◎ヒマラヤ聖者の生活探究 第一巻 第二十一章 愛こそ至高の力・天使の聖歌隊 P201~207
(45のつづき:800歳を超えるマスター、エミール師の母の発言)
磔刑(はりつけ)と昇天の後、イエスの体は霊的に極めて高度に発達した為、イエスは、周囲の人達にもイエスを見ることの出来る層までその意識を高めてやらなければなりませんでした。
それは丁度、わたくしたちが、今、わたくしたちの周囲の人達のほとんど全部の意識を高めてやらなければならないようなものです。イエスが刑死したその朝、マリアたちがイエスの葬られた墓に来て、石が除けられ屍衣がぬぎすてられているのを見ても、一定の意識層までイエスが境地を高めて下さるまでは、イエスに気づくことは出来なかったのです。
その後又、二人の婦人がエマウスへの道に立っていた時に、イエスが近づいてこの二人に話しかけられても気づかず、イエスが彼等と共にパンを分けられた時、初めてイエスと分かったことでした。それは、その時になって初めて彼等の意識がイエスを見得る高さまで高められたからです。丁度そういう風にして、イエスが他の人達に現れ、共に歩き共に話しかけ給うても、彼等の意識がイエスを見得る層で働いてはいなかった為、イエスが分かりませんでした。
彼等の意識がイエスの意識と同じ層まで上がった時、或は同じ層で働き出した瞬間にイエスを見始めたのでした。その時初めて幾人かが霊の意識、即ち霊の現実性を悟りました。そのすべての奥にある深い霊的意識がようやく分かりました。彼等はイエスの、霊の実在を知ったのです。しかしそれにも拘わらず、大多数の人々はまだ奥の霊的意義を悟り得る段階にまで達していなかった為、イエスを信じませんでした。しかし、やがて人間の卑俗な考え方の為に弊われていた神秘の幕は取り外されました。
『而(そう)して神殿の幕、上より下まで真二つに裂けぬ』とあるのが実はその意味です。即ち、すでに死を克服したり、という自覚が得られたのです。否、死だけではなく、一切の人間心の造り出した制約はそれを超越することによって、言いかえれば、わたしたちの意識がそういうものをもはや認めず、又、認めざるが故に存在しないという段階にまで高まることによって、超克することが出来るし、又超克されるであろうという自覚を得たのです。
もしこういう意識状態を人が愛し、且つ持ちつづけるならば、遂にはその通りになるものなのです。これは又、物質性という固い石の上に臥せっていたヤコブの得た啓示でもありました(2)。認めるものは現れる、ということが彼に啓示され、その悟りが彼を物質的束縛から解放しました。斑(ぶち)の子牛を産ましたのはこの悟りだったのです(3)。
わたくしたちが自分の理想とするところのものを、「形なきもの」の中に明確に入れると、普通の人間的意識には見えない「形象なきもの」から、直接に形をとって現れて来るのであります。牛の飲み水というのは、いわば鏡を象徴するにすぎず、この鏡によって心の中に持ちつづける心象が最奥の魂に映じ、受胎しやがて生まれ出るのです。今晩ここにお集まりの皆さんの場合もこれと同じであります。ごく少数の熱心な人々だけが悟り精進し続け内なる実相を顕現し本当の神のみ栄えを行うものです。
その他の人々は初めのうちはよろしいが間もなく物質性という第一番目の壁にぶつかり、それを超えるのに非常に多くの努力をしなければならなくなります。そのために、そんな難儀をするよりは、浪のまにまに漂った方がずっと気楽であると思い、やがて落伍するようになるものです。わたくしたち一行は、みんなこの地球上の肉眼に映ずる俗界に住まって来ました。事実わたくしたちは地球を離れたことはありません。
わたくしたちは低俗な意識をもっている人々にだけ見えないのであっても、もっと高い意識の層にいる人々にはわたくしたちが何時でも見えるのです。魂の中に入れておかれた想念の種子は観念となり、心の中で心象となって、やがては具体化し、具体化したものを又、わたくしたちは体験するのです。完全を思えば完全が出て来ます。そしてその逆もまた真理です。
強大なる樹の種子と最もか弱い花の種子との両方を植えれば、太陽と土は依怙(えこ)ひいきなしにいずれにも同じように働いて或は巨木となし、或はか弱き花とならしめるものです。神の霊と魂とも亦、人に対してそのような応え方をします。それは人の欲するもの、信じて求めるものは、何であれ与えるものだからです。死という関門を経て可視界を過ぎ去った者は、今度は幽界に現れます。
それは俗人は心霊界で働くようになっているからです。物質界=可視界と本当の霊界との間に大きな幽界が存在するのはその為です。本当の高度の霊的なものを目指す求道者は、この低俗な幽界を突破しない限り本当に高度なものを把握できるものではありません。高級な霊的なものを悟るためには、心霊現象を超えて直ちに神に至らなければならないのです。死は、魂をただ心霊界に解放するだけであって、そこで、又、魂はいろいろと現象化するのであります。
