◎ヒマラヤ聖者の生活探究 第二巻 ~第五章 地獄・悪魔・神~ P84~88
・・・・。その後で話が神に移っていったので、或る隊員がこう質問した、「神とは一体、誰のことか、又は何のことか、ということについて知りとう御座います」。
イエスの答え、「あなたがそういう質問をする気になった動機はよく分かる。(その事で何時も-訳者註)心の中に巣喰っているモヤモヤを解決したいのであろう。今日の世界を悩まし掻き乱しているのは、何処の誰が何語で言い出したにせよ、多くの相矛盾する思想や考え方である。神とは現に存在するすべてのものの背後にある原理である。
ものの背後にある原理とは大霊である。大霊は全能、遍在、全智である。神はわたしたちの周囲に見られる一切の善きものを直接に生み出し、且つそれを支配している原因でもある唯一心である。神はすべての形あるものを支え結び合わしている一切の真実の愛の根源である。神は非人格的な原理である。神は個人に対しては人格的な愛深き父にして母となるが、その他には決して人格的ではない。
個人にとって神は人格的な愛深き、すべてを与えてくれる父母ともなり得る。神は空の何処か天国といわれる場所に定着し、王座に坐って死後の人々を裁くという、何か偉い者になるのでは決してない。何故なら神は生命そのものであり、生命は決して死ぬことがないからである。それはわたしたちの身辺によく見かける多くの間違った知識と同様に、人間の無智な考え方から来る誤解である。
神はその存在を人に強要して認めさせようとしたり、或は罪人を法廷に引きずり出す裁判官や王様ではないのである。神は愛深き、すべてを与える父にして母なる神であって、人が近づいてでも来れば、両手を差し伸べて抱擁して下さるのである。あなた達の過去や現在の人となりや職業は神にとっては何ら問題とはならない。
あなた達が真実の心情(こころ)と目的とを以て求めるのであれば、依然としてあなた達は神の子である。あなた達が父の家から顔をそむけた放蕩息子であったとしても、又、豚の飼料にする糟(かす)にも似た人生の粕(かす)に倦み疲れていても、再び父の家に顔を向け愛深き歓迎を確信する事ができるのである。そこには常に御馳走が並べられてあなたを待っている。
父の家に帰ってもあなた達より先に帰っていた兄弟以上に責められることもないのである。神の愛は山からほとばしり出る清浄な泉にも似ている。淵源では清浄であるのに、流れ行くうちに曇り、汚れ、海に流れ入る頃には初めとは似ても似つかぬものとなり、やがて海底に泥や夾雑物を落とし始め、次に再び海面に上がってくるが、その時にはもう見るからに楽しいのびのびとした洋々たる大海の一部となっており、そこから再び蒸発して泉を補給するものとなる。
あなた達は丁度、自分の父母や兄弟友人に対すると同じように何時でも神を見、神と語ることができるのである。本当のところ神は誰よりも身近におられるのである。神はどんな友よりも遙かに慕わしく、また忠実である。神は決して興奮もせず、意気消沈することもない。神は決してその子等、生きものや被造物を一つとして破壊することなく、傷つけることなく、妨げることがない。
もしそのようなことでもすれば、もはや彼は神ではない。その子等や生きものや被造物を裁き、破壊し、或いは美しいものを与えようともしない神なるものは、人間の無智な考え方が造り上げたものにすぎない。そのような神はあなた達自身で恐れたいと望むのでない限り、恐れる必要はないのである。真の神は御手を差し伸べてこう言われるからである、『わが持てるすべてのものは汝らのものである』。
あなた達の或る詩人が、『神は息よりも近く、手足よりも近し』と歌ったが、それは霊感によるものであった。人が正しいことのために何かをする時、神はこれらの人々に霊感を与え給う。人はすべて意欲さえすれば、常に神の霊感を受けることができるのである。『われはキリスト、神の一人子なり』とわたしは言ったが、それはわたし自身のためだけに宣言したのではない。もしそうなら、わたしはキリストにはなれなかったのである。
内在のキリストを出すためには、わたしにしても他のすべての人々も、皆そう宣言しなければならないこと、然る後キリストの生活を生きてゆかねばならない。その時初めて内在のキリストが現れるということを、わたしは明確に悟ったのである。内在のキリストを宣言はしても、キリストとしての生活を生きてゆかねば内在のキリストは現れないのである。
愛する皆さん、考えてもみるがよい、もしすべての人々が自己内在のキリストを宣言して一年乃至五年、キリストの生涯を生きるならば、何という大いなる目覚めが起きることか。そしてその後、どんなことが起きるかは、もはや想像のしようもない程である。これがわたしの見たヴィジョンである。愛する同胞達よ、あなた達はわたしと同じ立場に立ち同じ観方をすることはできないだろうか。
どうしてあなた達はわたしの周囲を迷信という暗と泥とで取り囲むのだろうか。どうしてこのような迷信から眼と心と思いとを高く揚げ、明瞭なヴィジョンを以て観ないのだろうか。そうすれば人間自身が創り上げたもの以外は、決して奇跡も苦痛も不完全も不調和も死もないことが分かるであろうに。『われ死に勝てり』とわたしは言ったが、よくその意味を知った上で言ったのである。
しかし愛する人達にその証拠を示すためには十字架につけられる必要があったのである。わたしたちの全世界援助の仕事には大勢の人が一緒に加わってやってくれている。それはわたしたちの生涯の仕事である。人類を殆ど呑み込まんばかりになっていた悪念、猜疑(さいぎ)、不信や迷信の波を防ぐためにわたしたちのエネルギーを結合して当たった時代もあった。
お望みならその波を悪の力と呼んでもよい。悪とはいっても実は人類みずからが悪たらしめているのである。しかし今や愛する人々が絆を断ち切って行くので、それにつれて段々と光が射して明るくなって来ている。これらの絆を投げ棄ててしまえば、人類は暫くは物質偏向に沈むかもわからないが、たとえそうではあっても、それはゴールへの一歩接近である。
何故なら物質偏向は迷信や神話や神秘めかすことほどには自主性を喪失させはしないからである。あの日わたしが水の上に足を踏み降ろした時(3)、わたしが物質で出来た大わだつみと思いながら海を見下ろした、とあなた達はお考えだろうか。否、である。わたしは如何なる深みの力をも超越する神の力をじっと見詰めていたのである。その瞬間、水は厳のように固くなり(4)、全く安全に水の上を歩むことが出来たのである」
訳者註
(3)マタイ伝十四章十五節、マルコ伝六章三の節、ルカ伝九章十節、ヨハネ伝六章一節。
(4)マタイ伝十四章二十二-三十六節、マルコ伝六章四十六-五十六節、ヨハネ伝六章十六-二十一節参照。
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