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「自己アセンション実現の会」☆自己無限化・全知全能化☆~最高レベルのアセンデッドマスターへの道~

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【自己アセンション】 ヒマラヤ聖者(29) 神の天地創造と人間の創造力

2012-05-14 05:46:18 | 【自己アセンション2】 ヒマラヤ聖者

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ヒマラヤ聖者の生活探究 第一巻 第七章 無限供給 その実例と原理 P77~81

《註》アセンデッド・マスターのエミール師(500歳以上)の言葉。前(28)からの続き。

愛する同胞たちよ、初めに言葉があり、言葉は神と共にありました(6)。皆さんはこのことが本当にお分かりでしょうか。この天地創造の初めには、後に形造らるべきものはみな、精神的普遍原質量(誰かの表現に従えば、混屯(カオス))の中に未顕の形として在った。この言葉は言語では実存(Actuality)となっています。カオスというこの言葉は、誤って混屯或いは相闘う状態の意味に解されているが、本当の意味は、明確にして創造的な言葉として発声され、次第に具体的現実となって顕現しようと常に待機している深い霊的実存の状態のことなのです。

神なる大原理が精神的普遍原質より世界を創り出す際、神は黙して瞑想し給うたのです。言いかえれば、神は理想的な世界を観じ給うたのです。世界形成の素となる原質をそのヴァイブレーションが低下するまで御心の中に把持しつづけ、しかる後言葉を発し給うた時世界が現出したのです。

或いはこう言いかえても良い、神が或る精神的原型を観じ給うと、世界形成に要する原質がその中に流れ入り、この原型の上に完全なる外形が出来上がった、と。以上全部を、無限力の神が如何に思いついたとしても、いくら長い間それを具体化しようと望み給うても、明確なる言葉として無形のエーテル(即ち、普遍的原質)の中に投入しなければ、何一つとして創造は行われなかったであろうし、又何一つとして可視的形態となるものもなかったでしょう。

このように、無限にして全能なる創造主でさえ、その想念と希望を目に見える形で結実確立し、実存から秩序ある形をもたらすためには、『在れ!』という明確、積極的な言葉の発声が必要だったのです。故にわたしどもも、何かの創造にあたっては明確な手段を取らなければならないのです

神は理想的な完全な世界をあらゆる微細な点に至るまでみ心に把持してい給う。そしてそれは天国として、神の子らすべてが、ありとしあらゆるものが、平和と調和の中に住む完全なる家として出現することになっている。これは神が最初に観じ給うた完全なる世界であり、今も想念し給うている世界である。わたしどもが素直にそれを受け取った時にそれが顕れてくるのです。

わたしどもが一つ所に来たり、皆が一つであり、全体として一人の人間であること、わたしどもの四肢の一つ一つが全肉体の一部であるように、わたしどもみんなが神の肉体の一部であると悟った時こそ、わたしどもは神の王国、今此処天国の中に在るのです。このことが明らかになる為には、天国には物質というものは何一つなく、すべては霊のみであることを知らなければなりません。

天国とは完全なる意識の状態、今此処完全なる世界であることを知らなければなりません。それを受け容れることです。そのような天国がわたしどもの周りにあって、わたしどもの内なる目の開くのを待っています。その目によってわたしどもの肉体は光となる。それは太陽や月の光ではなく、実に父なる神の光となります。父なる神はわたしたちの存在の奥に、今此処に在る

物質性のものは一つとしてなく、すべては霊である事を知らねばならない。而して今此処にある神の与え給うた驚嘆すべき霊的世界について思いを致さなければならない。神はこのようにして、すべてを創り給いました。神は初めに黙し、瞑想して光を内観したまい、然る後に言い給うた、『光あれ』と。すると、その通りになった。同じ方法で、神は『空あれ』と言い給うと、その通りになった。

他の被造物もすべて同じ。神はそれぞれの形、あるいは理念をしっかり意識の中に持ちつづけてから、言葉を発し給う。すると理念が具象化した。人間の場合もその通り。神、言い給う。『わが像(すがた)にかたどりて造り、ものみなの上に君臨せしめん』と。それからというものは、人間は善のみしか見なかった。神から離れ二元論に陥ち込むまでの間は、すべてが善かったのです。

しかし後になって二元論に陥ったとき、人間は自分の想念の力で二つのものを造りあげてしまいました。片や善、片やその反対物。反対物という理由は、二つある以上それは相互に相反するもの、即ち善と悪であるからです。こうして、凝視すれば凝視されたものが表出、実現されるという、人間に本来備わっている完全な力により悪を見つめる事によって、悪が造り出されてしまったのです。

もし人間が悪を見なければ悪は出現の力を与えられなかったでしょう。そして善のみが現れて、わたしたちは今も猶、神が見給うが如くに、完全であったでしょう。神の目から見れば、天国は初めから今此処に、そして常にあるのではないでしょうか。わたしたちはそれを具体的に顕現するように努力すべきではないでしょうか。イエスには御自分を天国より来た者と言い切るだけの権利がありました。

なぜなら、人は皆天国即ち大いなる精神的普遍質量より降臨したものだからです。人は神の像に似せて造られたのである以上、神は人間に対して神自身と全く同じような想像力を与え給うたのではないでしょうか。そして神は人間に対して神同様に自由、しかも全く神と同じやり方でこの想像力を駆使することを期待し給うたのではないでしょうか。

そのやり方というのは、まず必要なものを確かめ。その型を意識の中に描きつづけ、そのうちでも崇高なるもの、理想的なるものを観じ、それから『既に得られたり、善し』と言葉に出して言うことであります。そうすると心的普遍質量がその中に流れ入って型の中味となり、観じた通りの善きものとなって出現するのです。

(訳者註)
(6) ヨハネ伝一章一節

 

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