朝日新聞による偏向報道について、議論の要旨を
Wikipedia「朝日新聞の中国報道問題」より抜粋したものです。
■中華人民共和国の報道規制と朝日新聞
1970年代中盤に至るまで、日本は1949年に建国された中国共産党一党独裁国家である中華人民共和国とは国交を持っておらず、中国国民党統治下の中華民国を「中国を統治する正統な政府」と認めて国交を持っていた。そのような状況下で、1964年ごろより中華人民共和国との間で新聞記者交流が行われ、『朝日新聞』や『読売新聞』、『毎日新聞』などの日本の主要な新聞社が、北京支局を開設し始めていたが、1967年ごろから1974年ごろまでの文化大革命期における中華人民共和国側による再入国拒否などで、数ヶ月ほど朝日新聞社だけだった時期もあった。
国内外の報道機関に対する言論の自由や取材の自由が現在以上になかった当時の中華人民共和国において、日本メディアでは『朝日新聞』だけが特派員を置いていた点について、1970年10月21日、日本新聞協会主催の研究座談会『あすの新聞』の席上、広岡知男朝日新聞社社長は下記のように答えている(『新聞研究』より引用)。
「報道の自由がなくても、あるいは制限されていても、そういう国であればこそ、日本から記者を送るということに意味があるのではないか。私が記者に与えている方針は『…こういうことを書けば、国外追放になるということは、おのずから事柄でわかっている。そういう記事はあえて書く必要は無い…』こういうふうに言っている」
上記発言の意図について、中国共産党政府に都合の悪い真実を紙面上で封殺することを、会社の経営陣自らが従業員に指示していたという趣旨に受け取ることもできるため、これをもって、当時の朝日新聞の報道が中国共産党政府寄りであったとする者もいる。
■中華人民共和国の報道機関と朝日新聞
(要点抜粋)
・北京特派員の秋岡記者が、後に、『人民日報』海外版の日本代理人に就任。
・北京特派員、北京支局長になった横堀克己が中国共産党傘下の雑誌『人民中国』の編集顧問に就任。
・中国共産党直下の通信社であり、事実上対外プロパガンダの中心的存在である『新華社』の日本支局が朝日新聞東京本社の社屋内にあった。
特定の国に長期赴任した記者が現地の機関に再雇用される例は、『朝日新聞』と中華人民共和国との関係に限ったことではないが、中華人民共和国(中国共産党政府)は人権、特に言論の自由の弾圧を行う独裁国家であり、「そのような政権の情報統制とプロパガンダの手先である政府系情報誌と民主国家の新聞社が提携するのは、報道倫理や人権の観点から許容されるべきのもではない」との批判がある。
■中華人民共和国のチベット侵略に関する報道
中国人民解放軍によるチベット侵攻以後のチベット人に対する迫害について、ほとんど報道・批判してこなかったという指摘がある。
中華人民共和国の人権弾圧に対するチベット人の抗議デモと、中国共産党政府による武力弾圧が繰り返し起こってきたが、1987年のチベット人によるデモのときには、「人民日報は"これは少数分裂分子によるダライ集団が画策した政治事件である"としており、中国共産党政府は政治的背景を持つものとしている」と中華人民共和国側の発表をそのまま引用して報道し、「国外にいるダライ・ラマグループは中国の一部として冷静な目を持つべきであり、挑発があってはならない」と、中国共産党政府の代弁をするかのような社説を1987年10月4日に載せた。
さらに、1989年にダライ・ラマ14世がノーベル平和賞に選ばれた際には、「中国は"内政干渉"だと強く反発しており、平和賞が対立を助長させる原因ともなり、そうなれば"平和賞"の名が泣くことになる。ダライ・ラマ陣営はこれを機に和解のために行動することを願う」と、再び中国共産党政府寄りの社説を1989年10月7日に載せた。
2008年の北京五輪に際し、チベット自治区にて弾圧され続けてきたチベット人が再び抗議活動を起こし、中国共産党政府はそれを武力弾圧したためチベット人の死者が多数出た。世界中でチベット問題に対する非難が噴出したが、日本政府は中華人民共和国に対して配慮し、強い抗議ができなかった。それについて、『朝日新聞』は、「首相はもっとしっかりと中国へ語るべきだ」とする社説を掲載したが、「朝日こそこれまで何もチベット問題について報道をしてこなかった」との批判が出た。
