◎ヒマラヤ聖者の生活探究 第一巻 第二十一章 愛こそ至高の力・天使の聖歌隊 P194~199
《註》語っているのはエミール師の母。この時アセンドして700歳以上(1巻P184)。自由に肉体を滅現できるマスターで通常は第七天というイエスのいる意識の場にいるという。
(43の続き)人類の心の底には、故里を恋するある深い情(じょう)があり、それは神の存在と、神が父なることをはっきり意識し、或は理解して初めて癒されるものであり、その他の何ものをもってしても癒されるものではないことを、わたしたちは一体どれだけ理解しているでしょうか。この渇きが実は神を求める心情の叫びだったのです。神を知るということほど、人間の魂が強く憧憬するものは他にはないのです。
まことに『彼(神)を正しく知ることは永遠の生である』のです。多くの人々が何かを成しとげたら、或は又、限りある卑俗な欲望を満たせば、満足や安らぎが得られるに違いないと思い、あれからこれへと常に移り渡って行く姿を見てごらんなさい。これらのものを追いかけて手に入れた所で、結局満たされるものではないことを思い知らされるだけです。或者は家や土地を欲しいと思い、或者は巨万の富を望み、或る者は博識に憧れる。
しかし有り難いことに、わたくしたちは、人間が外に求めているこういったものを、実は既に自分自身の中に蔵してることを特別に分からせて頂きました。偉大なる導師イエスは人類すべてにこの真理を理解させようとしたのです。そのイエスをどんなにわたくしたちは愛していることでしょう。イエスはあれだけの境地に達し得ただけに、美しいまでに凛然として卓越しておられます。わたくしたちはイエスの達したような内奥の至高所に到達した人々を全て愛しています。
わたくしたちはそういう人々を只その業績の故だけでなく、実際の人柄の故にも愛しているのです。イエスは大悟の後は決して現象という外殻に安住しようとはなさいませんでした。彼は常に御自分の存在の中心、即ちキリストなる実相に思いを致しておられました。イエスにあっては、キリスト即ち『中心の火華(ひばな)』即ち又、今尚すべての人々の中核に生きて在る内なる神が現れて物質=肉体人間を完全に統御していることを明示されたのです。
イエスはこうしてあの力強いみ業をされたのであって、あなた方と何処か違っているところがあったからではないのです。又、別に今の人々以上に強大な力を持っていたわけでもなかったのです。イエスは神の子であるが、わたしたちは神の只の僕にすぎないというものではないのです。イエスは現在のすべての人々と同じ一個の人間だったのです。丁度、あなた方が誘惑や試みの為に苦しんだようにイエスもまた悩み、誘惑を受け、試みに遭いもされたのでした。
キリストが肉眼でも見える肉体をまとってこの地上におられた間、独り毎日数時間も神と共におられたことをわたしたちは知っています。又、青年時代はわたしたちがこれまでに体験したことや、今日あなたがたが遭遇しつつあることを経て来られたことも、わたしたちは知っています。父なる神はそのすべての子等に『神の火華』を植えつけました。イエスはこの『神の火華』を自分の努力で一層明るく掻き立て、一切の生命と愛の力との根源である神御自身と意識的に一体となるようにしたからこそ、これらのみ業が出来たのです。
人は皆、人間的、肉体的、欲望、疑い、恐れを克服して、この『わが内なる、父なる神』『内在の臨在』を完全に意識し、認めるようにならなければなりません。イエスはこの内在の神に、その奇(くす)しきみ業(わざ)の功(いさを)を帰(き)し奉りました。わたくしどもにしてもなお学ばねばならないように、キリストもまた学ばなければならなかったのです。
現在のあなた方のように、イエスもまた幾度も幾度も試みて見なければならなかったのです。あなた方が今日、頑張らなければならないように、イエスもまた拳を握り歯を喰いしばって、『きっと成功してみせるぞ、わたしはキリストがわが内に住み給うことを知っているんだから』と言いながら、頑張らなければならなかったのです。
イエスを、昔も今も偉大ならしめたのは、内なるキリスト(神我)であります。すべての人々がイエスと同じ境地になれるのも又内なるキリストの故であります。こう申したからといって、わたくしたちがイエスを軽んじていることには決してなりません。何故なら、わたくしたちは口では言い表せない程、イエスを愛しているからです。