こういう風にして死んで行った人は、只一つの神の霊、一つの神の心、一つの神の体があるだけであって、すべてはこの一なるものから出て来て再びそれに還るのであるということを悟らなかったのです。この一者から出て、完全なる体を与えられた霊は、一なる神霊の一部分なのです。丁度、わたくしたちの腕が肉体全体の一部であって決して別のものではなく、わたくしたちの四肢がてんでに離れているものではなく、全体と一つとなっており、全体を構成する為にはピッタリと接合しなければならないようなものです。
そういうわけで一切の霊、神の表現し給うたすべてのものは、ピッタリと接合して初めて完全となるものであります。『彼等一つの場所にすべて集うべし』という聖言は、実はわたしたちが神の一つの表現であってすべてのものは一つの根源=神から来たものであることを自覚しなければならない、という意味なのです。これこそ真の償(あがな)い(at-one-ment)即ち、人間が神と一つであり、まさしく神の像(すがた)にかたどって造られたのであり、神はその像を通じて初めて人間の為に包蔵し給う理念を現し得るものである、と知ることであります。
神の抱き給う最高の理念が、わたしたちを通じて完全に現れるように、と欣求(ごんぐ)することが、『我が意志に非ず、おお神よ、貴神の意志の為されんことを』と言われたキリストの言葉の意味であります。意識的にすると、無意識にするとを問わず、神の意志を行わない限り人は低俗な考え方を超越することは出来ないのです」。
ここでしばらく話がとぎれたので、隊員の一人が物質の相対性について質問をした。それで彼女は再び話を進めた、「正確には質量というべきです。質量の相対性というべきです。ここで暫く五つの王国、つまり、鉱物界、植物界、動物界、人間界、神界のことを考えてみましょう。鉱物界のどの一部をとってみても、すべて一つの生命=神の生命の現れであります。鉱物の各部分が、空気や水という要素と結びついて解体或は分解したのが土壊となったのであって、その各部は依然として元の生命、即ち、神の生命をとどめています。
この鉱物界だけが、次の一段と高い神の表現である植物界の出現する場となります。植物は、それ自身この共通の一なる生命を含んでおりながら、こんどは鉱物界から又生命の一部を取って増殖し、神界を目指して一段と高い表現をします。これが又その次の高い神の表現体である動物を出現させることになります。動物は、同じくそれ自身一なる生命を含みながら、この生命の一部を植物から抽き出して増殖し、神界を目指して更に又一段と高い表現をします。
これが次の、神の一層高度の表現である人間界出現の契機となるわけです。人間がこの王国に達した時、彼はありとしあらゆるものが一つの根源から出て来たのであって、すべてのものは一なる生命=神の生命を持っていることを認識します。こうして彼はすべての物質的なものの上に支配力を得たのであります。しかしわたくしたちはここで止まってしまう必要はありません。
何故なら、すべては進歩するからです。人間はここまで到達してもまだ征服すべき新しい世界のあることを発見するでしょう。さて、わたくしたちは一切の空間には只一なる生命=神の生命が存在すること、全ては唯一の根源・唯一の根本資料から発していることを認めるところまで来ました。それならすべての資料は相関的即ち関連しあっているということになりますね。そうでしょう」
ここでお話しは終わり、やがて会食も終わった。テーブルと椅子が部屋から片づけられて、軽い談笑のひとときが続いた。姿無き合唱団の伴奏する歌とダンスもあって、皆が一緒にこのひとときを楽しんだことであった。姿無き合唱団も今度は姿を現して会衆の間を歩き、時には彼等の頭上に浮かんだりするのであった。最後は一同が参加しての音曲と歌と笑いとの爆発になった。
総じて、わたしたちが今までに見た中でもこれは最も印象的な情景であった。もしわたしたちが沈黙を守れば、姿無き合唱団の音曲は何時でも聞けるのだが、音曲に合唱が伴うのはこのような時だけであるということだった。その後数回試してみたら、事実わたしたちは音曲を聞くことができた。それは何時も低い美しい甘美なものであったが、数名の大師たちでも集まらない限り、あの晩のような歓喜にみちた屈託のない集会にはならなかった。
この音楽が天使の聖歌隊と言われているものだそうである。彼等はそれを『調和せる魂達の交響楽』と言っている。この部落にわたしたちは三日泊まり、この間に沢山の大師やその弟子達に会うことが出来た。三日目の夕方、彼等はわたしたちの冬の宿舎での再会を約して、姿を消したのである。
訳者註
(2)旧約聖書「創世紀」六章十ー十二節
(3)同 三十章二十五ー四十一節
(4)本文は、クリスチャンが頻繁に用いる「イエス・キリストのみ名により」とは、実は「神(宇宙)の法則により」との意味である事を明らかにしているのであって、本文を前者の伝統的な使用そのままで認める事は大師の意図に反することになろう。
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