「自己アセンション実現の会」☆自己無限化・全知全能化☆~最高レベルのアセンデッドマスターへの道~

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【自己アセンション】 ヒマラヤ聖者 (49) ヴィジョン実現化の必要要素

2012-06-05 09:36:48 | 【自己アセンション2】 ヒマラヤ聖者

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ヒマラヤ聖者の生活探究 第一巻 第二十二章 万象同根、万人同胞 P219~222

(48の続き:50歳位に見える男性マスターの話)
すべての偉大なる魂の持主たちは、自分のヴィジョンに忠実であるものです。すべて、今、現象しているものは、初めヴィジョン、即ち、魂の中に植え込まれた概念の種子が後に発芽して生長したものなのです。こういう魂の人達は、この想念の種子が外部の人達の不信に左右されることを断じて許しません。このヴィジョンの為には、彼等は犠牲をも厭わずに忠実にこれを守り、信じ、そうして遂に信ずるが如くに成るのです。イエスは御自分のヴィジョンに常に忠実であり、不変でした。彼は、最愛の近親者が不信不忠であった時でさえ、御自分のプランにしがみついて離れなかった。

かくしてイエスのプランは、彼の信ずるが如く彼に実現したのです。そして、それはすべての人々に対しても、又その通りであります。人が、『約束の地』に向けて旅立つには、まず暗黒の土地を見すて、それを忘れ去らなければなりません。闇黒を去って光明に向かわなければなりません。前進しながら停止するのは不可能です。古きものを捨てて新しきものにしがみつかなければならない

覚えていたくないものは忘れ、心に留めておきたいものだけを覚えるようにしなければならない。前者も大事だが後者もまた大事です。もしヴィジョンを実現したいと望むのであれば、ヴィジョンだけを覚えておくことです。生み出したいと思うヴィジョンを心の中にしっかり持ちつづけて覚えなければならない。実現したくないものは忘れなければならない。覚えることを拒否しなければならない

ヴィジョンを実現させる為には、すべての想念、考え、言葉、行為をヴィジョンに忠実ならしめなければなりません。これが本当の思念集中、献身の集中、本質への力の集中であります。これが理想を愛することです。理想が表現されるのは、ただ愛によってのみです。愛は理想を現実化します。初め失敗しても、決意を固めて前進することです。それは意志の体操であり、自信の叫びであり理想に力をふり向ける信念の表現です。

理想は、このように力を意識的に向けもしないで、或は又このように意志の体操をしないで、達せられるものでは決してないのです。しかしその意志も理想的でなければ、それは理想それ自体にとっては致命的となります。意志にはその仕える理念と同じ性質がなければならない。もしも意志自体の方で仕えようという気持ちが起こらなければ、魂の力の出ようがありません。

自分が他人から仕えられようと意志すれば生命の流れは『我(われ)』に背き、仕えようと意志すると、生命の流れが『我』の中を貫流しつづけて『我』が光輝を放ち続けるのである。仕えることがヴィジョンに目的を与え、生命の中に愛を放出する。愛が先ず生命を現す当の本人の中を流れ廻らずにいて、外に現れるなどということがどうして出来ましょう。

愛が意識の中を流れて行く時、全体の器官がこれに感応する。全体の細胞が感奮する。すると肉体は調和し、魂は光輝を放ち、心は啓示を受け、想念は明敏となり、生気を帯び、的確となり、言葉は積極的、真実、建設的となり、肉体は更新され、浄化され、活力を与えられ、万事が整い、すべてはその処を得るようになります。かくして実相〔『われ神なり』(I AM・神我)〕が個我を通して表現され、個我はもはや実相『われ神なり』〔I AM・神我〕を抑圧できなくなる。

肉体が大霊に柔順でなくなれば、どうして肉体は大霊を現すことが出来よう。現在意識が大霊の力を学ぶためには、大霊を求め欲しなければならない。そうすれば個我は、大霊こそは欠乏を満たすものであることを知るようになるものであります。個我が大霊の催しに従って、他の人を救ってあげた時ほど、大霊が高く表現されることはないのです。他の人々へ愛が流れて行く時に初めて大霊の倉は開かれます。

神の無限の倉をすべての人々に開くのは、『我仕えんと意志する』ことです。奉仕しようと意志した時には、もう魂は父なる神の家に戻っている。今までの放蕩息子も奉仕するようになって初めて歓待される息子となったのである。籾穀を喰べていた雇人が宮殿の王子、即ち、彼自身の可能性の主人公となったのである。彼は神の愛を知り、父なる神の賜物を理解し、専用する。

子の他には何人もこの賜物を受け取ることは出来ない。下僕は常に求めるのであるが、子は父の持ち給うすべてを既に嗣いでいるのである。自分が父なる神の家族であって、父なる神の持ち給うすべてを嗣ぐ者であると知る時、その時こそ、わたくしたちは父なる神の望み給う生き方をし始めるのであります。『見よ、今や我ら神の子らとなれり』。

神の子であるとの意識は願望の充足をもたらし、下僕であるとの意識は欠乏をもたらす。身(行い)口(言葉)意(思い)において、わたくしたちが神の子としての役割を果たすや否や、わたくしたちのすべての心願が父なる神によって満たされることを必ず知るでしょう。そして又、神の子等が自由であることをも必ず知るでしょう」。

ここまで語ると、語り手は立ち上がり、別れの挨拶を述べ、お互いにめいめいの宿所に到着したら会いましょう、と言い残して辞去された。
 

 

自己アセンション情報源 【アセンション会合のお知らせ


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