◎ヒマラヤ聖者の生活探究 第三巻 ~第十八章 イエスの自己完成への苦斗~ P272~279
・・・・。こうしてイエスは又、話し出されたのである。
「詩篇第二十三編のダヴィデの祈り、『主はわたしの羊飼い、わたしは欠乏することはないであろう』について考えてみよう。これが懇願する祈りでないことにお気づきであろう。この本当の意味は、一大原理(神)がわたしたちを歩むべき道へと導き入れること、即ち、大原理がわたしたちの道を先導していること、かくして曲がった道も真直ぐになるということなのである。
丁度、羊飼いが彼を信じ、彼に頼っている羊たちの面倒を見るように、この原理はわたしたちの歩むべき道を準備してくれているのである。かくしてわたしたちは、『わたしたちの父が導くのであるから、わたしは恐れない』と言うことができる。よき羊飼いは、羊たちのためになるものがすべて調っている場所を知っている。故にわたしたちは、『わたしは欠乏することはないであろう』と言えるのである。
ダヴィデと共にわたしたちは、『わたしは欠乏する筈がない』と言える。なぜなら、真我即神我(I AM)は、あらゆる悪しきものに対して護られているからである。わたしたちの物質的な欠乏はすべて満たされる。緑の牧場で十分に養われるだけでなく、他にも分け与えるほど豊かに余るのである。そしてすべての欲望がすでに満たされているという全き安心感に安らぐ。
一切の疲労感も離れ去り、ダヴィデと共に、『主はわたしを緑の牧場に横たえて、静かなる流れのそばに導き給う』ということができる。静けき淵の蒼さは心に大いなる平安を与え、悩める心を静める。身も心も安らいでいると、至高き原理の天来のインスピレーションが、生命と力の純光で魂を満たす。わたしたちの裡なる光が、わが主(ロード)、即ち人はすべて一体であるという法則(ロー)の栄光と共に燃える。
霊のこの放射する光がわたしたちの理解力を新たならしめ、わたしたちの真我を悟り、無限なるものと一体であり、各人が、原理(神)の完全なる相を顕現するために、この原理より送られてきていることを知るに至る。魂の深き静けさの中にあるとき、わたしたちは純粋我に還り、自分が全体であることを知る。かくて『彼はわが魂を蘇らしむ。まこと、われ死の蔭の谷を歩むとも、われは災いを恐れじ』となる。
ここにおいて、わたしたちの肉体は安らぎ、神はわたしたちの心を静め給い、魂を安らかならしめ給い、光もてわたしたちを照らし給いて、人に仕える者とならしめ給う。かくして、わが裡に用意は完全に整う。然からば外部よりいかなる試練が来ようと、それによって害されると妄想することが出来ようか。いかなる困難があろうとも、助け手である神は常に手近に臨在し給う。
神の中にわたしたちは生き動き、神をわが実存とするのである。故にわたしたちは一斉に言う、『すべて善し』と。各人が今や、『神の愛、われを群の中に導き給う。この群より、われ迷うとも正しき道を示されて、われを直したもう。神の愛の力、われを美しきものに引き寄せ給う。かくて災いは、すべてわれに閉さる』ということができる。
今や各人はダヴィデと共に、『故、如何となれば、なんじわれとともにあり、なんじの鞭、なんじの棒、そは、わが慰めなればなり』ということができる。この修行を始めるにあたり、あなたたちはまず第一段階をやってみることである。そうすれば、真理、即ちすべての生命現象の下に横たわっている基本的な科学的事実と、それに至る道を覚知するようになる。
かくして得る怯悦や悟りは、一応はこれまでの如何なる体験をも凌駕する。しかし、やがて恐れや失望がいつのまにか忍び込み、前進が鈍るように思われる。あちらこちらともがき求めるが、空しく敗れ去るかに見える。大願成就のための苦斗は人間にとっては余りに大きすぎ、実現しそうにもない。やがて自分の周囲に数多くの失敗が目につき始める。
そうして言いだす、『いたるところ、神の子らは息絶えつつある。わたしの理想とする久遠の生命、平安、調和、完全を一代で成就したものは、一人もいないではないか。所詮、解脱は死後にのみ来るのだ』と。かくて理想を放下し、大方の人々と共に退歩の流れに乗って下へ下へと漂う方がましという気に一時的になる。また人類意識にはもう一つの難点がある。
たとえば霊的に大きな悟境に達していて成功すべき筈の人が失敗する。そうして人類意識が更にまた人間をがんじがらめにしてしまう。それが世代を重ねてゆくうちにますます強くなる。従って人間の性質が弱く脆くなってゆくのに何の不思議があろう。そうして銘々が次々とその後を追って同じ永遠に廻る踏み車へと向かって行く。盲者たちがゾロゾロと久遠の忘却、大いなる渦巻の中へとつながってゆく。
この渦巻の中では肉体が分解腐朽するだけでなく、魂までが人間的才覚と誤謬という決して容赦することなき碾臼(ひきうす)のあいだで砕かれるのである。善悪という人間心を次々と積み重ねてゆき、やがてそれが厚い外殻となり、様々の経験を重ねるうちに層一層と厚くなって、遂にこれを打ち破って自分の真我を解放するには、超人的な力と大鉄槌とを必要とするようになる。
