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ふと思い出す書籍があります。小学1年から3年まで同級だったS君の家は、小さな食堂を営んでいました。S君は、とても本好きで、知識の豊富な少年でした。私は彼の家へよく遊びに行きました。店の上にある彼の部屋には書棚があり、そこには様々な本が並んでいいたのです。特に私の目を引いたのが、全巻揃った少年探偵・江戸川乱歩全集(26巻)でした。ふとしたことで脳裏によぎる本とは、この江戸川乱歩全集のことです。
私は、彼の家へ行く度に、その江戸川乱歩の全集の中から1~2冊選んで、借りるようになりました。彼の書棚を、図書館代わりにしてしまったわけです。夜寝る前の布団の中や、家族で行った海水浴の時でさえ持って行って、汽車の中でゾクゾクしながら夢中で読んだ記憶があります。
小学2~3年生でしたが、まとまった読書は、この本が始めてでした。挿絵もあったと思いますが、頭の中で想像した情景が、一層夢中にさせる理由だったと思います。小学1年の時、我が家では比較的早くテレビを購入しました。それ以前は、ラジオの時代です。私は、ラジオドラマの赤胴鈴之助・一丁目一番地・少年探偵団などを、毎日決まって聞いていました。幼稚園生またはそれ以前でしたが、ベビー箪笥の引き出しを引っ張り出して、階段代わりに登って、その上のラジオのスイッチを入れたことを覚えています。
怪談などは、テレビよりもラジオや噺家の語りを聞いている方が、怖さは増すように思います。際限なく怖いイマジネーションができるからです。この本を読んだのは低学年でしたから、どこまでも怖い想像ができたので、私にとって江戸川乱歩全集は圧倒的に面白い読み物でした。夢中になれたので、さほどの期間をかけずに、私はその全集を読破しました。
教師や親が指定した推薦図書を、気乗りせずに読むよりも、自分の気に入った本を読ませた方が、子どもの読書習慣は身につくと考えられます。読書習慣ができれば、必然的に読む本の内容は向上します。子どもの読書は、それで良いのではないでしょうか。
その頃同じように、よく遊びに行った友達のI君の家は、紙問屋を営んでいました。彼の家には、漫画本がいっぱい揃っていました。そこで読んだマンガの中で、今でも記憶に残っているものが「のらくろ」です。漫画本は、借りて家で読むことはなく、もっぱら彼の家へ行った時の楽しみの一つでした。
のらくろは、田河水泡のマンガ作品で、主人公は野良犬のらくろ。マンガは、やがて手塚治虫の鉄腕アトムの時代に移っていきます。そして、トキワ荘に集まった手塚治虫・石森章太郎・藤子不二雄・赤塚不二夫が活躍する時代となります。怒涛の勢いで、才能ある漫画家が活躍を始め、現在の日本のアニメの礎を築きました。
現代日本を語るキーワードとして、マンガは欠かせません。マンガは、それほど世界的に影響を与えた日本発のサブカルチャーと言えるでしょう。けれども、子どもの読書習慣を考えた時、安易に読んでいるマンガには、弊害があるようにも感じていました。
ただ、そのことに関連して、最近ちょっとした驚きを感じたことがあります。我が家の小学1年生は、いろんな本を読むことが好きです。マンガも「妖怪ウオッチ」を第九巻まで買って読んでいます。最近買った第九巻の中に出てくる気に入ったセリフを、彼女は私に教えてくれました。
「そうです! だれにも気づかれないのは 存在しないも同じ! やがて消えゆく運命なのです!」
「なに得意気に かなしい自慢しているニャン!」
「もっと自分に 自信を持てば 人生は変わるニャンよ!」
マンガは、吹き出しのセリフと、画像による視覚的な情報により、物語が展開します。ですから、小説を読む場合と異なり、マンガでは文章を咀嚼して読み取る作業は省略され、画像で多くを一瞬で理解することが多いと考えていました。マンガをどれだけ読んでも、国語力は付かないのは、そのせいだと思っていました。
けれども、けっこう難しい言葉遣いや心情を、小さい子どもでもすんなりと理解する、そんな力をマンガは持っているようです。学習関連書籍に、とても多くのマンガ主人公が登場するのは、そうしたマンガの効能を利用しているのでしょう。
最近の子どもは、マンガが架空の世界と知っていても、その中からそれなりの知識を得ていることに気付きました。多くの書籍や映画で人気のファンタジーも、空想の世界であることを知りつつ、そのファンタスティックな世界で夢中で遊ぶことができます。私が低学年の時に読んだ江戸川乱歩全集は、私を空想の世界で遊ばせてくれたアイテムだったのでしょう。
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少年探偵団のラジオ放送が始まりました。本を読んでいたので聞きませんでしたが歌だけは覚えています。
ぼっぼ、僕らは少年探偵団、勇気凛々瑠璃の色、空に・・・・何て主題歌がありました。まさに僕らは少年探偵団、世の中の自然科学を探偵していたのでしょう。危ない橋を実はたくさんわたりました。
大怪我など日常茶飯事、よく生き残ったものだと感心してしまいます。世の中全体が自力で生存してゆく世界だったのかもしれません。生きる力を学べたのです。今の迷路のような状況ですらあまり困りません。(笑)
のらくろとは古いですね。差別用語でしょう。(笑)私は今の世の風潮は嫌いです。差別野郎と言われます。のらくろもつんぼも目クラも使えません。抱っこちゃんもアウト。
目クラ穴の機械用語は使えない用語。使えない言葉を定義するから差別が起こるのだと私は考えています。だって差別を表す用語を定義したことになるからです。
顔を見て性格判断するのも差別と学校で言われたにはがっかりしました。私の管理能力の所以だからです。
小学生の時、江戸川乱歩の他の危ない本も読みました。乱歩が好きになり、ポーに挑戦。その作品も危ない世界かもしれません。
でも、危ない精神状態を本で読んでいたためか、危ない精神状態になってもおかしくない状況でも私はかろうじて精神の安定を保てていたのだと思っています。
もっとも今でも学校推薦図書など読んだことはありません。布団や瘋癲老人日記のような作品が好みの変態男なのです。推薦図書などどこかの野郎の飲み代に化けるのが落ちかも。
手塚治の話なら1日かけても飽きません。マイナーなランプ親父やタコが大好きな変わり者だったので、リボンの騎士で性差別の間違いを学べたようです。男女共学万歳です。
これは嘘、実は女子生徒が好きだっただけ。男は競争相手、女子生徒は誕生会に行ける仲間だったのです。粗暴者だったので招待されたことはごく稀でした。今になって後悔しています。(笑)
6年間、同じクラス。その仲間だった人の訃報も時々入ってきます。憎まれっ子世に憚ると言うのは事実。私をはじめ好き勝手をしていた悪ガキは今も元気者。
一方、大人しかった人に言うべき言葉は南無阿弥陀仏だけになったのが悲しいのです。
長生きはしたくありません。