◎ヒマラヤ聖者の生活探究 第二巻 第七章 蘇ったチャンダー・センの教え P108~113
・・・。約二週間この仕事に没頭してから或る朝、廟に行ってみると、意外にもわたしたちの友チャンダー・センがいた。
彼は誰の目にも明らかなように、一旦死んでから又生き返り、生き返った時にはもう何ひとつ老齢の痕さえとどめていなかったのである。まぎれもなくその彼がいるのである。一同が部屋に入ると、彼は立ち上がって進み出て、心から挨拶をのべ握手を交わした。彼を取り囲みいろいろの質問をした時のわたしたちの驚きは読者にも想像できよう。
わたしたちはまるで授業から解放された学童のようなもので、てんでに質問を浴びせかけた。しかし事実はあくまで事実である。姿といい声といいまぎれもなく彼である。しかも老齢の痕跡一つない。声すらが壮年の活気を取り戻しており、彼の全体に、よく発達し軽快敏捷な生々とした生命が映っている。目の表情といい顔の表情といい言葉では表現のしようもない。
始めの数分間というものは、只死の前と甦りの後の様子を較べるばかりであった。初めて会った時の彼は、ヨボヨボの老人で、長い杖に身体を支え、髪は雪のように白く、足どりも覚束なく、痩せさらばえていたものである。或る隊員はその頃こう言ったものである。「この偉大な魂の所有者達の中にも、こんな年を取り過ぎた人も居るんだなあ。今にも偉大なる彼岸(死)に移って行きそうじゃないか」。
数日前、わたしたちが目撃したあの変貌は勿論、印象に残っていたが、何しろ突然姿が消えたものだからもう二度と会えるとは思ってもみなかったので、自然にあの出来事もわたしたちの心からは消え去っていたのである。彼のこの変容は単なる若返り以上のものであった。これに比較のできるのは、わたくしたちがいたく愛し敬する御方(イエス)のあの変容だけである。(中略)
最初の昂奮がいくらかおさまると皆んな着席し、彼は語り出した。「肉体が一番程度の低い思考活動を代表するように霊は神の心の最高の想念を代表します。肉体とは想念の外側の現れです。そのように霊(スピリット)とは聖心より出づる最初の発想を形相が受け取る場であって、不滅であり、その中に聖心の一切の諸勢力が備わっています。
想念の零囲気はリアルな実質的なものであって、その中には肉体を造るすべてのものがあるのです。目に見えぬものは空想の産物だと思う人が多すぎます。そういう人はまた、自分自身を隠しおうせるものではないと繰り返して言われても、隠しおうせるものと信じ続けています。アダムとイブとは主即ち神の法則から隠れた積もりだったが、隠しおうせたでしょうか。
わたしたちは、実は自分の周りに自分の一生の記録を公開して歩いているのであって、こちらが知ると知らぬに拘わらず、他の人々はみなこの記録からわたしたちの在りようを読み取ることもできるのです。もっとも想念を汲み取るのに鈍い者もおれば巧みな者もいます。しかし誰でも少々は読み取れるものです。故に何人も自分自身を隠せるものではないのです。
又わたしたちの想念の零囲気は、じわりじわり不断に凝結して肉体に現れ、言葉に代って自分を語り、外からでも分かるものです。わたしたちは一寸修錬すれば、わたしたちを取り巻くこの零囲気という想念の力を感ずることができるもので、確かに外界と同じように実在するものであることが分かるようになります。
人間は足で大地に触れることが出来るが大望という翼に乗って天の高みにも天翔けることも出来るということを、わたしは学んだ。昔の方々のように、人間は地上を歩きながら神と語ることも出来ます。それがより多く出来れば出来るほど、普遍生命がどこで終わって個の存在がどこで始まっているかが、いよいよ見分けがたくなって行きましょう。霊的理解によって人間と神との盟約ができれば、神と人との限界線は消失してしまいます。
ここまで到達した時、初めて人はイエスが『わたしと父とは一つである』と語った意味が分かるでしょう。各時代を通じて哲学者達は、人間が三位一体であるという考えを受け取ってはきたが、人に三重のパーソナリティ(人間性)があるということは、結局彼等の信ずるところとはならず、その代わり人間を三即一の存在と考えて来たのです。
『祝福されたる三位一体』とは普遍心即ち神の遍在、全能、全智という意味に解した方が一番よいのに、すべてのものを人格化する傾向のために、一つの中に三つのものが在るというあり得べからざる考え方に堕してしまいました。『祝福されたる三位一体』を、一人の中に三人がいるなどと解釈する限り、或は又、説明は出来ないが兎に角、受け容れなければならないのだと解する限り、人間は迷路という荒野、従って又疑惑と恐れとの荒野の中に住むことになるでしょう。
神の三即一の性質というものが物質的なものでなく霊的なものであるならば、人間の三位一体も物質的観点ではなく霊的観点より観じなければなりません。或る賢明な哲学者がこう言っています。『賢明なる者は、他のすべてを軽視して、「我」(われ)についての智識を求めるべきである。自己の実相についての智識ほど高い智識はなく、又満足すべき力を与えてくれるものもないからである』。
もしわたしたちが自己の真我を知るならば、自分の中に潜んでいる可能性、自分の隠された力、自分の中に睡っている能力を発見せざるを得ないものです。『人、全世界を儲くとも、己が魂を失えば、何の益かあらん』とある通りです。魂こそ人の霊的自我である。もしその人が本当に自分の霊的自我を発見するならば、又発見して同胞に奉仕するならば、その人は全世界を築くことが出来るのです。
最高の目標に達したいと願うものは、まず自分の真我の深さを探究すべきである。そうすればそこに神、即ち一切の全き善きものを見出すということを、わたしは学びました。人間が霊的無智の状態にある時、人間の性質の一番低い面である肉体面で物事を考えるのも、実は人間が霊と魂と肉体とより成る三位一体であるからです。無智な人間は自分の肉体から得られる限りの快楽を求める。
しかし、そのうち五官からあらゆる苦しみを嘗(な)める時が来る。英智によって悟るはずのものを、彼は苦悩を通して学ばなければならない。多くの経験を繰り返して後、初めて彼は英智がより勝れた道であることを肯定するようになります。イエスやオシリスや仏陀は、『あらゆる努力を払って我々は英智(悟り)を得なければならない』と言いました。
想念は知性の面で働き、肉体のヴァイブレーションをいわば液体に相当する点まで揚げる。この面では、想念は全くの物質でもなければ、又霊でもない。それは丁度、振子のように物質性と霊性との間を揺れ動いています。しかしその内、どちら側に奉仕するかを決めなければならない時がやってくる。物質を撰べばその先には混乱と混迷の世界が彼を待っている。彼は霊を撰ぶことも出来る。
そうすれば彼は人の中にある神の宮のドーム(円頂閣)に昇ることが出来る。この状態は丁度物質のガス状態のようなもので、弾性があり、無限に延びる可能性がある。液体にも似た想念の流れを、かの天の高みを目差して統制し、かくて疑い、恐れ、罪と病という霧線(フオッグ・ライン)の遙か上にわが身を保つか、それとも人間の内なる獣性という汚濁(おじょく)の深淵に沈めるか、二者のいずれを決めるかを、神は常に人間に任せ給うのです。
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