しかし、そのような迂遠な方法よりも、この地上一代で解脱する方法があり、その方が遙かにたやすいことを、わたしやその他多くの聖者たちのように、あなたたちも悟得して欲しいと思う。今述べた殻を打ち破って、真我を見性するまでは、人はこの渦巻の中で砕かれ続けるであろう。自分自身を見事に解放して、地平の『より大いなる眺望』を一見するまでは、修行し続けることである。
この『より大いなる眺望』を一瞥(いちべつ)したとき、あなたたちの苦斗は一旦止み、心の視力(ヴィジョン)が明らかとなる。しかし肉体は尚、殻の中にこもっている。新しく生まれる雛(ひな)の頭は殻から出ていても、なお苦斗をつづけなければならないことを知るがよい。生まれ出る雛が自分の発育の源であった胚卵の格納されている卵殻に穴をあけ、すでに感じ取っていた新しい世界に成り出でる前に、この雛はまず古い殻、環境から完全に自由にならなければならないのである。
わたしが少年の頃、父と共に大工の仕事台で、神より生まれたいわゆる人間には、人間として生まれての短い生涯を生き、その短い生涯に人間の造った律法(おきて)、・迷信・因襲という碾臼に挽(ひ)かれ、かくてせいぜい七十年の生涯を苦労しつづけてから天とやらに行き、当時の僧侶たちの餌食となってだまされ易い心の中以外には、理屈からいっても存在する筈のないところの、竪琴を弾き讃美歌を歌うという光栄ある報いとやらを受けることよりも、もっと高い生き方があるとわたしが悟ったことには、あなたたちには全く気がついていない。
この大きな内なる目覚め、悟りの後、只一人自分自身の中でみずからを友として独居と沈黙の中に長き幾昼夜を過ごしたことを、あなたたちは全く見落としている。やがて自我を克服してわたしの悟り得た光が大いなる明光であり、これこそが創り出される神の子ら、言いかえれば、この世に来たるすべての神の子らの道を照らす光であることが解り、わたしのいたく愛する人々にもこの光を示そうと思ったのに、却ってわたしはこの人々の間で遙かに苦しい経験をしなければならなかったのである。
悟りによってまだ垣間見ただけではあるが、それでも迷信と不調和と不信の泥沼を超えて見ることのできた新しい生き方を取り上げる代わりに、いっそ今のままでいって大工にでも成り、僧侶達や伝統宗教のいう短い寿命とやらを送ろうかと思ったりもする、あのわたしにつきまとった大きな誘惑を、あなたたちは全く見落としている。
わたしが覚知した光を示してあげようと努力した人々から受けた苦しみは兎も角として、自分の親戚縁者からでも幾度となく浴びせかけられた不名誉な侮辱という肉体的苦痛を、あなたたちは完全に見落としている。それに堪えるためには、わたし自身の意志以上の或る強い意志を要したこと、この意志がわたしを支えてこれらの試練を乗り超えさせてくれたことに気づかない。
わたしにつきまとった試練と苦斗、誘惑と失敗とは、あなたたちにはほんの少ししか分からないのである。光がそこに在ると見て知っているのに、まさに消えなんとして最後の一瞬(ひとまたた)きをしているのではないかと思われたり、時としてその最後の光も消え、影のみが取って代わっているのかと思われ、挙(こぶし)を握り歯を喰いしばったことが、どんなに度々あったことか。
しかしそのような時でさえ、わたしの裡には依然として変わることなく強く支配する或るものがあり、そのため、影の背後にも光が依然として輝いていたのである。わたしは前進し、影を捨て、一時小暗くなっただけに却って一層明るくさえなった光を見出したのである。その影が結局は十字架となったときでさえ、わたしはその向こうに、いまだ恐れと疑いと迷信とに浸蝕されている俗世の人々の理解を超えた勝利に輝く朝の目覚めを見ることができたのである。
神は聖なるものであり、神の像(すがた)に似て生まれた神の真(まこと)の子たる人間も亦、父のごとくに真の神性であること、且つ又、この神聖なるものこそが、すべての人が見て感じている真のキリスト(神我)であり、それは自分自身の内、そしてまた神の子らすべての者の中にあること、それは神の自由意志と自分自身の自由な想念と純粋な動機とによって、まず自分自身に対して証明ができるものであることを、前にも話した実際の体験と接触とによって知るためには、最後の滴(しずく)まで呑み乾そうと、わたしをして固く決意せしめて前進させたのは、実にこの悟りだったのである。
この真のキリスト(神我)は、この世に来たるすべての子を照らす光である。それはわれらの父なる神のキリストであり、且つその中で、わたしたちはすべての久遠の生命と光と愛と真の同胞(きょうだい)関係――即ち神と人との真の父子関係をもつのである。この真の悟り、即ち真理によってこれを見れば、人は王も、女王も、王冠も、法王も、僧侶も要らぬのである。
真の悟りを得た人が王であり、女王であり、僧なのであり、すべての人は神と偕(とも)にあるのである。あなたたちはこの真の悟りを拡げて、全宇宙のありとあらゆるものを包容し、神から与えられた創造力をもって、神の為し給うごとくに、それを囲み繞(めぐ)らすがよい」
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