『朝日新聞』OBの青山昌史は、「これまで朝日は文化大革命礼賛、南京大虐殺など中国の言うとおりに報道してきたと言われ、今回は中国の言う通りだとは、さすがに言えないので福田首相に言うべきことは言えと書かざるを得なかったのでは」と、矛先を日本政府に変えたと指摘した。チベット亡命政府によれば、「中華人民共和国政府による残虐行為により120万人のチベット人が殺された」とされ、「『南京大虐殺』を報道した熱意で『チベット大虐殺』を書け」と週刊新潮に批判された。
また、2008年3月20日の『朝日川柳』には、「五輪前どうにも邪魔な生き仏」という川柳を掲載。岩田温が「ふざけすぎ」と抗議の電話をかけたところ、朝日新聞は「あれは中国を批判しているもの」と主張したという。宮崎正弘は、こうした朝日は「無神経」であり、「チベットに於ける人民解放軍の大虐殺を"解放"と呼んで、中国共産党の宣伝部の役割を自ら買って出ていた朝日新聞が、(死刑執行を積極的に行った)鳩山前法相に投げた『死に神』そのものではないか」と批判した。
しかし、世界各国で中国共産党政府のチベットにおける武力行使を含む人権弾圧が非難されるようになり、『朝日新聞』もチベットにおける中国共産党政府の人権弾圧について数多くの記事を掲載し、また社説などで批判するようになった。2008年のチベット騒乱以降、『朝日新聞』は紙面およびasahi.com上にてチベット特集を組み、数十の記事を書いている。特に、6月まではほぼ毎日チベットに関する記事が掲載され、7月になっても新たな記事が書かれた。また、それらの記事には、チベットでの中国軍の無差別発砲を伝える記事や、チベット亡命政府の発表を元にした記事、また、日本での抗議行動の報道など中国共産党政府にとって不利な記事が数多く含まれる。また、社説においてもチベット問題への日本政府の対応に関する批判とともに、中国共産党政府に対しても批判を行っている。
ただし、チベット情勢が一段落するとともにチベット・ウイグル問題に関する記事は減少し、中華人民共和国に関係する事項をとりあげる社説でも、同国内の人権弾圧問題には殆ど触れなくなり、触れる場合でも、中華人民共和国に対する批判トーンは抑え目である。
Wikipedia「朝日新聞の中国報道問題」より抜粋したものです。
■中華人民共和国の報道規制と朝日新聞
1970年代中盤に至るまで、日本は1949年に建国された中国共産党一党独裁国家である中華人民共和国とは国交を持っておらず、中国国民党統治下の中華民国を「中国を統治する正統な政府」と認めて国交を持っていた。そのような状況下で、1964年ごろより中華人民共和国との間で新聞記者交流が行われ、『朝日新聞』や『読売新聞』、『毎日新聞』などの日本の主要な新聞社が、北京支局を開設し始めていたが、1967年ごろから1974年ごろまでの文化大革命期における中華人民共和国側による再入国拒否などで、数ヶ月ほど朝日新聞社だけだった時期もあった。
国内外の報道機関に対する言論の自由や取材の自由が現在以上になかった当時の中華人民共和国において、日本メディアでは『朝日新聞』だけが特派員を置いていた点について、1970年10月21日、日本新聞協会主催の研究座談会『あすの新聞』の席上、広岡知男朝日新聞社社長は下記のように答えている(『新聞研究』より引用)。
「報道の自由がなくても、あるいは制限されていても、そういう国であればこそ、日本から記者を送るということに意味があるのではないか。私が記者に与えている方針は『…こういうことを書けば、国外追放になるということは、おのずから事柄でわかっている。そういう記事はあえて書く必要は無い…』こういうふうに言っている」
上記発言の意図について、中国共産党政府に都合の悪い真実を紙面上で封殺することを、会社の経営陣自らが従業員に指示していたという趣旨に受け取ることもできるため、これをもって、当時の朝日新聞の報道が中国共産党政府寄りであったとする者もいる。
■中華人民共和国の報道機関と朝日新聞
(要点抜粋)
・北京特派員の秋岡記者が、後に、『人民日報』海外版の日本代理人に就任。
・北京特派員、北京支局長になった横堀克己が中国共産党傘下の雑誌『人民中国』の編集顧問に就任。
・中国共産党直下の通信社であり、事実上対外プロパガンダの中心的存在である『新華社』の日本支局が朝日新聞東京本社の社屋内にあった。
