保津川下りの船頭さん

うわさの船頭「はっちん」が保津川下りの最新情報や、京都・亀岡の観光案内など、とっておきの情報をお届けします。

シリーズ・保津川を下ろう!その6・上内膳堤

2004-11-26 21:35:14 | シリーズ・保津川を下ろう!
船が保津川の乗船場を出発すると、しばらくは右岸の堤防沿い
を進んでいきます。その堤防の最後に石積の護岸が姿を表します。
これが川の浸食防止の為、江戸時代に造られた「上内膳堤」です。

「上内膳??」と思われる方も多いことでしょう。
この堤の名前である「上内膳」とは当時の亀岡(江戸時代は亀山藩といった)
の領主であった岡部内膳守長盛の名前に因んで名付けられたものです。

名領主として庶民に親しまれた長盛は、度重なる保津川の氾濫被害を
防ぐ為、石積みにより湾をつくり侵食を防ぐ堤防を建設しました。
これが「上内膳堤」です。

この堤防の付近は支流である「雑水川」や「年谷川」が
集中して流れ込む地形になっているので、洪水時には
必ず保津川が氾濫し周辺の田畑に被害が出ていました。

この事態に心を痛めた長盛は、藩の重要事業として
侵食防止の堤防工事を計画、被害の酷い二箇所に
建設しました。
上内膳に対して下流にも下内膳という
同じ型の堤防を造っています。

この事業は亀岡の庶民の心を掴み、「岡部長盛公、亀山を知り給い時、
田地のわずらいをいとい給ひ、川中に二つの堤を築出させ水勢を避け
その仁愛の深き事いちじるし」という文献が残っています。

岡部内膳守長盛は慶長14年(1609)に下総国山崎から入封して
亀山藩を成立させました。長盛は徳川家康のもと、数々の戦に参加して
多くの手柄をたてた勇猛な将で、家康の信頼も厚く、京の都の隣国
亀山の領主に任命されたのです。築城途中だあった五層の天守閣・亀山城を
完成させているなど、多くの事業をのこしています。

長盛はその後13年間領主を務め、丹波国福知山に
移封して行きました。

この「上内膳堤」は通称「雷湾」と呼ばれ、学校に
プールの無かった時代、子供達の水泳場でもありました。

また、「乳母ヶ淵の人魂伝説」という怖い伝説が
伝えられるミステリースポットでもあるのです。

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