、わたしたちの体はその本来の伸性なる相を取り戻す。
その時、丁度炎熱の程よく冷めた夏の宵の香りがすべての風物に漲(みなぎ)るが如くにも、わたしたちの体に光りが耀(かがよ)い始める。間もなく純粋な白光線が体内に現われ、次第に輝きを増して体全体に漲り、この柔らかく輝く生きた光は丁度、白金色の雰囲気のように周囲の清澄な大気に及んでゆき、次第に光を増していって、遂には一切の周囲のものを蔽い、一切の周囲のものに浸み渡ってゆく。
更にこの輝きの中にあって、純粋なダイヤモンドよりも尚まぶしくきらめく結晶状の白光が現われる。それが実にわたしたちの体より発し、純粋な光を放って美しく輝くのである。ここにおいてわたしたちは、神の生命に完全に浸り、美しく光り輝く体をもって、『聖なる変貌の山』(1)にイエスと共に立つ。即ち、人の子が神のキリストとなったのである。
かくて神の国が再び人類の中に現れたのである。しかも前にも増して活力を以て出現したのである。何故なら、イエスのほかにも人々が完全にこの神の王国を受け容れ、且つそれを実現したからである。神の国の光は、それが認容された時に光を増すのである。これが、人類が今日まで常に持って来た、また現に今でも持って来ている真実の体なのである。
そのような体は常に存在して来たし、又今後も常に存在するであろう。この体は、かくの如くにも光り輝くものである以上、いかなる老齢や老朽も巣喰うことはできない。又かくの如く活気凛々としているが故に、死に果てることもない。よしんば千回も十字架につけられようと、つけられる度毎に勝利をもって復活するのである。又、いかなる逆境におかれようと、聖なる主として聳え立ち、永遠に復活する。
この教えは二千年前にも新時代の教えであったが、今日においても尚新しき教えであることを失わない。当時も今日も同じである。それは刧を経りたる教えの再誕に他ならない。この教えは数拾万年(2)も前は赤ん坊でさえ分る程の易しい言葉で語られたものであった。即ち、人間は自分の自由意志で造り上げた世界を脱皮して神の王国に進化して行くということである。
人の子は、自己の神性を悟り、この神性を自己の体と事物とに顕わし、神の王国において神のキリストとなることになっている。『汝ら、汝らの神なるを知らずや』(3)である。この汝らの内なる王国は世界で最も自然(natural)なものである。人がもしキリストの中にあるならば、全く新しい者となる事実を、あなた達は見落してきた。
『人々に王国を与え、皆が王国に入ることは、父なる神の大いに喜びとし給うことである』。では一体、それは何時、実現するのか――という質問が出てくるが、その答えは常にきまっている。即ち、『外が内に等しくなった時』である。ドングリの中に睡っている柏の大木も、殻を破って大きくなる前に先ずドングリ全体が目覚めなければならない。
『目がまだ見た事もなく、耳がまだ聞いた事もなく、未だ曾て思い浮かんだ事もないような事を、神は御自分を愛する人々の為に備えて置かれた』(4)のである。宇宙という広大なる構造物の中には、一人一人の人間にふさわしい場所があり、各人が各人なりの場所を持っていることを神は知り給う。
各人がそのふさわしい処にあるからこそ、宇宙という建物は建っているのである。この教えを教わった時、すべての人々の荷は軽くなり、各人の顔、とりわけ、口をきくすべもなく、鞭もて追われる家畜のように働かされていると思う疲れし人々の顔も、微笑を以て飾られるのではなかろうか。
かくて、わたしはあなた達に言うが、あなた達は特別に考え出された被造物であって、特別の使命があり、与えるべき光を持っており、他の者では与えることも成就することもできない仕事を持っているのである。あなた達が自分のハートと心と魂とを神の霊に大きく開くならば、この事実がおのずとハートの中で悟られるであろう。ハートの中であなた達自身の父なる神が、あなた達に語りかけることを知るであろう。
あなた達がこれまで自分自身を気紛れ者とか、無分別者などと思ってきたとしても、内なる神に帰った瞬間に、父なる神はあなた達を献身的に優しく愛しておられることが分かるであろう。神から受けた聖油はあなた達の中に常に在るのであって、何人の教えも必要としないのである。これこそ旧き思想からの甦りではないか。
『汝ら何人よりも教えを受くるに及ばず』(5)とある通りである。ただ本来、自分のものであった油注ぎを神から受けることだけが必要なのである。他の人々を同胞とし、助言者として受け容れることはよい、しかし本当は常に内より教えられ、導かれるのである。真理はそこにあるのである。いづれ、あなた達は、それを悟るであろう。
人類は全体として、一個の完全なる単体である。ただの一個の単体ではなく、一個の偉大なる単体であると、真理は常に教えている。神と結合した時、人類は巨大なる一者である。人類は同胞以上のものである。葡萄の木と枝で一本の葡萄を成しているように、人類は全体として一人なのである。いかなる部分、ユニット(単体)も全体から引き離すことはできない。
キリストの祈りも、『彼らが一つとなるように』である。従って『これらの同胞のいと小さき者にした者はわたしにした』ことになるのである。今やあなた達は、天と地に在る全同胞が、キリストと名づけられる者であることが分かったであろう。『すべては一なり』、一つの霊、一つの体、全人類という偉大な主たる体――これが真理である。この体は偉大なる神の愛、光、生命とによって完全な一なる全体として融合するのである」
訳者註
(1) マタイ伝十七章一節以下、マルコ伝九章十二節以下、ルカ伝九章二十八節以下。
(2) ムー、アトランティス両大陸とその植民地は、数十万年前に出現した。
(3) ヨハネ伝十章三十四節、旧約聖書詩篇八十二章六節。
(4) 新約聖書「コリント人への第一の手紙」二章九節。
(5) 新約聖書「ヨハネの第一の手紙」二章二十七節。
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