特定の国に長期赴任した記者が現地の機関に再雇用される例は、『朝日新聞』と中華人民共和国との関係に限ったことではないが、中華人民共和国(中国共産党政府)は人権、特に言論の自由の弾圧を行う独裁国家であり、「そのような政権の情報統制とプロパガンダの手先である政府系情報誌と民主国家の新聞社が提携するのは、報道倫理や人権の観点から許容されるべきのもではない」との批判がある。
■中華人民共和国のチベット侵略に関する報道
中国人民解放軍によるチベット侵攻以後のチベット人に対する迫害について、ほとんど報道・批判してこなかったという指摘がある。
中華人民共和国の人権弾圧に対するチベット人の抗議デモと、中国共産党政府による武力弾圧が繰り返し起こってきたが、1987年のチベット人によるデモのときには、「人民日報は"これは少数分裂分子によるダライ集団が画策した政治事件である"としており、中国共産党政府は政治的背景を持つものとしている」と中華人民共和国側の発表をそのまま引用して報道し、「国外にいるダライ・ラマグループは中国の一部として冷静な目を持つべきであり、挑発があってはならない」と、中国共産党政府の代弁をするかのような社説を1987年10月4日に載せた。
さらに、1989年にダライ・ラマ14世がノーベル平和賞に選ばれた際には、「中国は"内政干渉"だと強く反発しており、平和賞が対立を助長させる原因ともなり、そうなれば"平和賞"の名が泣くことになる。ダライ・ラマ陣営はこれを機に和解のために行動することを願う」と、再び中国共産党政府寄りの社説を1989年10月7日に載せた。
2008年の北京五輪に際し、チベット自治区にて弾圧され続けてきたチベット人が再び抗議活動を起こし、中国共産党政府はそれを武力弾圧したためチベット人の死者が多数出た。世界中でチベット問題に対する非難が噴出したが、日本政府は中華人民共和国に対して配慮し、強い抗議ができなかった。それについて、『朝日新聞』は、「首相はもっとしっかりと中国へ語るべきだ」とする社説を掲載したが、「朝日こそこれまで何もチベット問題について報道をしてこなかった」との批判が出た。
『朝日新聞』OBの青山昌史は、「これまで朝日は文化大革命礼賛、南京大虐殺など中国の言うとおりに報道してきたと言われ、今回は中国の言う通りだとは、さすがに言えないので福田首相に言うべきことは言えと書かざるを得なかったのでは」と、矛先を日本政府に変えたと指摘した。チベット亡命政府によれば、「中華人民共和国政府による残虐行為により120万人のチベット人が殺された」とされ、「『南京大虐殺』を報道した熱意で『チベット大虐殺』を書け」と週刊新潮に批判された。
また、2008年3月20日の『朝日川柳』には、「五輪前どうにも邪魔な生き仏」という川柳を掲載。岩田温が「ふざけすぎ」と抗議の電話をかけたところ、朝日新聞は「あれは中国を批判しているもの」と主張したという。宮崎正弘は、こうした朝日は「無神経」であり、「チベットに於ける人民解放軍の大虐殺を"解放"と呼んで、中国共産党の宣伝部の役割を自ら買って出ていた朝日新聞が、(死刑執行を積極的に行った)鳩山前法相に投げた『死に神』そのものではないか」と批判した。
しかし、世界各国で中国共産党政府のチベットにおける武力行使を含む人権弾圧が非難されるようになり、『朝日新聞』もチベットにおける中国共産党政府の人権弾圧について数多くの記事を掲載し、また社説などで批判するようになった。2008年のチベット騒乱以降、『朝日新聞』は紙面およびasahi.com上にてチベット特集を組み、数十の記事を書いている。特に、6月まではほぼ毎日チベットに関する記事が掲載され、7月になっても新たな記事が書かれた。また、それらの記事には、チベットでの中国軍の無差別発砲を伝える記事や、チベット亡命政府の発表を元にした記事、また、日本での抗議行動の報道など中国共産党政府にとって不利な記事が数多く含まれる。また、社説においてもチベット問題への日本政府の対応に関する批判とともに、中国共産党政府に対しても批判を行っている。
ただし、チベット情勢が一段落するとともにチベット・ウイグル問題に関する記事は減少し、中華人民共和国に関係する事項をとりあげる社説でも、同国内の人権弾圧問題には殆ど触れなくなり、触れる場合でも、中華人民共和国に対する批判トーンは抑え目である。