◎ヒマラヤ聖者の生活探究 第一巻 第十五章 人間完成への道 P145~148 (37の後半)
しかし、師には何かしら遥かに精妙なものがあると思う、と言うと、「それは人間の可死的な部分を不可死の部分と比べるからです。もし皆さんが神の性質(実相)のみを見て現象と現象との比較をしなければ、丁度わたしに対するのと同じような見方をすべての人達にすることが出来るでしょう。
言いかえれば、すべての人々の中にキリストを求めることによりその人達の中にあるキリスト即神なる実相を抽(ひ)き出すことになりましょう。わたしたちは決して比較などしません。常にすべての人々の中にキリスト即神なる本質を観るだけです。その意味では、わたしたちは皆さんの肉眼の視野の中にはないわけです。わたしたちは人の実相なる完全さを見るのです。
言いかえれば、わたしたちには完全なる眼力があります。ところが皆さんは他人の不完全な相を見ている。即ち、不完全な眼力しか持っていない。あなた方が立派な方に接してその教えを受けるか、只今のようにわたしたちを見たり話したりの出来るところまで意識を高め得ない限りは、わたしたちの教えが何かインスピレーションみたいにしか思えないでしょう。
しかし、わたしたちが誰かと語る時、或いは語ろうとする時は、インスピレーションを伝えるのではありません。それは本当のインスピレーションが受けられるようになるまで導いて行く一種の教えなのです。神から直接来て、あなた方を通して、神の現れたものがインスピレーションで、それを受けるようになった時、あなた方はわたしたちの仲間になったのです。
花の種子の中には、花の理想的な相が微細な点に至るまで既に備わっていて、時々刻々の営みによって拡がり、殖え、伸び出て来て、遂に完全な花となって咲き出ます。そのように神も亦その子等すべての理念像、神の表現媒介となる完全なる相を聖心(みこころ)の中に保持しておられます。わたしたちがもし理想的な行き方で神の表現媒体となるならば、花の場合以上に得るところは大であります。
すべて神にゆだねず人間我(が)の手に移す時にいろいろな問題や困難が起こるのです。これは何も一人や数人のことをいっているのではなく、皆に当てはまることです。わたしたちが少しもあなた方と異なる者でないことは先程も言った通りです。異なるのは理解の仕方だけであって、只それだけです。いろいろな違う主義、教え、教条、あらゆる角度のあらゆる宗教は、本来は皆、善なのです。
何故ならそれらはいずれも終局においては、一切のものの底には今日まで把握し損ねた実存という或る深き因子、触れ得なかった或るもの、本来おのれのもので正当に所有し得る、また正当に所有すべき或るものが存するという悟りに導くからです。人間を駆り立てて遂に一切を領するに至らしめるのは、実にこのものなのであります。
何かしら所有すべきもの、所有できるのに現実には所有していないものがあると知るだけで、人間はそれを目ざして進み、遂にそれを獲得するに至るものです。かくの如くしてあらゆる場合において一歩々々と前進の歩が踏みしめられていきます。
まず想念が神の意識から人間の意識の中に直接押し出され、先へ先へと進んでさえおれば、きっと前途に何かがあることが分かる。ところが、ここで人間はたいてい過誤(あやまち)を冒してこの想念をもともと自分のものと誤認してしまうのです。こうして彼は神から離れ、神の完全なる表現の媒体となる代わりに、自我流を冒し続けて本来完全となるべきものを不完全な現し方にしてしまいます。
すべて善き想念は神の直接、完全なる表現であります。このような善き想念が浮かぶときは、直ちにそれを彼自身の理想として、我の手を離して神の御手にゆだねるようにすれば、この理想は完全なる相をとって具体化します。
ここで彼が知らなければならないことは、神は人間以上のものであり、人間の業(わざ)はどんな場合でも神の理念を実現する助けにはならないことです。こうすれば人間は短期間のうちに、完全なる実相を開顕する方法が分かるようになります。人間が学ばねばならぬ一つの重大なことは、霊力や精神力とは永久に縁を絶ち、直接に神を表現することであります。霊力というものはすべて人間自らの造りだしたものであり、ともすれば人を誤らしめるものであります」