イエスは人々を神に導く為に、人々に罪や病や苦難から逃れる道を教える為に、又そういう人々に内在の父なる神を顕させる為に、そして又、同じ父なる神がすべての人々の中に宿っており、すべての人々を愛していることをすべての人々に教える為に、イエスは自我を完全に十字架にかけたのであります。イエスの生涯と教えとに出来るだけ従う者なら、誰一人としてイエスを愛せずにはおれません。
イエスはわたくしどもの完全なる兄なのです。しかしながら、もしもわたくしたちが生得の権利を売り渡してしまうのであれば、或は又、もしもわたくしたちが神の慈愛と深き法則を、軽視するか軽蔑するような気持ちで扱い、父なる神の家に背中を向けて放蕩息子のように遠国にさ迷い出るならば、たとえ家の中に平安や豊かな温もりや明るさがあっても何の役に立ちましょう。
人の世の塵(ちり)に倦(う)み、疲れて郷愁に堪え難くなった時、皆さんはふらつきながらも足を運んで、父なる神の家に帰ることができるのです。それは艱難辛苦という路上で起きることもあろうし、一切の物質的なものを喜んで放下することによって為されることもあろう。自分の知能をどんな風にして獲得したにせよ、皆さんはいずれは『至(いと)高き処』よりの召命という目標に向かってどんどん進んで行くようになるのです。
一歩一歩踏み出すごとに、強くなり大胆になり、遂には決して挫折や躊躇することはなくなるでしょう。あなた方は自分自らの内の魂の光耀を求めるようになるでしょう。その時、帰るべき家は実にわが内に今、此処にあったことを悟るでしょう。それこそわたくしたちが、『生き、動き、存在する』神聖なる遍在者なのです。わたくしたちは呼吸のたびにそれを呑吐(どんと)しています。心臓が鼓動するごとにそれを生きているのです。
あなた方は教えを受ける為には、わざわざわたくしどものところに来なければならないと思ってはなりません。自分自身の家へ、教会へ、祈りの家へ、或は又、何処であろうと自分の欲する処へ一人で行くことです。偉大なる愛の大師イエスがあなた方を援助して下さいます。最高の教えを受けた者、また今受けつつある人々全てが、あなたがたの今居るところであなた方の御援助ができるし、又常に御援助をしようと努力しておられます。
イエスを初めすべての大師がたは、救いを求める人々を何時でも救ってあげようと身構えていらっしゃるのが、わたくしどもにはハッキリ見えます。あなた方は只呼び求めさえすればよいのです。求める声が終わらないうちに応えが得られるでしょう。この方々は行住座臥、あなた方の傍におられます。あなた方は只、あなた方の傍を共に歩み給う大師がたのお姿が分かるようになるまで、自分の心の状態を高めさえすればよいのです。
そうなれば、あなた方は今後何かで挫けたりすることは決してないでしょう。大師がたは両手を拡げてこう言っておられます。『われに来たれ、吾汝らに安息を与えん』。これは何も死んでから来たれ、という意味ではなく、そのままで今来たれ、という意味なのです。あなた方の意識をわたしたちの意識の高さまで高めることです。その時見てごらんなさい、あなた方は、わたしたちの今晩の境地即ちすべての世俗的制約を超えた、豊かで自由な境地に立つのです。
平安、健康、愛、歓び、そして繁栄がここにはあるのです。これらは宇宙霊の果実であり、神の賜物です。もしわたくしたちが神のみを見上げて暮らすならば、どのような災害もわたくしたちの上に来ることなく、どのような害悪もわたくしたちに近づくことは出来ません。もしもわたくしたちが神に全託するならば、法則、即ちイエス・キリストの聖名(4)において、わたくしたちの病患は癒されるのです。(→45へつづく)
訳者註
(2)旧約聖書「創世紀」六章十ー十二節
(3)同 三十章二十五ー四十一節
(4)本文は、クリスチャンが頻繁に用いる「イエス・キリストのみ名により」とは、実は「神(宇宙)の法則により」との意味である事を明らかにしているのであって、本文を前者の伝統的な使用そのままで認める事は大師の意図に反することになろう。
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