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【自己アセンション】 ヒマラヤ聖者(22) 大師(マスター)とその奇跡について

2012-05-08 05:37:48 | 【自己アセンション2】 ヒマラヤ聖者

ヒマラヤ聖者の生活探究 第一巻 第一章 超人エミール師との出会い P20~24

・・・。この時分までにはエミール師が選んで下さったヒンドウ教に関する本を五、六冊読んでいたので、エミール師がアデプト(超人・大師)(4)の一人であることを固く信ずるようになっていた。

従って、わたしは好奇心をひどくかきたてられ、エミール師に対する関心は高まっていく一方であった。さて、或る日曜日の朝、エミール師と一緒に野原を散歩していると、わたしは先程からわたしたちの頭上を円を描きながら飛びまわっている一羽の鳩が気になってならなかった。「あの鳩はわたしを探しているんですよ」と師は、さり気なく言うと、歩みを止めて深い沈黙に入ってしまった。

数分すると、鳩は師のさしのべた腕の上に舞い降りてきた。鳩は北の方にいる師の弟から音信を持ってきたというのである。その弟という人は、やはり同じ真理の道を歩んではいるが、直接、兄に意思を伝達するところまでは修行がつんでいないのでこの方法を用いているのだそうである。あとで分かったことではあるが、大師がたは思念伝達(〔テレパシー〕大師がたの言い方によれば、電気や無電よりもはるかに微妙な或る力)によって、瞬間的に相互の通信ができるというのである。

それからわたしのいろいろな質問に答えて、師は鳥たちを呼び寄せること、空中を飛んでいる時でもその飛び方を指図できること、花や木でも本当にうなずくこと、野獣でも少しも恐れないで寄ってくること、小さい動物を襲って喰い殺し、あとの死体を奪い合って闘っていた二匹のジャッカル(山犬)を引き分けたこと等を話してくれた。その山犬など、師が近づいていくと闘いをやめて師のさしのべた両手の中に、すっかり信じ切った様子で首を入れて静かに食べ合ったそうである。

師はある時、一匹の野獣の子をわたしに与えて、両手で抱いてごらんと言ったことがある。さて話をもとに戻して、エミール師はこう教える。「こういう風に動物でも支配できるのは、いつも五官で見ているような死すべき自我ではなく、もっと真実なもっと深い真我なのです。こういうことをして見せるのも私の自我ではなく、あなた方のいう神、即ち内在の神、わたしを通して働き賜う全能にして一なる神なのです。

死をまぬがれぬ小我としてのわたしみずからでは、何事をも為し得ないのです。あなたが今までに見てきたようなことがわたしにできるのは、わたしが外的な現象を完全に捨象し、真実なるもの、即ちI AM(神我・われ神なり)〔自己の実相・内在の神〕(5)に語らしめ、為さしめ、しかして神の大愛を出させるときだけなのです。

あなたを通して神の愛がすべてのものに出ていくとき、なにものもあなたをおそれず、どんな災害もふりかかることはありません」この期間、わたしは毎日のようにエミール師から教えを受けたものである。師はよくわたしの部屋にパッとだしぬけに姿を現した。寝る前にドアーに念入りに錠をかけてみてもそうであった。

最初のうちは、この勝手な現れかたに悩まされたのであるが、間もなく、師の方では当然わたしたちにそれが理解できているものと予期していたことが分かった。こんないき方にも慣れてきたので師が自由に出入りのできるようにドアーを明け放すことにした。これはわたしが師を信頼することになるので、喜んでおられるようであった。

その頃はまだ師の教えが全部わかるというほどではなかったし、百パーセントそのまま受け容れることもできなかった。また、極東滞在中にいろいろなことをこの目で見るには見たが、その頃としては全部をそのまま受け取るわけにもいかなかった。結局、この大師がたの生き方の深い霊的意義を悟るには、数年の思索が必要だったのである。

大師がたには何の見栄も衒(てら)いもなく、お仕事の仕方も全く子供のように純真であった。愛の守護力をよく知っており生きとし生けるものすべてに愛され親しまれる処まで愛を開発するのである。毎年、何千人という人が毒蛇や猛獣のために生命を落とすが、大師がたは内なる愛の力を発揮するから害を受けることがない。

時には未開のジャングルに住み、時には猛獣の惨害より村を守るために、自ら進んで、村の入口に身を横たえることもある。時によっては、水の上を歩き、火の中をくぐり、肉体の姿を消したまま往来し、その他何か超自然力の所有者にしかできないと思われる所謂奇跡の数々を行う。その日常生活が例証するように、大師がたの生活と教えとキリストのそれとの間には、著しく似かよったものがある。

『普遍なるもの』(the Universal)から日常の必要品を直接パッと引き出すこと、死に打ち勝つこと、その他キリストが地上に生きておられた間に為し給うたいろいろの所謂奇跡を演ずることは、人間にとっては不可能と思われてきた。ところが、これらの大師がたはそれが日常茶飯事であることを実証しておられる。大師がたは食料、衣料、金銭(6)を始め日常の生活必需品を直接『普遍なるもの』から得ておられるのである。

又、今日まで死も克服してきており現存の大師がたの多くが五百才を超えていて、戸籍もまたそれをはっきりと証明している。いろいろな他の宗教でも、この大師がたの教えの分派にしかすぎないようである。このような大師はインドでも比較的少数しかおられない。大師がた自身その数が限られていることや、学者達の訪ねて来れるような人はごく少数しかいないことはよく御存知である。

しかし大師がたは不可視の世界に於いては無数の人々に接触することができるのであって事実不可視の世界に入ってその教えに感応する人々を援助するのが、大師がたのお仕事の大部分のようである。後年、この国々で第三次調査の際に取り上げることとなった事業の基礎をきずいたのは、このエミール師の教えであった。

この第三次調査の際は、わたしたちは三年半もの間、絶えず大師がたと一緒に暮らし、共に極東を旅行して、この方々の日常生活とお働きとを観察したものである。

訳者注
(4)大師(マスター)と同じ。
(5)(A)人間の実相は肉体に非ず、様々の心に非 ず、神に等しいものである。故に、人間の実相は神と等しく無限の知恵、愛、生命、美、歓喜、調和、豊富、等である。それらをどこまで出すかは、本人が自分の能力、才幹をどの程度までと思い込むか、即ち「私はどの程度まで・・・である」(I AM)かによって決定される。故に、人間は常に「私は無限(例えば、愛、知恵等)である」と観ずべきであるとの意。
(B)元来はGOD I AM(吾神なり)の省略。又「私は実在する」の意。Eternal isともいう。実相に対して肉体、心等を仮相、小我、低我等という。(本書第五巻第二章は特にその解明にあてられている)
(6)実際には現金そのものは、止むを得ない時以外には、物質化されることは決してない。

 

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